12.




 我が息子よ。学者とは何かと嘆く君に言おう。
 学者とは、計算し測定し準備し実験し分析する生き物である!
 いかに君の耳にこれが時代錯誤に聞こえようとも。
 我らの時間は有限なのだ。
 父から君へも問おう。君は一体何者であるのか?
 君の時間にも限りがあるのだよ。




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「これはまだ仮定の話だ」
 クローヴィスは前置きした。
 そして思わず前のめりになったソラを、見えない手で静かに押し戻す。
「前にも言ったように、俺が直接暴力をふるったわけじゃない。ただ、その命を奪ったのは、おそらく俺であるだろう。
 まだ仮説だ。証拠が足りない。俺はこれを放ったまま死ぬわけにはいかなかった。ここにネコがいれば、もっとましな誘導をするんだろうが」
 苦手意識を綻ばせながら、クローヴィスは頭の中でものを組み立てようとするかのように目を閉じた。横を向いたので、黥が見えなくなった。急に、若々しい普通の人間の顔が出てきたので、ソラは密かに、びっくりする。
「そもそも、お前がどれくらいアルススについて分かっているかが疑問だ」
「ふ、普通のシギヤ学の生徒よりは知っていると思いますが」
 イラカという友人もいる。しかし、ソラは後からこの軽はずみな発言を後悔することになった。
「そうか。なら言ってみろ。仮にお前が、自分の子にアルススとは何かと教えるならば、なんと教える」
「――『子ども』」
「そうだ」
「ええっと……」
 いきなり、彼の唇から家族に関する語などが漏れたことにひどく面喰いながら、ソラはまだなんとか冷静さを保ちつつ、言葉を探した。
「……最近発見された『新しい』神で……、決まった入れ墨さえ体に彫れば、そこから力を送り込んでくれるものすごく簡単な神だと。簡単すぎて危ないから、近づいてはいけないと言います」
「子どもを馬鹿にしているのか。それでは説明不足だ。『創造不可能の原則』を知っているだろう。我々人間は、無報酬で、世界から結果を引き出すことは出来ない」
「そ、それは分かっています!」
 何歳くらいかの子どもだか、細かい設定をくれなかったのはクローヴィスだ。ソラは顔を赤くしながら抗弁した。それともこの男は、ソラが想像したような五歳程度の子どもにも、学問的な話を余すところなくすべきだと思っているのだろうか? そうかもしれない。
「それこそポリネ先生が教えて下さったことです。人は無から何かを作り出すことは出来ない。か、『神でない我々は、全ての行動に、対価を払わなければならない』……」
「そうだ。では、我々がアルススに支払う対価はなんだ」
「……! だから」
 ソラは怒りが今ひとたび脳天を突き上げるのを感じた。本当にクローヴィスといると――振り回されてひどい目に遭う。
「それを、先生たちが、探っていたんじゃないですか。な、なのに、あなた達が邪魔を。あなたは、ガニア先生を脅しました」
「俺は予言をしただけだ。外れたか?」
 ――ソラは絶句した。
「お前も学者の端くれなら、手元にある材料から計算しろ。お前はまだ、とっくに来るべきところまで来ていない。怠惰だぞ」
 クローヴィスなら幼児を捕まえてもこう言うかもしれない。全員が自分と同じくらい真剣で頭がいいと思っている。
 ネコが、彼のことを放っておけなかった理由が分かるような気がする。
「考えろ。アルススは、何を対価にしていると思う」
 ソラは諦めたように目をぎゅっと閉じ、懸命に記憶から事実を洗った。
 そして、ようやく言葉と論を組み立て、口を開く。
「……アルススの力を使うとどうなるか、さっき、あなた自身が詳しく語られました」
 倦怠感。微熱。関節痛。鼻血などの不正出血。視界不良。
「それに、イラカなどの話を考え合せても、貧血的な症状が出ているように思います。……まさかと。本当にまさかとは思いますが……『血液』……?」
 遠慮しながら言ったのにクローヴィスの答えはあんまりだった。
「廊下に立っていろ」
「えっ?!」
「どこの世界に、人の生き血を吸う神がいる。アルススを沼地に住む下等な昆虫の親玉にするつもりか。紙芝居屋になれ、お前は」
 ソラは屈辱で死ぬかと思った。
 ひどい。
「これでも一生懸命考えたんです……! 正解なんて初めから思っていません! ……血液でないなら、一体なんですか?! 生気?」
「お前は根本的に分かっていないな。買い被っていた。時間は有限だと言うのに。――いいか、お前の神シギヤは、お前の願いを聞くならば何を引き換えにする」
「し、信仰心です……」
「具体的に言え。信仰心とは結局なんだ」
「な、『なんだ』って……。つまりは……」
 その時、ソラの頭の中で、何かがぱちんと音を立てて弾けた。
 急に、相手が何を言おうとしているか、分かって来たのである。
「つまりは……。礼拝の回数――いえ、時間、です……」
「そうだ」
 クローヴィスはやっと頷いた。足を組み替えながら。
「神は『時間』を受け取るんだ。それ以外のものは受け取らん。どこの祭壇から供物の果物が消える? 神は大いなる力のかたまりであり、いかなる物質も摂取しない。アルススも神である以上、それは同じだ」
「で、でも、現実に……」
 彼らは言っている。
 体が『持っていかれる』ようだと。
「確かにアルススは、特異な神だ。旧学の神々は必ず学者の過去を受け取ってきた。学者が願をかければ、その時点までの自分に捧げられた時間の総量を引き換えにしてその願いをかなえる。だから大がかりな術である程、老年にならねば実施できないし、その結果についても学者によってばらつきが出る。これは学問的常識だぞ」
「す、すいません……」
「――ここからは、仮説だ。俺自身はこれについて実験していない。経験に基づいた確信を抱いているがな。アルススは、これとは異なった動きをする神だ。彼は過去は問わない。たとえ五歳の子どもでも乞われれば無限の力を与えるだろう。未来と引き換えに」
 外出禁止令の出た学内は、静まり返っていた。
 今や荒廃した研究室にも沈黙が満ちて、外と一瞬手をつないだ。
「未来?」
 ソラの声は水面に投げ入れられた小石のようだった。波紋が広がり、終端がクローヴィスへ触れる。そしてまた波紋が戻る。
「アルススは二つの時間のうち、未来を食らう神だ。今、この時の力を与える代わりに。だから身体に不調が出る。未来が消えるからだ」



