13. 覚えている。 確かに感じたことがあった。 まるで学者の手で取り揃えられているようだと。 自分はアガタに似ていて、さらに似るように意図され、育成されてもいると。 「許可というより、命令だな。俺の耳には、奴の声でこう聞こえたわけだ」 ――起きたか。実験だ。 冥府だなんてとんでもない。 ネコはそんなことは許さない。だがそれには理由もある。 アガタを殺して、それで死に逃れて終わりなどと、許されはしない。 「俺はお前を材料だと思おうとした」 今までの人生で聞いたこともない言葉がソラの脳をゆすぶった。 「お前は何も気づいてなかったし、愚かしいほど、彼女によく似ていた。奴の命令する通りに、お前をなだめたりすかしたり、脅したりして、黥を入れさせ、まったく同じ条件に加工しようとした。それが出来ることも分かっていた。そうでなければネコはお前を送って寄越したりしない。俺みたいな社交技術のない人間に不良品を掴ませるような、そんな不親切な男じゃない。従順で、流されやすく、後ろ盾がなく孤立していて立場の弱い人間を送って来るに決まっている」 ソラは長い間沈黙していた。 再び口を開いた時には、舌が痺れていて、自分が喋っているような気がしなかった。 「……黥を入れて、どうするんです」 「再び未来の置換が起きるかどうかを確認する。それでまず、アガタの時にも同じことが起きたと判断できるだろう。本来であれば、もっと多数の実験をするのが望ましいがな」 「……私は、どうなります」 「――さあな」 例によってクローヴィスは、即答を避けた。 「俺としても、少しくらいは手を考えているが、もしその目論見がすべて外れたら、アガタと同じことになるだろうな」 「……」 殺伐とした部屋で、ひっくり返って死ぬ。 「その時、仮説は遂に実証されるわけだ」 全身の血がカッと上に上ってきて、ソラは頭に来もしたし、額が熱くなった。 「それが学問ですか」 「『学問とは、繰り返し試行を重ね、原因と結果の間に再現可能な関係性が永続的に存在することが証明されたものである』」 ルル・シル・カントンの玉条を彼が口にすると侮辱に聞こえた。 だが、聞こえるだけなのだ。彼は一字一句、いじっていない。 「……そのために人の命を犠牲にしても構わないと言うんですか」 「構わないと言う。それが学問だ」 天井がたわむほど、空気が重く沈んだ気がした。 「学問が人道主義を学ぶこともあるだろう。だが、決して代替できない実験が残る時、学問は決して、否とは言わない。終わりもなく、歯止めもなく、道徳もない。学問は」 「「坂を転がっていく石」」 再び、二人は同じ言葉を言った。 ソラは目頭が燃えるように熱くなり、瞬きをすると、涙がこぼれた。 理由は掴みがたい。 だがそれを見て、クローヴィスはごくわずかに微笑んだ。冷笑とは違っていた。 「お前も学問に期待をしたな?」 「……」 「学問をする人間の姿に憧れ、学問を信用したな。学者が成功者に見え、学問が――何か、人生の問題を解決してくれると思ったな。俺もそうだ。家族もなく、生活の基礎もなく、敗北の記憶だけを持つ俺に、学者達がどれほどまぶしく見えたことか。賢く、誇り高く、ただ自分の努力と才覚だけで世界に切り込んでいく、知の達人。彼らは普通より高い世界に生きているように見える。 ネコを見て、ひと目で魅了されただろう? あいつはまさに、俺達が思い描く大学者そのものだ。洗練され、独立していて、家庭人でもあり、人の面倒もよく見る社交的な彼が――まさかそんな残酷な実験をするなんて、思ってもみなかっただろう? もっと優しい性格で、良心を重んじ、極限では自制してくれると期待していたな?」 ソラの目から涙が落ちるたびに、視界が回復してさらにまたぼやけて行った。 彼女がこんなに泣くのはたぶん、クローヴィスの言葉が、彼女の考えをまるで足跡を踏むように的確にたどって行ったからだ。 クローヴィスの態度もまた、これまでになく人間的だった。彼は、妹でも見るような顔をしていた。 「だが、学問は残酷なものだ。それは別に人を救ったりすることが目的ではない。人の経験する全ての問題の、最上にして最終の答えを、学問が知っているわけでもない。たとえ学者どもが、そう見えるように振る舞っていても。 