実はその頃、世界は学術復興の時代だった。
 例の二年前の南部での大規模な遺跡発見をきっかけに、古代文明の研究が急激に盛り上がり、むしろ過去の文明を知ることによって自分たちの現在を振り返り、新しい可能性を見つけようとする動きが各所で同時多発的に起こっていたのだ。
 それは、数年前に隆盛を極めて軋轢を高めた挙句に大爆発して終わったアルスス学にも、その時の怨念を忘れずに復讐に走っていっそ醜い反動を見せた各旧学にも辟易した多くの学者たちが持て余した、情熱と知性のなだれ込む先だった。
 既存の枠組の中で堂々巡りや派閥争いをするのではなく、言葉も違う昔の、からくも現生にたどり着いた史跡を丹念に丹念に洗うことによって、大いなる革命を起こそうとする企みだった。
 その動きは今後十数年にわたって続き後世に影響を及ぼすことになるのだが、当時はその始まりの頃だったのである。
 特に、都市部の女性達はこの古代研究の成果に敏感に反応した。ソラが驚いたように、そこには『結婚の自由』『両性の平等』『財産権の保障』など、女性達がこれまで「あればいいのに!」と切望していた思想が実際の言葉として現れていたからである。
 これまで一度として成立していたことがない思想と、かつて(あるいはどこかで)成立していた実績がある思想では、可能性がまるで違う。
 都市の女性達は喜び勇んで研究に取り組み、また都市を越して研究者同士が連帯し、これまでにない規模で人々の意識を変えるための、地道な行動を始めようとしていた。




