heaven's candy -2-
2012/05/23





  一夜明けたら、――はい、全部、夢でした! なんてことになるかと思った。
 これまでの経験から言って。
 ところが、夢では、なかった。トウマ・リーダスのこれまでの人生の中で、一番夢で終わりそうなことが起きた今回に限って、それは、現実だった。
 寝癖の直りきらない頭で、守備隊兵舎に向かい、朝の整列に滑りこむ。もうその時点で、みなの見る目が違った。
 これまでも、彼はじろじろ見られることがあったけれど、それは大抵、赤い髪や、彼の貧乏くさい格好に対するぶしつけな好奇のためで、おしまいには軽い嘲笑まで追加されるのが落ちだった。
 だから彼はそれ以外の理由で自分が注目される日が来るなんて、思ってもみなかったのだが。
 その朝は、まるきり全てが違っていた。
 彼は、――本当だろうか、本当にこいつが? という、疑いと期待の入り混じった熱い視線に取り巻かれ、どこを向いても必ず人と目が合った。
 こんなふうに四方八方から見られていたら、とても普段のように猫背で立ってはいられない。トウマは、自分でも面映いほど背を伸ばして砂場に直立し、長たらしい隊長の訓示を、ずいぶんかしこまって聞くことになった。
 きっとそのためだろう。いつもなら、どんちゃん騒ぎのあくる日は昼頃まで頭が重く、体もだるいのに、今日は一瞬で力が蘇って、視界も明るくなった。左胸では心臓が、力強く波打っているのが、感じられる。
 不思議な気持ちだった。全身に力が満ちて、彼は、自分が、生きていると感じた。
 これまでに同じ朝を、無造作に、数え切れないほど過ごしてきたのに、彼は今日初めて、その強い実感を味わっていた。
 同時に、彼は、同じだけ大きな緊張をも、抱いていた。それは、訓示が終わって列がばらけ、行き交う隊士らの間から、インターベアの大きな体が視界に現れた瞬間に、頂点に達した。
 だが、顔にいくつかの痣を張りつけ、右手首には湿布を巻いたインターベアは、三秒と耐えず、自分から視線を反らし、そそくさと彼の前からいなくなった。その際、彼が体を反転させたために、その左胸が見えた。無徽章だった。
 成り行きを見ていた隊士達は息を呑み、その視線と囁きが、さらに熱っぽく加速する。
 トウマは、蒸発してゆく冷や汗を感じながら立ちつくし、波打つ自分の脈の音を聞いていた。
 誰かが、横からその首に腕を回して、力一杯締め付ける。双方の帯剣が揺れて、がちゃりと鳴った。
「――宣伝する必要なんか、まるでないな。本当に、最高にわくわくする状況だ」
 ジギスムンドだ。トウマは近距離のためにかえって苦労して、彼の横顔を見る。
 もともと、ジギスムンドは結構男前だが、今日は一段と生き生きして、まるで初めて会う男みたいだった。或いは、自分も今興奮し、こんなふうに目をきらきらさせているのだろうか?
「なんのことだ? 宣伝って」
「こういうことさ。トウマ・リーダスに、勝利の女神が味方についた。彼は奇跡みたいに強くなって、あのインターベアを打ち負かした。何かの間違いだ。まさかあいつなんかに負けることはないと思う者は、今すぐ仕合を申し込むがいい――トウマ・リーダスは、いつでも受けて立つだろう」
「まさか。そんな挑発が効くわけない。この、守備隊なんかで」
「ところが、どっこい」
 ジギスムンドはにやりと笑うと、小指と薬指を畳んで残りの指三本を、トウマの顔の前に示した。トウマは驚いて目を開く。
「――三? ……もう三人も、申し込みに来たのか?」
「違う――七人だ。片手じゃあ足りない」
 ジギスムンドは本当に楽しそうに腕に力をこめると、弾みをつけて、何度かトウマの体を揺さぶりながら、白い歯を見せる。
「トウマ。忙しくなるぞ! これから」
 その顔は、もはや兵隊のそれではなかった。彼は完全に商人の顔になっていた。もっと言うならば、面白い対戦を仕組み、仕合を派手に演出して、騒ぎを大きくしようとする興行師のそれだ。
「ちょ、ちょっと待て」
 トウマは彼の腕を肩から外して、その体を押しのけた。
「そんな仕合は、受けられない。あまり調子に乗るな」
「ああ。そうだな。いくらなんでも七人は無理だ。もちろん対戦相手は厳選するさ。つまらん仕合はさせないぜ」
「違う……! ニーナは、俺達のものじゃないってことだ」
 その時、二人は上官から叱責を受けた。いつまでも砂場に居残っていたためだ。それで、持ち場に向かうべく、歩きだす。
「つまんねえ巡回なんかやってられるかよ」
 ジギスムンドのいつもの悪態も、今日は余計に反抗的に聞こえた。
「――なんだよ、トウマ。こんな時に限って真面目ぶらなくてもいいじゃないか。ニーナを、返すって言うのか?」
「もともと、あの子は迷子だったんだ。迷子の子どもを保護したら、家に返すのが筋だろう。騒動に巻き込んで、一晩泊めちまっただけでも問題だ。教会でどれだけ心配してるか分からない」
