3 「――素っ気ない、反応ですね。先生は、まさか、クローヴィスの復活はもちろん、彼が生きながらえていることも、ご存じでいらっしゃったのですか」 ネコは椅子を海のほうへ向けて、ガニアには横顔を見せていた。 かつての弟子の真剣すぎて強張ったような剣幕に、まるで影響を受けず、平静だった。 「一体どういう兆候があったのですか。そしてなぜ我々に教えて下さらなかったのですか」 「私は、クローヴィスという人間を知っていただけだ。あいつが、あのまま大人しくくたばるはずがない。そういう計算に基づく個人的な予測があっただけだ」 ガニアは納得しなかった。 「警戒だけでも可能でした。私とポリネは、今まで以上に苦しんでいます。様々な、恐ろしい予測に責め苛まれています。――……どうか、示唆だけでも与えてください。彼、クローヴィスは……、何かを、しているのですか。自身の延命のために。彼は大罪人なのですか」 ネコはちらとガニアを見返った。 眼鏡の奥のその眼は小獣マオのように細くなり、目じりが意地悪に光っていた。 「計算ができないことを人のせいにしてはいかんな。ガニア」 それから。 「もし君が、クローヴィスの人間性を疑っていて犯罪人と決めつけたいなら、そうするがいい。技術などいらない。だがもし、君がまだ私の弟子で、私の教えた通りの学問を続ける学者なら、――仮説を立て、その証明のために、証拠を集めるんだ。完全に、誰にでも実証可能な方法で証明がなされるまで、君は何も結論できない。私もそうだ」 「しかし! 今やあの男はのうのうと学院内を歩き回っているのですよ?! もし彼が犯罪者だった場合、また犠牲者が出ないとも限らない!」 ネコは横を向いたまま答えなかった。 「……学生達を、彼に近づけないようにすべきです。いいえ、あの神に近づけないようにすべきです。あの神は、人の命を食べる、邪で危険な神です!」 「いいだろう。まったく同感だ。だがそれを酒場の席でなく、学問の場で主張するには証拠が必要だ。証拠は、あるのか?」 まったく同じ言葉が、学院の庭で、クローヴィスの赤い唇から漏れた。 「威勢がいいな。相変わらず小粒だが元気なことだ。だが、博士。我が神アルススが我らの心身を害するという博士の主張を裏付ける、証拠はあるのか?」 不思議な迫力に、あの威勢のいいポリネが、怯む。 それでソラにも知れてしまった。彼女には証拠はないのだ。ただ、危機感が先に立って、とにかく生徒を守らねばという一心で行動を始めたのだと。 「学院が調査を許可してくれさえすれば。――学院は隠しているの。以前にはネコ先生がそれをやろうとして……!」 「ないわけだな」 しゃらり、と音がして、クローヴィスはゆるりと手を後ろ手に組んだ。 「証拠もなしに他学を非難するとはなかなか学問的行動だな?」 ポリネの顔に怒りと、血の気が滲む。 生徒たちがざわつく中、ソラは、あ。いけないと思った。 「……分かっているくせに……!」 彼女は完全に激して叫ぶ。 「あんたには人の心がないの?! 自分がどんなことをしているか知っているくせに、それを恥じるどころか、大勢の生徒たちを危険な目にさらしてどうして平気でいられるの?! ……あ、あなたは、なんというものを起こしたの! あなたは学問の世界を、取り返しのつかない毒で汚染してしまったのよ!!」 しん、となった。 春の昼間だというのに、夜のように寒くなった。 ソラの胸に浮かんだのは、「言ってしまった」という一語だった。 それはいかに真実でも、このように、感情的な口調で言ってはならない言葉だったと思った。特にアルススの生徒達の前では。 実際、目に見えて雰囲気が変わり始める。 ポリネ自身、しまったと思ったようだった。 クローヴィスは冷静だった。 「――奪われた生徒を、自分の講座に呼び戻したいのかな? 博士」 「ち、違う! そんなつもりは……」 彼のほうが一枚も二枚も上手だった。しかもポリネははじめから不利な立場で正義感に駆られて行動しているのだ。急所を知っていれば、突き崩すのは難しくない。 