11. 試すのは初めてだったが、第一神階の精霊たちは、シギヤ学徒のハンに対してさえ、敵意を見せた。 それは、イラカに向ける敵意の十分の一程度のものではあったが、前に進もうとすると確かに飛びかかって来る。 イラカは彼を守って戦いながら五分ほど行き、前も後ろも精霊だらけとなった地点で、彼に護符を与えて、壁を背に座っているように言った。 幸い、じっと座っている分には、さほど精霊達の気に障らないようだ。 「俺なら休憩中も飛びかかられるんだけどな。一体こいつら、何を見てるんだろう?」 「不思議ですねえ。……行ってらっしゃい」 「おう」 イラカは、わが身大事にきちんと座り込んでいるハンに微笑むと、まるで座興のように剣を振りながら、敵意むき出しの精霊たちの中へ、踏み込んでいった。 ハンはほとんど遠いところへ旅している子供のように、胸の前にぎゅっと荷物を抱えて心細げに彼を見送る。 何かを伺うように――彼の意志をか――周囲をうろついていた精霊が、匂いでも感じたかのように、明確にイラカの気配を察すると方向転換し、まっしぐらに彼の背中めがけて突進していく。 川に投げ込まれた餌に、大勢の魚が飛びつき群がるように、イラカの周囲は一瞬、大小さまざまな精霊だらけになった。 ハンは不安になる。が、次の瞬間、激しい力の爆発があって、そのすべてが薙ぎ払われた。 「!」 力の波の残滓がハンの頬にも届く。 神階であるからただでさえ強い力が増幅している。 ばらばらになった精霊たちの体がハンの足元にも飛んできた。 再生を司り、破壊を厭うシギヤ学徒の本能が、彼の眉を顰めさせる。 彼は、ソラが感じたのと同じ感情を、数か月遅れで舌に味わった。 畏れ多い。悲愴だ。悲劇だ。 何故、こんな極端な関係性になってしまうのだろう。 神も精霊も、基本的には人間にほぼ無関心だ。いや、そうだと考えられてきた。アルスス学が登場するまで。 この世界は神と精霊と人間が混然となって回しているが、人間は他の二種を攻撃しようと企てたことはないし、他の二種が人間自体を標的にしたこともない。 東部ではまだ純朴に信じられているその前提が、ここ学院では大きく歪んでいた。その端緒となっているのは多分、アルススだ。 どっちが先なのだろう。始めにアルススの力が精霊を狩ったのか。それとも、精霊たちが無闇に攻撃して来たのか。 いずれにしても、その起点にはあの流麗な男が一人立っている。 ――ハンは、あの人物がどうしても好きになれなかった。災厄の元締め。諸悪の根源のような気がした。 だからアルスス学徒たちのことも軒並み好きではなかったが、――イラカのような人間もいるから、困ってしまう。始めは彼みたいな人間のことは決して理解できないと思っていたが、まずソラがそれとぶつかって、足元のぴくぴく動くかけらのように、飛んでくるおこぼれを頂戴していたら、なんだかそうでもなくなった。 何をしているんだろうな、一体。 ハンは立てた両足の上で腕組みをした。二の腕に小さな魚みたいな精霊が噛みついて尾を振っていたけれど、気にしなかった。 やがて、最初のひと暴れを終えてイラカが返ってきた。 顔色はよくない。はじめから、大してよくはないのだ。 無茶だ。ハンは首を振りながら、荷物から水の革袋を取り出して、与えた。 「どうもありがとう。大丈夫?」 「ええ。私は」 「回復させないでね。足元の、それ」 「?」 イラカの口元から飲み口が離れて白い歯がのぞいた。 「ソラの奴、それを片っ端から回復させて、また俺を襲わせたのよ。試験の時」 そんなえげつない戦法をとっていたのか。 彼女の怒りも本物だったということだ。 「ソラに会った?」 「はい?」 「――事件の後」 「ああ――いえ」 昨夜。ポリネとガニアが亡くなった。 ソラは彼らを慕っていた。ハンもだが。 どんな思いをしたことか。 「遠慮しました。実は夕方に一度だけ下宿を尋ねましたが、戸を叩いても出ていらっしゃらなかったので。落ち込んでいらっしゃるのでしょう。無理強いはできません」 「奥ゆかしいねえ。ハンさんは。あの子のこと、好き?」 「好きですよ」 賢くもあっさり認めるが、滞りなく付け加える。 「男女のどうの、というのではありませんが。お友達です」 「真っ白だなあ。