 二分ほども経つうちに、ものすごい叫びのようなものがソラの体の奥底で爆発し喉の暗い道を駆け上ってきた。それは、彼女の骨や肉の、組織の内部に潜む、生物としての記憶に、火の粉でも散ったかのようだった。
 彼女は熱さに反応して飛び上がった。言葉は勝手に出ていた。
「……止めないと……!」
「俺はそれでも構わなかったがな」
 頬に、赤い、呪いを貼りつけて、暗然と、クローヴィスは言う。
「今、俺の真似をしている連中も、別段不満はなかろう? 目前の欲求が万遍無くかなえられるならば、勝利の美酒を飲めるのならば、少々早死にをしようが。少々ではないかもしれんが」
「みんなそれを分かっていません!」
「南部の、爆発した、コーニーのように」
「――?!……」
 彼は疲れたような顔に、あるかなしかの微笑を含ませて、不思議な寂しさで、ソラを見た。
「都合よく願いだけがかなえられると思ったと? 大した代償もなしに? 通らないだろう、それでは。これだけ老若のアルスス学徒がいて、その正体を探ろうと真面目に取り組む者も実験をする者も現れなかった。アルススは安全だなどと抜かす権力者の世迷い言を易々と信じ、ガニアやポリネの鳴らす警鐘を狂人の騒音として聞き流した。
 それは承知しているということだろう? 自分の未来を売り渡すことを。俺はそう思っていたがな。第一、そうでないなら、何だ? 都合のいい神様が発明されて、何の実績も資質もない人間を、むやみやたら優遇し幸福にしてくれると? ただ『最先端』の黥を入れるだけのことで、人生や世界が、操作可能になると?
 もし本気でそう考えているなら――そいつはタモンだ。浅ましく飯を食うことにしか興味がない畜生だ。どうだろうな、ソラ。ルル・シル・カントンの創設したこの最高学府はもはや……家畜小屋かな? そうかもしれん。俺にはどうでもよいことだが」
 ソラは、言葉もなかった。
 堕落という表現を年若い彼女が学院に対して使うはずもなかったが、ガニアやポリネはずっと警告していた。彼らが何を難じていたのか――、今にしてようやく、腑の内側にまで、ちゃんと落ちていった気がした。
 そして彼女は、現状の厳しさに気付き、青ざめたのだ。すでに広がってしまった病理の根深さに、視界が暗くなる。長い時間をかけて、椅子に、身体を戻した。
「やっぱりお前はネコの弟子だな」
 その表情を見てクローヴィスが呟いた。
「ネコはアルススの短絡性が学問にもたらす影響の深さにも、その射程の長さにも、いち早く気付いた。だから俺に術の封印を求めた。だが俺はそうしなかった。未来を売っても愚行に走る権利は、誰にでもあると俺は考えた。たとえ破滅しても。
 ネコが示唆していたのは、放置しておけば、その破滅を理解しないまま結果だけに走る阿呆で学院がいっぱいになるぞということだったのだろうが、そんなことは知らない。俺は忙しかった。世界を守るのにな――俺も阿呆だった。まったくそうだった」
 ソラの視界の中で、クローヴィスの横顔に、憎悪が混じり始める。いつかも確かに見た、自分自身に対する強く深い憎悪だ。
 彼は愚かで野蛮な人間を憎む。だから彼自身をも、憎んでいる。
「俺は、前文明の人間達が何故、アルススを禁忌の神にし隠したか、その点を甘く見ていた。つまり未来が奪われるこの原理ゆえだろうと思っていたんだ。だが思えばそれくらいのことで、高い知性と文明を持っていた彼らがこんなにも厳重にアルススを禁止するわけがない。ネコも俺も強いて禁止しようとまではしなかったんだから、彼らだってそうだ。
 もっと他に、受け入れがたいことがあったんだ。だから連中はその力を封じた。地中深くに祠を埋め、その周囲に膨大な量の異形の獣の死体を配した。つまり、こうだ」