ただ、ポリネのように真正直な人間が、大勢の前でこれ以上痛々しく恥をかかされるのは耐えられなかった。彼女をこの場から連れ出そうと思ったその時、横合いから急いで割って入って来たものがある。 ガニアだ。 彼は彼女を背中に隠してクローヴィスと対峙しながら、悲壮な呟きを漏らす。 「……時期尚早だと言っただろう、ポリネ」 「でも、だって、生徒を守らないと……!」 ガニアは外出から戻ってきたところのようで、ケープを羽織り、帽子を被いていた。その帽子を取って、冷たい目で彼らを睥睨しているクローヴィスに一礼する。 「……無礼な物言いがあったのでしたら、お詫びいたします。博士。しかし、我々がアルスス学と、その始祖たるあなたに対して抱いている疑いは、確固たるものです。生徒達にも、地道な従来学へ立ち戻るよう、今後も指導を続けるでしょう。そして……私たちの学友ニキ・スズキリ・アガタの突然の死の真相についても、諦めることなく追求を続けますので、そのおつもりで」 ソラの呼吸が喉に引っ掛かり、むせた。 事情の分からぬ生徒らはそこまでではないものの、呆気にとられて、雰囲気に飲まれつつ、クローヴィスの反応を待つ。 人形のようなクローヴィスは軽蔑の目で咳込んでいるソラをちょっと見た後、ガニアに視線を戻して言った。 「邪魔をするなら、破砕する」 瞬きをする間に、彼はもうしゃらりという音とともに身を翻し、悠然と歩いて行ってしまった。 誰かのため息のような声を皮切りに、緊張がほどけ、生徒たちが興奮気味にばらけていった。 ソラはやっと収まった口元から手を放したが、耳に入ってくるのはクローヴィスに対する感嘆の言葉ばかりだった。 曰く、かっこいい、美しい、堂々としている、英雄だ。 ポリネの意図は、完全に裏目に出てしまったのである。 そのことに彼女自身も気づいており、ガニアの傍で、青い顔をして黙り込んでいた。ガニアも苦い、浮かない顔をしている。 ソラは彼に手招きされたので、進み出た。 「ネコ先生に会ってきた」 この言葉に、女二人が揃って飛び上がる。 「どうだった?」 「先生は、なんて?」 「……『慎重に振る舞うように』と」 ポリネはまた黙ってしまった。 「……あの、私のことはなにか?」 ガニアは気遣うように彼女を見る。 「いや。特段には。――ただし」 次々に沈み込もうとする二人を引き上げようとするかのように、彼は眉間に深い皺を立てて続けた。 「とにかく、第一に自分の身を守るようにと。そして、よく観察するようにと。自分が十五年以上かけて待っていたことを、忘れるなと」 「――『待っていた』と、言ったの、先生は。……なら、やっぱり分かっていたのね? クローヴィスは、死んでいないと」 ポリネの言葉にガニアは頷く。苦々しげに。 「そのようだ。はじめから、そう予想していたようだ……。どうも、先生もまた、私達にすべてを話して下さっていない気がする」 「どうしてなのかしら。証拠が足りないから?」 「分からない。……お考えがあってのことだろうが……残念だ。ともかくポリネ、気持ちは分かるが、感情的に、しかも単独で行動に走ってはいけない。君が相手にしているのはクローヴィスであり学院長なんだ。もし学院にいられなくなったらどうする? それこそ生徒たちを守る手段が完全になくなってしまうんだぞ」 「……こんなに、はっきりしているのに!」 ポリネは激して、拳を振った。 「こんなに、犯罪的な、いかがわしい、大きな危険が実在しているのに。どうしてそれを糾弾することができないの?! こんなにはっきりしてる! アルススは、危険な神よ! だから古来から接触が禁じられていたんだわ、間違いない。それなのに、どうしてみんなそれが分からないの。あんなクローヴィスなんて化け物に魅了されて判断力を失ってしまうの?!」 彼女の言葉は、ソラの胸に刺さった。 彼女も同じ怒りを抱いたことがあったからだ。 どうして、あの野蛮な生徒達は自分の髪を切ったのか。そうしていいと思ったのか。それは、イラカが、彼女を馬鹿にしたからだ。イラカは少なくとも彼女と接触したが、生徒達は接触さえする前にソラを攻撃した。 