14



 夜。十七歳の三人は、『巌書院』の二階の廊下に置かれた談話用の椅子机を囲んで、互いに顔を突き合わせていた。
 ソラは階段の側の椅子に座り、ハンは小机を挟んで反対側に、そしてイラカは吹き抜けの欄干に腰を乗せて、高低もばらばらにいびつな三角形を描いている。
 彼ら以外の全員は、再度の説得のために学院の門へ出かけている。彼らは水に浸かったので一度下宿に戻って着替ろと言われ、各自別々に帰ってきて、いつの間にやらここに集まっていたのである。
 だが、それはソラの感想であって、事実は他の二人が彼女を探した結果ここにたどり着いたのかもしれなかった。さすがに彼らは、彼女を心配していた。
「大丈夫ですか」
 と、ハン。
「大丈夫です」
 既にソラも冷静さを取り戻していた。唇の色も元に戻っている。
 だが、心の落ち込みは誤魔化せなかった。視線は羽虫のように床をさまよい、上がることはない。
「どーもよく分かんねえな、あんたのお師匠さん」
 イラカが言った。相変わらず張りのあるはっきりした声だが、未来の見通しの悪さに遠慮したように、少しばかり抑え目にしているのが分かった。
 そのためか、ハンも彼を見はしたものの、制止することのないまま、ソラに視線を戻す。或いは同感だったのかもしれない。
「なんでいきなり破門かね」
「――始めから、別になんの義理もなかったのよ」
「ん?」
「私が、迷子になっていたのを、たまたま助けてくれて。話を聞いてくれて。……数え切れないほどのことを、教えてくれて。授業料も取らずに、数ヶ月であなたと渡り合えるほどまでにしてもらった」
「黒幕かよ」
「そもそもの原因はあなた達が彼女を怒らせたことにありますけどね」
「ただ一つ、あの人は、私にアルススと関わって欲しくなかった。完全に、アルススと敵対するものであって欲しかったみたい。そのたった一つの条件を、私が踏み外したの。だから、理屈に合ってる。本当にあの人は、私に対してなんの義務もないんだもの」
「それにしても、気性が激しすぎやしませんか」
 ハンの口調には、微量ながら非難が滲む。
「もう少し、穏便だっていい。ソラさんだって悪気があるんじゃないんだから」
「……そういう人だから。始めから」
「まー、クローヴィスもそうだったらしいからね。有名人ではあるけども、誰とも仲間じゃないっていうか。孤高というか、情け容赦ないっていうか、わがままって言うか」
 理解しがたい、という顔のハンにイラカは思いやるようなひと笑いを浮かべる。
「力がある奴は、生きるのに愛想よくしなくていいからね。そうじゃない人間だけが、笑顔とかお世辞とか、小細工を駆使して人とうまくやらないといけない」
「――東では、誰もがみな、人に対して礼儀正しくと教えられますよ?」
「あーそれって全員が無力になって、なあなあで仲良くやりましょうって感じじゃないの? 他の地方はねえ、もうちょっと、誇り高いんだよ」
 東部の学生と南部の学生はちょっとにらみ合ったが、喧嘩はしなかった。
 互いの理想云々よりも現実が先行していたからである。
 ハンの礼儀への期待はネコやクローヴィスには通じず、かといってイラカの実力主義の思想を押し通せば、この内乱騒ぎである。
 彼女達はみな、大人たちのわがままに、振り回されていた。
 その意味では全員が仲間なのである。
 それでも、たった半年前にはこんな平等な鼎談は実現しなかっただろう。イラカはソラを怒らせて本気を出させ、ソラは彼を引き摺り下ろし、そして疲れきった二人に、慎重で引っ込み思案なハンまでが巻き込まれ。
 状況は変わった。確かに変わった。
 ソラは馬鹿にされず、イラカと対等に話し合う立場を手に入れた。
 しかし、変化は望むとおりの場所で終わってはくれなかった。それは彼女の思い描いていた終着を突き破ってさらに走り、現在もまた、走り続けている。