興するに野獣の骸数多出で来て
呪わしき悪病種種起こる
男多く死に 女が産甚悪き


「えっ……?!」
「知っているだろう。市庁舎の壁から再現された一文だ。三十年程前に発見されていたが、ネル島の縁起としての意味合いしか認められていなかった。だが、今ならはっきりしている。この島の神階に跋扈する精霊たちは、前文明人たちの苦肉の置き土産だ」
「……わざとだったと言うんですか?!」
「警告だ。彼らは明らかに故意にこの島の地下に多量の獣を埋めたんだ。そして俺達の直接の先祖は、その警告を素直に受け取った。家の基礎を作るために地面を掘れば、たちどころに骨が出てきて悪疫が流行る。この島は危険な島だと察知し、聖別し近寄らないようにした。
 ところが何千年も経つうちに精霊たちの力は薄れ、ルル・シル・カントンがこのさびれた地に目をつけ、学問所を創設してしまった。
 ネコが言うには、土砂の堆積で島の面積が広がったのも大きいと。例の一文を見るに、かつてはもっと島全体が神階のような、禍々しい場所だったに違いない。近づくだけで悪疫、つまり『呪い』を受けるような。ところが次第に呪詛の力が緩んで彼らは地中に後退し、人間が入り込む余地が生まれてしまった。
 古代人たちが同時に、別の戦略も仕掛けていたことを俺達は知っている。信仰だ」
 クローヴィスは白い顎でソラの手元を示した。
 くしゃくしゃになったタリン紙がある。
「まさにそれを示す一文だ――彼らは、自分たちの使っている文字の寿命、限界を知っていた。文字は滅ぶ。文字を刻んだ媒体も次々に滅ぶ。その儚さを見知っていた彼らは、だから信仰を創設し、その地を禁じられた地と定めることで、未来人類を封印した神に近づけまいとした。
 なぜなら、宗教的禁忌の習慣は理論よりも遥かに長く生き延びるからだ。細かい点は伝わらなくてもよい。とにかく、この神に二度と接触してはならないという一点のみを遥か未来まで伝えようとし――その執念は、理由の分からない漠然とした禁忌感、神話における説明のない不穏な戒め。そして民話やわらべ歌の奥に潜む薄い影となって確かにこの世界に伝わった。
 彼らは見事にやってのけた。その激しい禁止は、前文明が滅んだ後も人間という種の根底に潜んで生き延び、実に何万年もの間有効だった。彼らは知識を骨に刻み込んだ。まるで皮膚に穴をあけて、墨を流し込むように。
 ところが、彼らにとっては意外と言おうか、期待をしていなかった文字が、部分的に、まだらに伝わって、この本願を逆に阻害した。どの時代にも物好きで器用な人間はいる。意味も理解せぬ前から古い遺跡を掘り出し、遺物を見つけ、時には売り払い、時には何かしら美しいと感じ、保護し、集め、いつしか文法を解読して、刻み込まれた文字を翻訳した。
 その文明がまた滅び、壊れ、散らばっても、ネコみたいな奴がさらにまたそのかけらを集積し、再翻訳し、こうしてしつこくも意味を伝える。
 誤訳と誤読、そして、伝える価値があるのかないのかもはっきりしないような様々な情報の混合物の中に――禁止されたはずだった技術のかけらも、紛れ込んでいた。ネコはそれを見つけて、ついにアルススへ接触するための手立てを、再発見してしまった。
 だから、前文明の時代にも、意見は分かれていたのかもしれん。賛成派と、反対派と。その両方の声が結局現代に届いてしまったということかもしれん。どちらにせよ、アルススはその時代に、それほどの大がかりで極端な知的行動を引き起こしたのだ。
 俺はその点を甘く見ていた。寿命が短くなろうがそれは個人のことなのだから大した問題ではないと思っていた。おそらくネコも基本的にはそうだ。奴はアガタをアルススに近づけまいと懸命だったが、それも心身に悪い影響を及ぼすと思ったからに過ぎない。
 ――それしきのことなら、前文明の知恵者達はこれほど必死にこの神を封印しなかっただろう。
 ならば一体、何が問題なのか。
 今一つ、仮説を重ねる。俺達は今、それに基づいて行動している。
 俺達が知る限りアルススは、観察し計算し試行する神だ。彼は人を意のままに操作しようとする。そのために前文明で禁止され、封印されたんだ」




「神に人性はありません」
 クローヴィスはソラの抗議を無視した。
「アルススは、黥を通じて直接人間とつながっている。彼は人間そのものに強い関心を持ち、その原理を探ろうとする。彼は自分の影響力の拡大に興味がある。ことによれば、人間から一度封印されたことをきわめて恨みに思っていて、同じ手は食わないと思っているのかもしれない。
 彼は観察し、学習する。人の動きを計算し、予想する。そして、より都合のよい環境を作るために、必要な人間には力を与えて強力にし、邪魔な人間のことは排除する。それを繰り返し、多数の人間を巻き込んだ、管理の行き届いた一つの機械のような体制を作ろうとする。人の方はいつの間にか部品にされている」
「神に人性はありません!」
 ソラは机の上で拳を握ってもはや抑制なしに絶叫した。
 激怒していた。
 それでいて、体中から血の気が引いて、額など、氷のようだった。
 悪寒の立つ寒い汗が背中にびっしりと貼りついていた。
 自分の身体すべてが、そんなものは許せないと軋んでいた。まるでそう、骨の中に、彼女の設計図の中に、その禁止が書き込まれているかのように。
「そんな――そんな汚らわしい神がいますか! そんなの、まるで、人間のすることじゃないですか!」
「そうとも。だから俺は考える。アルススは、かつては人間だったのかもしれん。あるいは、人の造った神かもしれないとな」