「馬鹿だな、お前は。ニーナを返したら、それっきりだぞ。二度と一緒には戦わせてもらえない。もともとあの子は、もっと上流の剣士のために教育されてるんだからな。俺達守備兵なんかには、絶対に貸与してもらえない。取り上げられる」
「そうだ。だから、仕合なんか出来ないと言ってるんだ。俺はまた元に戻るんだ。ただの、トウマ・リーダスになるんだ」
 いきなり、ジギスムンドの手が、トウマの胸倉をつかんで、無理矢理に方向転換させた。
 彼が戸惑って彼の方を向くと、ジギスムンドは衣服を離し、代わりにその心臓に、人差し指をつきつけた。
「お前は、本気で、そう言ってるのか」
 配置に着きながら、或いは武器の点検をするふりをしながら、体操するふりをしながら、遠巻きに彼らを眺める隊士達の前で、二人はにらみ合った。守備隊は、兵舎も金がかかっておらず、無骨でどこか貧弱だ。秋の風が吹いて埃が舞い上がり、古い戸板がバタバタと鳴った。
「この、千載一遇の好機をみすみす捨てて、昨日までの、つまらない、惨めな、貧乏な、負け犬の生活に戻るって、本気で、言ってるのか?」
 そう言われると、トウマも、喉元が苦しくなった。トウマだって男だ。勝利の美酒の味は忘れがたい。女にも優しくしてもらった。――この部隊中の人間から警戒され、特別視される立場を、たった一日で放棄してしまって惜しくはないのかと問われたら、惜しいに決まっている。
 しかし、それと同じように、どうがんばっても、偶然道で拾い上げたものは、自分のものではないに決まっている。仮に、道にインク壷が落ちていたとして、それを懐に入れても、使ってしまっても、誰も責めないかもしれないが、何か気持ちが悪い話ではないか。
 本来の持ち主のもとに戻って、その用に使われることこそが、妥当なことではないか。横取りして、使うなんて、良心が咎める。
 昨日のは、仕方がなかった。誰もニーナがナビゲーターだなんて知らなかったし、あの子が恩返しのために自分から、断りもなくこちらを補佐したのだから。
 だが、彼女の能力を知り、本来彼女がいるべき場所も知った今になって、彼女を返さず、自分達につき合わせ続けるなんて、それは騎士道にもとる行為だ。
 というより、誘拐と、どう違うのだ。
「――馬鹿を言うな、誘拐なんかじゃない。第一、あの子は帰ろうと思えばいくらでも帰れたんだぞ、昨夜のうちに! 今だって、監視されてるわけでも、閉じ込められてるわけでもない! 帰りたいなら、そう言うはずだ」
 ちなみにニーナの身柄は、二葉亭に預けてある。今頃、眼を覚まして、ごはんでも食べているかもしれない。
 ジギスムンドは、勤務の間も、終始トウマの後ろをついて回り、ひっきりなしに彼を説得し続けた。
「俺だって、あの子が『帰りたい』というのに、無理に引き止めて一緒にいさせようなんて思っちゃいない。それをやったら、確かに、誘拐だよ。犯罪だ。けど、あの子が自分から俺らと一緒にいたいというなら、問題はないはずだろ? あの子が面白がって俺らと一緒に戦ってくれるというのを、拒む理由はないだろ? それを、わざわざこっちから返しに行くなんて、馬鹿のすることだぜ、トウマ! せめて――せめて、あの子に里心がついて『帰る』と言い出すまでは、一緒に、いようぜ!」
「その間に、あの子に何回仕合させるつもりなんだ」
「俺は、俺達全員の幸せを考えて言っているんだ!」
 トウマが気乗りのしなさそうな態度を見せると、ジギスムンドは彼の真正面に回り込み、真顔で言った。
「いいか、トウマ。俺達は、出世がしたい。こんな味気ないどん底の日常から、脱出したい。そうだな? そのためのチャンスは、限られてる。どんな小さな機会でも、とらえて離さないようにしなくちゃだめだ。これは、戦いの基本だぞ。そうしなくちゃ、俺らのように元々不利な立場にある人間は、永遠に形勢を変えられない!」
「……」
 トウマは、友の顔を見た。その目には、消しきれない戸惑いと、迷いとが浮かんでいた。
 ジギスムンドは勢いづく。
「そうだ。ほんの、二、三仕合でもいいんだ。それだけでも、やり遂げよう。それだけで、俺らの人生は確実に、上向きになる。そうだろう? 感じるだろう? 昨日の野仕合に一つ勝っただけで、今日、俺達はこれだけ自由になったんだ。与えられた幸運を最大限に活用してどうしていけない? ひょっとしたら、ニーナを教会に返すのが遅すぎたかもしれないという反省は、全てが終わった後、じっくりしたらいいんだ。それくらいは、許される。何もおかしなことはしていない。俺達はただ、うまく状況を使っただけだ。犯罪的なことは、なにもないぜ!」
 朝が終わり、昼が過ぎ、日が傾いて夕方になるまで、ジギスムンドはこの調子で延々と自説を説き続けた。
 そのため、勤務が終わる頃には、トウマの単純な正義感も、かなり動揺させられていた。
 元々、トウマにだって、ジギスムンドの言うことは分かるのだ。今日こうして、ありとあらゆる隊士から一目置かれる立場に出世して、自尊心が満たされたことも、気分が明るくなったことも、否定できない。
 ただ、どうしても、彼は、安心できないのだ。なにか許されざる、違反的なことをしているような後ろめたさが、どうしても、振り払えない。