 もはやソラにはそれがどこまで行ってしまうのか見当もつかなかった。
 疲労も手伝って、目が回る。
「……いずれにせよ、アテは外れたわけだ。さてこれから、どうすんのかね」
 イラカも、つややかな金髪と首の間に掌を入れながら、改めて呟いた。
 今、下宿は空っぽである。彼ら三人を除く書院派の全員が、説得のために学院に出かけている。最初の警告を無視された彼らは再び、精一杯の誠意を尽くした文書を練り上げてそれを手に出かけて行ったが、めいめいの表情には疲れが浮かび、自分達でさえ、自分達の行動の効果についてもはや信じきれていないのが分かった。
 もちろん、彼ら三人も疑っていた。
 そして妥当で、明るさのない予想で、首筋を冷やさざるを得ない。
 ――このまま、夜が空ければ、敗北は決定的になる。抵抗側のではない。自分達、中立派の敗北だ。
 そうすれば後はもう、何が起きてもただ見ているだけの衆になるだろう。学院の中枢に関与する権利と誇りを失くした、完全に無力で無意味な存在であることが自ずから明らかになってしまう。
 これまでにも、その傾向はあった。しかし、伝統と習慣とが彼らの身分をからくも守っていたのだ。ところが力が暴走し道理を引っ込めている今、その曖昧なお約束は、瀬戸際へ追い込まれているのである。
 なんとかせねばならないが、さりとて手段が思いつかない。彼らは申し訳程度の抵抗を続けながらも、苦しい諦めの一夜を、分刻みの長さで過ごしていると言えぬこともなかった。
 無論それは三人も同様だった。このまま、絶望の朝が来るのか――。
「……イラカ」
 下で扉の開く音がしたと思ったら、リリザが入ってきて、彼らを見上げた。彼女は恋人であるイラカに従って、昼以降ずっと書院に出入りしている。彼女が階段を上ってくると、胸の宝飾品と髪飾りがしゃらしゃらと揺れた。
 みんなと一緒に門前へ行っていたはずだが、無駄に思える行動に耐えられなくなって、帰って来たのかもしれない。
 その予測を裏付けるように、彼女はソラの後ろに立って、欄干の上のイラカに呼びかける。
「ねえ、イラカ! なんとかならないの? このままじゃ、中の人たちが殺されてしまうわ!」
 ソラは遠慮してハンの斜め左に椅子ごと移動する。リリザはそれでイラカのすぐ傍まで近づき、爪先立ちになった。
「万が一テプレザ先生がお亡くなりになったら、私、どうしたらいいか……。見ているだけなんて、もう耐えられないわ……!」
 声がぐしゃりと潰れ、細い首が傾げられて手が目元に添えられる可憐な一部始終を、三人とも、ものも言えずに見ていた。
 もっともな悲嘆、もっともな言葉だけに、心がつらい。
「私、一人だけでも中に入って戦うわ。柵を乗り越えればどこかから院内に入れるでしょう」
「待って。それは駄目だよ。リリザさん」
 さすがのイラカも表情を曇らせて彼女を宥める。
「君は確かに強い。女の子にしては。でも相手は教官達だ。一人で中に入って、力比べに負けたら君はどうなると思う? 敗者なんて人と思っちゃいない連中だよ」
「でも、あなたはとても疲れて動けないし……」
 急に、リリザの体が回って自分の方へ矢印が振れたので、ソラは疲労も忘れてびっくりした。
 彼女は、その整った、かわいらしい顔をこれまでになく近寄せてくる。
「ソラさん。どうにかできないでしょうか。あなたは、女の子だけど、イラカと渡り合ったような人だし。いい知恵はないですか」
 シギヤ学徒のソラは、こんな意味でアルスス学徒からアテにされたことはなかった。
 驚き戸惑うのと同時に、ほんの少し、自尊心がくすぐられたことも確かだ。
 だが、ソラの実習時の実力は、ほぼ完全にネコに依存して得られたものである。ネコの知恵と工芸品がなければ、ソラはやっぱりただの役にも立たないシギヤの女生徒に過ぎないのだ。
 誠にソラは、ネコの機嫌を損ねてはならなかった。
 だがしかし、他にどうしようがあったのだろう?
