7


 その午後、ソラは、学内で同じ下宿の女生徒に会った。
 彼女はアルスス学徒で、友人二名と一緒だった。それらの友人に、ソラを「あのクローヴィス様を起こしてくれた人」だと紹介した。
 ソラはその説明に苦笑いせざるを得なかったが、彼女らの好意を感じ、肚の中にしまっていた思いをかなり慎重に、遠慮がちに伝えてみた。
 一部始終を少し離れた待ち合わせ場所からハン・リ・ルクスが見ていた。彼女らと別れた途端に二人の視線が合ってハンが会釈する。
 ソラは、諦めの苦笑がまだ顔から消えきらないまま会釈を返した。もはや暑いくらいの太陽光線が建物にくっきりとした影を落とす中、彼女らは連れ立って、大文書館へ向かった。



「何を話されてたんですか?」
「ええ。……提案してたんです。身体の、記録を付けておいたらどうかと。身長と、体重と、体温と、脈数なんかを」
「体温もですか」
「ふんわりと却下されました。『その話は終わった』と考えているみたいで」
「……学院長直々の布告でしたからね。親にだって見せられる」
「その布告と、自分の実験の数値があったら、完璧じゃないですか。でも、布告だけで十分と思ったみたいです。……あの騒動以来、ずっと不安そうにしていましたから、もう悩むのは、たくさんなのかもしれません」
「新しい衣類の流行も、ようやく始まったようですしね。かわいいですね、あの襟飾り」
「……彼がああだから、彼女らにも、同じ気持ちがあるかと思った」
「――イラカのことですか」
「違いました。実は他の生徒にも言ってみたんですが、みんな逃げちゃって。上がああ言うんだから疑わなくてもいいでしょうって。彼女らだって、知らないはずがないのに。術の後の、疲労は」
「……多分それほど突き詰めた消耗を味わったことはないのではないですか。そうでなければ、女性の体調不良はいろんなものと混ざり合って区別が難しいでしょう――これくらいのことは言いますよ、僕でも。シギヤの徒なんですから。それに男でも一緒です。術のための体調不良なのか、そうでない当たり前の疲労なのか、弁別するためには厳密な、しかも長期にわたる観察が必要になります」
「そうですね。とても大変です。――だから、きっと、信じることにしたんでしょう。そのほうが、いいですから。考え方も生き方も住み方も、学び方も、何も、変える必要はありませんから。生徒も、教官達さえ、そう考えているみたい。講義でも繰り返し、院長の布告が言われているようです」
「てことは、イラカは少数派なんですね」
「ずばり、単独かも」
「う……。確かに、僕らなんかとちょくちょくつるんでますしね。今じゃ、はみ出しているのかもしれません。……でもその立ち方は、彼が敬愛してやまないクローヴィスにも似ていませんか。彼は本当の意味で、博士の一番弟子なのかもしれませんよ」
「――なるほど」
「さて、そろそろ行ってみませんか、ソラさん。特別資料室へ」
「はい。そうですね。じゃあまず、受付ですね」



