天国への階段
第四章
まだあたしは知らなかったのだけれど、この頃一匹の犬が、『正義』をなそうと必死になって、あちらこちらを駆けずり回っていたのだそうだ。 夏には珍しい霧雨が降っていた。その雨の中を、犬は主人への忠誠と自らの信念との間で揺れ動きながら走り、最後にひどく雑然とした、場末の裏通りにたどり着く。 目指す酒場の前では、ピンクのドレスを着た店子が、鼻歌交じりに掃き掃除していた。呆然としたような顔で棒立ちになっている彼の姿に気づくと、派手なつけまつ毛でウィンクする。 「あら、お兄さん。あいにくだけどもう今日はカンバンよ。 また来て頂戴。お相手するわ。外国の方も大☆歓迎、よ」 霧雨に黒い毛並みを濡らすその犬の名前は、リジョウ・キリオといった。 「処置が決まったそうだ」 天候のせいでいつまでも陰鬱な早朝、タイランが知り合いの『グランデ』の館から戻ってきて、沈黙するあたし達に告げた。 ここは京南区にあるとある酒場。女主人の人柄と派手なショーが人気の深夜営業のお店で、タイランの第二の家だそうだ。 まあちょっと特殊な店ともいえなくもないけど、店子さんも店主さんもみんな明るくていい人達で、いきなり転がり込んできたあたし達を快く受け入れてくれた。少なくともあの『階段』に巣食う冷たい恥知らずな連中より、三倍もまし。 既にお店は閉まった後で、みんな片付けたり、寝に行ったりしてる。そんなお店の一角で、あたし達は大きな丸テーブルを囲んでいた。 「やっぱり、処刑だ。しかも当たり前の方法じゃない。生きたままクザビラの穴へと放り込まれるそうだ」 「そりゃあまた――」 と、サーシャが肝を潰したようにつぶやく。 「前時代的な殺し方もあったもんだべな」 「まさにその通り。国祖カングランデ一世が、国事犯を裁く時に使ってた処刑法だ。あまり野蛮なんでやらなくなったそのやり方を、あの星の王子様、復活させるつもりらしい」 「で、でも、黙って殺されはしないでしょ。アントンは、強いわ」 「両手両足を縛って、何もできない状態にして放り込むんだよ。――言いにくいんだけど、希術を封じるために、喉や目、耳もつぶすと、史書にやり方が書いてある」 そして、その情報はナネッタの証言ともぴったり一致していた。 「…………」 自分でも、頭から血の気がざっと引いたのが分かった。あたしを気遣う二人の顔さえ、薄墨の中でぼやける。 「まずいのは、このクザビラの穴、つまり奴が置き去りにされる地点がいったい正確にはどこなのか、全然手がかりがないことだ。禍所は大迷宮でその全貌は王室が押さえてる。俺らはごく限られた『狩』の許可区域内の地図しか入手できない。 そうなると移送の際に奪還を目指すしかなくなるが、現実的に考えてかなり難しいと思う。あのくそ忌々しい御用犬リジョウ・キリオが手ずから鍛えた騎士隊だ。こんな人数で切り込んでも、死ぬようなもんだ」 「――その通りだ」 みんなが一斉に振り向いたその先に、ピンクのドレスを着た店子さんに腕を組まれたリジョウ・キリオが、鬼瓦みたいな顔で立っていた。 問題はその店子さんが彼と取っ組み合いの喧嘩もできそうなくらい、マッチョな男性だってことだ。 「何の用だよ、くそ忌々しい御用犬。どうやってここを嗅ぎつけやがった?!」 「院でリザベッタ女史に聞いた」 「ソレリーナ・リザベッタが……?!」 あの人は、一体どこまであたし達が憎いの? 「手を剣の柄から放せ、タイラン・ツェッカ。俺はお前達の追捕にきたのではない」 「信じると思ってるの? 言っとくけどただじゃ殺されないわよ。あんたの腕の一本くらい食いちぎってやるから。サーシャが」 「おれかよ。いいよ、食うだよ、腕くらい。さっきの店子さんと一緒に」 「昨夜、アントン・ジーメに対する処分が、禍所での『捨身』と決まった」 「なにが『捨身』よ! それは普通、自発的にやるものでしょ――」 「黙って聞け! 時間がない。 俺は立場上、迷宮内部の詳細な地図を持っている。そして、アントン・ジーメがどこに投棄されるかも知り得る。お前達にその情報を分け与える。できることならば奴を救い出し、どこへなりと消えろ。『階段』の厄の及ばぬところへ。 俺はそのためにお前達を探してここへたどり着いた。聖マグダラを訪ね、疑うリザベッタ女史を説得して」 高い天井の、がらんとした酒場の中で、あたし達はそろって沈黙した。