「あなた方が、連中と連絡を取っているのは知っています。先だっても食料を与えたことを知っていますよ。そんなことをしたら連中はいつまでもあそこに居ついたままではありませんか! ンマロ市民達は彼らに出て行ってもらいたいと望んでいるのです。小売商組合では彼らに水も食料も売らないようにしているのですから、あなた方にそんなことをされてはこちらの計画が台無しです!
 あなた方はいい方々だから、こんな物言いはしたくない。でもなぜ、あんな連中を庇うのですか? あの人達は、狂人です。呪われています。会って話せば一瞬で分かる! 顔を見れば分かります! 私は子供を二人育てた母親です。だから分かるんです。どいつもこいつも、生まれつき嘘つきで、卑劣で、歪んでいて、当たり前の人間性をかけらも持っていないと分かる顔をしています!
 人間っていうものは大抵、顔を見ればどんな性根か分かりますよ。赤ん坊を見てごらんなさい。歪んだ性格の赤ん坊は歪んだ暗い顔をしているものです。ああまともに育たないなと思っていたら、やっぱりそうなります。
 反論は無用です。私達には分かっているのだから。誰がまともな善人で、誰が悪人であるのか。あなた方は分からないとおっしゃるんでしょ。だからこうして教えて差し上げているんです。あなた達は害虫に餌をやっているんですよ。それでみんなが迷惑している。ひどい間違いを犯していますよ! 少しは私たち『普通の市民』の判断を尊重したらどうなんですか!!」




「――私は学問が好きだから学問をするのです」
 中年の女性議員が言いたいことだけ言ってぷりぷりしながら帰って行った後、気まずい沈黙の残る事務室で、学者村の『村長』はあたかもまだ話し合いが続いているかのように、空の椅子に向けて口を開いた。その様を、運営班をはじめとする六つの班の『班長』が眺める。
「でもどうしても学問をする『目的』を求められたならば、こう言うでしょうな。あなたのような人間に対抗するためにするのだと」
「うちの母親とそっくり同じ物言い」
 げんばりした様子で、物資班の班長がため息を吐く。
「あれで議員とは恐れ入る。うちの親と違って、一通りの教育を受けてるはずなのに」
「さあ、彼女が支援者向けに点数を稼いでいる間に、こちらは反証を用意するとしよう。思考停止や排外主義以外にも解決の道はあるのだと証明しよう」
「失敗するかもしれませんけどね」
 運営班の班長は髭面だが気が小さく心配性だ。そんな彼を村長は諭す。
「思考停止や排外主義も失敗するかもしれんのだよ」
「――そうよ」
 眼鏡の研究班長が頷く横で村長は椅子から立ち上がり、運営班長の肩をポンと叩いた。
「我々学者は、繰り返し反復して観察される事実を否定しない。また、実験する前から結果を決めてかかることは決してしない。彼らがどんな顔つきをしていようと、どんな出で立ちをしていようと、彼らはいつも人間であり、虫ではなかった。すでに我々は彼らの苦悩を知っている。彼らの葛藤を知っている。だから人間として妥当な解決方法を選択するのだ。どれほど面倒であっても。
 ――連絡班」
「はい」
「夜になったらイラカに連絡をつけてくれ。予定に変更なし。行動を開始する」