 前々からその存在を知ってはいた。が、入るのは初めてだった。
 誰が好き好んで他派の聖域を荒らすだろうか。まして、その信仰を感じない部外者にとって、あらゆる神殿は一抹の滑稽味を覚える場所である。
 大文書館、『特別資料室』は、伝説的な大学者の研究室と所持品が収められた場所で、一室丸ごとその学者のために割かれている。学者もあんまり偉大になると、その研究生活の有り様や、持ち物までが研究と崇拝の対象になるのだ。
  室内には、研究室に残された家具や備品が可能な限りそっくりそのまま移動してあり、今しも当人が戻ってきそうであり、(信者なら)ただ眺めるだけでも楽しい場所である。
 資料の散逸を防ぐために入退室には司書の立ち合いが必要で、逐一記録もされる。真面目な研究者も不滅だが、尊敬する学者の私信の一通、彼らの使っていた筆記用具の一個、隙あらば手に入れようとする輩もまた後を絶たないらしい。
「特にこの方なんかはそうでしょうね――。すごい、ほぼ毎日誰がしかが入室してますよ。あ、イラカを発見」
「あ。本当だ」
 入室記録の過去をさかのぼると、数日前に『イル・カフカス・イラカ』の名前がある。と、担当の司書にさっと帳面を引かれた。
「記入が済んだら、ご案内します」
「あ、はい。すいません。騒いで」
 気まずく謝った。
 それから二人は、ひどく物静かな司書に従って文書館の書架の間を歩き、資料室の並ぶ一角へと至る。
 その途中で、司書が横顔を見せ、ぼそりと言った。
「誰でも、少しは、はしゃがれるんですよ。特別資料室へ来ると」
「あ。その……アルスス学の生徒が、ですか?」
「誰でもです。カントン博士の部屋でも、チーファン博士の部屋でも、どれでもです。扉が閉まった途端、中で雄叫びが聞こえることもあります」
 それはびっくりだろうな。
 だが司書は二人の視線に軽く目を細め、「もう慣れました」と続けた。
「まあ、その中でも特に、クローヴィス博士の部屋は参拝者が多く、軽はずみな振る舞いが行われがちな部屋でもあります。一時は落書きがひどかった。申し訳ありませんが出る時には持ち物を検めさせて頂く決まりですので。女性もです」
「あ。はい、分かりました」
「大変ですね」
 ハンの言葉に、司書は何か合図でもするように笑った。
「以前に比べたら極楽です。一日にせいぜい一組で、まったくない日もあります。新学期以来、目に見えて減りました」
「……新学期」
「何しろ『ホンモノ』が現れましたからね。抜け殻などには用はないでしょう。彼らには」
 『第七特別資料室』と鉄のプレートが打ち付けられた扉の前で司書は足を止め、鍵を取り出して解錠する。脇にどいて右手で扉を押し開けながら、「どうぞ」と促した。
 それで二人は中に入った。入った途端、確かに悲鳴を上げそうになった。
 感激からではない。二人は『クローヴィス』学徒ではないのだから。
 それは、驚愕から出る叫びだった。
 後ろで扉が閉まると、ソラは内緒話を囁くときのあの要領で、音と息を混ぜた幽霊みたいな声で、慎みを失くして、叫んだ。
「えーーーーっ?!」
 慎みのあるハンはその隣で呆然としている。
「これが、学者の部屋?!」
 そこには、何もなかった。
 何もなかった。
 少なくとも、二人が学者の研究室と聞いて想像する時、当然あると考えるものはなかった。
 かろうじて、平机がある。椅子がある。そして寝椅子がある。ちょうど、ガニア教授の部屋でソラが寝床として与えられたのと同じような。そこに色鮮やかな毛織物が置いてある。
 壁にはわずかに剣が二本かかっている。ランプがある。奥に扉つきの棚がある。開いてみると多段になっており、衣類やわずかな生活用品が置いてある。下のほうには靴もある。
 それだけだ。
 旅籠の一室でも覗いたみたいだ。
 あまりのことに外にまろび出てきた二人を、傍の司書卓で仕事をしようとしていた司書が微笑みで出迎えた。
「終わりですか?」