 トウマは洗練された人間ではないから、その罪悪感の理由を、的確に把握も説明もできなかった。それで副次的な理由をぽつぽつと口にしたけれど、そのたび、ジギスムンドに一々論破される。
「――馬鹿だな、お前。ニーナはもともと、騎士や近衛兵士をナビゲートするために育てられているんだぞ。どうせ誰かと戦うんだ。巻き込むも何もあるもんか。第一、最初にお前をナビゲートしたのはあの子の方じゃないか。あの子は、寧ろお前に『さあ』と言った。お前より倍も躊躇がないよ。普通の子どもとは違うんだよ。進んでお前と一緒に戦ってくれるさ」
 そうやって、一つ一つ、だめな理由を消されて、トウマはほとんど押し切られそうだった。だが、それでも、自分から「よし、やろう!」というところまでは行けなかった。
 どうしても、やっぱり、物事をしかるべき位置へ戻すべきではないかという強い観念が彼の魂の真ん中にあって、夜の森のように、動かせないのだ。
 勤務が終わっても、議論は依然、平行線のままだった。二人はかえっていつもよりくたびれて、のこのこと二葉亭に戻ることになった。
 昨夜インターベアを叩きのめした通りを歩き、備品を壊してしまった八百屋の看板を横目に見ながら、触られ過ぎてつるつるになったドアの取っ手に、手を掛ける。
「煮え切らない奴だな。お前は。肝心の時に」
 ジギスムンドの非難を我慢しながら扉を開くと、いつもの席に座るカーネルと目が合った。
「あ。おかえり!」
 今日一日、非番であった彼は、珍しくメシも食わずに身を屈め、背丈ほどもある大きな黄色ののぼりに、筆で、『奇跡の騎士! 神の乙女!』などと装飾文字を染め抜いているところだった。
 その脇にはたすきもあって、トウマのフルネームが、真っ黒な墨で、でかでかと書きこまれている。
「……」
 忘れていたが、彼は結構手先が器用なのだ。





「いや、もう、すごいよ! 今日一日で、何十人もの人から声を掛けられてさあ。次に仕合がある時に教えてくれたら、お礼をするなんて人もいて……」
「そいつは胴元だぞ! 来ると思ってた! でかい仕合には賭けが付き物だからな。俺らにも礼金が入るぞ。徽章だけじゃないぞ!」
「だよねだよね! 俺もう、興奮しちゃってさあ。なんか、いてもたってもいられなくて、こんなもん作り始めちゃってさ。うふふふふ」
「お前からも、トウマを説得してくれ、カーネル。あいつ、なんか乗り気じゃなくて」
「えーっ?! なんでっ?!」
 やる気満々の戦友二人から離れるように、トウマは一人炊事場をのぞきこみ、奥にいるローラに声を掛けた。
「――ニーナは? 一日預かってくれてどうもありがとう」
「あら、トウマ。お帰り! 礼には及ばないわ。妹が出来たみたいで楽しかったし、すごくいい子にしてたのよ。何出しても、まるで初めて食べるみたいに、おいしそうに食べてくれるし。いい子ね、あの子。ちょっと変わってるけど」
 埃だらけのトウマは、ようやく緊張を緩ませ、優しい気持ちになって、笑えた。トウマはもともと享楽主義者だ。これだからローラは好きだ。
「姿が見えないけど、奥で寝てるの?」
「いいえ。外で遊んでるはずよ。会わなかった? 近所の子と仲良くなったみたいだったけど――遠くまで行っちゃってるのかしら」
 その何気ない答えに、テーブル席の男二人が、凍りつく気配がした。ジギスムンドが、鋭くカーネルを叱りつける。
「カーネル! どうしてちゃんと見てないんだ!」
「あ。ごめん……。つい、夢中になって……」
 振り向かぬままのトウマの胸に、忍び寄る暗さがあった。
 ローラと、ジギスムンド。この二人では、ニーナに対する態度が違う。どちらも、彼女のことを大事にしているようでいて、やっぱりジギスムンドには、下心がある。ローラは、無心だ。
 ああ――これだ。トウマは思った。
 きっとこれだから、自分は心から、ジギスムンドの説に賛成できないのだ。
 弁護士志望だったというジギスムンドは、あの手この手を使って、自分達の野望を正当化する。けれど、そのために結局自分達は、あの小さな少女を、外の世界を知らない無防備な少女を、その無知ゆえに利用しているに過ぎないではないか。
 公平なやり方とは言えない。
 世界が不公平なのだから、これくらいはしてもいいのだと、彼は言う。しかしそれは落とし物をくすねる側の、屁理屈に過ぎない。
 トウマは、ジギスムンドを憎まなかった。だって、落とし物を拾ったのは自分だからだ。手を出さなければよかった。放っておけばよかった。彼が一人で歩いていたら、ニーナは決して、ここにはいなかっただろう。
 彼をおかしくしたのは自分なのだ。
 ダメだ。やはり、返さなくてはならない。本来あるべき形へ、戻さなくてはならない。ニーナだけではない。自分達も。
 夢は夢で、終わらせなければならない。みんなの目を、覚まさせなければ――。
 ちょうどそのた時、二葉亭のドアが開いて、大人達の思惑を知らないニーナがひょっこり外から戻ってきた。腕には、ピンクの仔兎。相変わらず天使のようなワンピースだが、彼女も兎も下町の埃にまみれて、ぼんやり薄汚くなっている。