お前も考えた方がいい。このまま学問を続けるのかどうか。 ――俺はな。ソラ。間違えたかもしれない」 思わず、眉が歪んだ。 でもそれは、腹が立ったからではない。 「俺の問題の解決には、もっと別の方法があったのかもしれない。俺は学問が自分を救うと思った。――だがその結果が、これだ。 今、学問はお前を捕まえて実験をしろと囁く。だが俺はすでに一度、二度と繰り返したくないと願っていた地獄絵図を繰り返した。幾度も逡巡したがやはり――不可能だ。どれだけ誤魔化しても、お前は生きた人間で、親も家もある娘で、俺はそれに手を出したくない。三度は繰り返せない。 俺は弱く、学問の残虐さに耐えられない。これ以上は拒絶する」 「――っ……」 ソラが息を飲むと同時に、クローヴィスは立った。 そして、踵を返し、出口へ向かおうとする。 「……私を、放すんですか……」 「夜が明けたらこの地を離れることだ、カエル・ソンターク・ソラ」 クローヴィスは体を半分だけ戻し、横顔を見せて言った。 「俺のような、生ぬるい似非学者ではない、ネコの爪のかからないほど遠い場所にな。奴は尻込みしない。一度決めたなら。いくらでもひどいことが起き得る。 忘れるな。この件でお前が出来ることは、実験材料になることだけだ」 「……」 材料。 ――材料には。なれない。黥は、入れられない。 そうだ。本当の学者なら、自分の体を使って実験することも辞さないだろう。 ガニアのように。ポリネのように。学問的発見のためなら我が身や家族を犠牲するのも当然の範疇だろう。それで足りないなら、他人までも。 でもソラは、それは――嫌なのだ。体に入れ墨など、入れたくない。クローヴィスの事情を知っても、そこには踏み込めない。止まりたい。やらないでいたい。無論、他の人間を巻き込むのも嫌だ。 自分を傷つけることも他人を傷つけることも嫌だ。理想とか理屈ではない。今、その状況に直面して身体の奥から湧き上がってきた―― 本音である。 『おぬしは、学問に向いておらぬ』 すべてを神に捧げつくしていたあのホーデの言葉が蘇る。 涙はもう止まっていたが、代わりに頭は真っ白だった。 「親兄弟のことを思い出し、保身のみ志せ。ネコが相手だ。守れるとは限らん」 クローヴィスは言って、今度こそ特別資料室から出て行った。 ソラは、立ち上がることもできないまま、それを見送り、一人になった。 ――危機が去った。 そのことを全身が知っていた。 理屈はどうあれ彼女の身体は恐怖や痛みを恐れ、死から自分を救おうとする。 そして、それを他人にも自分にも与えたくないと考えるのは自分の理性である。 ソラはその二つががっちりと自分を守るのを感じ、そして同時に、ある一つの夢が、春先のツミの花のようにはらはらと散っていくのを感じていた。 ――とにかく、それは、小さなころからの夢だったのだ。 何になるの? と聞かれた同じ年頃の女の子たちがお嫁さん! と答える中で、声に出しても出さなくても、彼女は必ず、学者の先生と答えた。 お嫁さんだってそうかもしれないが、学者も、なってみなければ、向き不向きは分からない。 ソラは、ありがたくない答えに行きついてしまったのだ。 あまりに大きな発見だった。それによって自分がどうなるのか、まだ分からなかった。そもそも、クローヴィスの勧めに従って島を出るべきなのかどうかも。 ――疲れ切っていた。 もう頭が回らない。 ……とにかく……。家に、帰ろう。 ソラは、立ち上がった。 静まり返った特別資料室を出て、とっくに馬鹿になった錠のぶら下がる扉を閉める。 そして夜の大文書館を横切って、出口を目指した。 森閑たる書棚と書棚の間の闇も、怖くなかった。自分の体の中の夜の方が、よっぽど深かった。 階段を降り、一階の廊下にたどり着くと、外はもう夜明けが近く、すべてが青みがかっていた。 その、古代遺跡のような回廊の石柱に、濡れた布のように、クローヴィスがもたれかかっていた。 妙な匂いがした。最近、どこかで嗅いだような。 「……博士?」 返事はない。 ふと足元を見ると、黒く見える小さな血だまりがあって、今しも滴が音もなく落下したところだった。 「……?!……」 ソラは石柱の反対側から彼の前に回り込んだ。 