「いえ、別段何か盗まれたということはありません。はじめから、彼の研究室はこうだったのです。さすがにあんまりなので、開設時の文書館長がここに、申し訳程度に資料を置きました」
 指し示されたのは机の上だ。確かにある。
 ほんの薄い仮綴じ本が一片と、ばらのタリン紙、たった一枚。
「その他は生前――失礼、『以前』のままですよ。――クローヴィス博士は、研究室に巣を張る、一般的な意味での学者ではなかったのです。アルススを発見するまでは移動に次ぐ移動でほとんど放浪学士でしたし、発見以降は書見などする必要はなかったでしょう。新しい学問を啓いたのですからね」
「で、でも、これはあんまりではないですか。筆記用具さえ、ない」
 学生にも学者にも必須のペン、ペン先を削るナイフ、インク壺。
 司書はまた瞼を厚くして瞳を半分にした。
「これは有名な話ですが、博士はものを書くのが大層お嫌いだったのです。博士論文の他、試験用紙など学生時代の提出物はかろうじて残っていますが、それ以降は公式記録以外、まったく何も発見されていません。人から手紙をもらっても返事さえしないという人だったらしいですよ」
「それで生きていけますか?」
 司書は笑った。
「前々から私も疑問だったのです。是非ご本人にお尋ねになってみて下さい。まあ、市井には文字を識らない人々も大勢いますしね。結構なんとかなるのではないでしょうか」
 ソラもまだ呆然としつつ、口を開く。
「あの……。彼はそれでもかなり、本を読んだとか。蔵書がないなら、一体どうやって……」
「文書館でしょうね。そもそも博士は、一般に出版されているような本は、ほとんど相手にしなかったようですよ。一次資料だけをあたる方だったと聞いています。後は誰か、協力者でもいたのではないでしょうか?」
「協力者?」
「知りませんよ? ただ、ほぼ毎日、この部屋を眺めるたびに、これでは人間の生活に足りないと思うのです。大きな不足を感じます。それでも博士はここに二十年余り生きて大きな功績を残された。――誰か、欠落を埋め合わせた人があったのではと予想されます。私はついこの間まで、それをなさったのはテプレザ博士だろうとばかり思っていたのですが」
 でっち上げの回想録で英雄の伴侶になりすましていたあの人騒がせな女性だ。今はもう学院にいない。
「今となっては謎ですね。一体、どこでどのように生活なさっていたのか。あるいは天才にはこういう生き方も可能なのか」
「……」
 ソラは、おそらく多くの学生達が辿るであろう行動を取った。
 衝撃に酔いつつ、どうしてよいか分からず、とにかく、ものがある場所に移動したのだ。
 平たい、装飾どころか抽斗さえない無骨な机の上に、糸の出ている仮綴じ本と、一枚の紙。
 仮綴じ本はどうやら博士論文らしい。そして紙の上には、文章が書いてある。


後身の方々にこの研究の引継ぎを願いたい。
私が発見したその見知らぬ神のうつくしい名は、
『アルスス』である。



「チーファンの未分類文書、番号541の一部分を複写したものです。博士はこの記述に従ってアルススを発見したと、当時の学院長の諮問に返答しています。議事録が残っています」
「でもこの紙は……」
 ハンの問いに司書は頷く。
「ええ、別の者が書いたまったくの展示物ですよ。そちらの論文はかろうじて真筆ですが。しかし内容は、アルスス学とは無関係です。学生時代の造作ですから。真面目に研究対象にする方はないでしょうね。とにかく、何と言ったらいいか――、生きた証を後ろに残されない方ですね」
「……この文章の全文は、文書館内で読めますか」
「ええ。チーファンの特別資料室に、原本がありますよ」
「見られますか」
「一度戻って、入室記録を書いていただければ」
 ソラとハンは目を見合わせ、頷いた。
 この部屋から学習できることはなにもなさそうだ――クローヴィスが、破綻した生活者であったと知ることを除いて。
 アルススの手掛かりは他に求めなくてはならない。このまま帰るわけにはいかない。
 三人で受付へ戻って再度入室記録に記入した。
 ふと、ハンが言い出した。
「そうか。――大文書館には、クローヴィスの署名があるはずですね? チーファンの特別資料室に入ったなら。……もっとも、何年も前でしょうが」
「ああ。それがあいにく、ないんですよ」
 司書は気の毒と言うべきなのかどうか、と付け加えながら説明してくれた。
 曰く、そもそも『特別資料室』という展示法式が発明されたのはつい五十年程前なのだそうだ。チーファンは百年前の大学者だから、死んだ時には、所持品や蔵書はただ、書庫に運び込まれて保管された。
 文書館では、約四十年前よりカントンを皮切りに資料室の作成を始めたが、どういうわけかチーファンの遺物に関して、かつては確かにあったはずの目録が消失していることが判明したのだという。
 仕方がないので、新たに目録を作る作業が開始されたが、その完成までに十年もの年月を要したそうだ。
「多くの有能な学者が携わって、ようやく資料室が公開されたのが、えー……、そうだ一三八九年、ちょうど三十年前です。入室記録は当然そこから開始です。クローヴィス博士が一度目の戦争を止めたのが一三八八年ですから、それよりもずっと前なんですよ。当時、既に整理と目録作成作業の真っ最中だったと思いますが、場所はつまり一般的な書庫にありました。だから入室記録なしで利用できたはずです。
 もちろん、他の特別資料室はもっと早く公開されていましたから、確かにどこかしらに残っているかもしれません。見てみますか? 書庫に積んでありますよ」
 あるかどうかも分からない署名を、過去三十年から三十五六年に渡ってしかも資料室ごとに探すということだ。
 ハン・リ・ルクスは降参した。
「申し訳ありません。軽率でした」