 村のまとめ役たちが渋い会見に耐え忍んでいたちょうどその頃、ソラとハンの姿はンマロの中心部にあった。
 運営班長に言われて、支援してくれている大商人の家に収支報告書を提出に来たのだ。
 いつもは班長が来るのだが、急に議員が来る、となったために代理が必要になった。幸い、ソラはその家を知っていた。
「え? ご存じなんですか? どうして?」
 ハンは驚くが、ソラだって驚いたのだ。村の運営費の八割近くを負担しているその商家は、あの、運河に面したきらめく玄関口を持っていた家だったのだ。
 かつてネコに命じられて彼女はその写しを採りに通った。その前に挨拶もしている。当然場所も分かる。それで今回は、懐かしさのあまり赤面するソラが代行することになった。
 村から町境を通過し、二人で昼のンマロを歩く。
 最も栄えている中央広場を縦断した。
 装飾を頂いて広場中央の立像を囲む大店。立ち並ぶ露天商。雑踏を漂う菓子の焦げる匂い。肉の匂い。斬新な服を着こなして行き交う伊達女、伊達男たち。荷車。子ども。犬。憲兵。人。人。人。
 これぞンマロだ。
 二人ともほとんど陶然となって、吸う息も吐く息も懐かしいという言葉以外にない。
「相変わらず賑やかですね……。うるさいくらい。でも、なんだか安心しました」
「そうですね。僕は田舎が好きですけど、ここがさびれるのは見たくないな。――でも、見て下さい、ソラさん。前より物乞いが増えてませんか」
「……」
「貿易はともかく、近隣の農家や漁村は被害甚大だと聞いています。食うに困った難民もかなり流入しているとか」
 ソラはその言葉通り通り、ぼろを着て随所に蹲る人影を確認し、無言のまま数度頷いた。ハンが呟く。
「――やっぱり、駄目ですね。『復活』は」
 やがて二人は、中央広場に近い、大きな商館が立ち並ぶ通りに到る。建物の向こうは運河で、積み込み作業をしている人々の掛け声が遠く聞こえた。
 やはり目的の商家は、ソラがかつて通っていたあの家だった。三階建ての大きな館だ。こちら側は裏口扱いで地味だが、玄関口である運河側はとても派手に作ってある。
 取次に出た使用人は若い男性だったが、その後ろを通りがかった五十代くらいの女性が、ソラを見るなり「あっ?」と表情を変える。
「あなた、前にうちに来てた学生さんじゃない? ネコ先生のお弟子さんの」
 言葉に詰まったソラがただ顔を赤くしていると、すぐ前までやってきて顔を覗き込み、「まあ、やっぱり!」と手を取る。
「覚えてるかしら! 私、ずっとこのお屋敷に仕えてるの。あなたにもお茶をお出ししたことがあるわよ。まあすっかり大人の女性になられて! 見違えたわ!」
「メイド長」
 と、使用人が彼女を呼ぶ。
「あなたはとても熱心な学生さんだったわね。事故の後どうしているかと心配したわ。ネコ先生は、亡くられたんだものね」
「あ――はい」
 頭の中に、どっと記憶があふれて来て今がいつなのか分からなくなりそうになる。
 だってそうじゃないか。
 隣にハンがいて、ンマロのこんなに立派な建物の中で。ソラは歓迎され、手を取られ、よく知るネコの話をしている。
 まるで何事も起きなかったよう。
 東部の生活などなかったようだ。
「そういえば、今日は定期連絡の日なのね。今、ご主人様がいらっしゃるわ。どうぞどうぞ。いつも応接間よ。本当に、元気な姿が見られて嬉しいわ。――お茶をお運びして」
 女性は手ずから彼女らを応接間に案内してくれた。彼女が言ったようにすぐに主人が現れ、ほどなくお茶が給仕された。
 技能工芸学院の内装とはまた違った意味で恐ろしく金がかかった応接間でこんな段取りのよい対応をされ、ソラもハンも正直恐縮する。
 が、学生時代のように取り乱しはしなかった。驚きはしたものの落ち着いて自分を保つことが出来た。ソラもハンも経験を積んだ。年を取るということは、ありがたいことである。
 主人は、口ひげを蓄えてはいたものの、多分ソラ達より五、六歳上なだけの青年だった。予想外に若い。全身よく手入れされていて品がよく、高級な毛織物も嫌味でなくまったくよく似合った。
 彼はソラの提出した収支報告書にすらすらと目を通すと、机に戻して「結構です」と頷いた。
「他に何か連絡事項などはありませんか? 困っていらっしゃることなどは?」