クローヴィスは彼女を見ると、元々しかめていた顔をさらに渋くしたが、ソラの方はそれどころではなかった。 「……は、博士……ッ?!」 何があったかと言えば。 クローヴィスが、若返っていたのだ。 ほんの、十数分前に別れたばかりのその顔が、ありありと若返り、年齢不詳どころか、明らかに二十代の顔になっていた。 それはあり得ない眺めだった。 どれほど美しくても、どれほど黎明前の空気の中で石像のようでも、醜怪な眺めだった。 ソラはいっそ自分の気が狂ったかと思った。 自失し、恐慌を来たしそうになった彼女に対して、 騒ぐな。 と、低い声でクローヴィスが命じる。 右手で胸元を抑えながら。 「……どんな有様か分かっている。……言わなくていい」 長い息が吐かれた。 ソラは彼の胸元を見、それから足元を見た。血が滴っている。 「大事ない」 クローヴィスはソラに触らせなかった。実際、彼が手を外すとそこには血はなかった。上着の下で出血しているようなのだ。 「――流れ込んで来る力を制御するために、黥を一つ焼いた」 青い、甘いくらいの眼差しで彼女を見返しながら、クローヴィスは言い、柱から体を取り戻した。 「……どうやら、愚かなお前の友人も愚か者のようだな」 なんのことか分からず、狼狽する彼女にクローヴィスは笑う。 「アガタばりの馬鹿者が、どうやらもう一人いたようだ。――或いは、俺を縛るいい枷になりそうな奴が、というべきか。アルススの網にかかった。今、力が入り込んで来そうになった。中断するために黥を焼いた。……それに、向こうでも、切れたと思うが」 「ええっ……?!」 「……神階だ。その馬鹿は俺もお前も知っている馬鹿だ。一瞬、向こうの情報が紛れ込んできた。――お前といつか、一緒にいたろう。アルスス学の、金髪のガキだ」 色んな情報が一気に細い通路でろ過されてやっと一滴理解へ落ちてきた。 大声で名を呼ぶ。 「――イラカ?!」 「……これで実証されただろう。――ソラ、俺は若返っているな? おぞましくも」 ソラは、首を縦に振るしかなかった。 一瞬の間の後。クローヴィスは地を蹴って走り出した。やみくもに。何かを呪うみたいに。 「博士!」 反射的にソラは後を追った。第一神階に向かうのが分かっていた。 イラカが巻き込まれている。 何故彼がそんなところにいるのか分からないが。ひょっとしたら、死んでいるかもしれない。 頭の中で血がぐるぐるとまわって、走りながらもめまいがした。 転びそうで危なかった。 「着いて来るな。島から去れ!」 「――ほ、放ってはおけません……!」 「面倒は見ないぞ!」 「だって……! でも……!」 ソラの頬の上で何かが弾けた。指で払って分かったが、それは彼の血だった。 「博士、血が……!」 「命がなくなって知らんぞ!」 ざわっ、と全身から血の気が横ざまに消えて、くまなく鳥肌が立った。 彼女は命の危機を察した。 それでも、結句、走り続けた。 矛盾していた。実験材料にされて死ぬのは嫌だったのに。 それでも傷ついた彼を一人で放り出しておくことは出来ないと思った。 一体この二つにどれくらいの違いがあるだろう。 神じゃなくて。人だったらよかったのに。 混乱のあまり、脈略もなく奇妙な考えが頭を駆け巡っていた。 ――あなたは、神じゃなくて、人を頼ればよかったのに。そのほうがいいのに。どんな結果になっても、そのほうが倍もよかったのに。 先生もアガタさんも、あなたを、助けたかったのに。本当に助けたかったのに。 それとも、とっくに知っているのかもしれない。彼はさっき言ったではないか。自分は間違えたと。 やがてソラはクローヴィスに次いで神階の入り口にたどり着き、彼がアルススの力で叩き壊した三重の扉を抜けて、遺跡に通じる薄闇へと、走り込んで行った。 イル・カフカス・イラカの命を救ったのは、ハンだった。 彼は何が起きているか、まったく理解できなかった。だが、いつの間にか傍に立っていたおおいなるものが、イラカを支配し、何か良くない影響を及ぼしていることを、本能で理解した。 座り込んだイラカは初め、そのものの発した問いかけに茫然としているばかりだった。が、かなり経ってから、小さくこくりと、頷いたのである。 は、とハンが思うや否や。 