5 その日は曇り空だった。アルスス学徒のイラカと、シギヤ学教授のガニアは、後者の薄暗く狭いが、整然とした研究室で顔を突き合わせていた。 彼らは互いにそれほど心を許し合った関係ではない。 たとえ、同じ書院に立てこもって騒乱を乗り切った経験があっても。 彼らをとりなすように、脇にはラフ学教授の女性教官ポリネも少し離れて同席していた。 が、二人は彼女の介助をほとんど必要とせずに話をした。互いに、それくらいの知性はあったのである。 一群の言葉の応酬が終わると、長い沈黙が流れた。ガニアは椅子に座って両手を膝の上で組み合わせ、イラカは前かがみに座って膝の上に突いた拳で顎を支えつつ、互いに互いの顔を見合っていた。 イラカの頬には見事な黥が今日もとぐろを巻いていた。 沈黙の果てに、イラカは息を吐いて座り直し、言った。 「お断りします」 ガニアの顔がほんのわずかに歪む。それを見てイラカの目も仕方なく曇ったが、発言は翻さなかった。 「君は、アルススが危うい神であることを知っているはずだ」 ガニアは彼の研究室の空気と溶け合いすぎて動かない場所は背景の一部に見えるほどだった。ただ一途な眼が、盛り上がり濃い皺を刻む上下の瞼の中で貴石のように光る。 「君が協力してくれれば、証明できる。アルススの力の反動が、学者の体に、どんな影響を及ぼすのか。――ある学問に携わる者が、他学の領域を侵犯することは異例のことだ。明確に不作法なことだと言ってもいい。だが、君にも分かっているはずだ。我々はもっとアルススの正体をはっきりと知らなければならない。学生たちの身体を、守るために」 「やはりそれはアルスス学者の仕事でしょう」 イラカは言った。 「俺があなたに協力したら、俺は城の裏口から敵を招き入れた裏切り者になります」 「それは分かっている。すべては秘密裡に行わなければならない。だからこうしてこっそり君を呼んだのだ。 君はあの学院長や、教官達を、信じられるのか? 彼らは権力欲だけにとらわれた俗物だ。各国の軍部とも手を結びつつあり、大量の金と力が懐に流れ込むことに心を融かされている。彼らのしていることはもはや学問ではない。商売だ。仮にも学者なら、すべての事実を学問的手法で解明することを志す。だが商売人は自分に都合の悪い事実は平気で隠すものだ。 彼らは明らかにアルススについて一部の事実を隠そうとしている。それを暴こうとして私の恩師は追放された。君はこんな状況になっても、まだ、彼らの学問的良心を信じ、身を委ねようというのか?」 イラカは笑った。 イラカは窓からの明かりを浴びる位置にいた。曇りだからその光は淡いものだったが、かえって彼の青い瞳が濃く見えた。 「あんなずるいじいさんら、ハナからアテにしちゃいません」 笑みの名残の唇で言う。 「でもあの人のことは信じています。あなた達は、そうじゃないでしょう」 再び沈黙が流れた。 ガニアは、口元を真一文字に結んでいた。 イラカは椅子の肘掛を押して立ち上がる。 「協力できないこと、申し訳なく思います。俺は俺なりの方法で、問題を解決してみるつもりです。いずれにせよ、信頼を寄せていただいたことには、感謝いたします。それじゃ」 軽く会釈して、踵を返した。 二人の教官達は、いくらでも呼び止める間があったが、そうしなかった。 ただ強く訴える目をして、美しい若者を見送った。 ここしばらく、雨が降ったりやんだりのうっとおしい天気が続いた。気温も高いため、風が止むと途端に蒸し暑くなる。 ちょうど午後一度目の受講が終った時刻だった。 荷物を持った学徒らが、鐘の音の飛び交う中、講義室からぞろぞろと廊下や階段、中庭へと出ていく。 イラカは、人ごみに混ざる気がしなかった。