「本当に行くんですか」
 もう荷物を詰めている段階の人間にそんなことを言って。
 時折、ハンは失笑ものである。
 戸口近くに立って近寄っても来ないのは、学生時代を彷彿とさせる。
「怒ってらっしゃいますか。黙っていたことを」
 返事をしないと心配そうになる。
 返事の代わりに笑っておいた。
 もうそんなことはどうでもいい。
 あなたが恥じるならば、恥じればいい。
「職務を放棄するわけにはいきません」
 眼鏡を指で押し上げる。
 立派な体に繊細な眼鏡というこの取り合わせで彼は大人気なのだ。
「ソラさんだって、責任はないんですか。これまでしていた仕事があるでしょう」
「マコトが引き受けてくれる。賢い子で、この三日でほぼ飲み込んだから」
 返事をし兼ねているハンに付け加える。
「フルカも許してくれた」
 ハンは身を捻じって悲鳴のような愚痴を吐いた。
 そりゃ、フルカさんは許すでしょうよ――。
 その間にもソラは忙しく室内を飛び回って、まるで何年も前から訓練されてきたのだと言わんばかりの速度で準備を整えていく。
 それから無言の十分が経過する頃には、ハンはいっそもう恨めしそうな表情になっていた。作業のために髪の毛を軽くまとめて外に出ているソラの耳に、こんなため息が届く。
「こうなることは分かってたんだ。だから嫌だったのに」
 ソラは荷物袋の紐をきゅっと強く引き締め、それを、肩の上に担いだ。振り向く。
 最後の抵抗というのでもあるまいが、ハンは扉の木枠に自分の体をぴったりと合わせて立ったまま、ソラと相対する。
 ソラの方は、自分の体積の一・八倍くらいはありそうな彼を、こちらはいっそもう面倒くさいと言いたげな表情で見上げた。
 こういう時、男は図体がでかいだけの荷物になると、いつも思う。
 しかもこちらから聞いてやらなければ、動けないのだ。何かの呪いか。
「ハンさんはどうするの?」
「――僕は、仕事がありますから。すぐには行けません。行っても、そんな、何日もいられません」
「ああ。そうですよね。じゃあ、向こうで会えたらいいですね」
「ナライのことも、一旦引き受けたものを、都合が悪くなったからと言って、放り出すわけにはいきませんから」
 これは、彼女を罪悪感で刺そうとする行為だった。
 動き出そうとしたソラの足も止まるが、ハンの息も詰まる。
 彼らの人生に於いて初めてのことだった。彼が友人であるソラを非難し、責めようとするのは。
 はっきりと冷え込み緊張した空気が漂う。ソラは目を上げ、言った。
「忙しくて、来られないなら、ハンさん。はっきり言ってください。向こうにもそう伝えておきます」


 ソラは荷物を持っていないほうの手を前に伸ばし、完全にハンの身体を脇に押しのけて部屋から出た。
 フルカの手配してくれた車はまだ着いていないだろうが、こんな場所では待てないではないか?
 ソラの心は穏やかだったか。
 鋼のようだったか。
 無生物的で金属のようで冷たかったか。
 そんなことはない。
 心臓は震え、首筋は寒くなって嫌な汗がじわりと額を濡らしていた。
 あの小さな子供を。虐待された小さな子供を置いていくのか。自分のために。
 そんな非道なことをして、ハンに嫌われて、ひょっとしたらこれでもう彼との友情は終わりかもしれないぞ。
 それだけじゃない。町長の命令も無視して出ていく。このことが知れればフルカにもまた迷惑をかけるだろう。父の顔にも泥が跳ねる。あのうるさい秘書がいるのだ。
 それでも、止まらないのかこの足は。
 自分が出て行っても、誰にとってもなんの利益もないのに。
 お前はなんて自分勝手なのだろう。
 結局、お前はそういうわがままな歪んだ人間なんだ。