「俺達は、前の文明についてほとんど何も知らない。何を知っていて何を知らないかさえ定かではない。全貌を知らないのだから、そのうち何割程度分かっているということさえ言えない。
 しかし、現在の我々よりも、はるかに高度な、危険なほど進歩した社会を運営していたことは確かだ。彼らは自分達の文明の限界さえ見極める能力を有していた。そもそも技術は人の手による世界の改造、そして模造だ。彼らは持っていたかもしれない。人の手による大地。人の手による月と太陽。人の手による動植物。人の手による人間。その先に人の手による神が現れても不思議ではない」
 クローヴィスは、全身に黥をまとったこの新しい学問の始祖は、続ける。
「無論、かつての世も今の世と同じように、人は『創造不可能の原則』に縛られていたはずだ。無から神は作れまい。しかし神とは結局、力だ。膨大な力のかたまりのことだ。
 彼らは何らかの方法で、既存の物質や自然から、尋常でない力を引き出す技術を編み出したのかもしれない。新しい神を創造したのかもしれない。その神を飼っていたのかもしれない。檻に入れて。自分たちの願望の成就に、使役する目的で。
 神はその生活の中で、人というものを覚えたのかもしれん。そしてそれを学習し、いつしか似たのかもしれない。
 そう疑うくらい、アルススの性格は従来の神々とあまりにも異なっている。みなそれを知らないから、まさか神が欲望を持っているなどと、そのために人の世に直接関与してくるなどと思いもしない。神に操られるなどと思ってもみない。アルススはその油断も承知している。常にこちらの知的水準を推し量り、計算し、先回りし、細やかに危機を管理し、世界を運営しようとする。
 そうこれではまるで――人間だろう?」
 何がおもしろいのか、クローヴィスは囁いた後、笑った。
「俺達は、まるで俺達自身のような神――賢いが狭量で疑い深く狡猾で嫉妬深い精神的に不安定な神を相手にしているんだ。
 ガニアもポリネもそれを分かっていなかった。警告してやったのに。軽はずみにその領域へ踏み込んで目立った。多分どちらか、あるいは両方が、体に黥を入れていたはずだ。再現実験のためにな」
 ソラは目を見開く――。
「そうでなければ理屈が通らない。そのことによって彼らは神に存在を知られ、神は二人の行動が自分にとって有害だと判断し、即座に二人を焼いた。そうしたらどうなった? まだその正体に気付かない連中はまさか神による殺人だなどと思いもしない。代わりに俺がやったと決めつけて俺を閉じ込めたわけだ。アルススにとっては一挙両得だ。数少ない、アルススの正体を勘付いていそうな俺を、しがらみのなかに閉じ込めて、操りやすく出来るわけだからな。これがアルススの、得意なやり方だ」
「……ど、どうしてあなたを……」
「俺に言わせるのか?」
 彼は皮肉に反問した。ゆっくりと皮肉に自答した。
「なぜなら、俺は奴の運営する大規模な機械の、重要な部品の一つだからだ。俺を噛み込んでおけば、実際に若い奴らがこの学院へまだ大勢集まって来る。奴らは黥を入れる。そしてアルススを崇め奉り膨大な未来を捧げる。アルススは力を増し、一時不安を免れる。
 ――奴は、本質的に不安な神だ。何故なら、その実その力の源は、人間に他ならないからだ。アルススはたぶん、無から何も作れない。人の未来を吸収し、解体して今現在の力として還元するだけだ。その技術のみで構成された神なのかもしれん。
 だから奴は、いつでも人間が何で動くか知りたがっている。人が俺によって動くなら、俺を閉じ込め保全しようとする。檻に入れて、飼おうとする。だから俺が眠っていた間――機械はつつがなく稼働して、奴は幸せだったはずだ。アルススにとって理想の人間とはきっと、ああいったものなのだろうよ」