 しかしそれは都市部の話で東部には関係なかった。
 革新の風は長い道の途中で衰え、軒先の洗濯物を揺らすことさえもなく、田舎ではしきたり通りの共同体が相変わらず運営されていた。
 それは例えば、物腰のやさしい、見目のいい若者の姿で現れた。
 彼はフルカの店の奥の事務室で、フルカとソラに礼儀正しくお辞儀をした。
「ロクオ・トウ・ウタリと申します。町長には平素から大変お世話になっております」
 フルカには見たことのある顔だった。数か月前、町長宅でお茶くみに現れた顔のいい若者である。
 恐らく年齢はソラやフルカのやや下だろう。格好は地味だったが、日に焼けた健康的な顔にぱっちりとした目が印象的な、明るい声の青年だった。
 居合わせたソラに対しても、
「町長からいつもお話をお聞きしていました。お会いできて嬉しいです」
 と、悪びれない挨拶をして彼女を曖昧な心地にさせる。
 どうやら青年は非公式な使者として町長の代わりにやってきたらしかった。フルカも無下には出来ず、椅子を勧めお茶を出して自ら対応する。
「今日、私がやって来ましたのは、理由は二つありまして。まず、本来はおうちにいるべきソラさんが、最近は不在になさっていることが多いため、それを親族の方が不安に思っていらっしゃるのをお伝えするためです」
 青年ははきはきとはしているが、文法的に稚拙な言葉遣いをする様子があった。
 言っている意味は分かる。単にまだ若いし、ちゃんと勉強をしていた期間がそれほど長くないだけなのだろうなとソラは察した。
「ソラが家にいるべきだなんて、そんな約束はしていないし、彼女が行動を拘束されるいわれもないわよ」
 ソラの代わりにフルカが答える。
 彼女の態度もずいぶんざっくばらんでソラはひやりとするが、彼女は町長に対する思いもあってか、自分が上だという態度を崩さないつもりらしかった。
 ウタリと名乗った青年は笑う。
「でも、別に働かなければならない状況ではないですよね。本家の方から、お金は支払われているはずで」
「そのお金を頂くつもりはありません」
 ここはソラが自分で返答した。
「お話だけはお聞きしていますが、頂くいわれがありませんから。それにたとえ労働しなくても、私は自由に出歩いていいはずだと思います」
「町長からは、とりあえずお伝えするようにとだけ言われています。ただ、この問題があまり大きくなると、ソラさんこそがまた不愉快な思いをするでしょうから、出来れば自粛してもらいたい、とのことでした。出来れば」
「…………」
「『自粛』の『強要』ね。ばっかみたい」
 ソラの皮肉な心中をフルカが代わりに笑い飛ばす。
 ウタリが気分を害したかどうか、ソラには分からない。「それから」と精悍な顔で彼は続けた。
「二つ目の理由は、こちらの方が本題ですが、今後は、よその家の事情に首を突っ込むのは自粛するようにとお願いするためです」
「何のこと?」
 間髪入れずにフルカが返す。ソラは自分の瞬間の動揺が外に出なかったことを祈るばかりだ。
 青年は微笑みを消さない。
「町長は、『ノクラの町に住んでいた女性の家出にあなた方が関与していたことは分かっている』と仰っています。このことが公になれば、大変な問題になりますから、そういうことはもうやめてもらいたいと町長は仰っています」
「悪いけど、なんのことかしら。ノクラの女性の家出騒動については、もちろん知ってるけど。一時旦那さんが大騒ぎしてたわよね」
「大切な妻がいなくなったとなれば仕方のないことでしょう。今、みんなで行方を捜しているところです」
「――『みんな』?」
 フルカは瞬きする。塗られたまつげが動く。
「『みんな』って?」
「ノクラの町長や、ご友人の方々が、問題を解決しようとしてがんばってらっしゃるんですよ。奥さんを見つけて、なんとか家に戻って頂こうとして」
 事務所の中の空気が沈み込むような沈黙が、どれくらい続いたのかソラには分からなかった。
 フルカも同様かもしれない。
「それは、家出した女性が望んだことなの?」
「ご主人とご家族に同情した方々が自発的に始められたと聞いてます。それを、ノクラの町長も応援していらっしゃるとか」
「あのね。――私は昔、ンマロにいて、その時にそういう女性の支援をしている人達と大勢知り合ったの。そこで色々聞いているけれど――女性が、家を出るのには、理由があるのよ。相応の理由があるの。それを聞きもしないで、男の言い分だけを鵜呑みにして味方するのは、女性を追いつめる行為よ。よく考えた方がいいわ」
「もう居場所は分かっているそうです」
 せっかく掘った穴を埋め戻されたような。
 立てた柵を崩されたような。
 そんな気分を抱えながらまるで疑問や悪気のない青年の顔を見ていた。
「だからこれから、家に戻るように説得をするそうです。うまく行くといいですね」
 ――うまく? うまくですって?
 口には出さなかったけれど、フルカがそう思っているのが分かった。
 ソラは言う。
「まさか、無理やり連れ戻すなんてことはしないですよね」
「いや、まさかそんなことはないと思いますよ。ご主人も反省しているそうですから。戻ってきてくれるならなんでもすると言っているそうです」
「…………」
 ソラの脳裏に、生々しい背中の傷跡が火花のようによみがえった。
 彼女が見せてくれたのだ。
 夫がしたのだと言って。
 打撲の他、火傷の跡もあった。
 落ち度もなく、理由も分からぬままにいつも力づくでなされたのだという。
 みんなそれを知っているのだろうか。
 ぜんたい反省っていうのはなんのことだろうか。
「町長は、あなた方が女性相手の商売をするのは邪魔しない、と。ですが、家出の幇助をするのはやりすぎだと。女性だから女性に味方するのは当たり前でしょうが、また愛人ができて夫が嫌になった妻の家出に協力したりするなら、次は強い処置を取らざるをえないと」
 ソラは抗議の声を上げたかったしフルカもそうだろう。
 ――何を勝手な話をこしらえているのか。
 『コマリ』に恋人ができたのは、家を出てずっと後だ。彼女は身を守りたくて家を出たのであって、新しい恋人に目がくらんで夫を裏切った不貞の徒ではない。
 しかしそれを言っては、まんまと相手の策に乗って、関与を認めたことになってしまう。
 ウタリは知ってか知らずか、やさし気な微笑みを浮かべて二人に理解を求める。
「それは、みんな人間ですから、いろんなことがあるでしょう。でもそういう色んな困難を、乗り越えてともに支え合うのが家族だと思うんです。
 家族は、僕たちの基盤です。すごく大切なものです。許し合って、分かり合って、絆を大切にしないといけません。それを壊すような行動に、手を貸してはいけないと町長は仰ってるのだと思います」
 受け止めきれない長い長い沈黙の末にソラはやっと言った。
「……あれって、そういう話なんですか? もっと違う話なんじゃないですか」
「フルカさんも、ソラさんも、もっと地域の絆を深めるような行動をしたら、周りから喜ばれるんじゃないですか。例えば、女性同士の相談室とか。女性同士ならではの思いやりで、お客さんの悩みを聞いてあげたりとか」
 ――やってるよ。
 フルカはもう会話する気力もないような顔を天井に向けていた。
 とっくにやってるんだよ。もう何年も。『思いやり』なんかとは何の関係もないところで!
「僕はハライの町が大好きなんです」
 ウタリ氏の話は続いた。輝く笑顔の装飾つきで。
「優しくて思いやりのある故郷の人たちが大好きなんです。みんなの悲しむ姿は見たくありません。だから協力し合って、誰もが安心して笑顔でいられるように、手を取り合っていきましょうよ。おじいさんやおばあさん、先祖の方々が築いてきたこの町を、これからも大事にしていきましょうよ」




