10 それは耳障りな雑音から始まった。 本当はその前に、ちょっとばかり、気付いてはいたのだ。リリザが沈んでいるということに。 だが、そんなことに構っている暇はなかったし、イラカは自分の女に対して、冷たくするべきときには冷たくできる「男らしさ」と優位性を持っていた。自分が熱くなっている時に、女の感傷性などに邪魔されたくなかった。むげに扱い冷たくした。いつもそうだった。 はっきりとした手本があったから、悪いこととも思わなかった。 彼は心中で、クローヴィスの後を継ぎ、学院内の秩序を治める俺かっこいいと思っていた。十七歳で美男子で健康でしかも社会的に成功している場合、彼のように自己陶酔に浸らない人間がいるだろうか? 彼は本気で学院の未来を自分が背負っていると思っていた。そのための探求や鍛錬は欠かさなかったし、人が予想するよりもずっと、天才型でなく地道な努力家だった。 彼は、自分の正しさを疑わず、ソラのこともまともな路へ引き戻してやるのだと思い込んでいた。 彼女はたいそうな勘違い女だ。ただ、ちょっと面白い手ごたえの人間ではある。いつも彼の予想とは異なる反応を示し、少しずつ違った答えを運んで彼を驚かせる。 僅かにかわいらしいと思えないこともない。何しろ、自分の言葉にショックを受けて、それで髪型から服装、歩き方から人生までなにもかも変えたのだから。 向上心はあるのだ。うまく叩けば変わる。さらに導けば、きっとそれなりにいいアルスス学徒になれるだろう――リリザくらいには。 依然として古い学問にしがみついている一派をどうするか。これは、アルスス学が以前から抱える懸案だった。つまりこれは彼にとって、指導者性を試される試練の一つだったのである。 彼には、うまく乗り切る自信があった。あの反抗的なソラを屈服させ、自らの手駒に加えて成功する自信があった。それが学院全体のためにもなると思っていたから、彼に悩みは何もなかったのである。 それは、最初は小さな雑音で始まった。そして、安心しきっていた彼の自意識に爪を立て、小さな瑕を引いたのである。 「――あなた達が、あんなことさえしなければ、こんな騒ぎにならなかったのよ?! 分かってるの?! イラカの威光を嵩に着て! 今じゃまるで、あの女のためのお膳立てじゃないの! 放っておけばただのダサいブスで済んだのに! あんな女がイラカの相手に! イラカと張り合う人間に! ありえないわ! こんな勝負、狂ってる!」 折も折、実習当日の朝だった。イラカはたまたま薄く開いていた、扉の隙間からその言葉を聞いた。 早朝の走り込みから戻り、自分の下宿の部屋へ戻ろうとして玄関の前へ来た時のことである。 イラカは、気配を消したまま、そっと扉に寄ってみた。玄関には、声を抑えつつも怒り狂うリリザの後姿があった。その向こうに、三人の男子学生が、教師に怒られる小学生のように並んでいる。 「す、すまない、リリザ」 「すまないで済むの! もうあんた達の顔なんか見たくない。傍に寄らないでちょうだい! こんな日に、こんなところまで来て! あんた達に手伝ってもらうことなんかないわ!」 「そ、そう言わないでくれ。俺ら、どんだけ立場がないか。みんなが俺らを無視するんだ。あんたが俺らに怒ってるせいで。何かさせてくれよ」」 「自業自得でしょ! こっちこそあんたらのせいでどれだけ迷惑してるか! もし何かさせて欲しいなら、そうね。何もかもを最初のままに戻しなさいよ! あんたらが切ったあの女の髪の毛戻して、ぶっさいくな山の女にして、前と同じに、学院の隅に放り込んで来なさいよ!」 「そ。そんなあ……」 「あっ!」 その悲鳴は、学生のうちの一人が、ドアに気付いて発したものだった。 形の良い手によって扉が押し開けられた。その場の全員が息を飲み、そこに現れたイラカを無言で見つめた。リリザが、恐怖を笑顔で誤魔化しながら、一番最初に動き出す。 「お、お帰りなさい、イラカ。水浴の準備、できてる……」 「――どういうことだ?」 