リジョウ・キリオはいつも通り異国のしかめ面で、だからこそ、考えが読めなかった。 アントンのことが大嫌いで、皇太子の命を受けたあの時には、いの一番に彼に襲いかかったこの男が、今度はあたし達がほしくてたまらない情報を投げ与えてくれるというのだ。 「どういうつもり?」 ついにあたしが聞く。 「他意はない」 「めちゃくちゃ言ってるの知ってる?」 「罠だべ! 『正義』の忠犬が皇太子を裏切るなんてこと、あるわけないっぺ!」 「当然だ。俺は、これこそ我が君のために最善な道だと信じてここに来ている」 「……どういうことよ?」 「このような悪事が許されてよいと思うか」 彼が剣でも刺すようにするどく言ったその時、彼の深刻さの背後にあるものが、部下としての深い悲しみなのだと初めて分かった。 「我が君は、狂ってしまわれたのだ」 「まず、言いたい。人々は無責任な誤解をしている。 皇太子は、単に最も生まれのよい王子であって、特別な資質などは必要ない。ただ年に一度、蛇を一匹退治するだけで、苦もなく『階段』の最高位でいられる――つまり、この国で一番幸運な星の下に生まれた、お坊っちゃんなのだと。 そういうことを言う奴は、何も知らない。 クザビラについて言えば、あれは蛇ではない。化け物だ。俺はこの土地の人間ではないが、あれが途方もなく危険な破滅の神であるということは分かる。 毎年必ず、同じだけの体積をもって戻ってくるあれと直に交戦することが、生身の人間にとってどれほど有害なことか。 この国の国王が早くから一線を退いて隠遁するのはなぜだと思う。多年に渡るクザビラとの戦いによって身も心も病み衰え、時には狂気にさえ至って普通の生活ができなくなるからだ。 その国王の負担を肩代わりするのが第一王子の役目であり、我が君は、実に十四歳の夏からその務めを果たされてきた。 以来、呪われた誕生日が来る度に、我が君の心は病んで行く。健全さを失い、他人への疑念や不信に満ちていく。 それを後押しするかのように、彼自身に対する下劣な陰謀や勝手な噂が雨霰と降り注ぎ、あの方の心身をズタズタにする。 誰が、正気を保っていられるものか。 本来は心優しく寛大な方であったあの貴公子は、いつしか計算高く、狡猾で残酷な人物に変わってしまわれた。 それもみんな、当然のことだ。何も知らず、何も知ろうとしない人々が、よってたかって彼を孤独と絶望の淵へ追いやったのだ。 自分一人、責任を逃れようとは思わん。俺は十六でこの宮廷に来て以来、ずっと殿下の護衛を務めてきた。 何もして差し上げられなかった。何もして差し上げられなかった。 天使かとも思われた金髪と碧眼の貴公子が、俺の目の前で人々の悪さに目覚め、怒り、失望し、やがて絶望へ至るのを、どうしても止めることができなかった。 ――そんな喪失の日々の中で、我が君は懐かしそうに、昔の話をたびたびなさった。その話にはやや小心者だが、謙虚で忠実な一人の弟がいつも登場する。 我が君は、記憶に生きるその弟を、いまだに信頼しておられた。やり切れぬ日々の中でその思い出は徐々に美化され、他者と世界に対する、期待の最後のより所になっていた。 その弟は、けなげにも永遠の忠誠を誓ったという。俺と同じように。 俺より先に。 だからいずれ、俺は分かった。そうか。我が君が本当に必要としているのは、その弟なのだ。 俺は代わりに買い求められたのだ。だから、俺では力が足りぬのだ。 俺は、その弟の再来を希った。他でもない、あのアントン・ジーメが我が君の前にひざまづく日を、我が君のために本気で天に祈っていた。 だがそれは、最悪の形で実現した。 なんとあいつは、ヴァルディ公女の従者になることを選んだ。婚約を厭う彼女が、自分を皇太子に代わる対抗馬として保護していることを知りながらだ。 あの日から、我が君の世界への忍耐はいつ限界を超してもおかしくはなかった。 最後に引き留めていたのは、人間以外のものになってしまったら自分は破滅だという危機感だけだ。 それをまったく考えもなしに、お前だ――ミカエラ・フィオーリ。お前が、解決してしまった。どんな姿になろうと叔父は叔父だと言ったお前の誠意が、我が君の背を押したんだ。 ――そうだ。俺は正直言って、アントン・ジーメなど死ねばよいと思っていた。