二階の回廊で少々時間をやり過ごすことにし、時折生徒らからかかる挨拶に簡単に応えながら、石の手すりに片肘をついて、見るともなしに中庭の様子に目をやった。 真昼間だというのに、外は薄暗かった。もやっとする空気の中を、大勢の生徒達が小魚のようにせわしなく動いている。 しばらくそれを見るうちに――自然と、『変わったな』と思った。 アルスス学徒の数も、優位も、そう変わってはいない。が、前学期まではあった確固たる鋳型。自負。自信。それらには、傷がついた。女の鋳型は完全に崩壊し、女生徒らは未だに新しい寄る辺を持てずそわそわしているように見える。 かつては、これさえ真似ておけば完全に安泰だという生き方があった。男から見ればちゃちな、馬鹿げたものではあったけれど。だがそれがなくなった今、彼女らは途端に困って衣服も行いもぐちゃぐちゃになり、魔力を失い、憐れを誘うほどである。 男達は、そんな女達を見下し、操りながらその実自分達も全能感を失って不安を覚えている。 あの眼鏡のポリネ教官の捨て身の注意喚起は、無駄ではなかった。 アルススは本当に『安全』な神なのか? 信じられないほど便利で、信じられないほど親切で、与えてくれる一方の、間違いない神なのか? 騒ぐ人間が出ることで、彼らの中に不安の種が撒かれていたのだ。 明日世界が終わる! と断言する奴がいれば、何の根拠もなくても一瞬怯むようなものだ――根拠は、ないのだろうか? こうした『書院派』の動きに対し、今のところ学校からの反応はなく、それが彼らの不安を継続させていた。さすがに、これをいつまでも放置しておくほど、院長らも太平楽でないだろうが。 イラカはアルスス学徒の中では、最も啓けた位置にいた。ほんの偶然からではあったが、彼は『書院派』と共に行動し、事態を間近に見守ったし、自分達の自負がいかに脆く、欺瞞に満ちたものであったか、一番早く覚醒する羽目になったからだ。 だが彼は不安に陥ってはいなかった。思い上がり膨張した自我が破裂すると同時に、伝説の英雄が蘇ってきて彼の目を眩ましたからだ。 クローヴィス。 イラカは、彼を、心の底から尊敬していた。心酔していた。 彼が正義であることはイラカにとって前提だった。 迷いがあるなら、彼をたどればいいのである。たどっていけば必ず分かるはずである。自分が、どのような男になればいいか。どうやって、たった一人、世界と胸を張って渡り合っていったらいいのか。 だからイラカにとって、クローヴィスを裏切ることなど、決してできないことだった。 書院派の人々が馬鹿でないことは今では知っている。しかし、ことにガニアらは私怨が絡んで前提が違いすぎている。協力はできなかった。 ふと、イラカは中庭の学徒らの中に、ずいぶん足早にせかせかと動く頭を一つ見つける。 「おっ」と体を乗り出すと、人目も構わず、大声で名前を呼ばわった。 「――ソラ!!」 /
往来で急に、大声で名前を呼ばれたものだから、ソラは飛び上がった。 声のした方角へ顔を上げると、学舎の二階廊下で大きく手を振っている派手な男に気付く。 「今行く! ちょっと待ってて!」 イル・カフカス・イラカはこちらの都合もお構いなしにさらに叫んだかと思うと、ぱっと身を翻していなくなった。 階段を下りて、中庭へ出てくるつもりだろう。 そう思うと同時に、もう、向こうから走って来る。逃げ出す暇もない。ソラは仕方なく、いつものしかめ面で彼を迎えたが、責める者はないだろう。 「やあ。ちょっと久しぶりだね」 「……人前で、大きな声を出さないでよ。恥ずかしい」 「いいじゃない。上で見てたんだけど、すぐ分かったよ。『寄ラバ切ルゾ』ってご面相でズカズカ歩いてんだもの。――その肩掛け、似合うね」 まったくこの男は。 水を浴びせるか毛布を投げるかいい加減どちらかにしてもらいたい。 ソラはそれでもちょっとだけ赤面する自分の生理に呆れつつ、言いわけでもするように言った。 