美しい髪飾りと、美しい黥。 クローヴィスの後継者を自負する傲慢な青年は、水色の瞳を彼らに向けた。 「あ。あ……」 学生らは、急に石をどかされた昆虫のようにまごつく。 「切った? お前らが? 彼女の髪を? ――男三人がかりでか?」 静かに、玄関の中へ踏み入るイラカに、リリザが寄ろうとした。しかし、彼にきっと一瞥されて即座に腕と媚を引っ込める。 イラカは既に物分りのいい優しい男の衣を捨てていた。だが、三人を見下ろすように立って尋ねたその声は、まだ、意外なほど平らかだった。 「なぜ、そんなことをした」 「だ、だって……」 縮こまる三人のうち、一人が声の穏やかさに誘われて答える。 「お、おれら、ちょっと、むしゃくしゃしてて……。毎日毎日、勉強と鍛錬ばっかで……。そ、それに前にイラカが、あいつを怒ってたから」 「だから?」 「――学院のためだと思って」 イラカは、その瞬間までは、自分でも、手が出るだろうと思っていた。 余計なことをした。しかもそれを黙っていた。自分の面子を潰した。 だがその最後の言葉は全てを彼自身に戻し、彼は、凍りつかざるを得なかった。 三人は彼の行動を見て、彼を手本に真似たのだ。彼らなりに。 自分なら決してそんな卑怯な真似はしないなどと言ってみても無駄だった。 イラカが変えたのはソラではなかったのだ。この下らない、三人の学生の方だったのだ。ソラを変えたのはイラカの魅力ではなかった。この三人の男達の、野蛮な暴力だったのだ。 そして自分はそれを知らず、間抜けにも、その暴力の最後の一撃を引き受けようとしていたのだ。 髪の毛を切るくらい。イラカはそう思わなかった。その集団の力づくの卑劣な行為は、もっと深刻な性犯罪にも簡単につながり得ると分かっていた。 だからこそソラは変わったのだ。いつも前を睨みつけて威圧を漲らせながら歩く女になった。どうしたって、イラカの譲歩を頑として受け付けない女になった。 そういうことだったのか。 どういう天罰か、イラカは自分の思い違いの負債を、実習日当日に受け取る破目になった。 その後も彼は黙ったまま準備を続けた。予定通りの手順で一つずつ、実習に向けて過程をこなした。 が、その顔は強張り、常に傍にいるリリザでさえ、見たことがないほど曇っていた。 数時間後。 待機場所として指定された中央聖堂で、準備をすっかり終えたカエル・ソンターク・ソラは開始の号令を待っていた。実習参加者は前方に整列し、取り巻き達はみな後ろに下がっている。 学院の敷地の真ん中に鎮座する円筒形の中央聖堂は、過去の学者を祀る聖域である。学院の輩出したいずれ劣らぬ大学者達が、丸い壁にぐるりと立ち並んで、高みから彼女を見下ろしていた。 彼らはもちろんみんな死んでいるのだが、遺体は歴代の最高技術で防腐処理され、衣類や持ち物もそのまま着せられて、今にも動き出しそうな状態で、壁の中に直立している。 中でも最も新しく、最も進んだ技術で封印され、従って最も生々しい一体が、アルスス学の始祖、クラレイ・ファル・クローヴィスだ。 彼はアルススのシンボルである長い剣を前に、その柄に両手を重ねて立っていた。瞼を閉じたその顔は青白く、顎は毅然と反っていて、遠目にも凛々しい男盛りであることが分かる。他の遺体は大抵年寄りなので、それだけでも存分に意識を引いた。 ちなみにこの遺骸の防腐処理方法は、学院の最高機密でもある。昔は技術が発達していなかったから、創立者カントン以降五体くらいの遺骸は失われてしまい、実は等身大の木の像で代用されているそうだ。そう言われても外見上は区別がつかないできばえなのだが――。 ソラがぼうっとしている間に、次第に彼女の周囲も人で埋まってくる。真隣に気配を感じて視線を下ろすと、そこに対戦相手、イラカの体があった。 上のクローヴィスと本当によく似た見事な肉体だ。 「おはよう」 「……おう」 イラカは前を見たまま頷くように挨拶する。髪飾りと耳飾が触れ合って音を立てる。