どうしてそんな恥知らずな行動をとれるのか。どうしてそんなにどっぷりと簡単に、大多数の価値判断に染まって格好や髪形を変えたり、あまつさえ、痛い思いをして入れ墨まで入れてしまうのか。 未だに分からない。 「ポリネ、落ち着け。だから先生は言ったんだ。自分は十五年待っていると。一年や二年でどうこうなる問題じゃない。我々も辛抱強くなければ駄目だ。我々は不動の反アルススでい続けよう。そして、生徒や教官の逃げ場になるんだ。ネコ先生とも、連絡を取り合おう。そして、真意を探ろう。 我々が相手にしているのは、不幸なことに、どちらも海千山千の天才なんだ。我々は数を集めてしかも辛抱強くなるしかない。ポリネ、分かってくれ」 眼鏡の女性教官はしばらく返事をしなかった。だが、悔しそうな顔のまま、やがてこくんと頷く。少女のように。 ガニアはソラを見た。 「――君がこの場にいたのは、偶然か?」 彼女が答える前にポリネが言った。 「……クローヴィスといたように見えたわ」 ソラはなんとなく、彼が向こうから書庫にやって来たのだと言わないほうがいい気がした。 早くも隙を見せてしまった自分が後ろめたくもあったし、彼らが何を懸念しているか分かるので、これ以上刺激したくなかった。 「た、たまたまです。前にも会ったので、博士は私の顔を覚えていらっしゃったみたいで。校舎の前で会って、ちょっとだけ話を」 「そうか。くれぐれも気を付けてくれ。彼に気を許さないように。何か目立った動きがあった時は、すぐに相談してくれ」 特にポリネは真剣な母親のようだった。 「ソラ、絶対に、彼と二人きりになっては駄目よ。あなたはアガタじゃないし、似てもいないと思うけれど、向こうが何を考えるか、分かりはしないんだから。――あなたは自分の身を守れない。そのことを忘れないで。いいわね。絶対に彼を、あなた自身に、近づけないで。疎遠でいて」 「は、はい」 それからまた二言三言交わした後、教官達は連れだって講義棟へ戻っていった。 白い太陽に雲がかかって辺りがほのかに薄暗くなる。ソラは一瞬、どこへ行くべきか見当を失って、クローヴィスの消えていった方角を見たり、ポリネ達の背中を今更追ったり、さらに聖堂を見たり、掲示を見たりし、最後に、空を見上げて、ため息をついた。 数日後の十曜日の夕刻、彼女は街にいた。 休日だったが、いかにも息苦しくて文書館の仕事をする気になれず(また襲撃を受けるのではという不安もあった)、下宿で読書をしていたがどうも鬱々とするばかりで、昼過ぎに思い切ってンマロへ出たのである。 散髪屋に行って少し待たされ、終わったころには夕方になっていた。夜市の準備が始まる時刻で、露店商人達は道で忙しく働き、その間を住民達が行き交って本当に活気がある。 その場で焼き上げた肉入りのパンを売る露店の傍に立って、開店準備の様子を見つめながら考えた。 この人たちは、毎日、朝に材料を農家から仕入れて、手ずから加工をして、味をつけて、夜には自分で即席の店を組み立てて、焼いて、町の人に売って、お金をもらって、生活している。 ありきたりだけれど、それってなんて素晴らしいことなんだろう。 学院の学者たちの、誰がそんなに上手に料理ができるだろう。誰が家を建てられるだろう。機が織れるだろう。 自分にはできない。 学問も、それは素晴らしい。素晴らしい、素晴らしいものだ。 でも、そこには生活外の世界と手をつなぐ、暗黒の一面もあるのだ。 アルススはとりわけその傾向が強い。だけど、多分、それだけが原因ではなくて、もともと派閥争いみたいなものが根深く昔からあるのに違いない。 学問は、結局『力』を取り扱うのだ。だから学者の社会的地位は高くなる。一般的に言って、露店のパン屋より学者は偉いことになっている。 でも、やってることはなんだろう? 人々の生活と完璧に結びついている農家や、この市場の商人たちの行いよりも、生産的だろうか? 立派だろうか? なんだか我々は、狂いやすい。脱線しやすい。