あなたは」 笑ってイラカは剣を振り、躍りかかってきた精霊の一体を叩き返した。 「あんたの頬みたいだね。無垢で中立で公平で、正しくありたいんだね」 「――あなたにもお聞きしたいですね。そんなにクローヴィスがお好きなんですか」 「……」 「こんな事態になっても?」 ポリネとガニアを殺したのは、クローヴィスだ。 学院中の人間がそう疑っていたし、少なくともあの英雄絡みの事件であることは明白だった。 彼が衆人環視の中でガニアを脅した翌日にガニアの死体が発見される。そんな偶然はないからだ。 どうしてこんなことになったのだろう。 ハンとて十二分に傷ついていた。だが賢い彼は、自分より手のかかる対象と共にあることで、最悪の混乱に陥る手前で踏みとどまっていたのである。 「僕は人の好き嫌いがはっきりしているんです。クローヴィス博士のことは、どうも好きになれません。あの人は……何と言ったらいいか、悪い種子のような気がします。人格どうこうではなく、なさったことが。確かに彼は戦争を止めた。だが、細分化された暴力を学問の世界に持ち込んだ。そしてそれが今度は世界にも広がろうとしています。 僕はこの流れが嫌ですよ。嫌に思っています。あなたには危機感はないのですか。なんでもかんでもクローヴィス博士が正しいと、本当に信じているんですか」 累々たる精霊の破片を赤い明かりがほのかに照らす、洞窟の中に、苦笑のような息の音が漏れた。 「俺にも、真っ白に戻れと言うんだね」 「あなたならもうちょっと冷静になれるはずだと思うだけです。あなたは博士を信奉している。心酔している。それは分かります。でも彼は善人じゃない。それどころか悪人だったら、どうするつもりなんですか。それでもその学問に、身を委ね続けるんですか。あなたの健康をも損なっているかもしれないのに。どうして、そんなに、博士を信じるんですか。――強くて、格好いいから、なんですか?」 「強くて格好いいからだね」 イラカは同じ手で返答した。そしてやはりハンが非難するより前に押すように付け加える。 「嫌いなんだよね。自分の話するの。なんか、意地汚いでしょう」 耳を掻く。そして視線を反らし、遠い闇を見つめる。 しばし、沈黙が流れた。 「……強いて言うなら、まあ共通点があるからかなあ」 イラカも、ここまでつき合わせたハンに対して義理を感じていたのだろう。譲歩でもするように、一度顔を伏せた後、言った。 「クローヴィス博士とあなたにですか」 「そ。主に、生まれ育ちにね」 「博士の出自をご存じなんですか?」 「追っかけですから。調べるのよ。そういうの。といっても伝記本を読んでるだけじゃダメで、そこには何も書いてない。ただ出身地方がぼんやりあるだけでね。多分、あの人も好きじゃないんだろうね。意地汚いのが」 「それどころか年齢さえはっきりしないらしいじゃないですか」 「それは格好つけているわけじゃなくて、本当にはっきりしないからなんだよ」 「え?」 「あの人ね、西部の辺境出身なんだけど、調べてみると、昔その地方では何年も部族間同士の血みどろの紛争が続いて、色んな町や村が巻き込まれてるんだよ。虐殺があったり丸ごと焼けて失くなったりした町もあって。そうすると、出生記録も失われたりするでしょ。家族のこと覚えてればいいけどさ、戦争の時は男親が不在のことも多いし、年齢の問題もある。ちょっとのことで、もう自分が誰だかはっきり分からなくなっちゃうわけだよ。 直接聞いたわけじゃないよ。直接そう言った記録があるわけでもない。でも、彼には事実家族もなく、親族もない。それに出身地方と、年代を考え合わせると、俺はそういうことだろうと思ってるんだ。しつこい質問には『昔のことはよく覚えていない』って言ってる。これも格好つけてるみたいに、煙に巻いてるように聞こえるけど、多分本当なんじゃないかな。 なんかさ、あるじゃない。子どもの頃の一時期、丸ごと記憶が抜けたりするの。どうしても思い出せなかったりして」 イラカは同意を求めるような眼差しを投げてきたが、ハンは応えられなかった。 彼にはそんな経験はない。 いや、もちろん忘れていることは色々あるが、今彼が言うのは、それとは違う気がする。この神階のように、奥に隠れた深い夜の話をしているような気がする。 