 チーファンの特別資料室へ入室した二人は、今度は当たり前の悲鳴を上げた。
 壁という壁はすべて書架になっており、足元から、天井まで、びっしり本で埋まっている。中央には愛用の机と椅子が置かれて学究生活の様子が再現されていたが、いたるところに多様な器具や筆記具、本やメモや標本や、その隙間には衣類や食器までが積み重なっていて、むちゃくちゃである。
 だが、これぞ大学者の研究室という感じだし、雪崩れてきそうな本の洪水だって怖くはない。目録があるのだ。
 さすがと言おうか、特別資料室の目録は見事だった。チーファンに詳しくないソラでも、ほどなく該当の資料名を発見できたし、示される場所に行けば、きちんとその場所に原物があった。
 チーファンは専門外のことにもなにかと手を出した万能型の天才で、哲学者でもあったし、遺跡の研究にも熱心だった。そしてクローヴィスとは正反対に、なんでも書付を残す記録魔だった。
 論文とも、日記とも、旅行記とも、手紙ともつかない雑多な遺物の中に、それは紛れ込んでいた。ごく短い、論文とも言えないようなものだ。
 入口の脇には、学者用の椅子机が用意されていて、そこで書見や複写ができる。ソラは、そこでその資料の全文を手早く書き写した。
「クローヴィスの部屋にはありませんでしたね」
「前はあったのですが、いたずらがひどくて。なくても支障がないと判断され、撤去されました」
「なるほど」
 ソラは資料を元に戻し、ハンと一緒に司書にお礼を言った。
「色々とご親切にありがとうございました」
「いいえ。いつも、よく働いて下さいますから」
「え……」
「我々は、正確な目録を作って下さる学徒の方の名前は覚えるものなんですよ。――そうだなあ。よかったらもう一つだけ、つまらないこと、お教えしましょうか」
 そう言って、司書はすました顔のまま、二人を再びクローヴィスの部屋へ連れて行った。
 チーファンの愛嬌たっぷりな研究室を見た後だと、もはや『荒廃している』としか言えないような殺風景な室内に戻ると、例の棚へと進んで、扉を開いた。
「本当に、つまらない知識ですよ? たぶん、何の価値もない」
 再三再四言い訳をしながらも、彼の顔は、ちょっと変わり始めていた。
 二人を手招きしてぐっと近寄らせると、薄暗い棚の中へ、注意を促す。
「実はここに――、隠し扉が、あるんです」
「えっ?!」
「あ! ……本当だ」
 棚の一番下段には靴が入っている。が、その上の段の壁際に、ごく小さな、鍵穴が見えるのだ。
 下の靴を抜けば、その奥には確かに壁があるが、二重になっていて、間に細い空間があるらしい。
「――トート地方で、一時期流行った家具細工なんですよ。動乱なんかの時、略奪されないよう貴金属を隠すんです。私は盗られそうになった靴を何度も戻しているうちにふと気づいてしまったんですが、どうも、他の人はまだ誰も見つけていないみたいで」
「それで、開けたんですか?」
「鍵がありません。壊すとばれてしまいますし。それにね、何も入っていないかもしれませんよ。だってあのクローヴィス博士が、ここに金目のものを隠すなんて想像できます?」
「…………」
 とうとう司書は破顔した。舌を軽く噛んだ後、顔を反らしながら、「とうとう言っちゃったなあ」と言った。かなり長い間、誰かに言いたくてうずうずしていたらしい。
「お二人とも、内緒にしてくれますよね?」
 これにはハンも思わず苦笑する。
「もちろん。でも、開けてみないんですか?」
「だって何でもないかもしれませんよ」
「でも、施錠されてる?」
「考えてみて下さい」
 司書は、ハンの肩をぽんと叩いた。
「私は、この仕掛けを発見してしまってから今まで、理性を保ち向こう見ずなことをしなかった自分を本当に褒めてやりたい気持ちなんです。特に、あなた方が、クローヴィスを、起こしてからは」