ソラは……あれ? と、思った。 イラカに目を反らされたのは初めてだった。 彼はいつも、遠慮も畏れもなく、寧ろ楽しそうにこっちを覗き込んできた。最初に彼女をいじめた時でさえそうだ。緊張しているのだろうか。今更? そう思った時、刻限を知らせる鐘が鳴った。担当教官が、慣れた様子で学生らの前に歩み出る。 重々しい鐘の音の余韻が去ると同時に、教官は頬に刻まれた黥を踊らせながら、口を開いた。 「それでは実習を開始する。定められた実習相手が来ていない組があれば挙手を。――いないな。よろしい。では規則説明から始めたいと思う。よく聞くように」 続いて、実習の成功条件、失格条件、禁止事項、制限時間、注意点などの説明がてきぱきと行われた。 ソラの参加は初めてだが、戦闘的なアルススの学徒にとって、実習は日常だ。教官らも慣れており、何もかも段取りよく運営されていく。 ふと、後ろのほうでざわめきが起こった。どうも、ソラを支持する生徒らと、他の生徒らの間で軽い言い争いが起きたらしい。 近くにいた教官がすぐに止めに入り、また、進行役の教官も眉間に皺を立てて苦言を呈する。 「応援者である君らが進行を邪魔するとは何事か。静粛にせよ」 騒ぎはすぐに収まった。ソラはハンが困っているだろうと思って後ろをうかがった後、前に視線を戻しがてら、もう一度イラカの顔を盗み見た。 やっぱりそうだ。彼は、暗かった。 困惑を、上下の歯で思い切り噛み潰しているような、固い顔をしている。 実習の時はこうなのか、とか、ソラに対して怒りを新たにしているのか、とか考えてみたが、どうもそういう感じではなかった。 一体どうしたのだろう? 説明が完了すると、早速生徒らが一組ずつ呼ばれて、各実習場所への誘導が始まった。 その時にはもう、教授らの戒めはなく、見学の仲間たちは、それぞれ派手に声援を送り、生徒らを送り出す。 ソラとイラカの番になった。呼び出しの教官が名を呼ぶと、見学者らがそれぞれどっと応援の声を上げた。誘導の教官の会釈に従って、彼らは歩き出す。 聖堂から出るとき、ソラは友人達を見た。心配で今にも倒れそうな様子のハンには失笑したが、それより、その奥で妙に疲れたような顔をして沈んでいるリリザのほうが気になった。 ――なに。二人して。なにか、悪いことでもあったの? ともかく、聖堂を出て、誘導に従って長々と廊下を歩いた。 実習場所に指定された第二神階は地下である。ソラ達は階段を使って地階に下り、さらに、普段は施錠されている扉の奥へ入って、そこから延々と続く螺旋階段をひたすら下り始めた。 閉所を畏れる人間には、たまらないだろう。教官が明かりをくれるので暗くはないが、上も下も横も石に閉鎖された狭苦しい空間は、下がれば下がるだけ、どんどん寒くなって行った。 「先導はここまでだ」 何千段あったか分からない階段がついに尽き、しめっぽい土の平地が現れる。その先は、鉄格子で遮断されており、教官はその中央の扉の錠を大きな鍵で開錠した後、自らは脇に退いた。 「三時間以内に戻らなければ、二人とも失格になる。健闘を祈る」 慣れているのだろう。イラカが鉄格子を手で押して先に入った。ソラが続く。 教官から離れるわけだから、次第に暗くなる。影が長く、前に垂れ、さらに奥へと続く緩やかな下り坂へと彼らより先に入って行った。 それは自然の洞窟ではなかった。明らかに人の手になる、つるつるとした地肌が地下水で濡れていた。 なんという大規模な施工だろう。学院が掘らせたのだろうか? 「遺跡だ」 まるでソラの思考を読んだようにイラカが言った。もっとも、ソラは細い目を開いて辺りをきょろきょろ見回していたから、胸中を読むのは簡単だっただろう。 「俺はよく来るから慣れている。完全に死んだ遺跡でもない。まだ生きてる仕掛けがある」 言って、イラカは土壁の中に埋め込まれた石版に掌を当てた。 赤い光が掌と黥に走ったかと思うと、一気に周囲が明るくなってソラは目と一緒に自分が潰れるかと思った。 「……!!」 