天国への階段
第二章






 光の溢れる夜のただ中に立っている。色とりどりのきらびやかな人々が右へ左へと流れてゆく。
 これが宮廷。これが『階段』。まるで宝石箱の中に落ちたようだ。
 けれどあたしは知っている。宝石は虚飾だと。なにもかもまやかしだと。
 まるでここは砂漠のよう。
 いいえ、すべてが焼け落ちて煙を吐くばかりの、真っ黒いあの、焼け野原のよう。





 ここは、首府レイデンの中央区。カッタス海峡を背にした『王の丘』上にある広大な王城の東棟。普段は皇太子が住み、政務を行っているヴェルデ宮だ。
 今日は宴。あたしは王室から与えられたメッセンジャー用の黒白のドレスを着、リボンのついた長い靴下に黒い革靴といういでたちで、大広間入り口付近の壁際に控えていた。
 横を向いて遠くを見ているあたしの耳に、サーシャの感に堪えぬような言葉が聞こえてくる。
「――いやあ、ミカエラ。今日の人出はすごいべな!
 宮廷でお勤めし始めてそろそろ半月だけんど、ここがこんなに人で一杯になってんのは初めて見ただ。
 さすが皇太子誕生祭だけはあるべ。馬車止めもえれえ騒ぎでよ、あっちの担当も大変だべな。こりゃ。
 ――……あっ! あれ、見てけろ。ほら、あの白いターバンのご老人。
『十一星』の筆頭、『希術師』ムハンマド・ターリク師だべ!
 え? 『十一星って何』……って?
 じょ、上位クラスの天上人の中でも国を実際に動かしている実力者のことを『階段の十一星』って呼ぶんだべ。ついこないだ教えてもらったばっかじゃないべか。ミカエラ! しっかりしてけろ。
 あのご老人は、その呼称のそもそもの名付け親、王室顧問のターリク師。白馬系の大賢者で大占星術博士、この世に知らぬことなど何もないって評判の持ち主だべよ。
 そしてなおかつ、我が憧れの国立理工数学院の院長先生でもあらせられる! ああ、近づいてお手に接吻がしてえ……!
 ――ら? おい、ミカエラ、どこさ行くだ?
 ま、まーた勝手に持ち場さ離れるつもりだか? ジーメ先生に迷惑がかかるだよ! おめ、さっきもろくに説明聞かねえで……。
 ミカエラ! おーい、ミカエラ! っああ、もう……!」
 袖を引っ張って止めようとする彼女を振り払って、あたしは人波をかき分け、広間の中央をずんずん歩いていった。
「あ、ちょっとあなた。お手紙をお願い」
 長椅子に座るつけボクロの老婦人が声をかけてくるのを、
「申し訳ありません、マダム。ただいま、別の方のご用事の最中でして」
 嘘八百を言って足も止めずに通り過ぎる。
 本来なら、あたしは御用聞きなのだから、即座に懐から文具を差し出して用事を承らなければいけない。
 でも、あたしはそんなものほっぽらかしで目指す地点まで突き進み、控え室に入ろうとするムハンマド・ターリクを、その寸前で呼び止めることができた。
「ターリク様。お手紙でございます。お返事を頂くように言われております」
 スバイ系と同じく、東方系民族の白馬人だというターリク師は、意外なほどすぐに足を止め、あたしの呼びかけに応じてくれた。
 本当に髭が真っ白で、馬というよりヤギみたいな目元をした老人だった。あたしの差し出した二つ折りの紙を開くと、凝った銀の鼻眼鏡を透かして文面を読む。
『わたしくはミカエラ・フィオーリ。十年前に家ごと焼かれた貴族の娘です。父の名前はアルベルト。何かご存じのことがありましたら、使者にお伝え頂きたいのです』
 ターリク師は手紙から目を上げてあたしの顔を見た。さらにその視線が、襟元に移る。
「――聖マグダレーナ修道院の襟章じゃな。
 おぬしは新しく入ったばかりのようだから、教えて進ぜよう。このような公式の場での下位者から上位者への直訴・売り込み行為は、大変不作法なこととされておる。
 こうした手紙は二度と取り次いではならぬ。相手先の階級を確認し、その時点で断らなければならぬ。まして今日は皇太子殿下の誕生祭。自分のつまらぬ用事や出世欲など忘れて、ただ感謝しお祝いを申し上げるべき日じゃ。
 むしろ、おぬしの監督官を懲罰すべきかもしれぬの。教育が行き届いておらぬ」
「それがお返事でしょうか。大賢人ターリク様」
「……アルベルト・セノ。その名前について調べられるとよかろう。ちょうど十年前、自宅で焼死した貴族じゃ」
「――ありがとうございます! では」
「待ちなさい。駄賃を」
 老師はあたしを叱ったにも関わらず、コインをくれた。コインとは、すべての宮廷人が持つ命令用の一種の貨幣で、あたし達にとっては成績の証明になる。
 メッセージの依頼側は払って当然だけど、受取側に義務はないのに――。
「新しい依頼じゃ。おぬしにこれを命令した女性に、災難を招かぬよう、ゆっくり歩くようにと伝えなさい」
 さすがに、『十一星』の名を冠するだけはあった。この人は普通の人とは違う。
 あたしは丁寧に一礼して、老人の前から引き下がった。