 ご説ごもっともだった。
 そして司書が初めから何かと親切にしてくれた理由が分かった。
 彼は、目録作成の短期労働をする学徒としても、また内乱騒動の時の『書院派』としても、ソラとハンを知っていたのだ。
 クローヴィスを叩き起こしたその張本人二人が、そろって特別資料室を覗きに来たのだ。つい秘密を話したくなっても無理はない。他に誰も、彼の心の大冒険を知る者はないのである。
「いや、本当によかったです。開けないで。もし開けていたら私は今頃、故郷に逃げ戻って震えてましたよ」
「理性に敬意を払います」
「まあでも、本当になにもないかもしれません。――何しろ、この通りの方ですから」
 と、がらんとした部屋を目線で示す。
「それに復活して以来、博士は一度もこの資料室へお越しになりません。つまり、ご用事がない、ということでしょう。確かに執着するほど快適なお部屋とは思われませんが、普段どこで寝泊まりなさってるんでしょうね?
 もともと、そういう方なのかもしれません。一体どこで何を食べて、いつ寝て、何を考えどこへ向かっているのか、そういったことがまるきり見えない。手紙を書いても返事がない。部屋を訪ねてもがらんとしている。そういった、つかみどころのない、変わった方だったのかもしれません」





/




『この神について分かることはごくわずかである。が、各地方の民話を採取し分析すると、必ず、無視できない頻度でその影がちらつくのだ。
 どの地方においても共通する点は、決して表立った伝承ではなく傍系に属すること。呼称が「ア」及び「エイ」で始まること。激しく破壊的な力の持ち主であり、人とも深く関与していたが、今は、地中に眠っていると述べられていることである。
 この条件を満たす民話・民謡は、その実、全地方に見られる。だが採取数が顕著に多いのは、特にミテ地方およびトート地方である。
 一例としてンマロ周辺の農村の女性らに伝わる子守唄を記す。