「おかえり、ニーナ」
 少女は、トウマに呼ばれると目を見開き、それからおかえりと言われたことが嬉しかったようで、ほんのちょっとだけ、笑った。
 それは、小さいけれど、本物の微笑だった。女好きのトウマが、心から大好きなものだ。
 彼は病気だから、思わず愛しくなって腰を屈め、両手を広げる。
 ニーナがそれに応えて、動き出そうとした、瞬間だった。彼女の後ろで、閉まりかけていたドアが音もなく再び開いて、そこに、なにか薄っぺらい亡霊のようなものが現れた。
 嘘ではない。
 トウマは咄嗟に前に飛び出して、彼女を腕の中に抱え上げると、後退した。するとその安っぽいもののけは、敷居をまたいで、音もなく店の中へと入ってくる。
 サンダルを履いた棒のような二本の足に刺青が踊って、無論のことそれは、人間だった。全身黒尽くめの擦り切れた服を身にまとい、その腕や足は言うに及ばず、フードの中に隠れた白い顔にまで偏執的に、しつこく刺青を入れた、異様な人間だった。
 テーブルに着いていたカーネルと、ジギスムンドが、「あっ!」と言って、腰を浮かす。
 ジギスムンドが叫んだ。
「――ジョン!」
 夕刻の二葉亭に現れたその、いかにも軽薄で不潔な、安っぽい幽霊のような男は、昨日、黒い髪の騎士にこてんぱんにされるトウマを裏切って姿を消した、下町の三流ナビゲーター、ジョンだった。




「てめえ、よくもぬけぬけと俺らの前に出て来れたな!」
 ジギスムンドが椅子を蹴り倒して彼に飛びつくと、その衣服をつかんで、力任せに壁に押し付けた。全身、骨と皮ばかり、馬鹿馬鹿しいほどに痩せた刺青男は、なされるがままになりながら、両手を上げて、相手の寛恕を求めた。
「分かってるよぅ。分かってるよぅ。堪忍な」
 ジョンはいつも、こんなどこか嘘くさい方言を使って、だらしなく、馴れ馴れしく話す男だった。最初から卑屈一辺倒で周囲に対して残らずへつらい、男らしく毅然となったところなど、見たこともない。それでいて、全身に刺青を入れる度胸があるのだから、あべこべな話だ。
「いやあ、ボクもなぁ、ほんまに悪かったと思ってん。やから筋を通そう思うて、来にくいこの店に、一人で来たんやんか」
「トウマに謝れ! お前はトウマの金を持ち逃げしたんだぞ!」
 そう言われたジョンは、視線を転じてトウマを見た。フードの中で目を細め、信じられないくらい柔和な笑みを浮かべると、小首を傾げて、嘯く。
「すまんかったなあ、トウマはん」
「……」
「でも、あの騎士さん、段違いの強さやったやん。聞いてた話と違うから、ボクもすっかり怖くなってしもうて。すごく心配してたんやで。ほんまに無事でよかったわ。堪忍してえなあ」
「――……」
 あまりの馬鹿馬鹿しさに、トウマは思わずニーナの肩に、ため息をついてしまった。
 けれど、それは、慣れきったため息でもあった。
 彼の周囲にいる人間なんて、所詮、この程度の連中だ。
「ボクもなぁ、これはもう当分の間、顔向けできへんなぁ思うとったんやけど、なんや三丁目のから、とんでもない噂聞いたさかい、来てみたんや。来てみたら、ほんまや。ほんまに、おらはるのやなぁ、お嬢ちゃん」
 ジョンは、ジギスムンドがちょっとぎくりとした隙に、その腕からするりと逃れると、サンダルを履いた模様入りの足で、床石を擦りながら、ゆっくりと、時間をかけて、トウマに近づいた。
 彼の腕に腰掛けたニーナが、身をねじって顔を向ける。彼はその前に、まるで聖母子にでも対するような丁寧さで身を屈めたかと思うと、普段の彼とは少し違った低い、掠れ声で、恭しく彼女に囁きかけるのだ。
「お嬢ちゃん。あんたは、こんなところにいはったら、いけません。あんたはん、ジニアスやろ。今すぐ、チューターのところへ、帰らな」
 警戒を解かぬまま、トウマが呟く。
「……ジニアス?」
 ジョンはまたにこりと笑って、彼に視線を移した。
「天から、大いなる才能を与えられた子や。神童や。ボクらみたいな半端もんと違う。年に一人出るか出んかの、要人専用の、第一級のナビゲーターや。あんた達、よう知らんのやろ。危ないで。舵取り間違うたら、命がのうなる。それを教えてあげよう思うて、来たんや」
 ジョンは体を起こすと、フードを脱ぎ、何事かと炊事場から出てきたローラに会釈して言った。
「ねえさん、全員にエールと、お嬢ちゃんにはなにか甘いもんあげてください。ここはボクが、おごらせてもらいます」




 ナビゲーターのジョンは、趣味は悪いし、見た目も態度もぺらぺらで、いかにも頭の悪そうな印象を与えるけれど、実は意外としたたかな男だ。ここは徹底的に折れるべきところだと見抜いたらしく、飲み物の金を払う代わりに、いつの間にかぬけぬけと彼らのテーブルに混ざってしまった。
 ジギスムンドも、トウマも、この小ネズミみたいな男がこちらに露骨に恩を売ろうとしていることに気がついていたが、撃退出来なかった。寧ろ、彼が持っている情報が気になってしょうがなく、食い入るようにその刺青だらけの顔を見つめてしまう。
