04



 さすがに美容師ほどではないが、どう見ても慣れた手つきで、ぱちぱちと楽しそうにソラの髪を切る間に、ネコはこんな話をしてくれた。
「二年ほど前だったかな、ンマロの北広場でね、ある病院の患者達がのぼりを立て、訴えを行っていたのだ。
 毎年夏、ンマロは水神ミハクと町の『結婚』を祝う夏の大祝祭を行う。君はまだ見たことがないかね。それは豪勢で見事なものだ。
 吝嗇な商人の町もこの日ばかりは大盤振る舞い。祭りの後も数週間は海面に花びらが残っている。
 その祭りには、いろんな同業者組合が揃いの服を着て出席するんだが、他にも、いくつかの特定の病院の収容者達が集団で引き出される――不運にも神に憑かれて、器が壊れてしまった者達のことだ。毎年、彼らは決まった派手な衣装を着せられ、いわば祭りの残酷な余興として、人々の前に引き出される。足には逃亡防止に枷までつけてある。
 ただし、この参加のおかげで、院には莫大な寄付金も寄せられる。一概に善悪を論じ難い、昔からの伝統行事だと私は思うのだが、その広場に集まった患者達は、自分達はもうこんなことはしたくない、自分達を見世物にするのはやめてくれ。自分達を同じ人間扱いしてくれ。と訴えて、祭りへの強制参加をやめさせるために市民らの寄付と署名を集めていたのだ。そして、その中の一人が、私のところにも声をかけにやってきた。
 私は署名した。さっきも言ったが、簡単に結論が出せるような問題ではないと思うが、彼らが嫌でやめたいと言うのなら、やめたらいいと思ったのだ。ただ一つ、感心できないこともあった。患者達の、いでたちだ。
 彼らは、着崩れただらしない衣服を着て、髪はぼさぼさ。中に大きな頭皮の固まりをつけている者もあった。顔によだれの跡が残ったものもあった。つまり身だしなみを整えず、完全に、普段過ごしている通りの格好で、広場に出てきていたのだよ。
 なぜだ? どうして、その格好で、通りに出てきたのだ? ほんのちょっと気をつければ、髪の毛は直ったはずだ。顔も洗えばきれいになったはずだ。彼らに出来ないというのなら、中央でのぼりを持ち、寄付を受け付けている病院の看護師たちが、ほんのちょっと言ってやり、シャツのボタンを留めてやり、最後に肩周りをはたいて点検してやればよかっただけのことだ。
 なんだって署名や寄付だけでなく、そんな油断した、気のつかない、無作法な姿まで他人に容認させようとするのだ? 寝巻き姿で往来を歩く者はいない。何故彼らはそれでいいと思ったのか?
 私が言いたいのはね、彼らの主張云々ではない。広場へ出る時には、相応の格好をしなければならないということだ。家にいる時まで、どうこうしろとは言わない。彼らが常日頃、細かいことに構っていられないということも分かる。
 だがひとたび広場へ出て、しかも人々に、施しを要求するのではなく対等に何かを訴えたいと思うのならば、少なくとも外見に気をつけるのが筋だ。だって、そこは、自分の家ではないのだから。
 たったそれほどの配慮も出来ない人間達の主張に、どうして周りの人間達が耳を貸さねばならないのか? 客観性を投げ出し、自らはきわめて私的な感覚の内部に閉じこもりながら、道行く人々には公的な思考を迫り、公的な行動を要求するのだ。何故そのようにちぐはぐな訴えを行い、いたずらに人を、戸惑わせるのか?