 選考が終了して特待生に選ばれてから、早くも一月が経っていた。
 あたし達は必要なだけの『石』を与えられ、あっさりと昇級考査にも合格して『コリフェオ』になり、宮廷に出入りする身となっていた。
 ただし召使いとして、だ。馬番や門番、警備兵、メイドや侍従や給仕、雑用係、そしてメッセンジャー。やんごとなき人達が王宮で快適に過ごすために必要な、大量の下働きのグループの片隅に、やっと加えてもらっただけだった。
 周囲には、他の院で同じように選ばれてきた同じ年代の男の子、女の子が大勢いたから、これが『階段』に挑む若者の通常のルートなんだろう。
 実際、こうした仕事をきっかけにとんとん出世する子もいるらしい。全力で取り組んで優れた仕事をすれば、天上人もちゃんとコインをはずんでくれるし、名前を覚える。花形の給仕の中には見初められて、後に貴族と結婚した女の子もいるとか――。
 もう一人の合格者であるサーシャは、がんばるべって、毎日それなりにはりきってる。
 だけどあたしはもう初めから、そんな気がなかった。
 あたしは毎日、勝手なことをしていた。広い王宮で実際に仕事が始まれば、もう誰も監視なんかできっこない。それをいいことに噂話や情報を集め、仕事を装って貴族に接触しまくっていた。
 怒られたり、ハズレだったり、反応がないこともあったけど、今日はとんでもなく強力な相手に当たって、ちょっと怯んでしまうくらいに大きな情報が手に入った。
 アルベルト・セノ――アルベルト・セノ。
 初めて聞いたのに、その響きには、胸が疼くような不思議な懐かしさがあった。
 記憶が感応しているのかもしれない。ひょっとしたらこれが、あたしの父の名前なのかもしれない……!
 あたしはわななく血を懸命に押さえながら、きらびやかな人々の間を、急流を渡るようにして一人足早に歩いていった。






「……トニオ。さっきソレリーナから聞いたのだけど。
 ミカエラが命令を聞かず、仕事の間中、勝手に動き回っているというのは、本当なの?」
「――はい、ナネッタ様。残念ながらそのようです。
 普段任務の説明をしている時も、ほとんどこちらの話を聞いておりませんし、さっき私が様子を見に行った時も、すでに持ち場におりませんでした。
 申告されるコインの数も余りに少なく、仕事をしているとは思えません。サーシャは必死でごまかしていましたが、手紙を運ぶふりをしながら、情報を集めているものと思われます。おそらく、自分の出生に関する」
「そう。 ――困った娘ね。せっかくわたしが好意で特待生にしてあげたのに、こんな形でアダを返してくるなんて、がっかりだわ。
 もう少しちゃんとした子かと思ってた。
 それに、彼女は何か、わたしに対して文句があるみたいじゃない。一体何が不満なのかしら?」
「……」
「ま、そりゃーやる気も萎えるんじゃないですかねえ。真剣勝負だと思ってた選考が八百長で、そんなんで自分が選ばれたんだと知ったら」
「――タイラン」
「信頼してた先生はみんなグルでさーあ。アントン・ジーメなんて、院長の言うことは何でも聞く犬で、情報が筒抜けなのはもちろん、ペットよろしく彼女の希望通りの服着たり、メガネかけてみたり、髪の毛の色を染めたりといやらしい限りだ。
 そんなのを『先生』って呼んで命令を聞かなくちゃいけないんだもの。
フツーの思春期の女の子にゃ我慢できないですよ。腐りもしますって、そりゃ」
「止せ、タイラン」
「いいのよ、トニオ。わたしは本当のことが知りたいのだから。
 でも、おかしなことを言うのね、タイラン。だって、特待生になることは彼女の望みだったのよ? わたしはそれをかなえてあげたのに、どうして怒るの?」
「……もし、それを本気でお聞ききになってるのならねえ、公女殿下。あなたは、あなたの周囲にいる身分の低い人間達にも、それぞれ一人前の心があるんだってことを、分かってないんですよ。
 彼女達も生きてるんです。あなたはご存じないかもしれないですけど!
 ――失礼します! 俺は警備担当なんで、見回りに行ってきます!」
 足音を荒げてタイランが出て行くと、公女はきょとんとした様子で、残る二人の部下を見上げた。
「……ねえ、アントン。ソレリーナ・リザベッタ。分からないわ。タイランは、一体何を言っているの?」
「……」
「……」
 扉がコツコツと鳴り、背の高い、すらりとした身なりの軍人が現れた。
「あら」
「――失礼致します。我が君より、グレコ=マラテスタ・ヴァルディ公爵令嬢ナネッタ様にご伝言がございます。
『今宵は、私の誕生祭の初日です。私の幸福のためにも、みなの幸福のためにも、私の席へお出でいただき、ほんの数分、お話をしていただけないでしょうか。
 王国には私達の友情のゆくえを憂慮している者が大勢おります』
とのことでございます」
「……いつもご苦労様ですわね、キリオ殿。戻って皇太子殿下にお伝えください。
 『体調が優れないのでお断りします』と。
 アントン。なんだか急に気分が悪くなったわ。散歩に行きましょう、まだ黄昏ではないわよね」
「――はい。……申し訳ありません。失礼致します、キリオ殿」
「…………」