「友達がくれただけ」 「へえ、いい友達じゃない。今度紹介してよ。女の子? かわいい? 彼氏いる?」 「――いい加減にしなさい」 水と毛布の応酬についていけなくなったソラは、思わず拳を握って彼を軽くどついた。 イラカは避けもしないで肩で受けると、なんだか楽しそうに「へへ」と笑った。 どこをどう突いて切り取っても、異国の産だ、この男は。ハンやゾンネンなどとは正反対。軽薄としか言いようがないのだが、子供みたいで、どうも憎み切れないのが困ったものだ。 きっと一生この調子でいくんだろうな。とソラは思う。 「あ。そうだ」 急に調子を変えてイラカが言い出す。 「あのさ、ソラ、この後ヒマ? よかったら、一、二時間付き合わない?」 「ええと――。大丈夫だけど、何? あんまりおかしなことはしないわよ」 「いや、真面目真面目。これから、ちょっと遺跡に調査に行くつもりなんだけど、心細いから一緒に来てくれないかと思ってさ」 「どの舌が……」 大剣下げたアルスス学徒で、いつかはえげつない火球をブンブンぶつけて来たくせに。 「遺跡ってどこの遺跡? 大体、アルスス学徒が遺跡調査なんて、聞いたことないんだけど」 「だよね。俺も初めて。だもんで経験不足でさ。俺、古代文字にも詳しくないし、ソラは真面目だし、なんかいろいろ読んでるからいろんなこと知ってるだろ?」 「……おだてたってダメ。畑が違ったらもう何も分からないわよ」 「うーん。実はねえ……」 イラカは、身をかがめるとソラの耳元に手を立てて、声を潜めて言った。 ソラはちょっとぎょっとしたけれど、ここはこらえて、騒ぎ立てずに応じる。 騒がなくてよかった。彼はこう言ったのである。 「アルスス覚醒の地に行ってみたいと思うんだけど、興味ない?」 ソラは身を引くと、大きく目を見開いて、笑うイラカを見つめた。 「――え、ちょっと待って。神階?!」 そこは、前に入った第二神階とは少し構造が違った。前はやたらと長い螺旋階段が続き、地底の奥深くへいざなったけれど、そこは洞窟だった。 横長の、広々とした、やはり人の手の名残を大きく残した遺跡と思われたが――、入口に厳重な鉄格子の扉が三重にも連なっているのを見て、ソラは立ちすくみ声を上げる。 「そうだよ。だって神様が出てきたとこなんだから、神階に決まってるでしょう」 イラカは楽しそうに言いながら、銀の鍵の束を出して、一枚目の扉をもう開けようとしている。 どこからそんな便利な道具を手に入れてきたのか、この男は。 「ここから先は、いわゆる『第一神階』と言われてるところ。俺の記憶にある限り、ここで実習がされたことはない。昔はしてたとも聞くけどね。どうもいろんな資料を突き合わせてみると、ここらしいんだよ。クローヴィスが、アルススを『発見』したのは」 「し、神階っていうことは、精霊が出るんじゃない! 私、何の準備もしていないわ!」 「いいよいいよ、そういうのの相手は俺がやるから。それに、シギヤ学徒は襲われないじゃない?」 「そんなの分からないでしょう! たまたま第二神階ではそうだったけど!」 「大丈夫だって。俺が守るから」 ソラはいらだって変な声を出しそうになった。勝手に危険な場所へ連れてきておいて、なんという言い草だ。しかも英雄的な響きに酔っていそうなのがさらに腹立たしい。 「自分の身は自分で守るから結構です!」 「うん、実のところそうだね。俺もそんな余裕があるかどうか、分かんない。初めて来るから」 黙るソラの前で、イラカは二つ目の鍵にとりかかる。 「無理はしないようにするよ。でもね、むしろ監督をお願い。ここがどれくらい深いか分からないし――例によって体力がなくなって、帰れなくなったら困るからね。――あ、開いた」 彼が三つ目の鍵へ手を伸ばすのを見ながら、ソラは、息を吐いた。 