 いろんな意見があるだろう。公共性の感覚は、人や地域によっても違う。だが、私はそういう意見だから、弟子にも従ってもらう。
 いいかね。公に、何かを訴えたいと思うなら――何かに対してはっきり抗いたいと思うこともまた訴えの一種だ。自分には魂があって、自分があって、それは大事なものなのだ、と表現するのもまた訴えだ。患者達のしていたことはそれだ――、きちんとした格好をしたまえ。
 流行りを追えというのではない。男の求める、扇情的な『女』の姿であれというのでもない。君の好きなように、所持金の許す範囲で、しかし、自分できちんとしていると思う格好で、道を歩き、人と相対したまえ。
 悪意を持って近づいて来る者には、全身で対抗するのだ。私はお前などに馬鹿にされる人間ではない。下がれ! と。
 一般に、東の子どもは、無防備に育てられるようだね。あちらには広場がないというし、村社会らしいから、感覚がこちらと違うのだろう。しかしそれにしても、わざと公私の境をぐちゃぐちゃにして、子らを今ある社会にうやむやに組み込んでしまおうという大人たちの意図が、見えなくもない――。
 私には娘が二人、息子が一人あるが、どの子にも同じことを言ってきた。家でどう過ごすかは自由だ。しかし、道を歩く時は背筋を伸ばし、視線を上げ、自分で最も美しいと思う姿で、自らを主張しながら歩きなさいと。そうしないことは怠慢で、人は普通、怠慢な人間に親切ではない」
 ネコは鋏を置いた。それから手鏡を取ってソラに渡した。
 それを顔の前に置いたソラは、思わず目を見張った。
 鏡の中には、顎と眉の線に沿ってきれいに髪を切り揃えられ、ひどく雰囲気の異なった自分が映っていた。
 まさか美しいとは言わない。だが、前よりは洗練されたし、都会的だった。
 ネコは満足そうに笑って、大きな手で彼女の両肩から髪を払い落としてくれた。
「ああ大儀だ。昔はよく子どもの髪を切ったもんだが、年だな。次はもう切らんよ。なんとかやりくりして、自前で散髪屋へ行きたまえ。
 もう一つ言っておく。生きることは、金と手間のかかることだ。それを嫌う人間は大人じゃない。少なくとも、主人公ではない。ここから始めねばならんとはねえ」
 やれやれといった態で言いながらも、ネコはなんだか、楽しそうだった。
 ソラは、彼の態度の向こう側に、うっすらと誰かの影を感じた。
 出来なかった教育、果たせなかった保護、そんな何かを取り戻すために、彼は自分を弟子にしたのかもしれないと思った。
 だが、それで十分だった。ソラは感謝した。彼の教えは不思議と不快ではなかった。自立した人間になる方法だったからだ。得体も知れず見も知らぬ男の、花嫁や愛人になれとそそのかす、恐怖の教えではなく。
 そうだ。彼女はもともと、自由で、知識豊かで、自立した、一人の人間になるために、はるばる工芸学院まで来たのだ。それは多分、彼のような人間だ。
 どうして初対面のソラをこれほど分かってくれるのか。親切にしてくれるのか。理由はひとまずどうでもいい。この人は、信頼できる人だ。師とすべき人だ。それが、ますます分かる。
 だからソラは丸くなった髪を下げて、深々と一礼した。
「どうか、よろしくお願いいたします」




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 彼の名前は、イラカと言った。
 イル・カフカス・イラカ。例の、一番初めにソラにからんだ男子生徒のことである。
 南部の出身で、かの地では珍しい金髪碧眼の持ち主だった。
 髪の毛は少し脱色するとクローヴィスにそっくりになった。男が髪をいじるなんて、という文化もあるが、彼はためらいなくそれを続けていたし、アルススへの帰依を示す黥も、顔だけではなく――クローヴィスを真似て、体の方々に入れていた。
 彼はためらわなかった。
 力こそすべてでしょう。と思っていた。
 そのすべてに直でつながる最新の技術を得るためにこの島へやってきたのだ。恐れることなど何もない。
 彼は齢十七にして、既に社会的成功を知っていた。集団の中でどのように振舞えば人からの尊敬を勝ち得、愛を勝ち得、一目置かれる存在になれるか、本能的にも経験的にもよく心得ていた。
 生まれつきの整った容貌と、恵まれた五体、そして明るく大胆な性格が、アルススのもたらす大きな力と反応して、この極めて魅力あふれる豪胆な青年を形作っていた。