 それでも止まらないのはなぜだろうか。
 ずっと怖くて震えていたのに。


 ソラは玄関口で、待っていたフルカとマコトに抱擁と見送りを受け、早めにやって来た二頭立ての車に乗ってまずは中部の町チシェフへと向かうために出発した。
 この雇いの車でまず街道筋へ出て、そこから長距離移動の乗合を継いで二日ほどの旅である。
 思えば、ソラは学院と郷里を往復する以外の旅はしたことがないし、単独でこんな大金を持って移動するのも初めてだった。旅費のためにほぼ全財産を持ち歩いていたのだ。緊張した。
 同じ乗合で長旅をする者はほとんど男達だ。女一人だからと見くびられないように、かつての学院でやっていたのと同じ、常に背筋を伸ばし、殺気をみなぎらせて、歩くときは足早に歩いた。
 疲れた。
 何年も東部の、女ばかりの世界に暮らしてきたソラに、この落差は負担だった。夜もよく寝られなかった。夢の中に代わる代わる人が出て来て彼女を責めた。
 それでも、後悔だけはなかった。
 何もかも恐ろしくて、萎縮し、混乱していたのに、彼女はとうとうチシェフへたどり着いて、イラカ曰く『同志』の運営する書店へ滑り込み、用意された学習室で荷物袋を離し、積まれた仮綴じ本のタリン紙の表面を、指でついに撫ぜた。
 紙の匂い。埃の匂い。インクの匂い。積み重なる知の気配。
 水を持ってきた書店の主人(女性だった)に、顔を振り向けるとソラは言った。まだ、帽子もかぶったままだったのだが。
「勉強したい」
 時刻は夕方で、室内には小さな灯りがともっていた。それが彼女の眼に映って光った。
「私、勉強したい。今すぐ」
 それから彼女は外套の前をほどきにかかった。




 そこから、まるで誰かに命令されたみたいに、ソラは勉強をして、寝ることや食べることも忘れがちになった。
 読む本はいくらでもあった。――ほんとうにいくらでもあった。ソラが東部にいる間、彼女以外の無数の学者たちが粛々と学問を前に推し進めていた。
 それは新しい学問だった。アルススの頓挫を経て実験主義に立ち返りながら、逆襲的な古典や伝統の堅持ではなく、南部遺跡の精査へと舵を切ることで新しい場所へ向かおうとしていた。
 南部遺跡が示すのは、これまで誰も見たことのない世界だった。夢のような可能性と伸びしろに満ちた世界だった。
 その全てを追求したならば、現世に及ぼす影響の激しさが予見され、恐ろしいくらいだ。
 それでも学者たちはその研究を躊躇わず、推し進めていた。
 何もかも暴いていた。
 学問は坂を下って行く石だからだ。
 誰かにとって都合の悪いこと、受け入れがたいことさえあけすけにして、しかもその結果を大勢の人間達で繰り返し繰り返し確認する。
 それによって、問答無用で何かを変えて行ってしまう。
 今もそうだ。読むことは、書き換えられることだ。
 元には戻らない。
 ソラは怖かった。怖かったけれど、たまらない気持でもあった。一冊終わればまた一冊。とめどなく進んで行った。
 朝起きて本を手に取り、昼には書店主かその仲間から講義・解説を聞き、夜も本を読んで寝床まで持って行った。時折、内容に感動して泣くこともあった。研究それ自体に泣くのである。
 自分でもどうかしているのが分かる。二日目の晩には呆れた女主人から、寝ろ、水浴しろ、食べろ! と怒られてしまった。
 だがその甲斐あって、四日が過ぎるころには、必要とされる書籍はすべて読み切り、女主人からの口頭試問も合格して再度旅立った。今度こそ、ンマロに向けてだ。
 七年ぶり、だ。
 一体、どんなふうになっているだろう。
 女主人によれば、ンマロ郊外に学者達が集まった学者村が出来ているらしい。彼らの目的は、学院の遺物の保護。ンマロの汚染された土地や水の研究。そして、健康被害の研究と治癒だ。
 四日間の学習を終えたソラには分かっていた。
 自分にできることはあまりにも少ないと。
 彼女は、学院の崩壊以来意欲を失くし、生活の中でシギヤへの祈祷さえ疎かにしていた。知識は詰め込みであり、経験は不足し、神への実績も乏しい。
 年ばかり食っているがこれではそこらの学生――いや、学生にも後れて、趣味人の範囲でしかない。
 行っても、迷惑をかけるだけかもしれない。
 それを思うと、赤面するし恥で歯の奥が震える。
 それでも。行きたい。
 何かしたい。
 それこそ、その学者村の掃除や管理、経理でも構わない。学問の傍にいたい。
 だって。楽しい。
 ソラは、夜を進む乗合の車の中で一人体を曲げた。
 口から何か飛び出しそう。
 だって学問は、楽しい。こんなに怖くて悪いのに、
 純粋に楽しい。
 面白いんだもの……!!