喉が締まるので、咳払いをした。 「……共通点というのは、それですか?」 「あ。ごめんごめん。俺には家族はいますよ。家も焼かれてない。安心して。ただなあ、親父さんが早死にしてね。――なんかそれも怪しいんだけど。とにかく、なんとしても、必要だったのさ。強い力が。そうでなければ、根こそぎ奪っていく奴がこの世にはいる。悪いことをなにもしなくても、ただ弱くて丸腰というだけの理由で、蹂躙される昼がある。 今、問題を解決する大きな力が必要だった。あの人も、俺も。 あの人は諦めなかった。妥協しなかった。ついにつかんだ。俺にも与えてくれた。俺は彼のように踏みにじられずに済んだ。家族を守れた。どれだけ」 最後の一語は、いかにも力が入りすぎていた。 それを恥じるかのようにイラカは一瞬息を継いで、それから言った。 「感謝しているか」 洞窟の中では、まるで彼の言葉に呼応するかのように、再び精霊たちが集まり始めていた。 徐々に高まる敵意。 それに応じて、彼の頬の黥にも血の色が漲る。 ハンは細い目を僅かに見開いて、そのすべてを見つめていた。 「あの人が望むなら、命を差し出しても構わない」 立ち上がる彼の横顔にもはや雑念はなかった。 彼はそう。きっと初めからクローヴィスに対する感謝を、思慕を、再確認するためにここへ来たのだ――。 「彼は俺の尊厳を救ってくれたんだから」 彼は戦いに戻って行った。 ハンは、目を閉じた。 「ソラ」 クラレイ・ファレ・クローヴィスは、殺風景な資料室のさびれた戸棚の隠し扉から、紙の束を取り出したのに、それを胸の前に持ったまま、ソラの視線をそこから自分の顔へと移動させた。 「学問が終わるのはいつだと思う」 突然の抽象的な質問に、ソラは眉根を寄せ、困惑を示す。 「いつだ?」 紙の束を持って、薄笑いと共にややこしい質問をしてくる。そんな『学者らしい』姿は初めて見る。 それでもどうしたって、その頬の派手な黥は、不釣り合いだけれど。 「……終わりはないって、言われます。普通。カントンも確か、『学問に終わりはない』と」 「それでは学問は、何かそれ自体大変に不完全で奇怪なものだな? 世界のどこに、終わりのないものがある? 学問の永遠性を称賛する言葉にも聞こえるが、実際にはそれはある一つの重大な機能の欠落ではないのか? それなら学問はあたかも――」 ソラは思わず目を見開いて腰を浮かした。 「「坂を転がっていく石」」 こんなことがあるだろうか。 こんなにも自分と違う人間が、同じ現象を観察し、同じ言葉を吐く。 心臓を貫く奇跡だ。 分かっている。この一致性が、学問の、真髄なのだ。 毒も甘露も、すべてここにある。 この奇術は、さしものクローヴィスにも有効だった。彼は微笑んだ。楽しそうに。子供のように。ソラは身動きできなかった。 「俺が何を考えているか、お前には分からないだろう」 「……」 「どうして俺がアルススを起こしたか。どうして俺は戦争を止めたか。どうして人間として許されぬような手管を使って生き延びているか。分からないはずだ」 手が伸びてきて、ソラの肩を押し、彼女の体を椅子へ戻した。 その手は、めまいがするくらい、穏やかだった。 「同じようにネコが何を考えているのか分からないな?」 クローヴィスはソラの黒髪を見下ろしながら続ける。 「奴がどんな人間で、何を嫌っているかは知っていても、どうするつもりなのかは分からないだろうな?」 「分かりません」 ソラは認めた。当てられた生徒が認めるように俯いて。 するとクローヴィスは奇妙なことを言ったのである。 「俺達は、学問を止めようとしている」 ただでさえ飲み込みにくい言葉だった。その上看過できない主語で始まった。 だからソラは顔を上げて、彼の顔を見た。まったくけちけちしない百分の百のしかめ面だった。 「……なんですか、『俺達』って……。あなたと、ネコ先生のことですか? ――先生が、あなたと、協働しているというんですか?」 相手が否定しないのでソラは自分で否定した。 「何を……!」 とても信じられなかった。ネコの、クローヴィスに対する語り口、悪口、批難。記憶にある限り、すべてが彼に対する強い憎しみを示している。 寧ろ二人は天敵同士のはずではないか。