 相手の期待に応えることも出来ず、抗弁もならず、ただ息をつめて、まつげに縁取られた涙に潤むその美しい目に吸い込まれていた、その時だ。


 とん。とん。とん。


 はっきりと、そして妙にもったいぶったような、上品なノックの音が、玄関でした。
 全員がはっ、とした。相手の見当がつかなかった。
 ハンが腰を浮かしかけるのを、ソラが「私が」と押さえて立ち上がった。彼女の方が階段に近い。
 リリザはイラカの懐に戻ってその衣類に手を当て、イラカは彼女を宥めるようにその髪の毛を撫ぜる。
 ソラは階段を駆け下って、薄暗い扉の前に立った。仲間達なら、当然ノックはしない。こんな夜中に来るからには、騒動に関係のない人間とも思えないが、一体誰だろう――。
 ソラは扉を開けた。
 そして、これまでの人生でも滅多に上げたことのないような悲鳴を上げた。
「きゃっ……!」
 二階の男達が腰を浮かしてこちらを窺うのが分かった。


 ソラは思わず口に手をやった。思考の追いつかぬ一瞬の間に、そこに立っているのが人間であり、自分が無礼な悲鳴を上げたことが分かったからだ。
 だが、彼女が驚くのも無理はなかった。
 そこにいるのは黒尽くめの薄気味悪い老人だった。深く被ったフードから頬から下顎だけが見え、それが真っ白な、真っ白な、真っ白な色をしている。
 理屈以前に、人間には生物として反応してしまうものが幾種かある。それは遠い血肉の教え。それに近づいたら危ないと囁く種としての本能だ。
 それは、それだった。
 頭が持ち上がり、見える場所が変わった。フードの縁から、深い皺の奥にしまいこまれた黄金色の瞳がのぞく。
「おや。おや。おぬし」
 不自然な、まるで無理して人間語を喋っているかのような抑揚で、それが言った。
 ソラは、ものも言えずに一歩退いた。その間にも、ぞぞっ、と悪寒が足裏から背中を駆け上っていく。
 黒い老人の後ろに、今度は全身灰色尽くめの、若い少年がいるのに初めて気付いた。本当に少年だ。十三歳くらいだろうか。
 しかし、同じくらい薄気味悪い雰囲気をしていた。
「――ホーデ博士か?」
 真横から、声が聞こえた。聞き覚えのある教官の声だ。
 それが、圧倒されようとしていた場を、人間の側に振り戻した。
 老人はかさりと乾いた衣擦れの音を立てて横を向く。
「おお。博士」
「どうなされた? あなたが何故ここに」
 ソラは、老人の眼差しから外れて、ほっとした。立ちすくみながら、鼓動する心臓を押さえようと胸に手をやったが、会話する教官の声にも、強い恐怖を押し返そうと、変に力が入っているのが分かった。
「院長の。命令じゃわ」
「――学院長の?!」
「院の現状をご存知か?」
 これはガニアの声だ。皆が、戻ってきたようだ。
「無論。密使が参った。無様だの」
「密使? いつです」
「今宵。臥せとるよ」
「い、院内から学院長の密使が来たということですか?」
「そう言うとろ」
 いいや。老人は言葉足らずで、確認しなければどうとでも取れるような話しかしていない。
 真意を確かめた後には、困惑したようなざわめきが起こった。
 彼らはその学院長を助けようと奔走しているのだから、無理もない。学院長達は彼らの結集を知らないであろうとは言え。
「何故また、ホーデ殿に」
 水鳥が、囀るような音がした。
 老人が笑ったのだ。
「埋葬係の。死神の徒にの。――ぬし等は、無知故の」
 面と向かって、この物言いだった。
 だが、それは、乾いていて遠かった。
 アルスス学徒の侮蔑のように生々しくはない。遥かに、遠いところから、生物全体を笑っているかのような。どこか連絡が断絶したものだった。