 ジョンはそれを知っているかのように、中々話し出さなかった。テーブルの上ののぼりに眼をやってカーネルを慌てさせたりして、しばし自らの優位を楽しんでいた。
 それでも、
「――ナビゲーターを見つけるんは、教会の仕事です」
 やってきた飲み物で喉が満たされると、ようやくその気になったらしく、刺青に縦断された、薄く湿っぽい唇を開く。
「教会は、勢力内の全信徒の出生記録を持ってます。教会の建物のあるところには必ず神父がいて、地域の状況を中央に報告します。有望そうな子どもがいるという報告が上がると、直ちに人が派遣されて、審査がなされます。もし才能があると確認されれば、その子は、買い上げられます」
「なんだって?」
 思わず聞き返したジギスムンドに、ジョンは皮肉な一笑を向けると、同じ言葉を繰り返した。
「買い上げられるんです。大抵、三歳か四歳です。だから親のことは忘れます。そう多くはないですよ。多産と言われるこの国でも、一年に五、六人集まれば、ええ方です」
 ジギスムンドはトウマの顔を見た。トウマはなんとも言えない表情で、見返す。彼の脇ではニーナが兎にエサをやっている。
「五歳までは、みな、ひとしなみに神童です。そっから能力の差が出ます。ある子は、霊的能力が爆発的に伸びて神秘的な、神がかった子になります。しかし別の子は、どんどん霊感が衰えて、寧ろ感情豊かで社会的になって、普通の人間に近づいてきます。十歳頃までにランクが決まって、そこからいよいよ、人生が別れます。
 最高位のジニアスは、さっき言うたように、滅多に出ません。もし出たなら、何人もの専任の世話係――チューターが着きます。全員が教会の関係者で、高名な学僧やナビゲーターがその任に当たることもあります。その子は才能に磨きをかけられて、いずれ、国を荷う最高の武人の補佐に就きます。次点のセカンドは、毎年まあ二人、三人は出るかな。引き続き数年間、集団で教育されて、ほとんどは近衛兵付属のナビゲーター部隊に配置されます。最後の、ノーマルは――」
 ジョンは、自分を取り巻く全員の視線を受けて、小さく笑う。
「ノーマルやからね、里に戻されます。ただ、元の家がなくなってたり、たとえ戻っても、なんやうまく行かんくて、出てきてしまう人間がほとんどみたようですけどね。そういう奴が、街のあっちこっちに住み着いて零落した結句、あんた達のような貧乏剣士の雇われナビゲーターになるわけですわ。ボクのようにね」
「……じゃあ、お前も一応、才能があるのか」
「そら、ありますよ。でも、実のところ、使ってへんけどな」
「はあ?」
「だって、そうやろ。ボクはまだ、ナビゲーターのハシクレやけど、ボクみたいな人間も、この街には結構いてるけど、かたりものは、その三倍もおる。そいつらは唸ったり、眉間を指でぐりぐりしたりするだけで、立派におまんま稼いどるのに、なんでボクらがわざわざちゃんとやらなあかんの。やらんて。幸い、素浪人やら、あんた達守備隊の人は、本当のナビゲーションがどんなものか、知らんしな。一生知らんまま死んでくんが、大半やしな」
「お、お前なあ!」
「話はまだ終わってへん、ジギーはん。最後までおとなしく聞いたほうが、ええんやない」
 上下の歯を噛み合わせて、ジギスムンドは、黙った。トウマも握った拳を唇の前に当てて、黙っていた。カーネルは口を開いて、ぽかんとしている。
「そしたら、そのお嬢さんの話や」
 ジョンは、その馴れ馴れしい態度を余裕に染めて、悠々と続けた。
「昨夜から、教会が、探してますよ。そらもう必死に。騒ぎにはできへんから、内緒でやってますけどね、ボクらの間で噂は流れてましてん。やから、三丁目のどじょうヒゲから今朝、あんた達の活躍の話を聞いた時、ぴーんときましたわ。案のタマや。この子、本物のジニアスや。おそろしいことやね、二日の間に、二人のジニアスに会うなんて」
 刺青に囲まれたジョンの暗い右目が、笑みに濡れて、トウマを見た。トウマはその意味を理解する。
 彼はあの、凛然たる黒髪の騎士が連れていた子どものことを言っているのだ。あの少年が、ジニアスだったのだ。
「どうせあんた達、この子を使って一儲けしようて、思ってんでしょ。当然や。とんでもない僥倖やもんな。手の中にぽろり、ダイヤモンドが転がり込んできたようなもんや」
 実際には、銀貨だったわけだが。商人の子どもであるトウマの目が、本能であれを捉えてしまった。見過ごせなかった。
「けどな、悪いことは言わん。今すぐこの子を、教会に返して来くることや。自分らで連れて行ったら、ギリギリ処罰は免れるわ。もし、そうせんで、捜索隊に捕まったら、あんた達、ほんまに、とんでもない目に遭うで。分かるやろ。あんた達は、教会が一生懸命育ててきた国の宝に、手を出そうとしとるんや。下働きの召使が、貴族のお嬢様に懸想したら、その家の主人はどうするやろ? そいつをクビにして追放するか、抹殺、しますわな」