 アイルスさまも ご機嫌難し
 何をするなら ご満足
 魚捧げ 青菜捧げ 籾捧げ 獣捧げ
 それでも足らぬと 大泣き小泣き

 アイルスさまも ご機嫌悪いと
 いろんなことを なさいます
 虫撒き 病撒き 焔撒き 苦い汁撒き
 父さん 母さん 弱らせる

 それでもアイルスさま おやすみだ ぐっすり
 小さなアイルスさまも おやすみな すやすや




「ああ。確かに聞いたことあるわよ」
 美容室『銀のマオ』で働いている『お姉様』に尋ねてみると、あっさりと首肯した上に歌ってもくれた。
 意味を深く考えたことはないが、母親とか、周囲の女性が歌うのを聴いて、勝手に覚えてしまうのだという。実際に彼女が歌うと、他の『お姉様』まで難なく唱和する。ンマロではかなりなじみ深い唄のようだ。
 文書館で手に入れた記録を読むと、チーファンはこうした地方歌や民話を膨大に収集した上で、反復される要素を抽出し、古代遺跡の記載と照らし合わせることで、幾つかの未発見の神の可能性を示唆していた。
 チーファンは既に様々な研究を行っていたし、高齢でもあったため、余力がなく、それ以上の研究を断念さざるを得なかった。
 分類上も『その他』扱いであり、当時もただ身内で回覧されたにすぎなかったというその小文は、『後身の方々にこの研究の引継ぎを願いたい。』という微笑めいた一文で終了している。
「学者さんって、子守唄の勉強までするの?」
 ソラの友人フルカは不思議そうだ。彼女らは、閉店後の『銀のマオ』で落ち合った。別に約束はないが、既にどちらがどちらを前触れなく尋ねても問題ないくらいの仲良しになっているのである。
 二人の手元には上質のテニ茶が白い湯気をゆったりと立ち昇らせていた。
「うーん。いや、そういうわけでもないんだけど……」
 だが、チーファンのやっていたことはまさに『子守唄の勉強』だ。誰も、学問と関連があるなんて考えないそんな些事から、未知の領域を読み解こうとし、実際に当たりを出したこの学者は――なるほど、大学者と言われるわけである。
 ソラは感激し、感動した。
 あの裏庭のネコが私淑するのも無理はないと思った。
 そして、目録が完了する前に、膨大な思索の海からただこの一文を拾い出したクローヴィスもなんというか――、形容する言葉が見つからないような、怪物だと思った。
 執念がなければできることではない。
 彼は言った。昔は血を吐くほど学問したと。
 その言葉と、あの死んだ部屋の有様が惹き合う。
 ここに行き当たるまで、彼は、どれほどの知的放浪をしたのだろうか。
「……ソラ、眉間に大峡谷が出来てるよ」
「あ。ごめん」
「分かる。それ癖になるよね。でも、とれなくなっちゃうよ」
「怒ってるんじゃないの」
「知ってる知ってる。むしろ、楽しいんでしょ。あたしもよくお姉様に言われるもん。『こわい』って。お客様の相手している間にね、集中しすぎて鬼の形相になってるみたいで」
 フルカが笑うと、きれいに切りそろえられ、手入れされた黒髪の上で光が躍った。
 彼女はもう、ンマロの街を歩いていても、少しも不自然ではなかった。生粋の都会っ子に見えた。学部は違えど、彼女もまた、極めて熱心な『学生』なのだ。
「でも、いいね。そんだけ怖い顔できるんだもん。やっぱりソラはお勉強に向いてるんだよ。あたしはダメだったなー。学校じゃ集中できなかった。授業中にいつも何考えてたか知ってる?」
「何?」
 どういう答えが来るかほぼ予想がついた。にもかかわらず、ソラは笑って先を促す。
「理想の処女喪失について、妄想を膨らませていました。あはははは! 恋人もいないのにさ、どこだったら親にバレないとか。どういう下着を着て、どんな態度で恥じらおうか、とか。バカでしょ。ソラはしなかった?」
「う。うー……ん」
 正直、まったくしなかったかと問い詰められたら、した、と言わねばならないだろう。が、あまり長続きする題材ではなかった。学者としての将来を想像するほうが、楽しかった。
「とにかくハライを出ることばかり考えてたから」
「あー、そうだよね。本当に窮屈なところだもん、あそこ。しかもさ、変だよね。あそこでは『しんどい』とか『つらい』とか泣くことは許されるんだよ。寧ろかわいがられるの。でも『出ていきたい』って言うことは、御法度なの。そうじゃない?」
「ああ。そうね。ずっと、秘密にしてたな」
「えらい! あたしなんか一回口が滑って言っちゃったことあるよ、学校で。そしたらもうあっという間。先生はおろか、兄妹でしょ、親でしょ、親戚にまでぶわーって広がって、会う人会う人に必ずなんか言われるのよ。あれは頭に来たなあ。ほんと世間も了見も狭いんだから。放っておけっていうのよ」
「そういえば……」
 ふと、ソラは思い立った。
 自分はハライにいても、本ばかり覗き込んでいっかな周囲を見なかった。勉強はするくせに自分でもどうかと思うくらい、世間知らずだった。
 が、フルカはそうではないかもしれない。
 もしかすると、知っているだろうか――。
「おかしなことを聞くんだけど、フルカは、ニキ・スズキリ家のアガタって人、知ってる?」
「――……」


 それは、軽い質問のつもりだった。質問はしたが、九割方、知るわけがないと思っていた。
 ところが、フルカははっきりと驚きの反応を見せ、目をみはったのだ。
 それから、言った。
 さっきまでとは違い、妙に低く、警戒のこもった声だった。
「びっくり……。どうしたの。なんでソラがその名前知ってるの?」
「え。えっと。……なんか、耳にすることがあって……。ハライの出身だって言うんだけど、私は、知らないから……」
「……耳にしたって? ……おうちで?」
「ううん? ……こっちで」
「ほんと? 学校で、なの?」
「う、うん……」
「……そう……」
 フルカは視線を下ろし、黙った。ソラは、訳が分からず、怖くなる。
「あの、何?」
「……ん。ごめん。ちょっと今、あたしもかなりびっくりしちゃって。なんか、田舎に足首掴まれたような気がして、ぞっとしたの。なかなか、逃げきれないものね。
 ……とりあえず、あたしが知ってることだけ、言うね。その人ね、ソラにとっては親戚だよ。えーとね、ソラのおばあちゃんの、妹の、子供だよ」