「知れば、納得しよ」
「と、ともかく、中へ。学院長が何を言って寄越したのか知りたい」
 靴音がして、議長役の教官から玄関へ入ってきた。ソラは脇に退く。二、三人おいて老人が招き入れられた。
 黒尽くめの老人は音もなく下宿に入ると、ソラに一瞥を呉れて、それから階段を上って行った。その後ろを少年。そして教官や学徒らが続く。
 ポリネがいた。ソラは思わず近寄る。
「ソラ、もう大丈夫?」
「あの人、誰です?」
 ポリネもさすがに薄気味悪そうに顔をしかめた。
「びっくりしたでしょ。あれは、ホーデ博士よ。学院専属の埋葬係で、死神タルの信徒なの」
「……そんな学問、あるんですか……?!」
「学問とは言えないかもしれないわ。とても特殊なもので、門戸が開かれているわけではないから。ただ、学院の聖堂に偉人達の遺体が保管してあるでしょう。あの防腐処理を行うのが、彼らなの。その道の専門家なのよ」
「話す故の」
 いきなり声が振ってきて、二人ともの体がびくっと震えた。見上げると、階段の半ばで老人がこちらを振り返って笑っている。
「黙して来ん」
 またくるりと背を向けて上って行った。
「どうして?」
 ポリネが言うが、ソラだって聞きたい。あの態度は何なのだ。どうしてあの老人は、自分に注目しているのだ。
 二階では、イラカとハンがこの不気味なものの到着を眺めていた。リリザはイラカの背中に隠れていた。無理もない。
 とまれ全員が一室に入り、扉が、閉てられる。



「我らが神は貪る神。我らには生存以外、全てを捧げねば応えぬ。従って流布は不可能である。我らはただ一人弟子を取り、全ての技能を伝えて滅ぶ。長生きをするが肝要じゃ。この神に、関わる者の総数を減ずるためにはの」
 椅子に座って話す老人の後ろに、例の少年が立っている。身じろぎもせず、呼吸している気配さえ分からず、色もまた信じられぬほど白い。
 これがその弟子なのだろうか。まるで死体みたいだ。とソラは思う。
 その有様は、あの聖堂の壁で眠る偉人達の佇まいにも似ている。
 学者は、その専門とする神に次第に似てくるなどと言うが、まさか死体にまで近づくなんて――。
「我らは、所属することはない。が、学院には三代目より契約があり骸の保全に協力しておる。引き換えに、銀鈴博士号を下さるがの」
 老人はまたきょきょきょと笑った。それが、『無だ』と言っていた。
「それで? 院長はあなたに密使を出して、なんと言ってきたんです。バルバスを呪い殺してくれとでも?」
 ポリネが険の強い声でいきなり言った。
 彼女は腕組みし、明らかにいらいらしていた。だがそれは、内心の怯えを隠すためだということが誰にも分かった。
 屈辱的な思いを味わいながら、まる一昼夜、苦役に耐えてきたのだ。その挙句に来たのがこの爺さんである。
 大声を出したくもなるではないか。
 普段彼女の元気さに困ることもないではないが、この時ばかりはソラを含め全員が彼女の声に同調した。
 もちろん老人は、『死』であるから、構わなかった。どこの『死』が声の大きさに左右されるだろうか。
 彼はただ、恐ろしく冷たく笑っただけだった。
「誤解だの。我らは呪殺の芸人ではないの。それは『私』。『死』は『私』を許さない。『私』を一切捨てて仕える時にだけ、我が神の我らに応える」
 言葉の羅列を聞いた時点ですでにぞうっとした。
 完全なる無私を貫き、生き永らえる限界まで自分を忘れ、生きながら、死になりきった時にだけ、その秘密が、ちらりと分かるというのか。
 一体、何年?