ガニアもポリネも、そう知っていたではないか。 ソラとて想像力はある。――かつて二人は学友だったという。ネコは全然言わなかったが、クローヴィスは彼との交流を匂わせることをちょこちょこと言う。さっきも言った。 だから、ひょっとしたら昔には、彼らは友人同士だったのかもしれない。 しかし、現在は間違いなく決裂している。そこにニキ・スズキリ・アガタの存在と死が大きく影響しているのは確実だろう。 ソラが知る限りネコの怒りは深く、生々しいものだった。彼はたびたびクローヴィスを非難する本気の言葉を吐いた。そもそも彼が家族と離れ、学院のすぐそばに今も留まり続けているのも、クローヴィスと学院の監視のためだったはずだ。 そんな二人が、協働? あり得ない。 何故クローヴィスがそんな根拠のない思い込みをしているのかまるで分からなかった。 或いはクローヴィスは、加害者側によくある誤りで、相手の怒りと憎悪を軽く見ているのではないのか。 「先生はあなたのことを、とても恨んでいらっしゃいましたよ。一体どうして先生が自分と同じ考えを持っているなんて思うんですか?」 クローヴィスの答えは、紙の束の投下だった。 今度は人を人とも思わぬがさつさで、ソラの言葉に思わず滲んだ、自分の方がネコを知っているという態度に対する拳骨とも思えた。 ソラが見上げるとクローヴィスはふいと身を翻しながら言った。 「読め」 部屋の隅まで離れて行って、寝椅子に腰を下ろす。 ソラは何を言われたかは分かったけれど、どうしてそうせねばならないのか全く納得できなかったので、体が動かなかった。向こうの始めの主張があまりに荒唐無稽すぎてそれが邪魔をした。 が、いつまでも沈黙だけ味わい続けるわけにもいかず、仕方がないので、紙の束に手を伸ばした。 指が震えているのに気づいた。 頭はもう冴えていたのに、不思議だった。 ただの疲労かもしれない。あるいは、肉体というものは頭脳より先に、不穏な気配を察知することもあるのかもしれない。 それは古い手紙の束だった。植物性の粗悪紙なのでもう黄ばんでいた。几帳面に折りたたまれて紐で結わえられていた。結び目を解き、上から順に、開いていく。 すべて同じ書き手の手紙で、それは筆跡を見ればすぐ分かった。 どこかで見たような字だった。 文面は若く、簡潔だが、懇切だった。時に切なささえ感じるほど。 まず、こうだ――。 ヴィシーへ 行間ににじむ君の苦労に心が痛む。何か君の苦悩を救うことのできる知恵が私にあればいいのだが。書庫の資料をあたってみる。道中気を付けて、無事にここまで戻ってくれ。 次は。 ヴィシーへ 絶望してはいけない。君は自分を痛めつける傾向があるから心配だ。私は今、自分の研究をまったく投げ出して、君のために片端から古文書を洗っている。くれぐれも自暴自棄にならぬよう。世界に私という味方のいることを忘れるな。 次。 ヴィシーへ 手掛かりを見つけた。チーファンだ。未だ知らぬ神の存在について言及している。無駄に期待をさせるつもりはないが、彼は信頼に足ると思う。詳しいことが分かればまた連絡する。君もたまには返事をするように。地名だけ送って来るのではなく。 ヴィシーへ 一度戻ってこられないか。我々の未知の神について話したい。学内も三文学者ばかりで、君がなければ話し相手もなく到底間が持たない。調査は進んでいる。進んでいるだけでも有望だ。そうだろう。 まずソラが尋ねたのは、宛名のことだった。 ヴィシーって誰ですか? 寝椅子に座って足を組み、明後日の方向を向いたままクローヴィスは応える。俺のことだと。 世にカイデン・ライカス・ネコだけが、俺をヴィシーと呼んだ。だから、その書き出しだけで誰からの手紙かすぐ分かった。署名がなくてもな。 みな奴からの手紙だ。奴は放浪する俺を心配して、滞在先にちょくちょく手紙を送ってきた。俺が返事を書かなかったり、よく手紙を失くしたりするんで怒った。 それで時々は俺も返事を書いたな。面倒だった。 だが、感謝はしていた。 ――予想したよりも、ずっと、彼らの親交は深かったのだと分かった。 クローヴィスはネコは『偏愛』すると言った。彼がそうのたまった根拠がここにあった。 ソラは、首筋に血と熱が上る感じがした。論戦に負けたような気分だった。