天国への階段
第三章






希術師 落雷の塔
女修道院長 女帝
国王 道化
法王 隠者
恋人 死神
復活 吊るされたる者
太陽
正義 暴力
節制 戦車
悪魔


ムハンマド・ターリク「星命解釈集」より
明暗対置図








 朝、あたしは仕事場にやってくるなり、他のメッセンジャーからひどく上品な封書を受け取った。中には不釣合いに古い書類が六枚。それに小さな短冊が一枚、添えてあった。



お役に立て候えば幸甚   希術師



「……あのさあ、サーシャ。いつまでも封筒抱きしめてないで、いい加減、お話聞いてくれない?」
「だってだって、ターリク師の直筆、生手紙……! おお、るるるるるる。
 なんでおれ宛でないんだべー」
「いるならあげるから。本文も、ほら」
「おおおおをっ! 本当にくれるだか! すんばらしい! ミカエラ、愛してるだ!
 ――で、いったい同封の書類はなんだったんだべ?」
 我が友ながら、この分かりやすいファン心理にはちょっとクラクラする。
「うん。入ってたのは、昇級考査の記録。多分、人事院に保管してあったものだと思う。六回分あって、全部ドミニコ・セノ――つまり、あたしの叔父さんのもので、しかも全部落選の記録だったわ」
「ありゃあ。『グランデ』への挑戦だべか?」
「ううん。六枚とも『コリフェオ』。
 つまり叔父さんは、六回考査に挑んだけど、結局『ポポロ』から『コリフェオ』になることさえもできなかったってことだと思うんだ」
「んー。『石』に不備があったか、筆記試験の点数がよくねがったとか?」
「それがそんなことないの。書いてある理由はいつも同じで、ただ『不適格』。それだけ」
「ははあ」
「ねえ、これってどういうことなのかな。だっておかしいよね。あたし達だってあっさり通った考査に、なんで叔父さんには合格できなかったんだろ。実力は十分なのに」
「――はっきりとは分からねえけどな。ミカエラ。そりゃきっと、コネの問題だべよ」
「えっ?」
「おめ、ひょっとして自分の才能だけで『コリフェオ』になれたなんて思ってるんじゃねえだろうな。そりゃーおおきな勘違いだべ。
 『階段』の挑戦者に必須なのは、一に財力。二に実力。そんで最後に、人脈さ。
 おれらが最初の考査にすんなり通ったのも、聖マグダラの金看板背負った特待生だから。大貴族ナネッタ・ヴァルディの身内だからだべよ。
 ――複雑な顔してるっぺな。心配すんな。いくらコネがあったって、実力がなければ上も合格はさせね。人事院もそこまで無茶じゃね。
 ただ実力がいくらあっても、コネがなけりゃ倍、手間がかかるだ。
 おめの叔父さん、六回落選って言っただな。そりゃありふれた話だべ。
 普通、ぜんぜんコネを持たない人間なら、十年待ちは当たり前だべよ」
「ええっ?! そうなの?」
「そっさ。十回チャレンジして、やっと小役人の地位さ手に入れるんでせいぜいさ。だからみんな、特待生になりたがるんじゃないべか。
 『階段』はすべての人間に公平だなんて言うけど、そんなもんただの方便だべ。『黄金録』『白銀録』で身分の継承が認められてる貴族の長子は生まれつき『グランデ』だったり『プレシェルト』で、実力のある『ポポロ』や次男、次女以下が下ん方でうんうんうなってる間に、政府の要職にぽーんと就いたりするんだからよ。
 街の人間達のほうがよっぽどよく知ってるべよ、ミカエラ。実力主義の下剋上だなんて、ただのお題目だってよ」
「……あなたも、詳しいわね」
「おれ自身の話でもあるもの」
「どういうこと?」
「おれはおめより三っつ年上だべ、ミカエラ。他の院で三回昇級考査受けて、三回落ちた。それでこっちへ転入してきたのさ。十年は待てねえもの。
 その転入手続きだって、コネだべよ。あっちこっち手紙さ送りまくって、褒めまくって拝み倒して推薦文集めて、そりゃもう大変だったべ。
 いやさ、やっぱり『階段』は実力主義かもしれねえよな。ただし、こういう実際的なことも全部含めた実力主義さあ。
 おめも分かるだろ。知りたいこと、やりたいことあったら、ただテストでいい点取っててもダメだべ。とにかく人の間さ飛び込んでいって、仲良くなって理解してもらって、応援してもらわねと。
 人生ってそうやって切り開いていくもんだべ。なあ?」
「……そうね。あなたの言うこと、よく分かるわ」
 人生が人脈で大きく左右されるってのも、ちょっとどうなんだろうとは思うけど、どんなことでも、ただ待ってるだけでは実現しないってのも事実だと思う。
 あたしが手当たり次第に父や叔父さんのことを聞いて回ったのは、ナネッタに対する当てつけ的な理由もかなりあったけれど、そんな非常識なことでもしない限り、この『希術師』ともキリオさんとも皇太子とも知り合いになれず、アントン・ジーメの正体も知らないままだった。
 そう考えると、叔父さんが『階段』で成功できなかった理由が、少しだけ分かるような気がする。
 子供のあたしから見ても、あの人は傷つきやすい、神経の鋭い人で、他人に自分を売り込むような図々しいことはなかなかできない性格だったと思う。まして賄賂なんてとんでもない。
 父は豪快で強気で明るい人だったが、叔父は不器用で孤高な影の人だった。