 ふと目をやると、窓の外が真っ暗になっていて驚いた。大時計の針を確認すると午後九時をとっくに回っている――。
 あまり熱心に働いてたから、気づかなかった。
 そう。あたしは、先ほどまでとはうって変わって、天上人達の手紙やご用事を積極的に受けるようにしていた。その人達が手紙を書いている時、こう話しかけるために。
「アルベルト・セノという人物をご存じですか?」
 ほとんどの人は記憶していなかった。壮年を越した数人だけが手を止め、びっくりしたようにあたしを見た後、言った。
「何年か前、火事で死んだ不運な貴族だが詳しくは知らない。書いてる時に話かけるな」
 一人だけこう言ってくれた。
「家系のことなら人事院の『黄金録』か『白銀録』を見たらいいでしょ? ……不作法な子ね」
 ――『黄金録』と、『白銀録』……! 確か人事院の出してる人物名鑑よね。ああ、そうか、その手があったわ!
 どうもありがとう。おばさま。手紙はちゃんと届けるからね。苦情はあたしの襟元を見て、全部聖マグダレーナにつけてちょうだい。
 せいぜい困るがいいんだわ。ナネッタ・ヴァルディも。アントン・ジーメも。
 その親切なご婦人のメモを、控え室の侍女に届けた後だった。すっかり夜が更けたことに驚いて、ちょっと休憩しようかな、と思いながら歩いていたあたしの前に、いきなり背の高い、異様な軍人が立ちはだかった。
 だって異様だ。何、この肌の色。
 白いとも黒いとも言えない。混ざったときの発色でもない。むしろぜんぜん違うもの。全く別の人間らしかった。
 ていうかむしろ、動物に見えた。着ているものはすごく立派だったけど。
 宮廷にはこんな人も住んでるの? ……どうやって接したらいいの?
 相手は、あたしが驚きたじろいでいるのに気づいたはずだ。でも無視してコインを差し出してきた。反射で受け取る。紙を取り出そうとすると、立てた掌で止められた。
「――手紙はよい。言伝を頼みたい」
 お、しゃべった。しゃべったよ、この異人さん。
 ていうか今日聞いた中じゃ、あのターリク師に次ぐ、完璧で品位ある発音――。
「三階のテラス席に行って、もしそこに象牙の扇を持った若い、赤毛のご婦人が一人でいたなら伝えてほしい。『この次こそは、なんとしてもお目にかかりたく存じます』、と」
「依頼主のお名前は?」
「言わなくても分かる」
「……それだけですか」
「それだけだ」
「いなかったら?」
「だったらよい」
 それから軍人さんは仏頂面のまま、長い手足を動かしてスタスタ去っていった。
 ……色んな人がいるなあ。しかも、あんな堅物そうな外見で、女性がらみの依頼と来たか。
 あたしも軽薄だから、そういう話は嫌いじゃない。事件の現場に居合わせる家政婦みたいな気分で、ちょっとわくわくしつつ、テラスへ通じる階段へと向かった。
 そこには、ほとんど人なんかいなかった。もともと観劇などが行われる時、桟敷席として使われるための場所だ。
 今は椅子一つ並んでおらず、下の広間から、宴の音楽や人々の声が反響してわんわん聞こえるばかり。階段を上るに連れて、ますます誰もいなくなる。
 でもよくよく見たら、柱の陰で抱き合う影なんかもあったりして、うわあ、なるほど。こういうところで、宴のさなかにちょっと逢い引きするような人達がいるわけね。
 じゃ、『この次こそはなんとしてもお目にかかりたく存じます』。
 これも、そんな一筋縄でいかない恋の恨み言なのかな?
 思いながら三階に着いた。
 がらー…ん。
 いないです。赤毛のご婦人。ていうか、人自体がいないんですけど、異人さん。
 高い場所だからシャンデリアの光が近くて、影が長く、はっきりと延びていた。いくら逢引とはいっても、ここじゃ寂しすぎるだろう。
 その黒白の帯の中を念のために歩き回ったけど、やっぱり誰もいない。
 あたしは一息ついて、諦めることにした。
 あの人も「いなかったらいい」と言ってた。なんだかおもしろい仕事だったけど、不発。
 振り向いて、階段へ向かったあたしは、その時、気づいていなかった。シャンデリアの光の帯のさらに上に、横たわる廊下があって、そこに人が立ってたんだ。
 何も知らないあたしが廊下を歩いて階段へ消えるまで、その人は微動だにせず、じっとあたしのことを、見つめていた。