それに、手元にあるネコの言葉はあまりに無防備で、本来なら決して盗み見てはいけない種の手紙を読んでしまったように思った。 定まりの悪い視界で、さらに数枚似たような内容の手紙を読み飛ばし、それから、次に読んだのが、これだった。 ヴィシーへ ただちに学院へ帰れ。君も聞いているだろうが西部で緊張が高まり開戦間近との報がある。新しい神に接触するための方法を見つけた。実験にかかりたい。そこにはきっと何もない。学院へ戻れ。 ヴィシーへ 君の疑いはもっともだが心外だ。私が嘘を言うと思うか。では疑い深い憐れな君のために書いておこう。接触の方法は入れ墨だ。ララシアス文様という古代模様だ。 我等が新しい神の名前も分かっている。 それはうつくしい名前で、アルススという。 奇術師の手になる奇術の言の葉。 一瞬でソラは体の自由を奪われる。 ぎし、ぎしと、首の筋が音を立てるのを耳の奥に聞きながら、ソラは、今ひとたび、クローヴィスを見た。 彼女が起こした英雄クローヴィスを。 「――どういうことですか」 クローヴィスはまだ窓の方を見たまま動かなかった。 「先生が、……アルススを……?」 ソラが空気を吸い込むと喉が音を立てた。 「アルススを発見したのは、ネコ先生なんですか?!」 クローヴィスの青い目がきょろりと戻って小さなソラを写す。 「チーファンの書庫からあの一文を掘り出したのも奴。別の古代資料から具体的な接触の方法――つまり黥――を見つけ出してきたのも奴。アルススの眠る場所を、第一神階奥の遺跡だと突き止めたのも奴だ。俺は入れ墨し、神階に潜った。十二時間かかったと言ったな。奴も途中までは一緒だった。退路を確保してくれた」 目から火花が散るかと思った。 ネコとクローヴィスが肩を並べて、あの洞窟を進んだ。というのか?! ちょうどソラとイラカが、潜ったように? クローヴィスの発見に、そんなにも深く関与していたというのか。 「考えたことはなかったか? ネコは、チーファンの専門家だ。特別資料室の失われた目録を再作成したのも奴だ。そうでなければ、どうやって俺のような門外漢があの気違い学者の膨大ででたらめな遺物の山から、ただ雑文の一部に過ぎない、あの記述を見つけてこられると言うんだ」 「だって、それは……! だから、あなたは……!」 だからあなたは英雄だと言われたのではないか。 過去の学問の蓄積の中から新しい可能性を見つけ出し、自ら身を挺して実験し、そして、普遍の結果を手にした。 それこそ学者の仕事であって、反対派にも否定できない素晴らしい功績である。 学徒達は単純にその凄まじい力と成果に喝采するが、一人前の学者やソラのように文書館の仕事に関わったことのある者は、よくぞそこまで調べたとその過程と執念に感嘆する。 しかしそれが、一人の作業ではなかったというのか? クローヴィスも可能性を見つけては、諸国を放浪してはいた。 だが、結局は他でもないネコが、見つけ出したというのか。 悩み苦しむ、友のために? でもそれなら、なぜ今では、事実と違う伝説が――。 「手柄を独り占めしたと思われるのは心外だな」 クローヴィスが言う。 「俺と奴の同意の上での約束だった。アルススを見つけたのは、俺一人ということにしようという」 「……どうしてですか」 「戦争を止めなくてはならなかった。そのためには、俺は『天才』であった方がいいと奴は言った。俺にはひと目を引く派手さがあるが、自分にはないと奴は言う。俺はそれに従った。納得したからではない。ただ、奴の方が俺よりも何倍も頭が良かったし、戦争を止めたかったからだ」 「――じゃ、じゃあ……」 アルススを発見しただけじゃない。 クローヴィスを、偶像に仕立てたのも、ネコだったのか。 確かに単身、あの離れ業をやってのけたと言うことにした方が超人性は増す。それは伝説を生み、影響力を増す。まさに、今ではクローヴィス個人が神と崇められているではないか。 計画と、計算。 裏庭の、参謀。 「すべて奇跡のようにうまく行っていた。俺はアルススを知り、無力ではなくなった。今にも再び戦場になろうとしていた西部に飛び込み、幾つかの町や村を守るために闘った。ネコはあれはやりすぎだったと言う。――だが、仕方がなかった。