彼は飛び上がり、のたうち回って苦悶し始めた。 土の上を転がって、ハンの足に体をぶつけたかと思うと、身体をひきつらせながらまた戻って行った。全身の飾りが狂おしく鳴る。 「あ……。あ……! ああぁッ……!!」 あちこちの黥が光っていた。だが、いつも、それが赤く光る時には、彼は増強されてきたのに、今は逆だ。 幻視だろうが、まるで何かが、彼の身体から強引に奪い去られて行くように見えた。 「イラカさん! ……イラカさん!!」 ハンは咄嗟に膝をついて彼の身体を捕まえた。 「どうしたんです!! しっかりしてください!」 「い……痛……い……!」 細くなった目でかろうじてハンをとらえたのか、イラカは、もつれる舌で言葉の切れ端を吐き出す。 両手がハンの腕を這い、それから衣服を鷲掴みにする。 「こ……粉々に……される……。あ、あ……!!」 目を見開くハンの視界に、禍々しく光る黥。 何が起きているのか。まったく分からなかった。だが、これが、何か非常によくない事態だと言うことは分かった。 死のすぐ傍にいると分かった。 ハンは、苦悶するイラカを抱えたまま、首を返してそれを見た。 ちゃんと見られなかった。 見ても見ても目に入らなかった。 けれど彼は、神に会うのが初めてではなかったから、分かった。 ――これに挑むのは、自殺行為だと。 汗が吹き出し、心臓がうごめいた。助けを求めるようにイラカの手が、彼の腕を叩く。 「――……!!」 ハンは覚悟を決め、胸から下げていた護符を引きちぎると、祝詞を唱えながらそれに投げつけた。 「シギヤよ、助け賜え!」 森林神シギヤは応えた。 この八歳で自分に会い、それからたゆみなく信仰を捧げてきた男の全霊の呼びかけに、力を貸してやった。 神階という場所も幸いした。 術は地上より増幅されて作用した。 この保全を司るシギヤの力が、不正な生命の移動を分断し傷を塞いだのと、力の流入に気付いたクローヴィスが服の下に手を入れて自ら胸の黥を焼き切ったのは、ほぼ同時だった。 イラカから、アルススへ、そしてクローヴィスへと連なっていた経路が両端から切り上げられ、一瞬の空白が生まれる。 その機を逃さず、ハンはイラカの身体を抱いて駆け出した。 冷たい汗で全身が寒く、心臓が喉を飛び出しそうだった。 人の身で神に背いたら、一体どうなるか予測もつかなかった。ただ、衣に火事の火が燃え移った人のように、恐怖と本能だけに突き動かされて無我夢中で走った。 背後で、怒りの気配が盛り上がるのが分かった。 初めからそうだったが、それは、かなり人間に分かりやすい気配を出す。こんなのはおかしい。どうかしている。神ではないのか? 神が人間と同じように考えるなんておかしい。それは自分たちが知っている神の振る舞いではない。 ――……知らない神。 自分たちがまだ何も知らない神。 アルスス、か……?! 追って来る。追って来るのが分かった。 目と目の間を汗が滑り落ちていく。歯の根が合わない。 まるで屠られることが決まった鳥みたいだと思う。囲いの中を、必死で逃げ回っている。 どうしたら助かるのか。 ただひたすら逃げるしかなかった。 だがイラカを抱えて足は遅い。彼は完全に気絶していた。生きているかどうかも定かではない。 洞窟の中には誰もいない。精霊の影もない。ひたすら、人の手になる洞窟が、続いているだけ。 ……間違えたか?! 出口はこちらでは、なかったか?! 不安に駆られたその時、洞窟が完全な闇に落ちた。 「?!」 壁面に設えられているアルススの灯が一斉に消えたのだ。 その赤い、ほのかな光は、ある時には忘れてしまうくらい自然だが、消えると途端に意義が明らかになる。 ハンは足元さえ分からなくなって、あっという間に均衡を失い、気が付いたら地面に思い切り突っ込んでいた。 全身に痛みが走り、異常な負荷を掛けられて関節が悲鳴を上げる。掌と顔を擦り、それが闇の中で、別の生き物のように辛く痛んだ。 イラカの身体も手放してしまう。 「あ……」 慌てて手探りで辺りを探し、身体のどこかを掴んだその時、ぼうと、闇の中に赤い花模様が浮かび上がった。 黥だ。 ――再び。イラカがそれとつながったことが分かり、血の気が引いた。 彼自身だ! 目的は! 