男なんて、この世からいなくなればいいのに。 夜、借りている元倉庫の一室で、ここは地味な木材むき出しの天井を眺めながら、ソラはその言葉を反芻していた。 泣き崩れる女の子とそれを慰める門番の女性の姿。 前々から、二人とも男性嫌悪の強めなところはあった。フルカの話では、女の子は昔から教師だの親類だの同世代の男子だのに頻繁に性的な嫌がらせを受けて完全に男性不信で、門番の女性は、夫から一方的に離縁されたのだという。 ソラもそんな二人がそう言うのはもっともだと思った。 店内にはそれに同調する女の子もかなりいた。 男たちの引き起こす下らない面倒に、うんざりしている感じ。女ならそんな馬鹿な真似はしないのにという気持ち。 ひどいことをするのはいつも男だ。戦争も、犯罪も、したがるのはいつも男だ。そういう気持ち。 厳密な学問的事実とは異なるだろうが、一時的にそういう気分になることは分かるし、ソラも、なったことはある。 離れられたからこそ分かる、夫ゾンネンの――思い出したくもない――程度の低さ。 町長の息子などという特権的立場にありながら、自立した大人であるという最低限の義務を果たさない狡さ。 その果ての、ろくでもない死。 ああ、くだらない――。 人生の中で一番悪い顔をして唾でも吐いてやりたくなる。 だが。 男全部が、この世からいなくなればとまでは、ソラは思わなかった。 ゾンネンとは似ても似つかない別の男達のことも知っていたからだ。 どちらかと言えば、フルカの店のことも、何か足りないと思うくらいだ。 いやらしい意味ではない。ただ、ここには男性の身体と、男性の声が足りないなと自然に思う。完全な世界ではないと感じる。敢えて考える手前の感覚だ。 男は消えろ、死ね。とは思わない。 ただ、どこに行けば、自分たちの夢はかなうのだろうかと思う。 自分たちは、別段男のようになりたいのではない。幸福な社会に生きたいだけだ。勉強をしても周囲に慌てられず、商売をしても煙たがられず、静かに道を歩きたいだけ。合意のない相手に性的な嫌がらせを受けることなく、公衆の面前で馬鹿にされることもなく、好きな服を着て、好きなものを食べて、万が一騙されたり搾取されたり誤魔化されたりしたら、笑わずに、怒ってもいい。 そうしたいだけなのだ。 今、女性達がそうできないのは、もちろん男性達のせいだ。しかし女性達のせいでもある。 ソラも、他の多くの女性も知っている。男達の世界に適応しすぎて、大変よく訓練された部品になり、他の女性のことも同じような部品にしようとする女たちのことを。 男の下に位置する女の中では最高位になり、仕組みから受けた恨みをもっと下にいる者(と自分で判断している相手)にぶつけて人生を謳歌しようとする哀しいと言えば哀しいが、許しがたいと言えば許しがたい性根の同族たち。 こうして東部の女は閉塞する。その逃げ場として、フルカはこの店を作った――わけだが。 ソラは寝返りをうった。 頭の中に、音もなく別の思考が入り込んできて、体をのたうたせる。 何を、えらそうに。お前なんかに、他人を断罪する権利があるのか。 お前なんかに。 その仕組みに載って一度は確かに保身を図ったくせに。一番ずるい意味で『女』になろうとしたくせに。 そしてその無残な結果を、イラカに擦り付けて彼を傷つけたくせに。お前は自分かわいさのために、無二の友情を裏切ったんだ。 誰がなんと言おうと、あれは取り返しのつかないことだ。 お前なんかは、最低だ。 この自責が始まるとソラはもう目を閉じてごめんなさいごめんなさいと呟くしかなかった。 大人の女も何もない。 しかも一年経っても二年経っても三年経っても、この罪悪感は常に同じだけの鮮やかさでソラの魂を苦しめた。決して消えなかった。忘れている瞬間があるだけだ。 夜であったり、何か他の失敗をした時であったり、あるいはふとした弾みに、いつでも何の躊躇もなく舞い戻って来た。 ――男なんか消えてなくなれと思うことは、できない。 ソラには許されていない。 その気がなくともこの罪悪感を誤魔化す行為となるからだ。 仕方がない。一生引きずっていくしかない。恥ずかしすぎて誰も話せない。 