 二人は、仲が悪かった。
 あの夜、一体何があったんだろう。そして今、叔父はどこにいるんだろう。
 『階段』で待っていると言ったのに。だからここまで会いに来たのに。
 ――叔父さん。教えてよ。本当に、お父さんを殺したの?
「ミカエラ、近いうちにおれのことも、ターリク師に紹介してけろよ。な?」
「強引ねえ。自信あるの?」
「恥ずかしがってても始まらねえもの。とにかくおれの名前さ、覚えてもらうだ」
 そう。大事なのは夢に向かって猛進する、この積極性だよね――。
 派手な出で立ちをしたタイラン先生がやってきた。涼しい木陰で仲良く座り込んでいるあたし達を見つけると、腰に手を当てて上から睨む。
「こらー。なんか姿が見えないと思ったら、こんなところで二人して暑さ避けして。まじめにやんなさい、君ら。特にミカエラはナネッタに睨まれてるんだから。
 そろそろ儀式が始まって一時間でしょ。みんな水だの、お菓子だの、クッションだの欲しがったり、内緒の手紙を交換したりしたくなる頃だからね。席の近くを回って用事を伺っておいで。ほらほら、服に草がついてるよ」
「はあい」
「てゆうか先生よう。皇太子誕生祭はいいけど、あんまりお祭りが続きすぎて今日が一体なんの日だかさっぱり分からねんですが」
「今日のは遊びじゃない。まじめな地鎮祭だよ。地底から上ってきてる蛇神クザビラを一定の範囲内に閉じこめるために、地中に術で楔を打つ大事な神事だ」
「クザビラ……」
 あの夜、閉鎖された禍所の看板に書いてあった、祟り神の名だ。何度聞いても、厭な感じがする。
「今の皇太子は運が悪くて、クザビラの活動期間と誕生月が重なってるんだ。だから、毎年祝祭と同時進行で大蛇退治をやることになるんだよね。
 おかげでみんなパーティーとごっちゃになって、すっかりだらけちゃって。でも上の人達はみんな真剣だよ。ただのイベントだと思わずに、君らも見回って様子を見ておいで」
「はーい」
「へえい」
 こうしてあたし達は涼しい木陰から、日の光でぺっかぺかの夏の野原にアヒルみたいに追い出されることになった。
ガアガア。
 言い忘れたけど、本日の仕事場は屋外。レイデン北部にある夏用の離宮の、果てが見えないほど広大な庭だ。
 草地の上におびただしい数の折りたたみ椅子が並べられ、天上人達が日傘をさして儀式に参加している。その周囲を、控え室代わりの白い天幕が馬蹄型に取り巻いて、時折吹き渡る風に音を立ててはためいていた。
 前方からは間断なく太鼓の音が聞こえてくるけれど、遠すぎて全然見えない。あたしの目に入るのは、ただ延々と続く日傘。下級『グランデ』達が動かす扇。暑さのあまりうつらうつらしている頭。そして勝手に席を離れて談笑している人とか、木立でいちゃついたりしている不届き者とかだ。
 なんだか昼食直後の弛緩した教室の様子に似てる。……みんな、元気にやってるかな。
 そんなことを思っていたら、前方からアントン・ジーメが歩いてくるのに気がついた。やっぱりナネッタの指定なんだろう生成りの長衣と、首から下げられ、しゃらしゃらと鳴る石の飾りが、しゃくなほどよく似合っている。
「お疲れ様です。ミカエラ」
「お疲れ様です。どうかしたんですか」
「ナネッタ様が、飲み物がほしいと」
 かなり核心に近い席に座ってるはずだけど……。さすがお姫様。普段通りってわけね。
「取りに行きましょうか?」
「いえ。他の者を見つけます。私があなたにコインを払うのは、少しおかしな話ですから」
 まあ、確かに、なんか不毛よね。
「じゃ、あたし行きます」
「――ミカエラ。
 さっきキンレイ王子が離席するのを見かけました。まさかこんな白昼、儀式の最中あなたに対して何かするとは思えませんが、性酷薄な方です。くれぐれも気をつけてください。では」
「…………」
 あの一件以降、あたしは夜にかかる勤務から外された。危ないからというので。
 ナネッタにそう進言したのは彼だそうで、すごく気を使ってくれている。感謝してる。
 でも同時に、なんだかやっぱり、物足りなかった。
 彼はいつまでナネッタの下について、大人しく使われているつもりなんだろう。
 彼は頭がいいのに。すごく強いのに。……王子なのに。
 誇りは、ないの?
 ああ、でもこんなの、あたしの勝手なのぞみだな。
 あたしはただ、彼があんまりナネッタ・ヴァルディに忠実だから、いらいらしているだけなのかもしれない。やきもちを焼いているだけなのかもしれない。
 ――でも。それでもやっぱり、彼にはもうちょっと、ちゃんとしてほしい。
 彼は何かをごまかして、逃げてるように見えるから。だってナネッタの夫になりたいなんて、少しも思っていないでしょ?
 彼がいい人だって、あたし知ってる。
 だから期待しちゃうんだ。
 彼が皇太子と同じ側にいてくれたら最高なのに。つーかもう、怖いものなんてない気がするのに。でも彼は、自分でナネッタの側にいることを選んでいるんだよね……。
「しょーがないな」
 あたしはつぶやいて歩きだした。落ち込んだってしょうがない。これはあの日から分かっていたことだもの。
 彼がこの場を動かないなら、あたしは彼を置いていく。
 そう決めたんだから。