頭がいいとか言われながら、空虚な覇権を争い合い、卑怯なことを平気でしたりする。それはつまり、学問の目的が神――『力』だからなのだ。 その指向性は決して止められない。 学問に停止はない。 その機能ははじめからない。 学問とは、そういう、危険なものなのだ。 だからだろうか。ネコといい、クローヴィスといい、まあ院長もそうだろうか、学者は上位に行けば行くだけ、恥知らずで悪魔的な性格の人間が多い気がする。 あんたは学問にむいていませんよ。 言われた言葉が蘇って、またしても苦い気分になった。 石段に腰を下ろして頬に手をつき、ため息を吐く。 学問に、疑念が湧いたその春にこそ、帰省ができなかったという皮肉。だが、故郷の誰も、彼女がこんな葛藤を抱いているとは夢にも思わないだろう。 三十分もしないうちに辺りは暗くなって、明かりが灯され、夜市が始まる。ソラは焼きたての肉入りパンを買って、歩きながら一人頬張った。 彼女は、一人で食事をすることにまったく抵抗がない。むしろ、自由で、心地よく満たされる感じがする。 肉と香辛料で体が温まって、少し元気が出た。衣類から動物まで様々な商品が売られているにぎやかな夜市を、ぶらぶらと眺めて回った。 と、その時だ。 「ソラ!」 声が先だったか、何かが思い切りぶつかって来たのが先だったか。 とにかく何か温かいものが腕にしがみつくと同時に体重をぶつけてきて、ソラはびっくり仰天しながら二、三歩押されてやっと止まった。 呆気にとられて左の腕を見ると、女性の頭が見えた。肩までの黒髪で、耳の上に花を挿している。それが、ぱっと、顔を上げた。 満面の笑みだ。 「やっぱり、ソラだ!! すごーい!! 会えちゃった!!」 ――え? なに? だ、誰? うろたえながら、相手が東部の人間だということだけは外見の特徴から理解した。 だが、こんなところに東部の少女がいるはずはないし、何より化粧がばっちり濃すぎるし、学院にもこんな派手な知り合いはなかったはずだ。 「覚えてない? あたし、フルカだよ。コマイ・ソンターク・フルカ」 ――は? 次の瞬間。 ソラは、ンマロにいることを忘れて、まるで田舎町ハライにいる時のように、飛び上がって大声を出した。 「ええええええええええ?! フルカ?! どうして?! なんでこんなところにいるの?!」 「わーい! わーい! ソラに会えた!! こんなに早く!! やったあ!!」 少女は少女で嬉しさを爆発させて大はしゃぎだ。周りの人々が苦笑いして過ぎていく。 この娘は、ソラの、父方の親戚だった。確か、祖父の三番目の弟の息子の子だ。季節ごとの集まりで何度か顔を合わせたこともある。 だが、少なくともここ三年は会っていない。互いに成長しているので外見が記憶とずれても当然だ。 「え、本当にフルカ? ど、どうしたの? どうしてンマロにいるの? 旅行?」 「ううん? あたしね、こっちに修行に来たんだよ!」 「しゅ、修行? 何の?」 「理髪と美容の修行だよ」 「え? ……フルカのおうちは、農家だよね?」 すると彼女は顔を寄せてニヤッと笑った。つややかな口元から紅の匂いがする。 「あのね。家出してきちゃった」 「は、はあああ?!」 「だってあたし農家なんてやなんだもん。結婚もいや。女性専用の理髪師になりたいんだよ。ずーっと親から反対されてたんだけど、ついに飛び出してきちゃった! 全然知らないところに行くのは怖いけど、ここならソラがいるんだから大丈夫って。本当にね、昨日着いたばっかりなんだよ! もう今日会えちゃった! 信じられない!」 「ちょ……、ちょっと待って……」 ソラはめまいを覚えながら、片手で彼女を押しとどめつつ、懸命に思考を整理した。 「わ、私がここにいるから、ここに来たわけ?」 「そうだよ! 知らないだろうけど、ソラのこと、ハライでものすごい噂になってるんだから。女なのに、髪の毛切って、自分の好きな服着て、男の人と喧嘩して、忙しいからって家に帰らないで! もう最高! かっこいい! あたしももう、我慢できなくて。ソラみたいになりたくて追いかけてきたよ!」 