 息を呑んだカーネルが、斜めになった自分の首筋に両手をひたと当てた。その弾みに、肘をカップに当てて中身をこぼしてしまう。慌てて、ああ、ごめんとそれを直した後、律儀にもう一度、白い手で首を触った。
 貸し切り状態の二葉亭は、一気に、しん、となった。外の喧騒が、薄くトウマの耳に届いた。
「せやから、言うのや。今すぐ、返し」
 ジョンは猫撫で声で、親切に、丁寧に、繰り返す。
「今なら、教会の連中もきっと堪忍してくれます。けどこれが一週間、二週間となったら、もう申し開きはできへん。数日の夢と引き換えに、一生の破滅や、あんた達」
 ジギスムンドの顔が、青く、強張っていた。目元は悔しげに歪み、手は、あごヒゲに当てられ、細かに震えていた。
「分かる。あんた達の気持ちは。その無念は。せっかくの好機やもんな。それをみすみす手放さなあかんとはなぁ。けどな、このお嬢ちゃんは、ちょっと器量が違い過ぎるんや。ほんま言うたら、公爵様とか、将軍様の脇に並べられてんのが当たり前の子やねんで。こんな裏通りで、仔兎抱いて、泥だらけになっとってええのと違います。住む世界が違うんや。人にはそれぞれ、器がある。あんた達には、ボクのような三流が、似合いやで」
 ジョンが笑うと、その顔の上で、謎めいた模様が暗く踊った。そして、卑屈な、それでいてしぶとく光る黒い目が、闇のようにトウマを捉える。
「ほんまのナビゲーションが、どんなものか知った、あんたのためや。今後、ボクがあんたの専属になりましょ。手抜きはなしや。本気でナビゲートしましょ。それだけで、ずいぶん違いますよ。出世、できますよ。名を上げた剣士の専属になって、ボクも幸せになれる、いうもんや」
 ここでようやく、トウマ達は、この心得の悪い三流の詐欺師が、わざわざ自分達にこんな親切な助言をしに来た理由を、知ることが出来た。
 トウマは、顔をしかめて、この世界に散った染みのようなナビゲーターを眺める。言わないではいられなかった。
「ずるい、な。お前、は」
「おおきにお世話様。けど実際、ナビゲーターは必要でしょ? ぎょうさん仕合、申し込まれてるのと違います? お嬢ちゃんがおらんようになったら、どうしますの。また、わけのわからんのに金払いますか? お役に立ちますよ。トウマはん。一緒にいい思い、しましょうや」
「…………」
 時間が要った。美しい最高の夢を思い切り、汚くて、みみっちく、下らない現実に立ち返るための、時間が。
 それでも、トウマが、一番早かった。彼は最初から分かっていたからだ。ずるいことはできないと。ニーナは、しかるべき場所へ、返さねばならないと。
 それがはっきりしただけのことだ。
「ニーナ」
 呼ばわると、これまで不思議なくらい背後に無関心を貫いていた少女は、ベンチの上で首をねじって、振り向いた。
「帰ろう。ずいぶん遅くなってしまった」
 ジギスムンドの喉が悲痛な音を立てた。椅子に体の全部を乗せて、座り込んでいたニーナは、自分を見つめる男達の眼差しを一つ一つ見つめ返すと、やがて、こくんと、頷いた。
 トウマが立ち上がる。そして、少女の両脇に手を入れて抱え上げると、すとんと床の上へ下ろした。
「兎は、どうする? 連れてく?」
 ニーナは再び頷いて、自ら腕を伸ばし、ピンクの仔兎を、胸に抱いた。
「とっても、楽しかった。ありがとう」
 少女が、お礼を言うと、カーネルはなんとか笑みを浮かべたが、ジギスムンドはしおれてしまった。頭を垂れ、髪を掴んで、ものも言わなくなる。
「あら、行っちゃうの」
 ローラが出てきて寂しそうに笑い、少女を抱きしめる。
「せっかくパイを作り始めたところだったのに。また、いつでも遊びに来てね」
 もう二度と、来ないだろう。この美しい髪の少女は、選ばれた人間達の世界に戻って、二度と自分達の前には、現れないだろう。
 そう心の中で囁きながら、トウマは、ニーナを仔兎ごと抱き上げて、外へ出た。
 辺りはもう薄暗く、涼しい風が吹き始めて肌寒いくらいだった。ピンクの兎の毛と、ニーナのなめらかな黒髪と、彼のもじゃもじゃの赤い髪の間を、喧騒を孕んだ秋の夜風が、染み入るように通り過ぎて行った。





 まるで、時をさかのぼるように、昨日来た道を、今夜戻った。裏路地から出て北上し、大通りを西へ帰って、アーチ型のヘイブリッジに再会する。
 トウマは無言だった。ニーナも、彼の首に両腕を回してしがみついたまま、じっとしていた。兎だけがトウマの左の肩口で、時折制服をかじったりした。
 往来は、家路を急ぐ人々や、繁華街に遊びに出ようとする人々で、相変わらず混雑していた。何もかもが昨日と全く変わっていないようで、一瞬記憶がごちゃごちゃになりそうになるが、面白いことに、ヘイブリッジの石段を昇りきってみたら――そこに、宇宙生物売りだけが、いなかった。
 他のものは全て同じだったのに、それだけが、なかったのだ。
 ぽかりと空白的に感じられる白い欄干の向こうには、音もなく流れる支流があり、そのさらに向こうには、色をほとんど失いながら、既に沈んでしまった夕陽の最後の名残で城壁を浮かび上がらせている、空があった。