「初めからそう言ってよ。……分かった。付き合うわ。危なかったらすぐ帰るからね」 「うん。お願い。頼りにしてます」 三重の扉が開くと、その先には、冷たい空気をたたえた洞穴が現れた。冷気は奥から、音もなく忍び寄って来る。 二人は暗闇に向かって、息を吐いた。 イラカがすぐに、壁にある仕掛けを見つけて、発動させた。赤みがかった光が壁沿いに浮かび上がり、うすぼんやりと、奥を照らした。 「第二神階にあったものと同じ?」 「そうだろうね」 「……ふうん」 「じゃ、行こうか。悪いね、抜くよ」 言って、イラカはいつも腰に提げている剣を抜く。金属のこすれ合う独特の細い音が洞穴に響いて波紋のように広がり、消えて行った。 イラカが先に進み、ソラはその背中と退路に気を配る。 彼らは赤い洞窟の中を慎重に進んでいった。 「……びっくりするくらい、何もいないねえ」 十分ほどした頃。イラカが苦笑をもらして言った。 ソラは油断するのが早い! と思ったが、彼がそうなるのも無理はなかった。 何しろ、第一神階は、ただただ広くて、寒くて、そして、静寂そのものの、場所だった。物音と言えば、ソラとイラカが立てる足音や衣擦れ、護符や裾飾りの音と、地下水が滴る音ばかり。 第二神階のあの騒がしさに比べたら、信じられないほど、なにもなかった。 まだその段階でないのだろうか? 精霊がいるのはもっと奥なのだろうか。 「神階によるの? 第二神階が特殊なの?」 「……確かに第二神階は多いよ。みんな雑魚だけど、とにかく多量に出る。でも、他の神階でも、普通に出くわすんだけどな……。まるで気配もない、なんだここ?」 イラカは、実習で他の神階も経験しているが、こんなところはないようだ。 いぶかしげに辺りを見やるが、やがて、本当にふっと気を抜いた。 「……いないわ、これは。奥へ行けば違うかもしれないけど。……拍子抜けだな。だから実習に使わないのかな。院長の奴も、あっさり鍵、貸したのかな」 そのむちゃくちゃな呼び方に心の中で呆れつつ、ソラは尋ねる。 「院長先生に借りたの?」 「そう。あの人ホラ、今、俺にすごく後ろめたい状態だから、色々頼みやすいんだよ。とりあえず全部たどってみようと思ってさ」 「たどる?」 「あの人の足跡をね」 「……」 イラカは、その時はっきりその名前を言わなかった。 それが逆に、彼の感情の深さを感じさせて、ソラは今更ながら、痺れる。 そこまで。好きなのか。 まるで恋でもしているみたいだ。 「答えを持っていないはずがないんだよ。あの人は。何もかも知ってるはずなんだから。アルススについて」 「……調べてるの? それで最近、なんだか見かけなかったの?」 「あーそうね。結構こもってたからね。文書館にいたんだけど、会わなかったね?」 「えっ?」 思わず上がった高い声が洞窟の天井に陰々と響いて行った。 ソラは口元を手で覆った。 「文書館にいたの? あなたが?」 「ねー。似合わないっての。でも勉強になったよ。似合わない真似もするもんだね。あの人がどれくらい長い間、可能性を求めて探し回ったか、とか。どういうきっかけで、アルススという忘れられた神のことを知るに至ったか、とか。なんか昔の色んな碑文とか古文書とか読んで変に詳しくなっちゃった。ソラは、チーファンって学者、知ってる?」 その名前は、その学者のことが大好きな別の学者のことを即座にソラに思い起こさせる。 それは、ソラにとって、イラカのクローヴィスと同じである。 思い入れが強すぎて、おいそれと名前を出すこともできない、人と話すこともできない人物である。 「――知ってる」 「さすが。俺は知らなかった。そんな古い学者のことなんか。でも天才だったっぽいね? どうもそいつみたいよ。