青ざめながら彼の身体をかき寄せ、再び走り出そうとする。 だが、一度挫かれた体がもううまく動かない。人ひとりの身体は重い。まして完全に自失しているものは。 ハンはもはや海に溺れているような気がした。 助けられない。と思った。 ――ああ。何が起きているのかまるで分からない。 ただ、闇の中で思い知らされているのは、自分が完璧に無力だと言うこと。圧倒的な力によって、踏みにじられようとしていることだ。 その絶望は、幼い『彼』の味わったものに、ほんの少しだけ、似ていたかもしれない。 突如、目もくらむばかりの光の弾が頭の上を唸りを立てて通り過ぎ、彼の背後に、炸裂した。 昼間のように辺りが明るくなって、その瞬間ハンの目は洞窟の小石の一つ一つまでくっきりと見た。 うわあという叫び声は轟音にかき消されて、再び地面に顔面を擦りつける羽目になる。 静かになった。 冷たい、湿った土の上で息をしていたら、やがて、周囲の明かりが戻ってきた。 まるで悪夢から覚めるように顔を上げると、そこに、一人の男が立っていた。 ――多分、同じように彼を、見上げた少年もいたことだろう。彼が介入し制圧していった戦場で。 そしてその子はきっと、今のハンと同じように、彼に神性や、英雄性を、見ただろう。 初めて彼は、クラレイ・ファル・クローヴィスという男に、心を鷲掴みにされた。 そしてその後ろから、かけがえのない声が響くのを聞いた。 「――ハンさん!!」 照明の復活した第一神階。ソラは探し求めていた姿を見つけて駆け寄った。 そこにハン・リ・ルクスがいたことは全くの予想外だったが、彼がイラカを助けようとしていることはひと目で見て取った。 なんとか立ち上がった彼と一緒に、気を失ったイラカの身体を引きずり、奥まで下がる。 三人の学徒を守るようにクローヴィスは前に立ち、次第に近づいてくるそれを、悠然と待ち受けた。 離れたところで、イラカの身体を支えながら、ソラはそれを見た。見ても見ても見きれないと分かっていながら、もどかしく見つめた。 シギヤと一緒で、大きいとも小さいとも言えなかった。 だが、シギヤには感じない、はっきりとした熱を感じた。それに――意志があるような気がした。それは変な感覚だった。 ハンが戸惑ったように、神に人間に理解できる意志は普通ないからだ。神にぶつかってもそこにあるのは永遠の距離だけだ。そしてそれが当たり前だ。 なのにそこには、皮膚に近い、何かがあった。 生臭く、生々しかった。気持ち悪いと言ってもいい。 「――これ以上の供物はお断りする。アルスス」 クローヴィスの冷めた声が、洞窟に響く。 「なるほど、そのガキが死んだなら、また俺に疑いは向くだろうが」 ソラはあっ、と思った。夜間外出禁止令が出ているのだ。学内に残っている人間はほとんどいない。その上、第一神階に入ることのできる人間は限られている。 アルススはまた、彼に罪悪感と疑惑を負わせ、機械の部品としての彼を延命しようとしたのだ。 「……あ、アルススですか?! あれが?!」 傷だらけのハンの掠れた問いかけにソラは無言で幾度も頷く。 「……クローヴィス……」 二人の間に呟きが漏れた。見ると、イラカが薄目を開いて、彼の英雄の後姿を、見つめていた。 「あ……」 「イラカ。しっかりして。自分を捧げようなんて考えないで! あの人を追い詰めるだけよ!」 「――俺はただ……」 ソラはぎょっとした。彼の鼻から、つうと鮮血が垂れて、唇を縦断していく。 「あの人に、近づきたくて……」 その言葉を聞いて、ソラは身を絞るようにして思った。最悪だ。と アガタも、そんなことを思ったのかもしれない。 ひたむきな、一方通行の、ただの、よくある、純粋な憧れの気持ちじゃないか。 そんなものがこうやって文字通り骨の髄まで利用され、利用され、利用され尽くされるなんて最悪だ。 間違いなくこれは学問が生み出した景色の中でも最低最悪の眺めの一つだ。 「……でも……、拒否された……」 「え?」 「見えた……。彼が、手を上げて……、俺をここへはじき返した……。あの人は……、受け取らなかった……」 イラカの頬を涙が伝い、血と混ざって、顎から空へと滴り落ちた。 三人の学徒は、互いに支え合いながら、息を詰めて、神と対峙するクローヴィスを見つめていた。 