 トウマは、ある感慨に打たれて、まるで不可視の棒で肩を差し止められたかのように、知らず、足を止めた。
「……面白いなあ。ニーナ」
 冷えた川の風を浴び、額をのぞかせながら、まったく素直に、彼は言った。
「見てごらん。ほんの一日違っていたら、俺達は、会うことも、なかったらしいよ」
 ニーナも顔を上げて、彼の示した空白を見る。そして、彼が何のことを言っているのか、理解した様子だった。
「不思議な、ご縁だったね。ニーナ。最底辺の軍人の俺と、最上級のナビゲーターの君が、ほんの偶然、橋の上で出会って。こんなことも、あるんだね。
 きっと、君は小さいから、すぐにこんなこと、つまらない思い出の一つになってしまうだろうね。何年かしたら、俺達のこと自体、忘れてしまうかもしれない。――でもね、ニーナ。俺達にとっては、この出会いは、奇跡だったよ。君は俺の人生を変えたんだ。知ってる?」
 橋の上で、行きかう人々を背景に、立ち止まったまま、トウマは、決して同性に向けることのない、優しい、頼り切った目をニーナに向けて、微笑した。
「俺は、昨日までは、何も知らなかった。南岸の狭い世界が、見えるもの全てが、この世の全部だと思って生きてた。君が見せてくれた、あんな深い――静かで美しい世界があるなんて、自分の感覚があんなふうに研ぎ澄まされて、あんなふうに強くなれるなんて、考えたこともなかったよ。
 どこを向いても頭打ちで、八方塞で、苦しかった。君がそれを少しだけ変えてくれたんだ。俺は、勝った。ほんの一勝だけど、初めて勝ちたいと思えた時に、思い通りに勝てたんだ。
 そうしたら、次から次へと幸運が降って来る。たとえそれが、三流の、下町の、にせものの幸運でもね。それさえ昨日までは、どれだけがんばっても、手に入れられなかったものだ。奇跡だよ」
 そう言った時、トウマは自分でも、血が湧き立つのを感じた。本当に、大切な神の子どもを今、この腕に抱いているんだという気がした。
 神の子は、柔らかく、温かかった。
「――だから。だめだよねえ……。そんな、自分にとってたった一つの、真実なものを、ほんのつまらない欲のために、台無しにしちゃあさ」
 彼の奇跡が、トウマを見た。トウマは頷くように笑いながら、飛び出して来そうになった仔兎の頭を、掌で上手に押し戻す。
「分かってる。俺はしょうもない奴だよ。怠け者だし、酒飲みだし、女にもモテないし、万年下働きの貧乏人でね。でも、感謝を知らないわけじゃない。誇りを失くしたわけでもない。何が正しいか、全然分からないわけでもない。――だから本当はもっと早く、こうしなくちゃいけなかったんだ。そこは、ごめんね。こんなに、遅くなって」
 それからトウマは、歩き出した。途切れない人の流れに乗って、橋を下りる。一段下るごとに、かえってニーナの軽さが腕に分かって、面白かった。愛しかった。
 トウマは多分、今一番、この少女がかわいかった。それでも、誇りと正義に従って、彼女を然るべき場所へ返しに行くのだ。
 彼の自尊心は、ようやく報われた。今日一日、義理と出世欲に邪魔されて、出る幕もなく、腐っていたのだが。
 ニーナは本当に、彼にいい思いをさせてくれた。彼女は彼を英雄にしてくれるのである。当たり前みたいに。そこにいるだけで、ごく自然に。
 今、彼は幸せだった。自分の赤い髪が少しも恥ずかしくなかった。風に吹かれて颯爽と歩いていた。心は愛で満ちていて、昨夜のようにやりきれなさとか孤独で埋まっているのではなかった。
 だから彼は、微笑んで、軽口さえ唇に乗せた。
「大丈夫。きっとまた会えるよ。なにしろ同じ街に住んでるんだから。さすがにもう脱走は薦められないから、今度は俺が会いに行けばいいよね。騎士様になるにはよっぽどで、戦争でもないと無理だから、近衛兵で、しかも大尉くらいになったら、きっとまたどこかで顔くらい合わせるよね。その時は、また闘ってよ。一回くらい、一緒にやろうよ。ちょっと時間かかり過ぎて、おっさんになってても、他人の振りしないでね。ピカピカのハンサムな騎士様に仕えてても、素っ気なく迷惑そうにしないでね。
 俺、がんばるからさ。がんばってもう一回、君に会いに行くからさ。ニーナもそれまで、元気でいるんだよ」
 そんな勝手なことを言われて、ニーナは少し戸惑ったようだった。心なしか困惑気味な表情を浮かべて、それを、聞いていた。けれど、橋を渡り終えて、いよいよ通りを歩き始めると、急に頭を垂れ、両腕にありったけの力を込めて、ぎゅうっと彼の首にしがみついてきた。
 それは、お別れの時間が迫って、突然寂しさに襲われる夕方の子どもそのままだった。
 トウマにも覚えがある。
 微笑む彼の遥か上で、空はいよいよ暗さを増し、市場の立つ大広場にさしかかった頃には、既にこの世の灯りは人の焚くランプやかがり火だけになっていた。
 人の姿も、時を追って少なくなる。トウマは、一度弾みをつけて、いとしいニーナと兎を抱き直すと、広場を横切り、穀物取引所の角を北へ折れた。
 それから、二十分ほども大道を進む。