 ――ネコの好きな大学者チーファンの言葉だ。
『人にはまともに見ることができないものが二つある。太陽と、死だ。』
 この老人と少年は、それを見ようとする人々なのである。目がつぶれ現世が見えなくても、当然と言えば当然だ。
「ま、それも書いてあったがの。愚かな男じゃ。違うと言うに。彼奴め、それがならぬなら――クローヴィスを起こせと、言ってきおった」
 かなり長い間、全員が墓場の副葬品の焼人形のように固まっていた。
「え?」
 始めにそう漏らしたのは、席が不足したために壁を背に立っていた、イラカだ。
 その、若く、人間らしい声が、皆の呼吸を再開させる。
「――何と言われた?」
 微動だにしないポリネの隣でガニアが囁く。
「学院長め、彼奴に、後始末をさせたいのであろ」
「……あなた方は、死人を復活させられるのか?!」
 今度のははったりではない。本気の驚愕から出た大声だった。
 老人は体を揺する。
「お主らは、無知故の」
「本当に……?!」
「クローヴィスは死んでおらぬ」



 大きい戦争 小さい戦争
 英雄さまは 壁の中




 死人を蘇らせられると言われるのと、どっちがましだっただろうか。
 その場にいた二十六人は完全に老人の話した事実にうちのめされ、思考が麻痺した。
 ものを考えたくても、寧ろ考えねばならなくても、出来なかった。
 血流が手元に戻ってくるまでの数分間を、もどかしく耐えねばならなかった。
「な、な……」
 議長役の博士が、大人の貫禄も慎みもすっかり忘れて、本当に震えていた。
「なんですと……?!」
 大の大人が完全に動転しているのはそれ自体が人を動転させるものだ。ソラもハンも、悪寒に縮み上がった。
「あの、壁に入った聖者たちはみな、生きているのですか?」
 他の教官の言葉に、老人は初めて、首を振った。
「否。クローヴィスただ一人のみじゃ。我らにしてもこれは初の試みであった。――あの青二才はの、病を抱えておったのじゃ。彼奴が死にとうないと言い出したか、周りが殺してならぬと言い出したかは知らぬが、新法をもって、仮死の寝床につき、それをもって命を永らえ病を癒そうとしたのじゃ。
 奇妙なる、方法であったわ。何故死神タルの慈悲を避けんとするか我には知れぬが、やりたいと申し、手を貸せというなら契約に基づきなさぬでもない――。我らが願いに死の神も応えて下さった故、務めた。げに穢れた仕事もあったものじゃが」
 彼らにとっては、死以外の全ての事象は穢れなのかもしれない。
 分からないでもないのが、不思議だ。
「一体、そんなことが、可能なのですか? 昏睡状態は冬眠と思えばまだ理解できる。しかし、例えば呼吸は? 代謝はしているのですか?」
 これはシギヤの教官の質問だった。ソラもそうだが、シギヤは芽生えを司る学問なので、具体的に気になるのだ。
「彼奴は、呼吸はしておらぬ。言うなればの、胎児と同様じゃ。あれは、羊水のなかにつかっておりながら生きておろ。肺は羊水で満ちておる。クローヴィスの肺は羊水で満ちておるのではなく、恐らく、力で満ちておる」
「――力?」
「アルススの力じゃよ。各所に彫った文身より、流れ込んでくる力を全身に回し、その熱量によって生体を維持しておるようじゃ。呼吸をせず、摂食せぬまま、完全に力に依存して生きておる。アルススの、嬰児じゃよ。我らはその外縁を不変の術で覆ったのみじゃ。遺体に対してするのと同じ。皮膚と髪の腐食を止める。我が解体の神の目から一定の範囲だけをお隠し申し上げるものじゃ。その術を解いて、呼びかけて目を覚まさせれば、彼奴は自力で復活するそうじゃ。恐らくの」
「恐らく?」
 誰かが不安げに言う。
「前例がないでの。その実とっくに死んでおるかも知れぬ。病はいかがなったやら。我の関することではないがの。我はただ、彼奴めを起こせと命ぜられたのみ故」
 小刻みに身を揺すりながら、人間業でないほど冷たく老人は笑う。
「しかし、院長めは気がきかぬ。彼奴を起こせと言いながら、どのように院内へ入ればよいかは示しておらぬ。しょうことなしに、ぬしらを、訪ねて参ったわ」
「……切羽詰っているのですよ。院長にしても、最後の手段なのでしょう」
「さても落ちぶれたくはないもの。どうするかの、ぬしら。我を案内するか。ぬしらがやらぬのであれば、我らはまた別の者を見つけねばならぬ」
 老人が水を向けた途端、室内がまたしんと静まり返った。
「……あまりに、意外なお話で」
 議長役の博士が、まだうろたえながら申し出る。
「話し合いをさせて頂きたい。ホーデ殿らは、どうぞそのまま。銅鼎博士以外は、一旦外へ出ていただけないだろうか。申し訳ないが」