もともと、古い伝承とか遺跡の中から『アルスス』という神の名前を掘り出したのは。あの人はそれを知って、それに望みをかけた。既存の神にすがることでは解決できないでいた問題を解決するために。そして、ついに突き止めた神の眠る場所はなんと! 長い時間を過ごしてきた当の学院の地下だった。――らしいんだけど」 足を止めたイラカは、改めて辺りを見回す。 なんとも言えない表情をしていた。 「俺、何か読み間違えたかな? もう結構歩いて来たよね? 核心の遺跡があるはずなのに、これじゃただの水にぬれた洞窟だ――。それとももっと奥、なのかな」 延々と続く先の暗さに目をやった後、イラカはこちらを振り向いて言った。 「ごめんね、もうちょっとつき合ってくれる?」 ソラはため息をついた。 「いいよ。もう、こうなったら。行けるとこまで行こうよ」 彼らはそれからさらに進んだ。 覚悟を決めて、きっかり一時間歩いた。 しかし、洞窟は尽きなかった。やや狭くなり、傾斜がきつくなり、濡れているので歩きにくくなったが、相変わらずごく静かで、寒い他は何もない。精霊の影もない。進行方向を見ても、後ろを振り返っても、変わり映えなく完全に筒の中という景色しかない。 ついに疲労を覚えた二人はめいめい壁に寄りかかったり、そのまま座ったりして休憩を取った。イラカが飴を放って来るので、ソラはありがたく頂いた。 「……なんか、ごめんね。危ないほうがまだマシだったね、これじゃ」 さすがにイラカが謝る。ソラは気にしないでいいと手を振った。同行すると決めたのは自分だし、一人では決して来られなかった場所だ。 彼女はむしろこの人造の洞窟のあまりの深さに、驚異の情を覚えた。そもそもどうしてこんな洞窟が、掘られたのだろう? 飴を転がしながら奥を眺めるソラに、イラカは弁解を続ける。 「……ひょっとして問題の遺跡まで、一日二日かかるのかな。ちょっとそれは予想してなかった。せいぜい第六神階くらいの大きさかと思ったんだけど……。いやごめん、見通し甘かった。あの人、所要時間までは言ってなくて。あと、もしかしたら資料を読み間違えたかもしんない。どっちにせよ、ごめん」 「もし、……本当に、一日、二日、かかるような場所だったら……」 「ん?」 「彼は、独りで、行ったのかしら。何の保証も、ないのに……」 「…………」 イラカは、抜身のままの剣を杖代わりに、寄りかかっていた壁を伝って、腰を下ろした。 片足を立て、片足を折り曲げて横に寝かせ、右手に剣を持ったまま、息を吐いた。 ソラの質問に答えた。 「行ったんだろうね」 「独りで?」 「たぶん。それまでも、独りで、世界中を探し回っていたようだから。新しい神を」 「どうして、普通の神様ではいけなかったの? ……だって、攻撃的な神様もいるわ」 「時間がかかる」 薄闇は、目が慣れてくるとただの昼間のようで気にならなかった。イラカの白い肌も、頬の黥も、額に落ちた金い髪もはっきり見えた。 「神々が、具体的な力を貸してくれるようになるのは、だいたい学問を始めて二十年経ってからだ。学者はまず三十歳は越してる。大きな力を振るえるのはさらに後。カントンが地割れを起こし侵略者を滅ぼしたのは、白髪になってからだった」 「――そういうものじゃない」 長い信仰と犠牲に応じた、大きな報酬。だから偉大な学者は全員、老人なのだ。 学問の世界に年若い英雄は存在しなかった。クローヴィスが登場するまでは。 「それじゃ、遅いんだよ」 「え?」 「今、目の前の現実を変えるためには、今、力がいるんだよ」 イラカは目を閉じた。 「俺には彼の渇望が分かる」 「――」 「俺は感謝してる。今、必要な力を得る方法を教えてくれた。だから俺は、あの人を信じるんだ」 沈黙が満ちた。 ただ、深みと地上をつなぐ岩の道だけがあった。 イラカは、自分が招いたものに恥ずかしくなったのか、いきなり変な歌を歌いだした。低い声で、妙な節回しで。