「はい。『近いうちに行動がある』と伝えてほしいと、村長から言付かっております」
 やっとのことで思い出してソラは言った。文章にはできないから、口で伝えてくれと言われていたのだ。
「なるほど『行動』ですか。分かりました。――ときに、あなたは昔うちにいらしてましたね? 船着き場の壁の写生をされてたでしょう?」
 これにはソラも一瞬返事ができなかった。
 確かにソラは館に出入りする際、ネコの指示で使用人や奥方には挨拶をした。が、館の主人のように忙しい相手にまで顔を見せた記憶はなかったのだが。先ほどの女性が言ったのか?
 ソラが戸惑って、口ごもるのを見て、主人は笑った。そして補足する。
 当時、自分はまだ家督を受け継ぐ前で、結婚もする前だった。ネコ先生とは父親を通じて知り合いで、尊敬していた。ある日、彼の弟子の女の子が写生をしに来ていると使用人らから聞いて、様子を見に下りて行った。
「そしたらね」
 若主人はくすくす笑って、指輪がたくさんはまった手で拳を握り鼻の下を押さえた。
「いくら声をかけても、何度挨拶しても、――あなたはまったく、なんの反応もしてくれませんでした。耳が聞こえないのかと思うくらい。それで諦めてすごすご退散したんですよ。うふふふ」
 ソラは頭に岩ががーんとぶつかったような気がした。赤くなるやら青くなるやらだ。
 ――まったく記憶にない。
 まったく、完全に、覚えがない。
 おそらく作業に夢中で、気付かなかったのだ。
「……ほ、本当ですか。すみません。とんだ失礼をしました……」
 さすがのハンも苦笑いして俯くほかない。若主人は鷹揚に笑った。
「いえいえ。それでたくさんだったんですよ。当時の僕はうぬぼれの強い大馬鹿もので、若い女の子と聞いて不真面目な気持ちで下りて行ったんでね。完全に無視されてびっくりはしましたが、同時に、感心したものです。学問と言うのは、真剣なものなんだなとね。ネコ先生も立派な方でした。あの方との交流がなければ、私も父も学者に対して考え方が違ったでしょう。この街の商人がよくやるように、馬鹿にする部分もあったでしょうね。学者村の方々には、ネコ先生やあなたと似た真剣さを感じました。それで協力させて頂いているのです」
「――ありがとうございます」
「それで、うちの壁からの遺跡の復元は無事完成したのですか?」
「あ、はい。されています。今、村に原本がありまして、今後、他の先生の仕事と併せて出版される予定があるようです。――でも、もし可能なら、それまでに、もう一度復元をやりたいですね」
 主人もハンも驚いた顔をする。
「もう一度ですか? 何故です。何か不備でも?」
「いえ、そういうわけではありません。でも学問は、反復検証が基本だからです。今、全工程を行った人はネコ先生しかいません。せめてもう二人くらい、同じ目的で作業を行って結果を突き合わせるべきだと思います。もちろん結果はネコ先生の行った通りだとは思います。でも、すべきです。他の仕事もすべて検証すべきです。
 先生は偉大な学者でしたが、特に後半はたった一人で色んなことを行われていました。人は誰でも間違います。先生にも手落ちや誤りがなかったとは言い切れません。それをはっきりさせるためには、検証が必要です。その検証に耐え抜いたものだけが、真に先生の功績となります。それはもちろん大でしょう。そのためにも、やはり検証は行わなければなりません。
 ここに来てはっきり分かったのですが、この仕事にはどうやら誰もまだ手をつけていないようなのです。喫緊の実験課題が他に山ほどありますから。私は弟子として、それが自分に課せられた仕事のような気がしています」
 主人は黒い目をしていた。癖らしく、口の前に拳を宛てたまま、面白そうな眼差しでソラを見た。それから、ゆっくりと口を開く。
「今ひとたび思いますが、学問とは、真剣なものですね。あなたは――、ネコ先生を越えようと言うのですね」
 そう言われるとソラはちょっと黙った。だが結局、こう答える。大胆にも。
「先生へのご恩返しのつもりです」
 商家の主人はしばらく彼女を見ていたが、やがてにこっと微笑んで会話を終わりにした。
「どうぞいつでもお越しください。当家は協力を惜しみません。そうだ、よかったらご覧になって帰られたらどうですか」