 その言葉に、指定から洩れた学者と学徒二十名程が立ち上がる。勿論、ソラもそうである。
 既に歩き慣れた下宿の床が、まるで真綿みたいに浮ついていた。頭が麻痺し、体がふらつくが、疲労のためなのか、あまりの衝撃のためなのか判然としなかった。
 いや、やはり。衝撃のためだろう。
「……なんと、言ったらいいか……」
 青い顔でハンが漏らす。まったく同感だった。
 廊下の突き当たりの窓の下にイラカとリリザがいた。青白い顔が固まって並ぶ中で、彼らの目だけは輝き、頬には血の気がさしていた。
 無理もないだろう。何しろ、彼らの英雄クローヴィスが生きていたというのだ。しかも、信じられないような高等な技術を駆使していたとなれば、やっぱり嬉しくなってしまっても無理はない。
 とん、と誰かの頭が肩に当たった。見ると、ポリネだ。
 ソラは驚いて、その瞬間、普段の立場が逆転した。
 彼女は常に元気一杯で、ソラが弱っている時励ましてくれた。しかし、今ほど彼女が青ざめているのを見たことがなかった。
 すぐにでも倒れそうだ。
 ソラは咄嗟にガニアの姿を探したが、思えば彼は銅鼎博士なので中にいる。
 細く小さな肩を両手で支えて声をかけた。
「大丈夫ですか。先生」
「…………」
 ポリネは、人形のように斜め下を向いたままだった。やがて、声が漏れる。
「意味わかんない……」
 ハンが椅子を持って来ようとしたその時、扉が開いた。
 早くも、決定が出たのだ。
 というより、始めから、話し合うことなどないのである。彼らはただ、事の次第のあまりの恐ろしさに、決断まで手間をかけたかったのに過ぎない。
 全員が再び中に入れられ、学院に侵入することに決定したと告げられた。


「志願者のみを連れて行く。隊を二つに別ける。一つは正門に回り、注意をひきつける。もう一隊が、その間に柵を越し、侵入する。――図らずも、ホーデ博士により、学院長の生存が確認された。捕縛されているか、抵抗を続けているかは分からないが、他にも生存者は多数いると見られる。慎重に事を運ばねばならない」
「連中は、学院長は、譲位に同意したと言っていませんでしたか」
「事実ではないのだろう。少なくとも、本心では。……問題は、クローヴィスが本当に生きているのか、確証はないことだ。ホーデ博士にすら、それは明らかではない。行って無駄になる可能性もある。しかし……やはり、捨て置くことは出来ないという結論に達した。無駄になるとしても、その犠牲は、我らが払うべきだろう」
 議長役の博士は言って、手元の紙に指を這わした。短時間で書き留めた走り書きのようだ。
「これより、振り分けを発表する。名を呼ばれたら、承知か不承知か、返答をされたい。遠慮は不要である。人の決断に関係なく、自らの意志をはっきり表明して頂きたい。――尚、侵入班から発表する。それ以外の全員が、正門班になる。実力や能力を考査して、振り分けたつもりである。……まず、当然ホーデ博士は侵入側である。侵入班は彼の保護も任務に含まれる。――ハン・リ・ルクス」
 まさか、いの一番に呼ばれるとは思ってもいなかったのだろう。
 ハンは撃たれたように目を見開いたが、数瞬の後、返答した。
「……承知しました」
 それから、数人の名が続けて呼ばれた。全て男性で、年若く体格に優れた者達だった。全員が承知した。
「――イル・カフカス・イラカ」
「駄目よ!」
 その名が呼ばれると同時に、彼ではない人間が返事をした。リリザだ。
「彼は病人だわ!」
「……」
 全員の注目が集まる中、イラカは静かに手を上げて、前に出たリリザを後ろへ戻した。それから、いかにも苦い表情で、言った。
「遺憾ながら、連れの言うとおりです。不承知ではありませんが、俺は、役に立ちません。期待をして頂いたのはとても嬉しいのですが、いないほうがいいでしょう」
「……了解した。では君は、正門側へ。リリザは、どうするかね」
「……」
 イラカは顎を引いて、後ろにいる彼女を窺った。
「彼女は連名に名前もない。途中参加で、我々も判断に迷った。戦闘能力があるので、侵入班に加わって頂ければ、助かるが――」
「私は行けません」
 リリザは答えた。
「お世話になったアルススの教官と交戦することは、とてもできません」
「うむ――」
 きょきょきょ、と、いう闇夜の鳥のような笑い声が老人のフードの奥からまた漏れた。
 どうにもこの笑い声は、人をぎょっとさせる。
「ホーデ殿。何か?」
「いやいや。そこなおなごの言うことはもっともじゃ。代わりのあっちの、髪の黒い学徒を加えてはいかがじゃ」
 視線がまっすぐこちらへくるので、ソラはハンの隣で飛び上がった。
 なんだってこの老人は、こう自分を脅かすのだろう?