人は人生でいくつか重荷になる感情を持つが、ソラにとっては、それは罪悪感だった。 自分はそんなことばかりしていると思う。 情けない、中途半端な真似ばかり。 自責の連鎖は続いて、ソラは難しい顔で何度も寝返りをうちながら、苦労して眠りに沈んでいった。 支援者からの連絡によれば、夫から逃げている女性『コマリ』は、新しい恋人とも離れて別の町へさらに脱出したとのことだった。 そしてロクオ・トウ・ウタリ青年の活躍は止まらなかった。 なんと一月後、ハライの町の一画に『くらしの相談所』なるものが開設されたのである。 開設したのは町長はじめとした有力者達だが、裏で立ち回って段取りをつけたのはウタリ青年だという。 野心家だという評判だった。彼は町の真ん中の広場で、市の期間中、人々を前に主旨を説明しさえした。 『女性のための、相談所です。辛いこと、苦しいことがあったら気軽に立ち寄ってください! 経験豊かな年長者が悩みを解決してくれますよ! もちろん無料です!』 それはどうも空き家を利用した集会所のようなもので、日中二、三人の相談員が詰め、来所者と話をするというものらしかった。相談員は『地域で信頼されている』年配の男女だった。もちろん、小遣い程度の報酬で昼に詰めるわけだからある程度余裕のある家の人々だ。 ソラもフルカも『……その手があったか』と思い――、郊外に立つ彼女の店の集客力を苦々しく思っていた町の人々は『その手があったか!』と膝を打った。 町に相談所があるなら、わざわざ外に行かないでいいだろうというわけだ。そこの相談員は、破天荒でふしだらで頭のおかしい元不良娘ではない。『信頼できる』老人たちである。しかも無料だ。 それでももちろん、美容を目的に来店を止めない客はいたが、一時的に、フルカの店の予約数は半分くらいまで減少した。 フルカは騒がなかった。 そんな段階を通り過ぎて、やや青ざめるくらいに、怒っていたのだ。 「これまでやってきたことを馬鹿にされたわ……」 相談所程度のことなんだろ? ソラも、このやり口には感心できなかった。 あの青年が自分が何をやっているのか分かっていないのではないかと思われるため余計にそうだった。 彼は何かふわふわした前提ありきで話をして、実際には自分とフルカとの会話も成立していなかったし、女性の現実も分かっていないのではないかと思われた。 問題をきちんと掘り下げて自分のものとしないままにふわりとした解決策を提示して、『うんこれでいい、素晴らしい!』と本気で微笑んでいるのではないかと感じられるのだ。 その懸念は、ややあって相談所の噂が聞こえてくるに従い、不幸に証明された。 相談所は、開設当初からあまり相談者が集まらなかった。――町でも頑固者、うるさ型として有名な老人が相談員に幾人か混じっていたからだ。しかも九割が男性だった。 いったいに、若い女性が相談しやすい雰囲気ではない。 そしてやはり、相談に行っても叱られて終わったり、ひどい場合には家族に話が筒抜けになったりしたために、女性達はそこには行かなくなった。 中には親切に話を聞いた相談員もいただろうが、開設後一か月ほどでそこは開店休業状態になり、年配の相談員たちがただ茶を飲んで世間話をしているという景色が当たり前になってしまった。 それでも、町の有力者たちは鼻高々で、ハライにはほかの東部にはない女性のための相談所があると、我々は理解があると言っていた。 その発想はフルカの店から盗んだものなのに。 その頃には店の予約も回復し始めていた。 しかし、客はみな、あれのために家族からの咎め立てが増えた気がすると言っていた。 無料の町の相談所があるのに、わざわざ金を払って町の外へ行くのか。二月に一度の楽しみだって? わがままだ。 ロクオ・トウ・ウタリ青年は悪気はないかもしれない。 しかしこの現実を知らない。 いや、きちんと『学問的に』向き合っていないのだ。 これ以上ないくらい行動は現世的でありながら、実際には手前勝手な夢を見ている。これを当人に指摘するのは大変難しいことなのだが。 ああ、こういうなんとも言えない感じ、知ってるなとソラは思った。 ――俺、女の子のことは、よく知ってるよ? 何も知らないくせに。 