緩やかに下る道の奥の奥まで、光が生き物のように走って行く。そうして明るくなると、この洞が人工物であることがいっそうはっきりした。 ソラは眩む目に苦労しながら、驚いて尋ねる。 「……アルススの技術が?」 「見ての通りだ」 「じゃ、じゃあこれは、普通の遺跡じゃない――前文明の、遺跡よ。私達の文明はクローヴィスまでアルススを知らなかったんだから。すごい……! 学院の地下にこんな大規模な、前文明の遺物があるなんて!」 「……俺にはどうでもいいことだ。奥にはもっと何やかやあるが、古代人のガラクタを研究して何になるのか、俺には分からん」 彼らはまるで普通の学友同士のように話をした。 日常から引き離されたこの場の空気が、普段地上で彼らを固定している関係性を、少し弱めたのだ。 それに、今日のイラカはどう考えても変だった。妙に態度が柔らかく、どこか自信がなさそうなのだ。 「これは、俺が負担しておいてやる。明るくなければ、あんたもよく周りが見えないだろうから」 「どうもありがとう」 「……朝から、つまらんことがあって、気分が悪かったんだが」 イラカはきまり悪げに歩きながらふーっと長いため息を吐いた。次の一語に、ソラの眉が上がる。 「もういい。何度考え直しても同じだ。やっぱり俺は、間違っていない」 振り向いたイラカの青い目も、洞窟の明かりの中ではいつもより暗く見えた。ソラは、距離を保ちながら尋ねる。 「どういうこと」 「……確かにあいつらは、下劣な真似をした。最低に幼稚な振る舞いと言ってもいい。だが結局それも、あんたが目立ったのがいけないんだ。俺らは見て見ぬふりはしない。誤りは正す。そうでなければ、学院が腐るからだ」 ソラはしばらくの間、瞬きして考えねばならなかった。 そして、ようやく合点する。イラカがさっきから、どうにも後ろめたげな態度を取っていたその理由を。 失笑が、漏れた。 「……まさか、今頃、知ったの? 私の髪の毛が鋏で」 打ち消すようにイラカは言う。 「あの三人は許さない。懲罰を下す。だが」 「三人じゃない。五人よ」 イラカは怯まなかった。僅かに下瞼が苦々しく持ち上がったけれど――。 「言っただろう。最低だと。だが、結局は誰かがしなければならなかったことだ。あんたは変わらなくちゃいけなかったし、今後もそうだ」 「どうして?」 「講義に毎日遅刻してくる奴がいたら、どうする? そいつが、『故郷ではこれが当たり前だ』と言ったら? そいつがどんな善人だろうが関係ない。学院の規則に沿って矯正されねばならないだろう。それと同じだ。あんたの振る舞いは、今の世にふさわしくない」 イラカの声は朗々と洞窟内に響いた。素晴らしい声だった。それがこんな、自分で自分を必死で説得するために使われなければよかったのに。こういう男が、自分の最大の敵として、目の前に現れることがなければよかったのに。 「最先端でないことは罪だ。不道徳なことだ。俺達は常に、前へ前へと進まなくてはならないんだ。それをあんたに、分かってもらう。あんたは世界にふさわしい人間にならなくてはならない。ふさわしい女にならなくてはならない。それをしないことは怠惰であり、罪だ。人間としての義務の不履行だ。だから人はあんたを責める。 あんただって本当は分かっているんじゃないのか。悪いのは自分だと。初めてじゃないだろう。咎められたのは」 非難の手紙を寄越した祖母を筆頭に、自分を責める目をした人々が山盛り頭に浮かんできた。その最後尾にはハンがおり、そして、ゾンネンがいた。 そのだれも自分を許してくれない。 ほんとうはこんなまねいますぐやめろとおもっている。 罪悪感がものすごい勢いで足元から脳天まで突き抜ける。 多分、僅かに赤面した。 でも同時に、ソラは震えたのだ。 そうだ。と思った。 誰も自分を許してくれなくていい。これが私なんだから。とにかく私は、私というこの手ごたえを守らぬままには、何一つ始められないのだから。 そのために、ここへ来たのだ。