 脳裏を、もう長いこと会っていない、しかし忘れようのない祖母の厳しい横顔が駆け抜けて行った。
 ソラに祖母は一人しかいない。父方だ。母方の祖母はずいぶん前に亡くなっている。
「――妹? 私のおばあちゃんには、妹なんかいないよ? だっていたら……」
 絶対に、ことあるごとにその人物の噂や批評をするに決まっている。同時に何くれと世話を焼くに決まっている。親戚の集まりにもきっと呼びつけるに決まっている。それで、フルカとソラも互いに面識があったのだから。
 ややこしいが、フルカは父方の祖父の弟の子である。
 フルカは、混乱するソラを手で押しとどめるようなしぐさをしながら、軽く眉根を寄せた。
「あの、ごめんね。そのほうがいいと思うから、はっきり言うね。
 ソラのおばあちゃんの妹さんね、未婚のまま、いきなり身ごもったんだって。そのせいで、親から勘当されたの。当時、ものすごい醜聞になって、以来、大っぴらにその名前を言うのはダメになったんだって。特にソラのおばあちゃんはすごくて、誰かが『妹さん』なんて言おうものなら、ギッて睨みつけたって……。あたし、前にそういう訳アリ話が大好きな叔母ちゃんから内緒で聞いたの。おうちじゃその話題は厳禁になっているはずだから、ソラは、絶対そんな名前知るわけないって思ってた。そのアガタって人は、その時生まれた、赤ちゃんだよ」



 ええ……っ?



 絶句するソラに、ニキ・スズキリとかいう名前はなんか、ご先祖さまの名前から適当につけたみたいよ。勘当されて、元の名字名乗れなくなっちゃったから。と、フルカは言った。
「あたしだってまさか、こんなところでまたその名前聞くなんて思わなかった……。――ひょっとして……、アガタさん、いるの? 学院に?」
「――う、ううん……」



 彼女は、死んだ。



「……おばあちゃんのお母さん、つまりソラにとってはひいおばあちゃんね。その人だけ、最後まですごくその人たちのこと、気にかけてたんだって。……でももう町中には普通に住めなくて、すごく外れた不便なとこに一軒家立てて、さみしく暮らしてたらしいよ。……三、四年前かなあ、その人が死んで、埋葬だけはしたらしいの。でももうアガタさんはずいぶん前から影も形もなくて、みんなどうしたんだろう、病気で死んだか、街を出て行ったんじゃないかって噂したんだって。
 ……まさか、学院にいたなんてね」



 あの子はあんたよりずっと 着古した、東部の、同じ服をいっつも着て



「絶対に誰か、ずるい奴の、子供だよね。だって、ここに来たなら、お金が出てたってことだもん、――誰かが、厄介払いしたんだよ。ひどい」



 あんたは、アガタに、似てない ちっとも、全然、これっぽっちも、 分かったわね?



「――ねえ、アガタさん、いるの? 学院に」
 再度の問いに、ソラは再度、首を振った。舌が凍り付いて、うまく動かなかった。
「亡くなって」
「いつ?」
「……十七年前……」
「うそっ。あたしたちが生まれた年じゃない。……じゃ、そう。もうとっくに亡くなってたんだね。かわいそう。そんな思いをして産んだ娘にも、先立たれたなんて。どうして死んだの? 病気?」
「――わ」
 ソラはなんだか、その言葉を言うのが火を呑むみたいに苦しかった。
「『分からない』」
「そうなんだ……。……たぶんそのこと、ハライのほとんどの人、知らないね。ソラのおばあちゃんも知らないんじゃないのかな。知ってたら絶対許すわけないもの。孫のソラが、妹の生んだ子と同じ学校に行くなんて――」
 しばらくしてから、フルカはソラの腕に手を置いて尋ねた。
「大丈夫?」
 ソラは無言のまま、頷く真似をすることしかできなかった。





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