はしゃぐフルカとは裏腹に、ソラの血の気はものすごい勢いで引いていった。代わりに、冷たい汗が滲み出す。 「わ、私、そういうことになってるの……?」 「うん。もちろんみんな悪口言ってるよ。でもね、本当は嫉妬してるだけなの。自分達もそうしたいの。もっと若い女の子たちはみんな、すごいすごいって言ってるよ。自分たちも外に出たいって。――ソラ、この髪。切ったばかり? こんなに短くしちゃうんだ! かっこいいね!」 「あ、あのさ。ひょっとして私、大人の人たちから悪魔みたいに言われてるんじゃあ……」 「うん、言われてるよ!」 親戚のかわいらしい少女は即答した。 「とんでもないことだって! ふしだらだって! でも言わせておけばいいと思う! そんなのこの街までは届かないし! それにあたしも悪魔になることにしたから、あなたが悪魔じゃなくなったら困っちゃうよ。ソラ、これまではあんまり会わなかったけど、これからは仲良くしてね! 親があたしのこと連れ戻そうとするかもしれない。でも、味方して頂戴ね! あたし、中央区の理容店『銀のマオ』に住み込みで雇ってもらうことになったから、会いに来て。ソラの下宿はどこ?」 ソラは圧倒されつつ、彼女の学院はこの街とは別のネル島にあって、下宿もそこだと説明した。 「あ。そうなんだ。知らなかった。まあでもすぐ近くだし、大丈夫だね!」 「ねえ、フルカ。昨日着いたばっかりなんでしょう? どうやって仕事を見つけたの? 誰かに紹介してもらったの?」 「ううん。あのね、街中を見て回って、一番素敵なお客さんの出てくるお店を見つけ出してね、あとは飛び込みで直談判だよ。実は三件くらい断られちゃったけど、四件目で雇ってもらえたの」 ソラははっきり言って、たまげた。 彼女のほうこそ、すごい、と思う。 「……そうなんだ。勇気あるね。すごいよ。でもあの、お金とか、大丈夫? 家出してきたんでしょ?」 ソラには無理解な親から、とはいえ仕送りがある。彼女にそれはないだろうと思って尋ねると、フルカは変わらぬ明るさで首を振った。 「うん、ないの。だからね、援助してくれるひとを見つけたよ」 「え?」 フルカが振り向き、路傍に立っている一人の男性に手を振った。 身なりの良い、商人らしい男性が、ソラの視線に応えて軽く頷くように会釈した。 それはいい。 だが問題は相手が明らかに四十歳を越した年長者であることと、それから、どうも後ろめたげに手を後ろにやって、視線を反らしたことである。 「大きな問屋の旦那さんなの。途中の宿屋で知り合って、ここまで馬車にも乗せてくれたんだよ。当座のお金や、衣服とか足りないものは、あの人が買ってくれることになったの。その代りにね、お食事とか、お散歩とか、旅行とかにおつきあいするんだけど」 「え?」 ソラは困惑し、混乱した。 あっけらかんと説明をするフルカは、その不穏さをちゃんと分かって言っているのだろうかと思った。 彼女は勇気があるようだ。だが、お堅い田舎育ちだし、世間が分かっていないかもしれない――。 だが、杞憂だった。最後に彼女はうろたえるソラに顔を寄せ、色味の乗った瞼を細めて言ったのである。 「内緒ね。あの人、奥さんいるから」 にやっと笑って、ぱっと身を離す。 立ち尽くしているソラにはたはたと両手を振りつつ、彼女は男のほうへ戻って行った。 「またね! またすぐにね!」 そして、男と親密に腕を組んで、甘えかかりながら、雑踏の中へ消えていった。 二日後、学内でたまたま、町長の息子ゾンネンに会った。 彼は、フルカの家出の件を知っていて、自分のことでもないのにぷりぷり怒っていた。 「女の分際でなめた真似をして! お前がいるからンマロに行くとか言ってたらしいが、女一人で生きていけるわけがないだろう! お前のせいなんだからな、もし会ったら、すぐハライに帰るように言うんだぞ!」 とてもじゃないが、もうお金を出してくれる男の人まで見つけていたよとは言えなかった。 (つづく)
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