我が君の世界に対する信頼の最後の希望を、そのよすがを、奴は踏みにじった。当然の報いだ。 しかしそれ以外の罪で、奴が死ねばいいとは思ったことは断じてない」 「お前が言ったとおり、この事件をただ私怨を晴らすためだけに利用するなど、犠牲者に対する最悪の冒涜。恥ずべき行為だ。 それだけ怒りが激しいのは理解できる。しかし、感情にとらわれ、一度卑怯な手段でアントン・ジーメを殺してしまえば終わりだ。我が君は正気を『階段』の狂気に明け渡し、これまでの努力と忍耐、そして心の平安を永久に失うことになるのだ。 俺はこのような虚しい結論のために、遠い東の地からやってきたのではない。どれほど我が君のことが大事でも、この『正義』のリジョウ・キリオ、易々とごまかされて流されるわけにはいかぬ。 今は我が君も、お怒りで我を忘れておられる。何を申し上げても決定を覆されることはないだろう。 だから俺は、お前達をけしかけるのだ。 アントン・ジーメを救い出せ。そして、どことなりと消えてくれ。 俺は、一生をかけて皇太子をお守りすると神に誓った。胸に湧く狂気と過ちからも、お守りせねばならん。 たとえこの一命を、引き換えにしても」 キリオさんは言葉を切って、あたし達の顔を見た。 あたしは思っていた。この世にはなんといくつの流れがあることだろう。 その鏡のように純粋で、真剣な源に呑み込まれないために、一度、息を吸い込む。 「――ねえ、あなたがあの時、真っ先にアントンに襲い掛かったのも――皇太子を、かばっていたの? 彼に不正なことを、させないように」 「力が、及ばなかったがな。まことに俺は無力だ。どうしようもない」 「…………」 あたし達が、もうほとんど動かされながら、命の安全に対する最後の懸念の前で立ち止まっているのを見て取ると、彼は、言った。 「頼む」 『頼む』、信じてくれ? 或いは、『頼む』、助けてくれ? いずれ、その最後の嘆願にタイランがついに折れた。――ていうか、目がホレてるけど、大丈夫? 「よく分かった。あんたの言いたいことは。だが、たとえあんたから情報を受け取ったとしても、あんたの望み通りに動くという誓いまでは立てられないぜ」 「構わん。俺は俺に為せる最も大なることを為すまでのことだ。お前達もそうするだろう。受けてくれるか」 「……いいだろう」 するとキリオさんは両手をテーブルの上について、頭を下げた。 「かたじけない、タイラン殿……! 感謝する」 ちょっとちょっと! タイラン、マジで鼻血噴きそうになってる! あたしは萌え死にしそうになっている彼を押し退けて首を突き出した。 「それで、具体的にはどうしたらいいの?」 「奴は明日、新月の晩。クザビラが活動を開始する時刻に合わせて、迷宮内に投棄される。詳しい場所と時刻が確定し次第、地図をここへ届ける。俺はもう戻らねばならん。皇太子が朝の執務にお出でになる時刻だ」 「待って! 今、アントンは、どんな状況なの」 「――心配するな。奴はまだちゃんと生きている。ただ、かなり衰弱が進んできた。 目と耳、そして喉をふさがれていることが、かなり応えているようだ。悪い夢や過去の記憶などに襲われて、毎日、悶え苦しんでいる」 「…………」 「分かっている。殺しはしない。獄卒を買収しても」 「お願い……」 リジョウ・キリオはおもむろに上着のボタンをはずすと、胸元に手を差し入れた。 「ミカエラ・フィオーリ。リザベッタ女史からお前宛に手紙を預かっている。これだ。受け取れ」 「……手紙? あの人が、あたしに?」 「院で、ナネッタ・ヴァルディにも会った。赤い目で、お前達を救ってくれと膝を折って俺に懇願した。 何年もの間、我々を散々に苦しめてきた憎い娘だが……、あのような姿は、初めて見た。 分かるな。お前達は、孤立しているのではない。好機を掴めば必ずあの男は奪還できる。最後まで希望を捨てるな」 キリオさんは、真摯な黒い目であたしをしばらく見つめた後、身を翻して出ていった。まるで孤高の鷹が、飛び立ったようだった。 その気配が完全に表の白い朝に消えた頃、あたしは右手を空中でひねるようにして、手紙の封を開く。 |
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