 彼は繊細な、貴族風な趣味の人間ではなかった。時折、無作法で悪気なく残酷になった。
 彼は女には優しかった。だが、『女以下』とみなした相手はまさに人扱いしなかった。
 そこには静かな憎悪もあった。
 彼は、標準以下に弱いもの、みすぼらしいものを見ると、いらいらするのだ。
 かわいそうだなどと思わない。それを攻撃することは自分の義務だとさえ感じるくらいだ。
 若くて強くて魅力的な彼に意地悪くされることはつらいことだった。
 それだから生徒達は、(いやさ教師でさえも、)ますます彼を恐れ、彼に攻撃されないように、彼の機嫌を伺い、彼に仲間と思ってもらおうと(あるいは自分の子飼いにしようと)神経を張り詰めて、彼の気分や好意がどこに向かうか、懸命に推し量ろうとするのだった。
 彼も、教師達に対しては一応礼儀を守って、相手の体面を傷つけないようにしていた。彼らの命令には従い、退屈な集会や下らない用事につき合わされても嫌な顔一つしなかった。無論、それも『教師』と認めた相手に対してだけのことで、『教師以下』とみなした教官のことは歯牙にもかけなかったのだが。
 イル・カフカス・イラカをとりわけ気に入っていて、傍目にも過剰なほど激しくえこひいきしている教師が、一人いた。
 女教師テプレザである。
 何しろ、彼女はクローヴィスの恋人だったのだ。あまりによく似た、しかも若くて傲岸不遜な後継者は、彼女の心にあまりにも適った。
 テプレザは教師としてはかなり中途半端で、博士号も教職に必須の『鉄尺』しか持っていない。事実イラカの実力は彼女を飛び越していて、教わるものは何もなかった。
 だが、彼女は手本とするアルスス学の開祖クローヴィスの『大事な人』である。イラカはまるで、師の奥方に接するように慇懃に、腰を低くしてその好意に応えていた。
 テプレザは、美しい宝飾品を身に着けて歩くように、彼を連れて歩くのが大好きだった。人々の注目を浴び、自分の人生に満足しながら、一緒にやって来る彼の若い恋人や仲間達に対し、昔話やら、教訓やら、長々と語って聞かせるのが好きだった。
 今日も彼女はそうしていた。自分の広めた女性形を忠実に再現するかわいらしい女の子達を引き連れ、水鳥の親のように中庭を散歩する。
 彼女は言った。
「結局女の人生はね、どんな男性に選ばれるかによって決まるのよ。だからすばらしい男の人に選ばれるよう、魅惑的な女にならなくてはダメ。そのためには女を磨かなくてはね。クローヴィスはよく私に言っていたのよ……」
 女の子達は、まとわりつくようにして、首を伸ばして熱心に聞いているが、その話はイラカには退屈な話だった。彼は男だし、もう同じ話を何十回も聞いているし、第一、当たり前に過ぎて――。
 聞いた振りをしながら、うまいこと浮気をして中庭を行き交う学生達を眺めていたイラカは、その時ふと、ある一人の女学生に目を留め、ん? と思った。
 その学生は、周囲から浮いていた。流行とは異なった服装、違った髪形をしていて、頬に黥もない。そういう学生は時々いる。それだけでも少しイラッとする。
 だが、実際に攻撃対象になる人間にはさらにいくつか条件がある。その女生徒はその白黒の、ちょうど瀬戸際だった。
 衣服の趣味が決して悪くないのだ。それが彼女の身分をぎりぎり守っていた。
 面白いな、とイラカは思った。このまま自分の視線にも気付かず、通過するようならば、何も起きないだろう。
 だが、自分に気付き、ほんの少しでもおどおどした態度や、怯えたような様子がのぞけば、その瞬間、俺は彼女に襲い掛かるに違いない。
 その瀬戸際な感じが、彼の加虐心を刺激した。彼はいい身分だった。どちらに転んでも悪いのは相手で、自分ではない。
 ところが、女生徒は、黙って通過もしなければ、気後れしたところも見せなかった。
 彼の傍でふいに足を止めると、下からまるで視線を突き返すように、彼のことを、見たのである。
「……あれっ?」
 ついにイラカは実際に呟いた。基本的に明るい性格で、その瞬間にそれは微笑になっていた。
 彼はびっくりしたのである。その生徒と、以前に会っていることに気付いたのだ。
「あれっ? なんか君、前にも、会ったよね? 雰囲気変わったね」
 おかっぱ頭の女生徒は、にこりともしなかった。東部風の少し細い目の左端に瞳を寄せて、相変わらずイラカを睨んでいる。