「アルススにとって、初めから俺は、最も使い勝手のいい駒だった」
 クローヴィスは言った。
「奴を起こした迂闊で間抜けな張本人でもある。まったく何も知らずに、ご苦労にも幾重にも課された障害を破って自分を解放しに来た。その上、アルススの力で戦争を止めて『英雄』扱いされ、自分でもそれに酔っている頭が春の愚か者だ――。
 俺の成功は大勢の若い学者をアルススに引き込んだ。それは旧学を圧迫し学院をアルススの牙城に変えた。そしてその技術は今度は世界に輸出されようとしている。
 奴にしてみれば、俺はけっこう役に立つわけだ。利益が見込まれる限りは、俺のことは生かしておきたい。籠に入れて門に飾れば、わんさか見物人が集まってくるうちはな。
 それでいてアルススは、駒が自分に反逆する可能性も忘れてはいない。俺が奴の正体に気付いたことも知っていて、いつも幻想なく観察している――ああ、きっと、手ひどく裏切られたんだろうよ。いつか。ある時には便利な神だ。新時代の神だ。万能の神だと言われ愛されたのに、状況が変わるやその同じ人間達からよってたかって批難され解体され埋められた。アルススは人の勝手さをよく知っている。だから、休みなく監視し操作して絶対に人が自分から離れないようにする。
 アルススは俺を客寄せとして使って、さらに影響力を拡大するつもりだった。ところが、じき、その俺が死ぬことしか考えていないことに気が付いた。めくら滅法に力を使って、寿命がどんどん縮んでいく。このまま放置して、あまり若いまま変な死に方をすると、人々は『また』アルススを疑い出すかもしれない――きっと以前、経験したのと同じに。
 それはならない。それはまだ盤石でない自分に大きな危機をもたらす。影響力の減少。それは奴にとって死と同等だ。再び地中に戻されることは、奴にとって受け入れられない恐怖と屈辱だ。しかし見渡したところ、俺の代替になるような都合のいい次の馬鹿が見当たらない――。
 それで、一体奴がどうしたか、分かるか? 俺が生きざるを得ないようにした」
 気が付いたら、クローヴィスの顔も蒼白になっていた。
 ニキ・スズキリ・アガタの遺体が発見された研究室で、彼らは向かい合っていた。
 ソラは答えられなかった。
 クローヴィスは言った。
「アガタの未来を奪って俺の未来に足したんだ」




 クローヴィスは言う。アルススは黥を介して人とじかに接続する。
 逆に言えば、黥がなければ人間には接触できない。
 だからシギヤ学徒のアガタがその計画に巻き込まれるなど、あり得ないはずだった。
 クローヴィス自身だってそう油断していた。ネコよりも彼女を見くびっていた。
 ところが、アガタは黥を入れたのだ。密かに。誰にも相談せず、学友らを遠ざけて。
 彼女はクローヴィスの身を案じて、その病気の原因を探りたかったのだ。その扉の向こうに機械仕掛けの神があることを知らずに、自ら錠を開いて、招き入れてしまった。
 クローヴィスは何も知らなかった。自分がいつくたばるかそのことばかり心待ちにしていた。
 彼はその頃、慢性的な体調不良を通り越して、既に内臓のいくつかにも疾患が起きていた。院長に厳重な口止めをされたシギヤ学者には、よくない腫瘍だろうと見立てられていた。
 彼はそれでよかった。親もなく子もなく死ぬ。自分にふさわしい運命だと思っていた。ただ、痛みのあまり眠れなかったり動けなかったりすることには疲れ、辟易していたが。
 実際その頃のクローヴィスは学内でたびたび昏倒し、学徒らにもその姿を目撃されていた。院長がどれだけ気を使っても、病気の噂はもはや公然たるものとなろうとしていた。
 その夜も、学内で倒れた彼は、医務室の寝床から動けなくなっていた。さすがに苦しかった。死ぬのは少しも怖くないが、苦しいのには迷惑していた。
 既に通常の薬では効かず、毒だか薬だか曖昧なほど強い生薬に頼っていた。その晩も、処方された濃い薬湯で寧ろ意識を殺さんばかりにして、ようやく薄く、浅く、まどろんでいた彼は――明け方、突如脊髄に針がたたって熱い生気が流れ込んで来る感触に驚いて目を覚ました。
 力を希望した覚えはなかった。なのに、暖かいねっとりした、豊穣な血が、じわり、じわりと一呼吸ごとに凍え切っていた全身に浸透していった。抗えなかった。身を反らし、瞼をどれだけ開いても足りなかった。鼻腔の奥から、爪の先まで熱くなって、視界が真っ赤になり、自分の内部から輝きが放出するかのようだった。
 その感覚は、甘かった。
 温かい、甘い飲み物を、背から飲んでいるかのようだった。母の乳と言ってもいい。
 全身にそれが行き渡ると――痛みは跡形もなく、身体は水の上に浮いているかのように軽くなった。体温が上がり、信じられないような温もりと安らぎの中で、彼は、気絶するかのように脱力し、深い眠りに落ちた。



 今でも、覚えている。
 彼は、その時、アガタの夢を見たのだ。
 心地よい寝床に眠る彼とは裏腹に、彼女は、荒廃した自分の研究室の床にひっくり返っていて、死んだ虫みたいにぴくりともしないのだ。
 彼は不思議に思ったものだ。
 馬鹿だな。一体、何をしているんだ。
 床が堅くて、寒いだろうに――。


 彼はほぼ一日眠り続けた。そしてようやく目を覚まし、身体の軽さを不思議に思いながら研究室に戻ってそこに、夢で見たのと同じ、アガタの遺体を見つけたのである。



 何が起きたのか、分からなかった。
 これほど頭が混乱したことはかつてなかった。
 冷汗まで額に感じながら、彼女の身体の傍に膝をついて脈を取ろうとした彼は、まずその手の完全な冷たさに、そして次に、その内腕に投げ入れられた花冠を見つけて、呼吸を忘れた。
 彼は前にもそんな冷たい手を取ったことがあった。
 この手に幾度呼びかけても、決して応えが戻ってこないことを知っていた。
 重なるように頭いっぱいにララシアス文様が広がって、脈の頻度で意識を刺した。
 ―― 一体、これは、どういうことだ。
 どうして、シギヤ学徒のアガタの身体に黥が刻まれているのか。
 彼女はアルススに興味があった。いや――彼の苦しみに興味があった。彼の苦しみの理由を知るために、アルススを知りたがっていた。
 彼は彼女を近づけなかった。近づけなければ、汚染することはないと信じた。
 だのに。
 入れたのだ。自分で。
 ――なんて愚かなことを……!!