 その後、周囲を歩いていたら、どこかの小間使いみたいな女性に用事を頼まれた。
 相手の名前は明かせないが、東側の古井戸の側に紳士が立っているはずだから、その人に渡してほしい。くれぐれも内密に。と念を押された。
 うーん。なんでしょーかしら。不倫かなにかの取り持ち?
 死にもの狂いで努力して、コネのためにプライドと自由を犠牲にして、やっと合格してありがたく頂くお仕事がこれだもんなー。
 早く出世しよ……。
 とにかくあたしはその手紙を持ち、会場に背を向けて、木立の中にあるという古井戸へと歩いていった。
 そこは大きなオレンジの木が何本も生い茂り、風が通る度にその葉が揺れて、キラキラと波のように光が踊る静かな場所だった。重い石で蓋をされた古い井戸が、確かにある。
 でも周りには誰もいない。太鼓の音さえ途切れて、静寂そのものだ。
 入れ違い。とか? 場所が違う? 或いはそうでないなら――
別、よね。
 こういうの、前にもあった。初めから宛先の存在しない、空疎なメッセージの依頼。
 この場合の手紙は、メッセンジャーであるあたしをここへおびき出すための単なるエサで、本当の目的は――
『くれぐれも気をつけてください。性酷薄な方です』
 いつでも希術が発動できるよう、もう最初から、身構えていた。
 改めて集中し、注意深く周囲を見回し始めたあたしは、すぐ、慌てて視線を戻した。
 一度は通り過ぎた木立の間に、染みのように、暗黒の何かがあった。
 いや、人間だ。帽子から靴にいたるまで、夜のように黒尽くめの男だった。それが音もなく動いて、顔を上げる。帽子の下から口元までを覆うのっぺりとした白い仮面が明らかになった。
 あたしは陽の光の下で全身総毛立ちながら、思っていた。
 ヤバい。
 だってその男には、血肉をそなえた生き物としての揺らめきが、全然なかったから。
 人形か、死体か。さもなくば、神。
「――誰……?!」
 とりあえず風の盾を張り巡らした後、あたしは誰何した。最後に残った職業意識をたたんで、いつでも逃げ出せるように準備しながら。
 男が言う。
「わたしの女の子」
 それから、針金のように筋張った指が仮面に伸び、それを外した。
 耳が、きーんと鳴る。世界が一瞬闇に落ちそうになって危ういところで踏みとどまった。
 夏の光が、何とか戻ってくる。
強いめまい。背中を滑り落ちる、冷たい汗。
 ああ。いったい何回、夢に見たかなあ。
でも、まさかこんなに晴れ渡った夏の空の下で、こんなにも寒い再会を果たすことになるなんて、思ってもみなかった――。
 仮面を下ろし、非生物みたいにそこに立ち、青みがかった黒い眼でじっとあたしを見つめていたのは、ドミニコ・セノ。
 間違いない。あたしを院に託して失踪した、あたしのただ一人の叔父さんだった。