 勤務の時間が終わって、あたし達はナネッタの控え室に戻った。
 もう午後十時だ。ちょっと眠い。
 アントン・ジーメはあたしの提出した日報と、多量のコインとに驚いて、出鼻をくじかれたような顔をした。
 ふふんだ。あたしだってやる気になれば、一日でこれくらいできるんです。
 きっと、彼も今日あたり、あたしに注意をしようと思ってたはずだ。あたしはその気配を察したこともあって、後半勤めに励んだのだ。
 どう? 翻弄するのはあたしよ。あなた達じゃない。
 あたしは二度と、操られない。
「…………」
 アントンが、青い目で黙ってあたしを見た。あたしは、一瞬つかまりそうになったけれど、心の底から闘争心をかき集めて、無言でそれに対峙した。
 あたし達の修道院はレイデンの城壁の外にある。帰り道の馬車の中。露骨に心配げなサーシャの表情に気づかないふりをして、最後にあったおかしな依頼について、話した。
「……そりゃー、変な話だべなあ。三階のテラス席なんておれ、一回も行ったことねえべ。 ほとんど天井裏でないべか」
「だからいいんじゃない? 秘密の恋愛には」
「――ひょっとして、それ、おびき出されたんでないべか? ミカエラ。誰が男がそこいらから見てなかったけ?」
「へ、変なこといわないでよ。なら、なんで呼ぶだけ呼んで何もせずに帰したわけ?」
「近くで見たら意外と好みじゃながったと――あでででで!!」
「よくも言ったなこのほっぺぶたちゃんが……! うーえ。しーた。たがいちがい。でえいっ!」
「って――ッ! ひでーなあ、もう。この美しいほっぺがしぼんだらどーするだ」
「しぼまない! ――あ。そうだ、サーシャ。これあげるわ」
「は? これコインじゃないべか……。出さなかったのけ? なんで?」
「枕の下にでも、入れておいたら? 夢かなって理工数学院に入れるかもしれないわよ」
 ターリク師のコインでサーシャを煙に巻いて遊びながらも、あたしは少し、怖くなってきていた。あの人っ子一人いない、三階の様子を思い出したらうすら寒くなった。
 あたしは王宮に不慣れだ。誰かが見えない場所からこっちを見てたのかもしれない。
 あそこは父が死んだ宮廷。しかもあたしはここ半月かなり大胆に動いている。
 近く痛い目に遭うかもしれない。気をつけよう――。





 そう思ってたのに、あたしはすぐ罠に落ちた。
 とにかく、自分が誰かわからない。このことがあたしの急所なのだ。
 それが知りたいばっかりに、易々と罠にも落ちてしまう。
 もう一度だまされたのに、二度でも、三度でもだまされてしまう。





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