 クローヴィスの汗と動悸は止まらなかった。彼には生々しい感覚があった。自分の中にいきなり何かが接続された記憶があった。
 そして、体が、今も軽いのだった。
 あの時、確かに、アガタの気配を感じた。いや、それどころか、見た。
 この光景を。この光景のまま。確かに眼の裏で見た。
 アルスス学徒なら知っていることだ。アルススから力が注ぎ込まれてくるとき、回路がつながり、一瞬向こうの気配が自分の意識に混ざって漂うのである。
 それは大抵、舌の痺れるような感じ。そして、孤独な、荒廃した感触だ。
 しかし昨夜のは違った――昨夜のは違った。
 明らかに人の血肉のぬるみがあった。
 アルススは、人の未来を現在の力に還元する。――では、人の未来はどうなのだ?
 ある人間の未来が現在に置換可能なら、他人の未来も置換可能ではないのか?
 ――だが、たとえそうだとしても、何故?
 何故こんな置換がいきなり行われたのか?
 クローヴィスは夢にも望んでいない。だって眠っていたのだ。
 では、アガタが自身が?
 いいや。彼女には大切な肉親があった。いくら救済に血迷っても、そのことを忘れるわけがない。
 彼女の親になんと言えばいいのか。
 どうして。どうしてこんなことが起きた……?!



 この時は、最もアルススをよく知る始祖クローヴィスにも、何が起きているか分からなかった。他の人間達に分かるはずがなかった。
 人は皆、当時の学院長さえ、クローヴィスが何かの理由で女生徒を殺害したと思った。そして、問題になりそうな証拠を、なんのつもりかすべて手回しよく消していった。
 シギヤ学者が遺体を検めた。そして『外傷なし』とした――確かに外傷はなかったのだ。
 あっという間に遺体は焼かれ、遺骨が東部に送られた。その際、学院長は相当の見舞金を遺族に支払ったという。
 最終的に、原因不明の急死という学院の公式見解が発表された。
 当然、不審と抗議の声が上げられた。
 当時はまだ旧学の勢いも盛んで、アルスス学が学院を支配するには至っていなかった。最も激しい抗議を行ったのは、言うまでもなくネコだった。
 彼は彼女が殺されたことを疑っていなかった。八方手を尽くして守ろうとしていた愛弟子をむざむざ死なせてしまったことに怒り狂って、公然とクローヴィスを非難した。
 曰く、たとえ彼がその前の晩、ずっと医務室にいたのだとしても、遺体が発見されたのは彼の研究室なのだから、まったく事情を知らないはずがない。学院は彼をかばって情報を隠している。真実を公表せよ!
 まったく妥当な主張だった。
 しかし、クローヴィスには答える言葉がなかった。
 相変わらず彼は無表情で、人が何を言っても動じなかったが、その実、ひどく混乱し、途方に暮れていたのだ。
 根拠はなかった。しかし、手ごたえから、彼はアガタの人生を奪ったのは自分だとほぼ完全に自覚していた。だが、学問的根拠がなければ、そのことを誰にも説明は出来ない。そして自覚を確信に変えることも出来ないのだ。
 また、クローヴィスにとってそれは、あまりにも認めがたい事実だった。
 彼は、生れた村で同じように死体の手を握った経験があった。その経験が彼の全てを作ったと言ってもいい。
 今また、同じように遺体が転がり、しかもその娘を殺したのは、自分だというのである。
 彼は自分の手で同じ場面を再現してしまったのだ。
 自分自身が崩壊しかねない状況だった。
 どうしてこんなことになったのか分からなかった。彼はそれを容易に認められず、否定もならず、葛藤を抱え罪悪感を背負わされて果てなく煩悶した。
 事件後、一度だけ、ネコとクローヴィスが顔を合わせたことがある。聖堂で、距離を保ち、大勢の心配する学者達を間に挟んでの一瞬の対面に過ぎなかったが、ネコはクローヴィスの表情を覆う、困惑と罪悪感の影を見逃さなかった。
 クローヴィスはこれまで一度だって、そんな後ろめたさを見せたことはなかったのである。
 これは極めて強い刺激をネコに与えた。彼はそれ以来、クローヴィスを攻撃するというよりも、アルスス学にまつわる全ての不明な点を明らかにすべきだと猛烈に主張を始め、学院全体を揺すぶり始めた。
 そして最後には、力を使うことによる身体的影響を実験によって明らかにしようとしたために、理由をでっち上げられて、学院から追放された。
 ――この不当な決定は、それまで穏健であった他の旧学者達を動揺させ失望させることになった。彼らのうち何人かは実際に学院を去り、残りは沈黙し目を伏せ、いつしか学院は、アルスス学徒の支配する帝国となった。
 クローヴィスは安堵するどころか、逆に自分が囲い込まれたことを感じた。
 今や学院内には、彼を英雄と讃える『味方』ばかり。彼らは伝記を捏造し、大げさな伝説を流布し、何のつもりか彼の図像を色刷りしてはばらまく始末だった。彼こそが新時代の神ででもあるかのように。
 気が付けば、学院はまるで完成した機械のようになっていた。クローヴィスがそこにいる限り半永久的に稼働し、人を集め、そして力を集め続ける機械である。
 いつのまにかクローヴィスは、両手両足を縛れて、その中に放り込まれていた。
 その機械の操作棒を握るのは――幾度繰り返し考えても、アルススだった。