 確かにそうだ。彼女は一月ほど前、人前でイラカがからかった女生徒だった。今の恋人であるリリザが、偶然ぶつかってしまった女の子。
 イラカは彼女の体面を救ってやるために、その見知らぬ女の子を腐して笑った。優先順位だ。それくらいは、当たり前だ。
 しかしそれが今日、こんな結果を運んでくるとは。
 さすがに学生達とテプレザが会話を中断した。その前でイラカは本当に驚いて、寧ろ愉快になって、屈託なく笑った。
「すごい! 変身したね。服も違うよね? いいじゃない。流行とは違うけど、かなりましになった。ひょっとして俺のせい? 俺のせいで君、変わっちゃったの?」
 女の子は、ものすごい不興な顔をした。『呆れる』と、その目で吐き捨てた後、つんと顎を反らし、すたすたと歩いて行ってしまった。
 イラカは「こいつは一本取られたね」と思っていたから、そうされても怒りはしなかった。逆になんだかにやにやしてしまった。
 怒ったのはリリザだ。
「ちょっと、何よ。今の女!!」
 彼女は、ソラの顔を覚えていなかった。
「イラカの知り合い?!」
「あの服、なに? 古くさい」
「なんであんなえらそうな態度なの?」
 連れの女生徒達も固まって口々に言う。
「覚えてないのか、リリザ。あの子、前にお前がぶつかった女の子だよ。すごいねえ、一月で。うん。けっこう似合ってた。やべーなあ俺ら、人一人の人生、変えちゃったかもよ?」
 いい気なことを言いながらソラの後姿を見送っていたイラカだが、急に切羽詰ったテプレザの声を聞いて、笑いをやめ、振り向くことになった。
「――イラカ。今のは、誰?」
「えっ?」
 イラカだけでなく、その場の全員が驚いて口を噤んだ。みな、ぎょっとした。それまでご機嫌だったテプレザが、まるで、親の仇にでもめぐり合ったように顔色を変え、震えていたからだ。
 いきなり老いが顕在化して、化粧が浮き上がって見えた。こんな彼女は、見たことがなった。
「いやあの。名前は知らないんですけど、前にちょっといじめちゃって。それ以来見てなかったんですけど、雰囲気違ったんで驚いて――何か?」
 最後の一語こそが、全員が知りたいことだった。
 生徒達は全員、何がテプレザをそれほど驚かせたのか、見当もつかなかったからだ。
「東部の子?」
「え、ええ。そうじゃないですか。前に会った時は、ものすごく田舎くさくて。髪の毛も後ろでひっつめてましたよ。東部の人ってそうしますよね。――ああ、思えば、すごいな。あの長い髪の毛も切っちゃったのか。ずいぶん思い切ってばっさり行ったなあ」
 イラカが感心したように言ったその時、彼の脇では数名の女生徒が気まずげに低く視線を交わしていたのだが、イラカは気付かなかった。
「あの子が、何か?」
「…………」
 テプレザは繰り返された核心の質問にも答えなかった。
 怯えたような、怒ったような、固い表情で、彼女が消えて行った講義棟を眺めていた。
「――あの子、昨日、立ち入り禁止の干潟から帰ってきたのを見たわ」
 誰かが言う。
「干潟ァ? え。なんでまた」
 事態が飲み込めず、イラカは耳の後ろを掻くが、その『干潟』という単語が、テプレザの眉間の影を一層濃くした。
 彼女は生徒達を自分の周囲に集めると、ひどく低い声で、秘密を打ち明けるように言った。
「……いいかしら、みんな。私はあの子のことをもっと知りたいの。彼女のことで何か噂を聞いたり、見たりしたら、それを私に教えてもらえないかしら。もちろん彼女自身には、気付かれないようにね」
「何か問題なんですか? あの子」
 リリザが身を乗り出す。テプレザは家禽を思わせる皺の寄った首を振った。
「まだ分からないわ。でも、そうかもしれない。はっきりさせたいのよ。――イラカ」
 まだ、やや戸惑ったような表情のイラカを呼ぶ。
「はい?」
「あの子がどういうお家の出で、今どんな講義を採っていて、どういう生活をしているのか、調べてちょうだい。あなたなら簡単でしょう?」
「はあ、まあ……」
 答えたものの、イラカは、まだ納得しきらないように珍しく肩をすくめる。その様を見たリリザが、目でたしなめた。
 テプレザは一人で深刻だった。大きな指輪のはまった右手で自分の服の胸の辺りを握り締めながら、生徒達がいるのも構わず、小さな声で呻いていた。
「まさかとは思うけれど。また、あの男が……」




(つづく)
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