怒りが爆発した。 何十年も、何十年も、やりたくて我慢していたことをついにやった。歯止めが利かなかった。気が付いたら俺は大量殺人者になっていた。ところが人は俺を英雄だと言う。 俺はただ、虫のように死ぬのが嫌だっただけだ。奴らに、一矢報いてやりたかった。生まれつき土地と権力を持ち万能感に浸っている奴らに、技術の一刺しを呉れてやりたかった。 神は平等だ。信仰を捧げればそれなりの結果を戻す。ただ俺は、今、力が欲しかった。そして遂に手に入れ、復讐を遂げた。この世で一番幸福な学者だと思っていた」 彼は今度ははっきり復讐と言った。 ソラの脳裏には、いつかの夜、クローヴィスがゾンネンに対して投げつけた言葉の数々が浮かび上がり、僅かな泡を発してはまた記憶に沈んでいった。 「問題はそこからだった。俺は体を壊した。何日間も伏して過ごした。やっとまともに出歩けるようになった頃には、周囲の雰囲気はがらりと変わっていた。これまで俺を狂人扱いしていた学院の連中が、急に掏摸泥棒の目つきで俺をちやほやするようになった。あっという間に技術の流出が始まり、講座が開設された。徐々にネコの顔が曇り始めた。ある日奴は、目的は達成されたのだから、技術を封印するようにと言った。俺は拒んだ。目的はまだ達成されていない。いつまた、くだらない戦争が起きるか分からないのだから。 ――俺は、酔っていたかもしれない。いや、酔っていた。戦争を止めた。弱いものを守った。その手柄に、頭がぼうっとなっていた。寝込んだがそんなことはどうでもいい。戦争を止め、人を守るためなら、どれだけ疲れてもいいと思っていた。俺の人生はこのためにある。大きな希望で、胸が膨らみ、目が潰れていた。 この頃はどちらもまだ穏やかだった。それでもぎこちなくはなった。奴は顔を見るたびに『なぜ俺の忠告に従わないんだ』という表情をしたし、俺は『ネコのように順境に育った奴に俺の感情は分からない』と思っていた。 アルスス学は膨らんでいった。大勢の似非学者どもが自分の神を捨ててアルススに走り、そして力を手に入れるや増長していった。ものの五六年で学院はひどく変わった。そしてその間にたくさん不愉快な目に遭ったネコは、前にもましてアルススに懐疑的になっていた。顔を合わせる機会も減り、会議などの公の場でネコが批難の態度を隠さないこともよくあった。 そのうち奴は完全に反アルススの首魁とみなされるようになった。院長にも目をつけられ、俺と奴が昔友人同士であったことなど完全になかったことにされた。人々はネコが俺のことをひがんでいるんだと言った。それでも、俺たち自身は会えば立ち話くらいはした」 クローヴィスは調子を整えるように、一度深呼吸をした。 「そういう状況の中で、アガタは現れた。――お前は本当に係累じゃないのか? どうも、他人の空似にしては似すぎに思うがな。まあいい」 クローヴィスが最初に会った時、アガタはすでにネコの生徒だった。ガニアやポリネと一緒に、学問の基礎についてネコに学んでいたのである。 ネコは人望があり、よく弟子たちと連れだって歩いていた。いつまでたっても、誰一人近寄せなかったクローヴィスとは真逆だった。 学内で行きあった彼らは挨拶を交わした。ネコが年若い生徒らにクローヴィスを紹介する。生徒達の中で一番ぽかんと間の抜けた顔をしていたのがアガタだった。 あか抜けない女生徒だった。笑ってしまうくらいの古びた格好をして。でもそれは、華美に走り力に酔うアルススの女生徒たちより、クローヴィスの注意を惹いた。彼自身、辺境の、非常に貧しい地域の生まれだったからである。 アガタはどんくさいくせに怖いもの知らずだった。次から、なんの恐れもなくクローヴィスに挨拶するようになった。ガニアやポリネはそんなことはしなかった。 出会って半年ほどしてから、彼女はクローヴィスに言った。 『アルススの術について教えて下さいませんか』 改宗したいのかと尋ねると彼女は首を振った。 『ネコ先生が、アルスス学には不明な点が多すぎる。と仰るんです。ご本人に聞くのが一番かと思って』 毒気を抜かれると言うか。 相手に一切警戒を抱かせないのがアガタの処世術だった。空手で全面降伏し、何一つ隠さず何一つ偽らないで人と接した。 