 当主の親切に甘えて、ソラとハンは帰りがけに船着き場の壁面を見せてもらった。
 太陽は南中を過ぎて西へ傾き始めた頃で、船着き場にはもう舟はなく、運河では波が白く照り映えてきらめきながら揺れていた。
 最初に来た時も、確か午後だった。
 まるで何事も起こらなかったように、それはそこにあった。何一つ変わることなく、ソラを待っていた。
 潮の匂い。僅かな波の音の中で、彼女は壁に埋め込まれた無数の古代のかけらを眺めた。
 頭に当主の言葉が蘇って来て視界を揺らす。
『あなたはネコ先生を越えようというのですね』
『ご恩返しのつもりです』
 ――なんという言い草!


 千度も検証を繰り返して、前へ。前へ。
 坂を転がる石のように。
 倫理も恩も義理も歯止めもなしにそれは進む。
 だからそれは恐ろしい。
 学問は恐ろしい技能だ。不遜な業だ。それでソラは一度捨てた。
 けれど。
 ひとたび、どのように事実を掴めばいいか? と問われたならば――答えはやっぱりそれなのだ。
 それしかないのだ。
 この目まぐるしく心蕩ける半月で、もう結論は出ていた。
 学問は、このあやふやな世界で、脆弱な人間が真実に迫るためのたった一つの方法であると。
 ソラは、もう一度、それを始めたかった。
 世界を精確に記録し、模型を作り、それを組み合わせ、謎を解きたかった。適切な言葉で世界に問いかけ世界の答えを受け取りたい。それを握りたい。何千人の赤の他人にも確認してもらいたい。
 いつか自分は、学問の危険さに怖気づき、学問に向いていないと言われた。自分でもそう思った。今も怖い。
 だが、それでも学問は、私にとってなくてはならないものだった。
 これがなかったら私は、私として生きている意味がない。私でなくてもよくなってしまう。
 学問は人生の問題を解決しない。そういう期待を裏切る。事故にへこたれた自分は東部になじもうとするあまり、これを捨てなければ逆に生きていけないと思った。
 でもそれは、誤りだった。自分から逃げていただけだ。
 今、外にある学問がどのようなものであろうが、自分は自分の中の学問を救えばよかったのだ。
 思い返してみればいい。七年、自分は、いかに無意味な自己否定を繰り返していたことか。どれほどの時間を無駄にしたか。
 自分の仕事はずっとこの街で、誰の手にも触れられずに待っていたというのに。
 ネコ先生なら言うだろう。

 ――やめろやめろ! 田舎に帰りたまえ。狡猾な田舎者どもとよろしくやって親兄弟親類孫に囲まれてぼんやりしている間に一生を終えてみんなに褒め讃えてもらえ!

 そして結局いつも私は先生の言うことを聞かない。
 罵られても。海中に落とされても。私の中には、学問への志向があって、それは消えはしない。それは代替不可能だ。もう誤魔化すのはやめよう。
 自分の学問はここから始まって、ずっと自分を待っていたのだ。
 いつか必ず私は、ここへ戻って来る。
 そして作業の続きをしよう。ネコ先生の、教えの通りに。





 ハンは村に戻るまで何も言わずに、静かに彼女に付き添っていた。それでソラは十全に自分の感情を確認することが出来た。
 夕暮れ頃、村に帰るとみなが出かける準備をしていた。
 いよいよ向こうの拠点に乗り込むので、君たちも支度を急げと実働部隊の隊長に言われた。




(つづく)
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