heaven's candy -epilogue- |
春。街を渡る風にさえ、青葉と花の匂いが混じる、春。 白い天蓋の幌が風にたなびき、遠い口上役の長台詞を時折さえぎって聞こえなくさせる。 韻を踏んだ楽しい言葉の間に、湧き起こる喝采。掛け合いと応酬。手馴れたものだ。今日もジギスムンドは人々の前で、絶好調だ。 トウマは、もう大分伸びた髪の毛を揺らしながら、ベンチに座って、丁寧に手袋をはめる。新調したばかりの皮の手袋だが、几帳面なカーネルが慣らしてくれているから、硬さも適度に解れている。 「トウマ、シメイさんから、手紙だ」 そのカーネルが小さな紙片を手に、入り口から戻ってくる。 「『見てるから、がんばれ』だって」 「えー。来てるのかあ」 「みたいだね。リンドちゃんも一緒かな」 「こないだ終わった後で、怒られたよ。追い込みが甘いって。やだなあ、また怒られるのかなあ。わざわざこんな下町の興行にまで来なくていいのに」 わきわきと左右の五本の指を動かし、それから立ち上がる。カーネルがすぐ、剣をつけてくれる。 「何言ってんのさ、今度お礼を届けなきゃ。よく鍛えてくれて助かるよ。トウマは本当に、図々しいくらい、末っ子体質だよねえ」 ぽんぽん! と、丸っこい手が背中を叩く。おふくろさん役のカーネルの、いつもの合図だ。 準備完了。 「連勝中だからって、油断しちゃだめだよ。君はすぐに怠け心が出るんだから」 「末っ子だからしょうがねえやな。赤毛だし、勉強は嫌いだし、おまけに女好きで――」 トウマは、言いながら、仕合前に女達からやたらと届けられた贈り物の箱の脇を歩いた。立ち止まった先に、彼の、運命の相手がいる。 彼がその性分の果てに出会ってしまった恐ろしい連れである。 それは小さな少女の姿をしている。 彼は、膝を折って跪く。全てに服従するように。 黒い瞳のジョヴァンニーナは、身を屈めて、その額に、口づけをする。 瞬間。力が漲り、感覚が迸る。音を立てて世界は拡大し、全ての雑音が遠ざけられて、一瞬、世界に二人だけになる。 さざ波のように広がる知覚の縁がどこまで伸びて行ったか、もう確かめる術もない。 こうして、毎日二人は自分の未来を決定する。 こうして、二人は互いの宿命を狂わせ合い、一層複雑に関与し合う。 硬く結び合えば結び合うほど、破滅の危険は大きくなると了解しながら、今日も、二人はそれを選ぶ。もう誰に愚痴を言うこともなく。 「ファンプのおっさんは領地で死ぬまで蟄居だそうだが……俺もきっと、ろくな死に方はしないやね」 トウマが独白の続きを呟くが、ニーナは別に否定したりしない。きょろりと大きな目であっさりと笑う。 「そうですね」 恐怖も躊躇もない。善悪の別もない。びっくりするくらい、彼女は何も止めない。彼女は押すだけだ。ただひたすら。 トウマは今日もそれが怖い。身が震えるくらいに恐ろしい。それでも指輪に唇を押し当て、そして彼女の手を取った。 トウマは、あまり頭がよくないけれど、それが一般に勇気と呼ばれるものなのだと、最近、なんとなく理解した。 人々の熱気と歓声が少しずつ近づいてくる。 こうしてまた、後戻りできない時へと足を踏み入れる。 一つ一つ、重荷を積み上げていく。 怖くて、だるくて、嫌だけれど、そうしていいのだから。それこそが、生きるということだから。 二人は手を取り合って、戦いの場へと踏み出した。 感覚が満ちたりているもので、どこにシメイとリンドがいるか、すぐ分かる。 口上はちょうどクライマックスで、ジギスムンドは現れた二人を、張りのある大声で観客に紹介した。 さあ、皆様、覚悟はよろしいか?! 彼らはある日、偶然に橋の上で出会い、ここへたどりついた。 たとえあなたが知らないと言っても、 この瞬間にも彼らはあなたを変えてゆく! 神の導き手。純真無垢の、恐怖のニーナ! そして。 その友連れとなった、我らが赤毛の友人。 強運で不運な、トウマ・リーダス! それぞれが星のように輝く色とりどりのあめだまが、一斉にきらきらと瞬いて彼らを出迎えた。
=了= |
|
<< 戻る | 目次 >> |
heavens' candy |