「見事な計算だと思わないか」
 クローヴィスは唖然としているソラに言った。
「たった一人、迂闊な田舎者の子供を犠牲にするだけで、今に至る体制の出来上がりだ。これを地道にやろうと思ったら、どれほどの時間と手間がかかることか。しかも、俺の喉を塞ぎ死ぬ気を挫くこともできる。大変効率のいい非情なやり方だ。
 ――俺はこの時初めて、自分の起こした神の、最後の性質に気がついた。前文明人が、知恵の限りを尽くして俺達に伝えようとした危険の、深刻さが分かった。
 これが繰り返されれば、世界はぐちゃぐちゃになる。陰謀は人を割るからだ。前文明は苦しんだんだ。アルススによって振り回され、ばらばらにさせられ、弱い人間が押しつぶされ、強い人間は力を得て狂い、これが未来の神だ、いいや、こんなものは滅びの技術だと諍いがあり、何か決定的なことが起きたに違いない。
 結局アルススを認めない人々が主導権を取ってそれを地中に封じた。そして二度と人がこの神に触らないよう様々な手段を講じた。同時に、これに反する人々がいた理由も明らかだ。アルススによって機械の上位に据えられた人間達や、アルスス自体を研究対象とする学者が、その世界にもいたわけだ」
 今や学院はその上位者たちの支配する城だった。若く希望に燃える学生達はその栄光に憧れ、恩恵にあずかろうと続々とやって来る。そして機械を回し続けるのだった。
 クローヴィスは、新しい神を起こした。目前の問題を解決するために。だが、それは、新たな歪みを世界にもたらすものだったのだ。
 しかし、その彼の認識に、学問的根拠はないのだった。
 いくら自分が操られていると感じたとしても、それを証明することは極めて難しい。事実、学院長をはじめとするアルスス学者たちは誰もアルススの意志を感じていなかった。自分たちは思うままに振る舞っていて、成功したのは実力だと任じて酔っ払っていた。
 そして半年と経たないうち、クローヴィスは再び、体調を崩し始めた。
 体力は依然あったが、それで腫瘍が消えてなくなるわけではない。若いほうがかえって病勢が進むように、症状が重くなり始めたのである。
 クローヴィスは、どうすべきかと葛藤した。
 もし自分の仮定が正しいなら、今度こそ自分は捨てられるかもしれない――いや、それならまだいい。下手をすると、再び誰か迂闊な人間の人生が、自分に移植されるかもしれない。
 クローヴィスはその頃には既に伝説の英雄として神にも等しい存在になっていた。代わりの人間を探してその手足を一から縛るより、誰かもう一人、役に立たない人間を間引いた方が楽だと。アルススがそう判断しない保証はなかった。
 いっそ。死ぬか。
 彼はその頃、時に自殺を考えた。
 ……だが、自分の体の中にアガタがいると思うと、彼の思考は停止するのだった。
 アルススの計算は実に狡猾だった。
 このまま死ぬわけにはいかなかった。
 彼女から何かを奪ったなら、その償いをしなければ死にきれなかった。
 だが、一体どうすればいいのか。クローヴィスは友から切り離され、俗物たちに囲まれて孤立していた。最強の男、伝説の英雄と言われながら神と機械に翻弄されるがままになっていた。
 他の人間には何一つ理解できない理由で、限界まで追い詰められていた彼に、救いの一手を与えたのは、またしても、ネコだった。