 左右には五六階建ての高層住宅が続き、一階は店舗であるが、もう閉店して雨戸が下りている。二階、三階からの僅かな灯りで青みがかった石畳を、トウマは用心しながら足早に歩いた。
 やがて、その道は、横から伸びてきた別の通りにぶつかって行き止まりとなる。突き当りには、白い石で出来た堤防。その向こうには、広い川が、音もなく、大きな蛇のように、冷ややかに流れていた。
 首都アルブランを東西に貫くロンタル川の、南側の岸に達したのだ。
 その川幅は百メートルほど。商品の乗った船が縦横に行き交う首都の重要な交通路でもあり、また城壁の内部を北の政府・貴族地区、南の市民地区に二分する象徴の一線でもある。
 流れそのものは緩やかで、南岸と北岸の間には幾つかの中洲が存在し、そのうちもっとも大きな東端の島を仰ぎ見れば、そこに、トウマの目指す大きな『白いお家』。トリニティ・カレッジの四角い、デコレーションケーキのような建物があった。
 確か、その島には、しかつめらしい正式名称があったように思う。だが南岸のほとんどの住民は、ホワイトクロスと呼びならわしていた。つまりカレッジの建物が、まるで最高級のレースを縦に四段積み上げたかのような、浮世離れした壮麗な造りだからで、そこに出たり入ったりしている学僧達も、みな一様に白色の、足元までの長衣を着ているからだ。
 川霧の立ち昇る冬の朝などには、その中洲全体が白に包まれ、ほとんど天から漂着した方舟のように見えるのだった。
 ところで、トウマの所属している守備兵は、首都アルブランの警備と治安維持を目的に作られた兵団であるが、川にかかる全ての橋、そして北岸のそれは、もう一つランクが上の近衛隊の担当である。
 一時、守備兵が担っていた時期もあるらしいが、一世紀ほど前に近衛隊の仕事に変わってしまったという。どれだけ守備兵が国から信頼を受けているか、知れようというものである。
 従って、トウマにとっては、橋を渡れば敵地に乗り込むも同然だった。橋の手元でニーナを下ろして、そこでお別れをするという手もあるにはあっただろう。
 けれど、彼の足は川岸を走る道を右へ進んで、ためらうことなく道を渡ると、ホワイトクロスへと通じる堅牢な、石作りの白い橋を、黙ってすたすたと渡り始めた。
 予想通り、二分もしないうちに、向こう岸で待機する近衛兵らが彼らに気付き、警戒状態に入る。橋を渡り終えると、六人もの兵が一斉に二人を取り囲み、武器を構えて前進を阻止した。
「――止まれ! 守備兵隊の者だな?! 兵長ふぜいがこんな時間に、このような場所で、何をしている!!」
 彼らの向こうには、薪を贅沢に使った大きな松明が燃えていて、二人の影を長く、橋の上へと押し戻していた。
 以前のトウマだったら、この大声や、自分の階級や、赤い頭を恥じて、萎縮したかもしれない。だが、今夜は勇気が違った。迷子を保護したので、その述べる住所に戻しに来たのだと、堂々と言えた。
 一瞬怯んで、戸惑い顔になる一人に対し、預かっていたアクロティリ銀貨まで、小気味よく押し付けてやる。
 近衛兵達は実際、予想外の返答に困惑した様子だったが、それでも、さすが切り替えが早かった。すぐと一人が群れを離れて、脇に立つ詰め所に走り込み、白い衣を着た学僧を連れて戻ってくる。その学僧は、トウマの腕に抱かれたニーナを見るなり、雷に撃たれたように体を震わせ、手を打ち鳴らして悲鳴を上げた。
「ああ。ジョヴァンニーナ、よかった……! ……神の讃えられんことを!!」
 あっという間に、ニーナの身柄は、駆け寄ってきたその学僧によって、引き取られる。トウマは肩の荷を下ろして息を吐くと同時、こぼれ出たピンクの仔兎を忘れず拾い上げて、二人の間に、差し入れてやった。
 開門の指示が乱れ飛び、見た目にも慌しく、カレッジの正門が開かれる。学僧は興奮し切って、必死の態で、トウマや近衛兵達に一言の礼を言うこともなく、開いた門の隙間からばたばたと中へと駆け込んで行った。
 最後の瞬間、トウマの三分の二くらいしかない、その薄い体の向こうで、ニーナが身をねじって、トウマを見た。トウマは待っていたから、とびきりの笑顔で手を振った。
 三メートルはあろうかという鉄の大門が、ゆっくりと閉じられて、最後に、重々しい断絶の音を放つ。
 まるで、世界の正門のようだった。黒髪の少女を飲み込み、赤毛の自分を弾き――。
 再びぴたりと閉じられて、もう開く気配もない。
 終わった、な。トウマはそう思い、微笑とため息を、小さく吐いた。それから目の前に聳え立つ、カレッジの建物を見上げる。
 遠目に見ている限りでは、ただやたら白い、瀟洒な建物だという印象しかなかったのだが、こうして星の光る夜、松明の灯りの中で間近に相対してみると、それは意外と巨大で、まるで傲慢な年寄りが白亜な椅子にでも座って、背中に秘宝を隠しながら、疑り深い目でこちらを冷然と睨みつけてでもいるようだった。






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