「……お詫びする。我が神アルスス」 クローヴィスは、三十二年前、自分が起こした神に向かって言った。 普通、神にほとんどの人語は通じないが、彼はまるで父親に話しかけるように、頓着なく呼びかけた。 「私の欲望のためにあなたの眠りを覚ましてしまった」 不思議な、声のようなさざ波が、あたりの空気を震わした。 それは言葉ではないけれど理解できる何かの波動として人に届いた。 三人の耳目も釘付けになる。 「私の欲望がどれほど正しいものであっても、それで世界を汚すべきではなかった。……アガタに会った時、自分は、本当は自分がどう生きるべきだったか、初めて分かった気がした。 あなたには分からない話だ。 あなたは純粋だ。あなたは原理だけだ。だから決して理解できない話をして申し訳ない。希望がかなわないこと。永久にかなわないまま終わること。それが、一つの幸福で有り得るなどと言ってもあなたには分からない。過去の人間達が、どうしてあなたを封じたか、あなたには分からない。彼らが何故あなたを捨てるという選択をしたか、あなたには分からない。分からないことをして、本当に済まなく思う。 だが――。あなたの恐ろしさに気付いた以上、何もしないで死ぬことは出来ない。私はこれをもって、自分の欲望を、この世界から完全に滅ぼすつもりだ。アガタの呉れた未来を全て、このために使う」 クローヴィスの全身の黥が光り始めた。 そして凄まじい熱量がその周囲に募っていくのが分かる。 神階のためか。あるいは、外部であっても、分かるほどの量なのかもしれない。 まぶしい。そして、熱い。空気が膨らむ。 「く、クローヴィス……!」 イラカが信じられないようにその名を口にした次の瞬間。 凄まじい爆発が起きて神階が震動した。 三人は吹き飛ばされて地面に転がり、再び洞窟は闇に落ちた。 数秒で震動が収まり、次に、光が戻って来る。 うねりを作って舞う土ぼこりを透かして、懸命に前を伺ったソラは、クローヴィスの前に立ちふさがっていたそれが、明らかに後退したのを見た。 クローヴィスは剣を抜いた。あれほどの力を使えば著しく消耗しているはずだが、その素振りはかけらも見せなかった。 「――憐れな神よ。あなたはこの変換さえ拒めない。あなたは原理だから。ただ、時間と熱量の変換器に過ぎないから。我々があなたを使いさえしなければ、知りさえしなければ、この世界にいる必要さえない。実に実に勝手なれど、いざ寝所に、戻り給え」 その時。それが口を開いた。 いや、そんなはずはないが。 舞い散る砂埃が光の筋を描いて、少なくともソラには、そう見えたのだ。 それの咆哮と共に、クローヴィスの全身の黥が発光した。 少なくとも五か所で火花が散り、髪飾りが飛び、彼の身体が吹き飛び、焼け焦げ、宙で回転し、地面に落下する。 「!!」 三人は心臓が止まるかと思った。 一瞬で体中を焼かれたクローヴィスは、地面の上で、一度、僅かに首をもたげ、また下ろした。 何が起きたかソラには分かる。 ガニアとポリネに起きたことが、彼にもなされたのだ。 神は遂にクローヴィスを見切り、黥を通じて、焼いたのだ。 人間の焼ける匂いが三人のところにも漂ってきた。ところが。 吐息のような息の音がしたかと思うと、腕が上がり、それが、持っていた剣を地面に突き立て、黒焦げのクローヴィスは、立ち上がった。 もうその髪の毛は焼き切れ、見える限りの皮膚は焼け焦げ、垂れ下がって、赤みが覗いているところもあった。 ハンが口元を抑え、声にならない声を上げる。 「そう――。そうだ。……アルススの力に依存する俺が……、アルススの力を使ってあなたを倒すなどと……、笑止の極みだ。……けれども。終わらせて御覧じる。あなたには消えていただく。他の神の、力を借りてでも」 「そうだとも」 真後ろで声がした。 三人がそれぞれの場所で三人とも振り向く。 ソラが息を吸い込んだ時、火傷した喉の粘膜が痛んだ。 銀鈴博士カイデン・ライカス・ネコが、闇の中に、丸い腹を前に背筋を伸ばし、腰の後ろに両の拳を宛てて、それは大学者の風格で、立っていた。 (つづく) |
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