 クローヴィスは顎でソラの手元を示した。
 最後の手紙があった。
 ソラは広げてみた。これだけ、紙もインクも他に比べて新しかった。そこには図画がありその周囲に几帳面な筆致で説明書きが散りばめられていた。
 もう、『ヴィシーへ』とも書いていなかった。それでも誰が書いたかは容易に分かった。
 古代文字だった。ソラにはところどころ読めなかったが、内容はおおよそ窺えた。延命術の解説図である。人型の傍に書き込みのある長方形の札に見覚えがある。聖堂で、眠るクローヴィスの口が噛み込んでいたあの札と同じだ。
「いつも俺は自分を救う方法を見つけられない」
 彼は言う。
「ネコは違う。奴は、裏庭に退いた後も休むことなく事態を打開する方法を探していた」
「……じゃ、じゃあ、初めから先生は……」
 クローヴィスが死んでいないことを知っていた。
 それどころか、あの人々を驚愕させた異常な仕掛けを用意したのは、ネコ当人だったというのか。
「もとは大昔の学者が考案した延命術だそうだ。だが、当時は実現不可能の珍説だと思われていた。それにネコはしれっと最新技術を混ぜ、最新版にして送ってよこした。最も重要なのはアルススの力で、その水のように間断ない力の配給がなければこの術は成立しない。使えるものはアルススでも使う。万能というのは、ああいう男のことを言うんだろう。
 ――奴は、時間を稼げと諭してきたわけだ」
 何が起きたか、大体察している。お前がどれだけ尊厳を奪われているかも分かっている。対策を取るためには、一時アルススの技術を使ってでもいいから、体を修復しろ。そうでなければ戦えない。
 体を仮死状態にすればさほど未来を食わないはずだ。またお前が自分のゆりかごの中で眠っている間は、アルススも心配はしないだろう。
 その間に、こちらは準備を整えておく。さらに情報も集めておく、分かるだろう。旧学の徒にとっては、流れていく時間は味方以外のなにものでもないのだから。
「奴は時々、溺れる人間に手を差し出すように人を救い出すことがある」
 ソラは思わず頷いた。
 自分も救われたことがある。
 息もできない苦しみから。
「俺は奴の提案に乗って、眠りに入ることにした。学院長や、ホーデや、シギヤ学の学部長なんかも巻き込んで準備をさせた。ホーデは俺を見て何を勘付いたか……俺を汚らしい男だと言ったな。そこまでして生き延びたいか、理解できないと散々に嫌味を言われた。俺はそういう連中にこの身を委ねたわけだ。
 しかも目覚めの保証はなかった。いわば自分を使った人体実験だった。それでも、このまま機械に挟まれて翻弄されているよりましだった。人間の魂をまた強制的に食わされるよりましだった。それに――」
 同じ光景をまた作り出すよりも。
「……俺は賭けた。目覚められるかどうかは本当に分からなかった。
 だから意識を取り戻すと同時にお前の顔を見た時は一瞬、もうすべて終わったかと思った」
 ソラの脳に、その時のクローヴィスの寝ぼけたような表情が浮かんでくる。
『どうしてお前がここにいるんだ。』
 確かに彼はそう言った。札を噛んでいた唇で。
 彼は、冥府に行ったと思ったのだ。そして冥府に行ったなら、彼とアガタは同じ場所にいるはずがないと思ったのだ。
 だとしたら、賭けには負けても、もう戦わなくてよかったわけである。
 ――だがもちろん、現実は違っていた。
「そんな甘い考えが通るわけはないとわかってはいたがな。
 それにしても、大した目覚めだった。お前はアガタに似てはいたが別人で――だろう? その上、ネコの指輪を身に着けていた。アガタのものとそっくり同じ。
 眠る前に、もう覚悟は済ませていた。結論が出た時には、自分が始めた学問を自分で終わらせる覚悟だ。これまで以上に手を汚すことにもなるだろうと思っていた。――それでも、はっきり言って、たじろいだ。奴は決して容赦しない。永遠に勝てないと悟った」
 彼の言い分が分かるような、分からないような表情を浮かべるソラに、クローヴィスは眉を寄せて目を閉じ、唇の端をほんの少し釣り上げた。
「そろそろ身の危険を感じたほうがいい、ソラ」
「……?……」
「俺達は学者だ。俺は始めにまだ仮説だと言ったろう。今の話は、大部分がまだ実験によって証明されていない。
 ネコは俺が生きていて、いずれ目覚めることを知っていながら、お前を俺のいる学院へ戻した。それは再現実験の材料として使うなら使うがいいと、俺に許可していたということだぞ」






 第一神階。
「イラカさん……!」
 ずるりと足を滑らして、洞窟の壁に倒れたイラカの姿を見て、ハンが叫ぶ。
 その声が殷々と奥へ響く。
「ちくしょう……」
 体力切れだった。
 イラカは群がる精霊を切り払ったものの、体勢を崩し、一瞬まともに二本の足で立つことさえできなくなった。
 ハンは壁を捨てて駆け寄り、その胴に腕を回す。
「退きましょう! もう、これ以上は駄目です。事故になります!」
 イラカは、誰にも、女には誰にも見せたことのないような醜態をさらして喚いた。
「あーーっ! 畜生!! どうして俺はこんなに無力なんだ!!」
「イラカさ……」
「助けたいのに!!」
 握った両の拳を顔に当ててイラカは叫ぶ。
「あの人を助けたいのに! 一緒に背負いたいのに!! 近くにも寄れない!!」
「……」
 ハンは、力づくで、その体を引きずった。
 彼は大人しい性格の割に意外なほど体格が立派で、体力はある。だらりとなったその体を、自分がもといた場所まで運ぶと、壁に向けて下ろす。
 イラカは座らされて、顔を押さえたまま、長い間、動かなかった。
 きっと恥ずかしいんだろうなとハンは思う。その気持ちは分かるので、自分の腰のベルトを両手で持ったまま、とにかく傍で見守っていた。
 彼らに襲い掛かる精霊はなかった。
 いつしか、神階は非常に静かになっていた。
 異常なほど。
 それに気づいた時、それはもうそこにいた。息を呑む暇もなかった。
 空耳だろうか。
 それはしゃべった気がした。
 願いをかなえてやろう。





(つづく)
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