その日、骨を持たない、目も耳も鼻も口も持たない、破滅というものが、廊下を音もなく漂い来て、既に扉の前にぴたりと身を寄せていることを、主も、犬も、知っていた。
 その存在を察知したかのように、人々は公子の居室から遠ざかり、かつて栄えた応接間も、今では一人の追従、一人の仲間があることもなく、ただむなしく六月の朝の空気を、胸のうちに抱いているだけだった。
 墓場のような静寂を、寧ろ懐かしく感じながら、犬は奇妙に満ち足りた気分で、終の瞬間を待っていた。
 確かにそれは、悲劇に違いなかっただろうが、犬は犬であるから、誰もいない空間に主と二人きりというこの静けさを、いとおしまないでもなかったのである。
 外には霧雨が降っていた。柔らかい芽に注ぐ春の雨だった。
 その時、主が、犬を呼んだ。
「――ヴァルク、そこにあるか」
 は。と、部屋の隅で犬は頭を下げる。
「お前は、変わらず忠魂か」
 犬は今度は頭を上げた。
 何を聞かれるのですか、我が君。どうぞ私の姿をご覧下さい――。
 主は犬を見もしなかった。ただ小さな紙片を宙に差し出すと、こう言ったのである。
「ならばこの手紙を取り、必ず相手のもとに届けよ。すぐに行け」
「――」
 犬は、唐突に、身を絞られるような抵抗を感じた。
 主が何を言っているのか、分からなかったわけではない。
 しかし、今この時に、傍を離れるのは。
 今、傍を離れては――。
 犬が狼狽し、顔色を変えて怯んでいると、主は癇癪を起こした。いつものように激しく顔を歪ませると、吹き飛ぶかと思うような鋭い声で、力任せに怒鳴るのである。
「何をしている。忠魂と言ったのは偽りか! 貴様は白痴か?! ――行けと言うのだ! 私に三度、同じことを言わせるな!!」
 ――叱りつけられて、犬は、どうしようもなく、立ち上がった。どうしようもなく、廊下を通り抜けて、気がかりな居室を出、城下へと駆け出す他なかった。



 湿った石畳を踏んで、霧雨に頬を濡らしながら走る犬は、これまでになく、焦っていた。
 早く、この仕事を終えて、お傍に戻らなければ。
 戻らなければ、『置いて行かれる』。
 これまで、理詰めで教育されてきた犬だったが、このような瞬間には本能だけがものを言った。犬は根拠もなくそう確信し、ただ一秒でも早く、この紙片を投げ出すためだけに、全力で城下へと駆け下った。
 最も手近な場所にいたのはシアだった。世渡りの下手な彼は、裏通りの隅のマッチ箱のような小部屋に住んでいた。
 そこへ飛び込み、驚いている相手に紙片を押しつけた。いつもなら、くどいくらいに念を押し、命令も復唱させるのに、それさえしないで、犬はきびすを返す。
 城までの長い上り坂を、休むこともなくひたすらに走り続けた。



 犬は、若かったから、そんなことをしても、五体は揺るがなかった。
 だが、居室の前へ戻って、そこが、出ていた時とは逆に人々で一杯になっているのを目の当たりにした瞬間、手足が痺れ、予感が長い針のように胸板を貫いてその前進を止めた。
 人々は誰も、犬に構わなかった。前だけを見て低くさんざめいていた。
 人垣を割って、三人の侍女達が出てくる。真ん中に、昏倒したらしい同僚を抱えている。左を支えているのは、ゼルマだった。眼鏡を掛けた、頼りになる、女中頭。
 彼女と目が合い、形にならず、言葉にもならぬ報せが、光のように取り交わされた瞬間、犬は暗い絶望を感じた。
 ――嘘だ。
 彼女らが行ってしまうと、彼はよろよろと、老いた犬の足取りで歩き、人の間を通り抜けて、中へ進む。
 短い廊下は、人と、彼らの囁き交わす靄のかかった言葉で満ちていた。何を言っているのか、耳には届かなかった。
 数人が犬に気付いた気配があったが、誰も彼に触れようとはしなかった。
 廊下が尽き、執務室のドアが現れる。そこを守っていた一人の軍人が、腕を出して彼を止めた。
「ヴァルク」
 聞き覚えのある声だった。しかし、犬の脳は理解を放棄した。たった一人の姿を求め、たった一人の声だけを求めた。それ以外は、拒絶していた。
 無言のまま軍人の体重を押し返して、もろともに、室内へと踏みこんだ。
 そこは、廊下とはうってかわって、閑散としていた。十指で余るほどの男達しかいなかった。広い部屋の中央に、長身の男が立っていて、その足元に、真っ白い手が上向いて転がっているのを、犬は見た。
 ――見覚えのある、手だった。幾度も彼を打擲し、彼を撫ぜ、何枚もの私信をしたためてきた、あの白い、白い手だった。
 全身が凍りついたような気がした。
 我が君。
 犬は進んだ。今や、男を引きずりながら。
「我が君。我が君!! ――我が君!!」
 驚いた男達が振り返る。中央にいた、犬と同じくらいに背の高い男が身を横にした時、一気に遮蔽するものがなくなって、犬はそのすべてを、目の当たりにした。



 人形のように、取りとめもない四肢。銀色の髪の毛が、床の上に滑っている。閉じられた瞼。白い鼻梁、そして、口元を汚す、まだてらてらと光る真っ赤な血潮――。
 彼は死んでいた。
 もうここには、いなくなっていた。
 やっぱり、そうなった。
 分かっていたのに。
 この人は、自分が、遠くへ行っている間に――!
 その瞬間、犬は狂乱した。主の下へ駆け寄ろうとして、ほとんど男の腕から脱しそうになった。数名が助勢に入って彼を止めた。中央にいた男の左右にも、武官が寄る。
 それでも犬はもがき続けた。
「……北ロマが!」
 やがて、何者かが舌打ちをしたかと思うと、ぱん! という銃声が響いて、犬の足首が砕けた。
 反動で飛び上がった犬の体は回転し、もんどり打って倒れかけたが、周囲に抱えられるかたちになってずるずると、何段階もの休止を経て、最後に、床へ落ちた。
「――准将!!」
 誰かが、誰かを責める声がする。その声の終わりが、もう聞き取れなかった。全てが急速に遠くなって行く。
 犬の開かれた目は、それでもまだ、主の遺体だけを探していた。ふわりと涙が盛り上がってその焦点が乱される。しずくが横様に目からこぼれて――犬は、意識を失った。







 我が君。我が君。
 何ゆえ一人で発ち給うや。






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