「カエル・ソンターク・ソラを? ……我々の案では、正門班でしたが」
 議長の目がガニアの視線と合う。ガニアは眉間に深い皺を寄せたまま、そうです、と言うように頷いた。
「シギヤ学の女生徒は、侵入班には……」
「なんの。十分強かそうではないか。いい指輪もはめておる」
 ソラはますますぞっとした。いつの間に、手を見ていたのだろう?
「た、確かに、彼女は実習にも参加したような活発な生徒ですが……」
「連れて行きたい。クローヴィスの懐柔に役立とう」
「え?」
「ぬしら、あの傲慢な男を起こした後のことを考えておるか? この薄気味悪い老骨や、見も知らぬ異学の徒ばかりが、ものを言ったとて思うとおりに動くと思うてか? そ奴は、役に立つと思うがの」
「……どういう意味です」
 ガニアが、全員の疑問を代弁して言った。だが、老人はにやにや笑うばかりだ。
「ぬしに分からぬとも思えぬがの。外したからには」
 ガニアの額が青くなって、血管が浮き出したが、発言したのは議長だった。
「どうかね? ソラ?」
「…………」
 ソラは笑う老人を見た。それから、ガニアを見、壁際に立つイラカを見た。ハンは近すぎて見えなかったが視線を感じた。最後に議長を見た。
「承知しました」
 このとき、彼女の中に渦巻いていたものに、はっきりとした名前をつけることはできない。
 それは、疲労であり、思考停止であり、混乱だった。
 だが同時に、義務感であり、ネコの協力をとりつけることができなかった失敗を償わねばならないという罪悪感であり、最後に、ひねり潰すことのできない、好奇心だった。
 彼女は正門班に命じられれば大人しく従っただろう。だが、侵入班に名指しされれば、敢えて断り切ることもできなかった。
 葛藤は消えなかった。怖くもあった。戦闘地帯に入っていくのも、黒尽くめの老人の思惑に乗って、未だに信じきれないような作戦に同行するのも。
 何故老人は笑うのだろう。
 さりとて、正門に回ることが最善なのか。
 何がいいことなのかまるきり分からないまま進んでいく。
 夏の昼間にうっかり寝入ったときに見る、悪くて短い夢みたいだ。


 彼女が呆然としている間に、名前の読み上げは全て終わった。
 ほぼ妥当な振り分けだったらしく、その後に不承知の返事は一件もなかった。
 十五分後に出発と言われて、ソラはハンと一緒にポリネの下宿に戻り、置きっ放しの護符を集めて侵入班の全員に配ることにした。
 そのために階段を降りようとした時、イラカに会った。リリザが、まるで押さえるように、その腕を両手で胸の前に抱えている。
「まあこれほど後悔したことはないですよ」
 彼が自分を嘲って苦笑すると、頬で美しい黥が波打った。
「本当にあんたを怒らせたりしなければ良かった」




(つづく)
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