聞いたこともない歌だった。ソラが飴を飲み込んで例のしかめ面を作ると、イラカは目を閉じているのにまるでそれが見えたみたいに、笑みを漏らした。 「なに、その歌?」 「なんかに載ってた昔の歌。なんだろね? 調子がいいから歌っちゃうんだけど、なんかまじないの言葉かなにかだと思うよ」 「あんまり不用意に真似しないほうがいいわよ。古い言葉は。何が起きるか分からないんだから――」 …………カツン その瞬間、ソラとイラカは地面から跳ね上がって洞窟の奥へと視線を据えた。 物音がする。 これまでなにものの気配も存在しなかったこの神階に! …………カツン…… 再び。 ――ソラは、反射的に怯えた。 危険なものだったらどうしよう。平穏さに招かれて、既に不用心なほど奥まで進んでしまった。 ここから後退するとなれば、その間を襲われるとなれば、かなり危険になる。 失敗――したか。 判断を、誤ったか。肋骨の中で心臓が、後悔と不安を刻んで、のたうった。 イラカの手が、離れた場所で動く。心配ないよ、とでも言うようだ。 …………カツン…… 燃え立つ警戒の眼差しの先に、細長い影が現れた。 洞穴のはるか遠くから、こちらに向けて、近づいてくる。 緊張の数分が過ぎた。 「――」 ふと、隣でイラカが強張りを解いた。剣は持ったままだが構えも解いてしまう。 ソラはそれを肌で感じながら、まだ前を見据えていたが、ほぼ同時に、相手が誰だかわかって、緊張が内側から外へと爆発していくような感じを覚えた。 安堵、なのか。これは。 分からない。 ただ、頭に血が上ってぼうっとしたのは確かだ。知らず息をついて、汗がどっと流れたが、そこに現れたのは、純粋な味方ではなかった。 「……教授」 イラカが、こどもが奇跡でも呼ぶみたいな声で呼んだ。 ソラはものも言えなかった。 ただいくらかの金髪がかする美しい黥を見ていた。 そこにいたのは、クローヴィスだった。 彼が傍に来るまで、ものすごく長かったようにも、あっという間であったようにも思えた。 気が付いたらもう目の前にいて、疲れた素振りもなく立ち止まると、まずイラカを見、それからソラを見た。 非難しているかのような、厳しい目だ。 「ここでなにをしている」 「――学長に許可を得て、調査をしておりました」 イラカがはっきりと答えると、クローヴィスは視線を移してソラをほっとさせた。 「……我らが学問の始まりとなった、遺跡を実際に見たいと思ったのです」 クローヴィスは無言だった。 思えば、この二人が同じ場所にいるのを見たのは初めてかもしれない。 目の当たりにしてみれば、違った。 無論、イラカはもうクローヴィスそのものの格好はやめている。髪形も変わった。 だが、もしまったく同じ扮装をしていても、それはおかしいくらいに違うものであったに違いなかった。 イラカは動物的本能で、救いがたい滑稽から、自らを救ったのだ。 「一度、会ったな」 「はい。院長室で。イル・カフカス・イラカと申します」 「この娘とはどういう間柄だ?」 「え?」 二人の男が、びっくり仰天しているソラを見る。 「人目を忍んで会う仲か?」 そんなことを、この歩く死人のようなクローヴィスが言うのにも驚いたが、その感情は次の瞬間、イラカの口からほとばしった失敬極まりない大声にめちゃくちゃに粉砕された。 「まさか!」 彼は生意気盛りのアルスス学生に戻ってばたばた手を振るのである。 「違います違います。こいつはその、女にしちゃ信用できるんで仲間ですけど、全然そういうのじゃないです。あり得ないです。あり得ないです。あり得ないです」 せっかく一時間も遠足に付き合ってやってその言い草か。 