 学校で言えば、人気者で、異性に好かれて、全てほどよくて、一番普通だと思われるような生徒だったのかもしれない。
 多分、信じられないのかもしれない。例えば同じ町で育って、「自分はここでは生きていけない」と思うしかない人間がいることを。
 家族の価値だの伝統の良さだのと言われると、どんどん白けてしまって、ただ相手のことを信頼できないという感情だけが大きくなっていく、そんな天邪鬼もいることを。
 現状維持が、幸福の維持を意味せず、犠牲の維持でしかない立場の人間の気持ちなどは、分からないのではないのだろう――思いもよらないのだろう。
 拳を食らったというより、頭がぼうっとするような感じだった。
 ソラはそれをなんとかこらえながらこれだけは我慢できずに念を押した。
「何があろうと、女性を無理やり連れ帰ることだけはしてはいけないと、町長にお願いしてください。あと、彼女が夫に会いたくないといううちは、絶対に二人を会わせないように頼んで下さい」
 ウタリ青年は肯った。
「大丈夫ですよ! ノクラの人だって馬鹿ではないんですから」
 ソラは彼がそう肯うのも知っていた。
 予想通りの反応に、かえって倍増す不安を抱えながら、全ての幸運を祈るほかなかった。




「あの僕。敵じゃありませんから! 味方ですからね! 嫌われたら悲しいです。また来ますから、仲良くしてください」
 最後にそう挨拶して、きらめく笑顔と共にウタリ氏は帰って行った。
 何がどうと、はっきり理由を言えないのだが。
 フルカは怒り狂ってこれまでハンにも言ったことのないような罵詈雑言を吐いていた。
 身なりがきっちりしているだけに迫力がある。
 いつものことだが彼女が先に爆発するのでソラ自身はまだ冷静でいられた。
 ただただ無神経な男達の横行に不安を覚え、『コマリ』の身の上を案じて気持ちが暗くなっていたのだが、夕方、今度は町へ買い物に行っていた店の女の子が遅れて帰って来て、途中で男に絡まれて無理に体を触られたりしたと訴えた。
 みな一度や二度や三度や四度は身に覚えのあることだから、一斉に同情して店内は一時大騒ぎになった。
 女の子は相当嫌な目にあったようで、門番を務める年長の女性に抱きしめられて泣いていた。
 呪詛を吐く女の子の髪の毛を、女性は幾度も掌で撫でる。
 それが先日ソラが見た、廊下で口づけしあっていた二人なのだった。


「もうやだ。男なんて世の中からいなくなればいいのに」




(つづく)
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