故郷に帰らずに。 「部外者がうるさすぎるのよ」 生徒らも、テプレザも、教師らも、そして、ネコさえも。 「私達は始めから何一つ変わってないじゃない」 アルススの学徒と、シギヤの学徒。 片方は許さぬといい、片方は、それに反発する。 永遠の、決定的な対立。 「始めましょうよ。くだらない事は忘れて。私は始めから、こうしたくてたまらなかった」 アルススの光の下で、イラカが少し顎を上げた。 「そうよ。一対一で、邪魔者なしで、そもそも互いに何が気に入らないのか、それについて、対等にあなたと言い合いをしたかった。あなたが嫌なところばかりの人間じゃないって、今は、知ってるわ」 「…………」 「でも、あなたが私を殺そうとするので、私は抵抗せざるを得ない。それは何一つ変わっていない。あなたは私の天敵なの。私達は決着をつけなくてはいけない。もう、ここまで来てしまったのだから。 すべて、忘れましょうよ。あなたの一番残酷な、本当のところを私に見せてくれたらいいわ。私もまた、死に物狂いでそれに抵抗するのだから。私がどれだけ腹を立ててるか。どれだけ、天邪鬼か。どれだけ、しぶといか。あなたに思い知らせてあげる」 不思議な沈黙が流れた。 身内から火の出た罪悪感に邪魔され、曇っていたイラカの表情が、緩み、微笑が口元に上る。 多分その時、二人の心理的な距離はこれまでで最も近くなっていた。 「あんたは、変な女だ。すごく変わってる」 それがかえって互いの違いを明瞭にする。 「今のは俺の台詞だ。――思い知らせてやる。俺がどれだけ本気か。お前らなんかクソだ。滅んでしまえばいい。あんたを屈服させてやる。押しつぶしてやる。無力な女のくせに」 どういうわけか、二人は共に笑いながら、互いに互いへの憎悪を確認して安堵した。 ソラが言ったとおり、これまでは外野がうるさすぎたのだ。 やっと邪魔者は消えた。 始まりの二人で、何らかの決着をつけるときが来たのだ。 「行くか」 「そうね」 「行きは引き受けてやる。しっかり見てろよ、アルススの力を。俺がいなけりゃお前なんか、ここで一秒も生きてはいられないんだからな」 もったいつけた子どもみたいな言い方にソラは肩をすくめる。こんな不遜な態度も今は彼女にふさわしかった。 二人は並んで神階の奥へと下りて行った。 出口が背後に遠ざかり、曲がった壁に遮られて完全に見えなくなった頃、最初の神霊に襲われた。 神階における実習には課題がある。ある地点に設置された工芸品を、持ち帰って提出せねばならない。 これがなければ落第だ。そして、その工芸品は、人間が二人揃っていなければ取得できない仕組みになっている。 だから、実習相手を開始の段階で蹴落としたら、当人も自滅する。とにかく始めは二人揃って工芸品の設置場所(大抵、最奥)まで行き――帰りに、戦って優劣を決するのが実習の定式だった。 ちなみに、工芸品を一人で二つとも提出できれば、最優良と認められる。人対人における奪い合いを推奨し、最も強い者、或いは最も知恵のある者を表彰する仕組みになっているわけだ。 ソラはそういった全ての知識をネコに与えてもらっていた。イラカは言うまでもない。彼は実習に慣れ切っていた。 襲い来る、倍ほども体積のある化け物を、腰の剣を抜いて下から斜め上へと一息に両断する。 ソラが息を飲む間もなかった。その割れた体が崩壊する向こうから、また別の一体が、さらに別の方角からもう一体が、次々に襲い掛かってくる。 異常に大きな腹をした、薄紅色の、へんな動物のような個体だった。四肢に、頭に、牙のある口が開き、耳までついているように見える。 霊は、実際には神よりも頻繁に人間界に干渉していると言われるが、陽の光の下でも、夜の闇の中でも人の目にはほとんど見えない。ごく一時、朝と昼とが混ざる黎明、そして逢魔ヶ時にだけ、存在が強くなるが、それでも訓練を積んだ学者でなければ意識されないものである。 神階では、人間界と神霊界が交錯しているので、普段ぼんやりしているものがはっきりと迫ってくる。