 なんというすごろくか。ふりだしにもどる。
 ソラは食べ物の匂いのする、人の詰まった馬車の片隅で、子供みたいにぶるぶると震えた。
 それは夕暮れの小学校で、初めて仮綴じ本を手にして、震えた、あの時と同じ震えだった。






 チシェフからンマロまで、二日半かかった。
 それでもかなり順調に着いたほうだ。
 豪華絢爛で重たいほどのンマロの街並みに相変わらずと目を回しながら、ソラは郊外へと向かった。
 町の外側へ進むにつれ、辺りの様子が落ち着いてきて、家屋も庶民的になってくる。やがて城壁があり、その外へ出ると、北に明らかに目立つ新しい集落があった。
 あれか。
 長い間座っていた足腰をほぐすためもあって、ソラはそこまで歩いて行った。
 書店からも連絡が行っていたらしく、ソラはすぐに迎え入れられて、試験を受けた。仕事を的確に割り振るためには数値がいるんだと『村長』が言った。
 試験の結果、彼女は運営班に預けられて、業務の手伝いをすることになった。書類作成や経理、一般社会での生活の経験が買われたのである。
「助かるよ。時候の挨拶ひとつまともに書けない奴が多くてね」と、運営班の『班長』は笑う。彼は茶色の髪で、三十半ばに見え、頬には黥を焼いた痕があった。
「よろしく頼むよ。後で部屋にも案内する。相部屋だけど」
「全体としては、今はどういう状態ですか。イラカからある程度聞いてはいるんですが」
「ああ、そうだね。まずここではその名前は禁止だ。彼は今、向こう側に入って向こうの仲間のふりをしてるから、君がイラカから話を聞いてるのはおかしい。敵対者としての発言ならいいよ。でもまあ、余計なことは言わないほうが望ましいね」
「分かりました」
「ここに地図があるんだが――」
 班長は立ち上がって壁に貼られた地図の一部を指して言った。
「連中はこの辺りにちょうど俺達みたいな集落を立ててる。もっと小規模だがね」
 指の位置は、崩壊した学院跡を越してやや行ったところだ。海の上に見えた。
「遠浅とは言え、海じゃないですか?」
「うん。行ってみれば分かるが、あの辺りは現在かなり潮位が下がっている。ミハク学者の研究によれば、やはり事故の影響で地形が変わり、潮の流れが変化したらしい。中でも土地の高めなところに一生懸命土と石を詰めて地盤を作って、そこに家を作って住んでいる。汚染された海の、真ん中にだ。
 もともと、住むところのなくなったアルスス学徒がそこに追い詰められたんだ。そこに今、三十人弱暮らしている。苦境の中で、危険な思考に走りがちになっている。
 俺達は基本的には彼らに同情的だ。それは向こうも分かっている。彼らも好きこのんで孤立したいわけじゃない。揺れている。だから話し合いにはまだ応じている。俺達としてはアルスス復活をしても問題は解決するどころか拡大するという証拠をできるだけ集めて説得するしかない。今は全員がそのために注力している段階だ。分かったかな。
 君はとりあえず運営に配属されたが、シギヤ学の知識が必要になった時などは他班に呼び出されることもあるだろう。俺もちょくちょく呼ばれる。情報収集と勉学は欠かさないでくれ」
 ソラは拳を握り、これまで言ったこともないような台詞を言った。
「はい。任せて下さい」




 ソラが着いてから五日後の夜。ゴンクールたちとの会合があった。会合はいつも、人目を避けて夜に行われるらしかった。
 参加したい人間は全員参加できる仕組みになっていた。とは言えもちろん、基本的に壁際に立って黙って見ているだけだが。
 学者村側にしても、さして資金はない。粗末な木造の部屋の狭さと、蝋燭の明かりの乏しい光量に我慢しながらの話し合いだ。
 東部ほどではないにせよ、ンマロも夜はそれなりに冷え込む。そのせいか、訪問者たちはみな疲れて青白い顔をしていた。
 女性もいる。見覚えのない顔だったが、やはり体中に入れ墨が残っている。他の学院から流れて来たのかもしれない。
 話し合いは、学者村側からの状況の確認と、研究の途中経過の報告が主だった。研究結果をまとめた巻物を渡すのはいいとして、こちら側から食料や水も提供しているのを見てソラは驚いた。
 とにかく村側としては、精一杯、自分たちは敵ではないということを示そうとしているのだろう。
 ゴンクールもそれを受け取っていた。なんとも複雑な、複雑な顔だったが。
 学者同士、ぎりぎり友好的な状態は保っているが、合意に至る雰囲気ではなかった。理を尽くしての説得に、耳は貸しているが気持ちは落ちたまま、という感じだ。
 会話が停滞しかけた頃、髪飾りの音と共に派手な男が遅れてやってきた。イラカだ。
「すまん、遅れた! どんな感じだ?」
 椅子の上で身を捻じって彼を見た時の、ゴンクールのホッとした表情は印象的だった。いや、向こうの出席者の全員が息をついたのが分かる。
 イラカの方は、ゴンクールの横にどかっと腰を下ろすと潰れていないほうの眼であたりをぐるっと見回し、壁に立つソラに気付くや、唇の端を歪めて音もなく笑った。



(つづく)
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