それが、何も持たない人間のやり方であることをクローヴィスは知っていた。 出た結果は同じではないが彼らはよく似ていた。 財産もなく地位もなく、身一つで生きていた。 つまりネコはそういう人間が放っておけない性分なのだった。かつてクローヴィスに友情を抱いたように、アガタにも何かと世話を焼いた。 噂になるくらいだった。 アガタがクローヴィスに接近しすぎるのを案じて、たびたび警告しているという話もあった。 クローヴィスは心の底でちょっと滑稽だなと思いながら眺めやっていた。 彼は自分が人並みに家族が持てるなどという幻想を抱いたことはなかった。自分が善人の犠牲を出さないために悪人を殺したことも知っていた。アルススに身を捧げるのだ。それでいいと思っていた。 クローヴィスは最初の大勝利の後にも、たびたび紛争地帯に呼ばれてその調停に関わっていた。彼が来れば解決の場合も、力を見せつけてやらねば終わらぬこともあった。 後者の時にはその実消耗して学院へ戻った。 ある時体力配分を誤ってうっかり寝込んでしまった。アルススの術を使うと体力が削がれること。これはすでに反復される経験に裏打ちされた学問的事実だった。 全身がひどくだるい。微熱が続き、関節痛がある。時々鼻血も出た。視界が暗くなり、何日も寝床から起き上がれなくなる。 ――でも、構わない。 と、クローヴィスは思った。 俺は人を殺している。これくらいは、当然だ。 違う。アルススは悪くない。アルススが悪いわけはない。 アルススはこんな自分に力をくれた。蹂躙されるがままだった自分に。 そして事実弱い人々を守ったではないか――。 クローヴィスはアルススを離せなかった。虜になっていたのかもしれない。それによって自らが壊れることをなんとも思っていなかった。破滅的な考え方だった。 まるで市場で首飾りを選んで買うように、便利な力を手に入れて人より一歩ぬきんでようとする浮薄な学者達の能天気さとは違っていた。分かっていながら一人でその歪みを引き受けようとしていた。 そしてアガタはそこに気付いてしまった。 彼女はネコに警告されるたびにこう言った。 『だって、おかわいそうです。』 「馬鹿な女だ」 彼女をそしるクローヴィスの横顔を、ソラは複雑な思いで見つめる。 「それじゃ同じだ。まったく同じだ」 弱いものを守るためなら、自分など、犠牲にしても構わない。 アガタとクローヴィスは、まったく同じ考え方をする似た者同士だったのだ。 「ネコは違う。奴は、まともな自尊心を持った人間だ。だから結婚した」 自らの利益にならない関係性に見切りをつけて家庭を持ち、子供を作った。 「俺自身も彼女にもう近寄るなと言った。ところがまるで聞かない」 「…………」 ソラは遠い親類のこととは言え、なんだか済まないような気になった。 ソラも、いい加減頑固でわがままな人間だという自覚があるけれど、どうもアガタは、輪をかけて頑固だったようだ。 それとも、強迫観念だろうか。 どうしてもそうせざるを得なかったのだろうか。 それは同情だろうか。それとも、思慕だったのだろうか。 「愚かな、無力で、無一文で、孤独なこども。目の前の倒れた人間に、すべて与えてしまおうとする衝動。理性はあるのに一瞬で忘れてしまう。何かが壊れた――自分が不在な、人間」 クローヴィスの手で指輪が光っていた。 「どうなるものでもなかった。俺みたいな人間と、あいつみたいな人間が、二人一緒になったところで、ろくなことにはならない。 俺は手を出さなかった。俺は時には本気で、心底、あいつを愚かだと馬鹿にしていた。それでも死ねばいいなどと思ったことはなかった。……愛していたか?」 僅かに動揺するソラの前で、クローヴィスは自答した。 「たぶん」 それから、音もなくその青い目が濁って剣呑になった。 「アガタの死が全ての幻想をぶち壊しにした。俺もネコも、その時に知った。一体自分たちがどんな神を起こしてしまったのか」 「――どうしてですか?」 目を瞬いてソラは尋ねる。今ひとたび。 「……誰がアガタさんを、殺したのだと?」 クローヴィスは暗い口調で断言した。 「俺だよ」 (つづく) |
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