それにしても、あまりにも鮮やかに、当然のように怪物が出てくるのでソラはびっくりした。 且つ彼らが襲い掛かってくることに仰天した。霊と人は本質的に別のものだ。近づいただけでわざわざ攻撃してくる対人戦闘的な霊など、地上では有り得ない。 だがイラカは当たり前のように、見事な体をしならせて、彼らを薙ぎ払って行った。 生物とは違うので、血が出るわけではない。だが、二つとか、三つとかに解体された霊の体が、重たげに足元にたまっていく。神階だから容易にほどけないのだ。ソラには唖然とする眺めだった。 「な。なんなの。これ……」 「知らないだろ。ここの地下は、こんなのばっかだぜ。醜い雑霊だ。雑魚、なんぞと俺らは呼んでるがな」 頬を赤く光らしてイラカが笑う。やはり神階という不思議な空間の効果だろう。彼の体の周囲にも大きく赤い光の帯が揺らめいて見えた。 「こ、壊していいの?」 殺すという表現が適当でない気がして、ソラはつっかえつつ言う。 「罰が当たるんじゃ?」 「襲ってくるものはしょうがないじゃないか。こんな雑魚でも、油断したら命を取られる。神階では、こっちも身体的な打撃を食らうからな。――こいつらのことを、偽タモンと呼ぶ奴もいるよ」 「……タモン。なの?」 「ちょっと似てるだろ? 牧場でぶうぶういってるのに」 イラカが言ったのは、人が平原で飼う、家畜のことだった。丸々と太っていて雑食で、鼻が上向いていて短足な動物だ。顔はかわいいのだが、体は大きく貪欲なので、個体によっては人に恐怖を与えることもある。 ひっくり返って骸をさらしている化け物は、確かにあの生き物に少し似ていた。 「こんなもんじゃない。まだ、どんどん出てくるぜ」 イラカが楽しげに言ったとおりだった。二人が奥へ進むたびに、次々に霊が襲い掛かってきた。その形態も、偽タモンから、もっと大きな角のついたものから、鳥のように翼を持ったもの、町でもよく見かける中型獣マオに似たものまで多種多様だった。 ただ一つ、共通していることは、それらすべてが彼らを見ると即座に襲い掛かってくることだった。 地上では、いたずら好きの神霊はともかく、基本的に霊と人間は没交渉なものだ。どうしてこうむやみに攻撃されるのか、ソラは理由が分からなかった。 「ど、どうして……?」 移動のたびに築かれていく無残な骸の山に愕然としながら、ソラは思わず漏らした。 「どうしてこんなことになるの?」 イラカは彼女の、少女的な感傷を嘲笑う。 生物相手なら、今頃返り血で真っ赤になっているところだろう。 「どうしてもこうしてもない。神階はこうなんだ。こいつらは俺らの敵なのさ」 「それにしたって! 誰か、どうして霊たちがこんなふうにひたすら攻撃的なのか、研究している人はいないの?」 「なんのためにそんなこと。倒し方さえ分かればたくさんだ。アルスス学にとっては、ちょうどいい実験場だしな。クローヴィスがそんなことに悩んだと思うか? 攻撃してくる者はただ、叩き潰すのみだ。あんたもそろそろ俺に感謝して、俺の強さに陶然となってくれませんかね」 壊れた霊体の山を、こともなげに見下ろしながら、イラカは空いたほうの左手を広げた。 頬の黥は彼の内面を表すように赤く赤く燃え立ち、美しい彼を彩っている。きっと服の下でも、体の随所に彫られた黥が、発光し発熱していることだろう。 ソラは、アルススのわざの壮絶さに恐怖しながら、ふと裏で、ある一つのことに気付いていた。 「……じゃあ、あれも、攻撃だったの?」 「んー?」 「私の、『やる気のない』、ださい服装も。あなたにとっては、攻撃だったわけね」 「ああ」 イラカはうっそりと目を天井に向けた。 「そう言われれば、そうかな」 ソラは自分が最初に攻撃されたとばかり思っていた。 だからお前が悪いというイラカとは、話がまったく噛み合わなかった。 ソラの不服従の態度が、常識無視の生き方が、それ自体、攻撃であったなら、本当は最初に攻撃したのはソラだったのかもしれない。 