まあ、ソラにしてみれば、変に色仕掛けで近づいてこられるより千倍マシだとは思うが、それにしても、相変わらず言いたい放題で不作法な男である。 「…………」 何のつもりでそんなことを聞いたのか分からないクローヴィスは、しばらく事実をうかがうようにじっとソラの顔を見ていた。が、イラカの問いに目をそらす。 「教授がアルススを『発見』なさった遺跡はもっと奥なのでしょうか」 「……そうだ」 「どれくらいかかりますか」 「私が最初に訪れた時は往復で十二時間かかった」 「え……」 この答えに、ソラとイラカは丸い目を見合わせた。 ――場所は、合っていたのだ。 が、やはり時間の見積もりが、まるで見当違いだったのである。 「帰ろう、ソラ。これは無理だ」 「そ、そうね……」 二人がそう言っている間に、クローヴィスはさっさと歩き出した。 出口の方角だ。 数分前まで会話していた二人に何の合図もない。相変わらず、社会性が欠落した男だ。 「教授! 光栄でした!」 イラカはもう、なんでも許してしまうらしく、その背中にあこがれのこもった声を投げる。が、当然その呼びかけにも無反応だった。 アルススの学徒たちがみんな無礼な理由は力に奢るからだと思っていたが、ひょっとしたら、始祖がこんな人間だったからなのでは? あまりのことに本気でしかめ面をしていたソラだが、急に、クローヴィスが振り返ったので仰天した。 「指輪はなくしたのか」 一瞬、何のことを言われているのか分からなかった。 その声の残響が消え切る頃、やっと、ネコからもらった指輪のことだと分かった――アガタも持っていたという。 「あ、あれは……。もう、ほとんど使えませんから……」 「捨てたか」 「げ、下宿にあります。持ってきては、いません」 青い目が、薄闇の中でわずかに細くなった気がした。 「――私が消えたならな」 「はい?」 「にぎやかになるぞ。ここは」 「――え!」 その言葉の意味に気づいたソラとイラカは、ほぼ同時に駈け出した。慌てて、クローヴィスに追いつこうとするが、彼はすたすた行ってしまう。速い。 彼が病人だという話は一体どこに消えたのか。 そして確かに、彼がいなくなった奥からは、不可解な、恨むような、危険な気配が湧き上がってきていた。 彼がいたから、精霊達はいなかったのだ――逃げていたのだ。それが、憎悪とともに、戻ろうとしていた。 ――あ、諦めなさいよ……! ソラは冷汗をかきながら、心の中でイラカに言った。 往復十二時間。行きも帰りも、精霊まみれ。 ――土下座して頼まれたって、絶対同行しないからね! /
その晩のことだった。 神階から出た後にも、消えてなくならない雑事を済ませて、くたくたになったソラは、夜更けた島内で道に迷ってしまった。 いかに疲労していたとしても、通い慣れた道を誤るなんてどうかしていた。袋小路に突き当たったソラは愕然とする。慌てて振り返った時、そこに、何かがいた。 おおきいような、ちいさいような。 つめたいような、あたたかいような。 みえるような、みえないような。 なにかだった。 手のようななにかがのびてきて、息を吸う間もないソラの左胸をどん、と押した。 背が、壁についた。 瞬きする間に、何かは消えていた。 ふと目をやると、右の壁窩に、しごく小さな祠があって木像が安置してあった。 それは、丸くなって座る老人の像で、学問をしない市井の人々はそれを、シギヤと呼ぶのだった。 桃色の小さな花が備えてあった。 素朴な祠のある、袋小路から出た時、ソラの頬は濡れていた。 学者の人生に何度か訪れると言われる交感の時だった。捧げた過去の報われるというその区切りの時だった。 ソラはシギヤと会ったのだ。 (つづく)
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