 木立がざわざわと揺れている。あたしの頭の上で、光と影がゴージャスに混ざり合っては離れる。
 あたしは、ものを言うこともできずに、かなり長い間、その場に突っ立っていた。
 叔父は、変わっていた。以前のように繊細な、傷ついた男性の面影はもうどこにもなくて、仮面をとっても仮面のように、印象が冷えきってまるで動かなかった。
 異常な経験をして、性格がすっかり違ってしまっているのが分かった。
 もっと近くで見たかった。それに触ってみたかった。本当に叔父さんか。騙されてるんじゃないか。幻じゃなく、本当に生きているのか。
「来るな」
 一歩踏み出した途端、目の前の叔父がしゃべった。
「わたしの今の名前を知らぬまま、わたしに触れてはならない」
 命令だった。あたしはつばを飲み込んだ後、自分の動かない体に驚きながら聞く。
「今の……、名前?」
「わたしの名前は、『黒水晶』。原始の完全平等社会の再来を目標とする反政府集団『斧の会』の『執行者』。
 人間性を破壊する『階段』制度の崩壊と、すべての階級思想の滅亡がわたしの願い。今まであまたの事件を起こし、夥しい数の人を殺めてきた。お前の父親を殺したのも、このわたしだ」
「……えっ?」
「天上人達に聞いてみるがいい。すべて教えてくれる。その事実に対し答えを持たぬまま、こちらに来てはならない」
 叔父は、再び仮面を顔の上に戻そうとした。あたしは必死になって、
「待って! 行かないで」
 と叫んだけれど、叶わなかった。冷たい仮面の主に戻った叔父は言った。
「これよりキンレイ王子の依願によりて、皇太子を暗殺する」
「――……えっ?」
「自らの道を決めるがいい。わたしの女の子よ。
 この両の手は既に血に染まり、その膝より下は数百の白骨に埋まっている。それでもわたしを叔父と呼び味方となるか。それともわたしを拒否し、わたしと敵対するか、答えを決めるがいい。
 わたしは『階段』で待っている」
「待って、叔父さ――!」
 今度こそ駆け寄ろうとしたその時。世界がまるで、下から太陽に飲まれたように、真っ白になった。
 口を開き、目の前に手をかざして、たった九十度。
 首を動かす間に、熱風が来た。



 轟音。
「きゃああああ!!」
 足下が揺れて、すっころんだ。でもあまりに音が大きすぎて、全身が膜に包まれているみたいに痛みさえ感じなかった。
 気がついたら、あたしは木の葉や枝の散る地面に倒れていた。遠くからひどく奇妙な風の音がする。よくよく聞いたらきゃーという人の悲鳴が降っているのだった。
 振り仰ぐと、ちょうど天に向かって真っ黒い大きな煙が、不吉にもだえながら上っていくところだった。
 大きくて、黒くて、禍々しくて、あたしは燃える家を思い出し、ぞっとした。それから、必死の勇気を振り絞って、脇の木立をもう一度、見る。
 誰もいなかった。物言わぬ木々の幹だけがそこにあった。
 ついさっきまで、汗ばむほどの明るい昼下がりだったのに、一転辺りは暗くなり、冷たい、血なまぐさい地下からの風に浸されていた。
 耳には、叫喚。人々の絶叫。
 まるで天と地が、ひっくり返ったみたい。
 あたしは震え、混乱したまま、ヨタヨタと蓋の吹き飛んだ古井戸の傍からまろび出た。
 頭の中では、消えた叔父の言葉が呪文のようにぐるぐるぐるぐる回っていた。
「わたしの名前は、『黒水晶』。『斧の会』の、『執行者』」
「お前の父親を殺したのも、このわたし」
「これよりキンレイ王子の依願によりて、皇太子を暗殺する」



 ――皇太子が……!!




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