ソラはようやく、イラカの怒りの根源が分かったような気がした。 しかもアルスス学徒の彼は、そういうわけのわからないものからの、問答無用な攻撃に慣れている。 彼は反射的に反撃した。いつも神階でそうしているように。 ソラにとっては、まさか自分の怠惰が他人の脅威になるなどということは思いも寄らなかったから、彼の気持ちが分からなかったのだ。 同時にイラカの――というよりもアルスス学全体に対する、物足りなさを感じた。 こんな極端な事態を経験しながら、原因をつきとめようと思わないなんて。 それは、イラカが、ソラがどうしていつまでも古い服を着ているのか、背景や事情をまったく関知しなかったのと同じだ。ただ結果だけがすべてで、飛び出す魔物は切り払ってしまえばいいというのだ。 相手が、本当に魔物かどうかも分からないのに――。 ソラがそう思ったのには理由があった。 骸にくるりと背を向けて、イラカが先に行ってしまった後、追いつこうと歩き出したソラの脇を、よたよたと、一匹の霊が飛んだのである。 それは小さな、ちょうどテンテ鳥に似た一体で、どういうわけかソラにはまったく構わなかった。 怒りに燃え、明らかな攻撃性を持ちながら、傍で無防備でいるソラを無視して、はっきりとイラカの背中を目指したのだ。 ソラは手を出して、そのひょろひょろした飛行を遮った。鳥は彼女の掌にぽそっと当たり、そして、急に力を失ったように、地面に落ちた。 地面でもがく様は、本物のように憐れだった。 ふと、気付く。地面に散らばった骸のどれもが、がくがくと痙攣し、未だに、立ち上がろうとしている。さらに、イラカを追おうとしている。 ソラは、悪寒に打たれてきびすを返した。イラカの背を探して霊体の間を走った。 踏んでも無害だろうがなんとなく踏めなかった。 頭の中に、丸いめがねをかけた、ネコの顔が、浮かんできた。 『第二神階! おめでとう、最高の条件だ。あそこには、たくさんたくさん悪霊がいる。学院が持つ神階の中でも、もっとも障害の多い場所の一つだ。とは言っても、神階は、アルススが目覚めるまでは危険な場所でもなんでもなかったのだがね。――まず始めに、彼をおだてて、悪霊達と戦わせたまえ。まあ放っておいても、そういうことになるだろうがね。あいつらは、破壊と攻撃、それ以外のことは、何も知らんのだから』 「見えたぞ! あの奥に、祠がある。工芸品はそこに設置してある」 イラカが言う。剣を振るいながら。 アルススの力の漲る剣だ。最も感応率のよい金属を利用し、最も扱いやすい重さと長さを追求した、技術の粋を集めた最先端の工芸品だ。 奥には確かに祠らしきものがある。だが、それを認めるまでの間にさえ、続々と霊が集まってくるのを、ソラは見た。 どれもこれもが、一心にイラカを目掛けて近づいてくる。 自分にではない――イラカは、気付いているのかどうか。 なんて世界だ。アルススが開く世界は。 数十分後の光景を予想して、ソラは思わず瞼を絞る。 上でも下でも、これでは、戦争ばかりじゃないか。 『おぞましいものを見るだろう。しかし心を動かしてはいけない。奴には、やりたいだけやらせておいて、君は体力を温存しておくのだ。主戦場は復路だ。工芸品を取ったら、そこから二人の対決が始まる。その時こそすべての怒りを燃やしたまえ。シギヤの力を使うんだ』 「下がってよく見ておけよ。アルススの無限の力を。炸裂する炎を。俺がいなければ、あんたのような弱い者はこいつらに蹂躙されるがままだ。そして分かったならあんたも、つべこべ言わずにアルススの黥を身に入れて、俺と同じようにクローヴィスの弟子になるんだ」 イラカは襲い来る無数の霊の中へと飛び込んで剣を払った。ソラは、両の拳を指輪ごとぎゅっと握って殺戮を耐え忍びながら、攻撃の瞬間が来るのを、ただ、待っていた。 (つづく)
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