それといつか灯りの消えた部屋で取っ組み合った――。 同時に罪悪感が蘇って黒い掌で心臓を握る。 そんな嫌がらせに疲労させられていた春。女の国に唯一入国を許されている神官ハン・リ・ルクスが神官服の上に春用の外套をまとってやって来て、玄関口に立った。 「悪い報せです」 心なしかいつもより白い顔でソラとフルカに告げる。 「『コマリ』さんが夫に刺されて亡くなりました』 『コマリ』は、最初に逃げた町からさらに別の町に逃げて、そこで生活していた。 支援団体はもちろん、初めに逃げた町の役人も間に入って、なんとかノクラの住人たちが彼女を追跡するのを阻止しようとしてくれたそうだ。 しかしノクラの有志らは結局、町の法律にさえ触れるような方法で『コマリ』の移動先の町を特定してしまい、それを夫に漏らした。 最初の町で恋人ができたこともすでに夫に伝わっていた。というより、ほぼすべての情報が考えもなしにそのまま伝えられていたようだ。 夫は――陰気なところのある商人だったそうだが、周囲には説得に行くと告げてノクラを発ち、彼女のいる町に入ると、ひたすら探し回った。 誰の手を借りることもなく執念で妻を見つけ出すと、いきなり持っていた料理用の包丁で彼女を刺した。家の中に逃げ込んだ彼女を追いかけ、壁との間に挟んで滅多刺しにしたという。 まるで性行為のような殺人だ。 彼女は死亡。夫は往来で身柄を確保されて、現在警邏隊の管理下にあるという。 ――だから、言ったじゃないか。 そんな話じゃないんだって。 『コマリ』だって違うと訴えただろう。 お願いだから来ないでくれと言ったろう。 何故聞かない。 当事者の言うことを聞きもしない、現実を見もしないで、何が――『絆』だか。 その報せを受けてから三日ほど後のことだった。ソラは店の女の子と買い出しの途中で、偶然ウタリ青年と行き合った。 隣町だ。町長の用事で出張でもしていたのだろうか。向こうにも役人らしき連れがいた。 彼はソラの顔を見るとふいと目を反らして行ってしまった。歯を剥いた笑顔のままだった。 なるほど。 と、ソラは思う。 都合の悪いことは見ないんだな。 彼の相談所に何が欠落しているか、分かる気がする。 夕方。フルカの店に戻ったら、無人の事務所に細長いハチがいた。 ソラはそれほど怖くないのだが、女の子たちは虫を苦手にしていた。 気も立っていたのだろう。普段なら逃がすところを、何故かその日に限って除虫薬を持ち出し、飛び回るハチにぱっと撒いてしまった。 振りかけられたハチは一度落ちた。ところが、すぐにまた躍り上がると、羽をうならせ、まっすぐソラめがけて突進してきたのである。 ハチは服から出た手に正確にかじりつくと尾の針でソラの指を刺した。 びりっとした痛みにソラは驚き慌てて手を振り払う。 それはなかなか取れなかった。六本の足でがっちりと手にしがみついていた。 やっとのことで床に叩き落とすが、それでもまだハチは、床の上でもがいていた。 ソラは汗を拭きながらやっと理解する。薬草と精製水を混ぜ合わせたこの除虫薬は――シギヤ学徒のソラの手製だが――、ハチにあまり効かないのだ。もっと甲冑の弱いような、体の小さな虫にはよく効くのだが。 思えばハチを殺したのが人生最初のような気もする。本当に普段なら、逃がすところだったのだ。 仕方ないので、床の上でまだもがいている個体を箒で掃きとり、外に捨てに行った。 残酷なことをしてしまった。 指は別段腫れもしなかった。けれど、目の高さに掲げてみればはっきりと小さな穴が開いていた。 ソラは思った。 そうだ。 これは正しい。 誰だって、殺されそうになれば、抵抗するのは当然だ。 誰がなんと言おうと。 『コマリ』も最後まで戦ったんだ。 殺されないように。 『大好き』と言っていた。 あれも、きっと、戦いだったんだ。 フルカは目に見えて落ち込み、女の子たちはそれをなんとか慰めようとして色んな非難を続けていた。 泣き出す子もおり、感情的な論も飛び交っていた。 女の国は男達との距離をますます開くばかりだった。 (つづく) |
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