さてここに一人の少女が登場する。
 これまでも登場していた、例の『好奇心の強い』女の子である。
 彼女は十八歳だった。小柄でややぽっちゃりとしていて、声が高かった。おしゃれにも気を使っていたが、フルカによれば独創性はないし、むしろ古めかしい趣味なのだそうだ。
 店に関わるようになったのは、ソラよりも少し先である。ソラが来てからは好奇心丸出しで一時彼女の周りにまとわりついて、他の店員から『仲がいいわね』と言われるくらいだった。
 少女はおしゃべりで聞く前から自分のことをよく話した。ソラは聞いているうちに、どうもご実家は裕福そうではあるが、家長の権力が強い、居づらそうな家だなと感じていた。
 フルカの店にいる少女たちは誰もがみな、多かれ少なかれ周囲との軋轢を感じ、苦労して来ている。
 ソラはだから少女にも他の子と同様に同情し、その将来が拓けるようにと願い、自分が持っている技術や知識を機会ごとに分け与えた。
 女子への教育が乏しい東部では、同世代でも女の子たちの知識水準がバラバラだった。勉強が好きで見るからに賢い子もいれば、かなり初期から教育なんかまるでされず、計算もつづり字も作文もまるでなっていない子もいた。
 店の中ではやはりソラがもっとも高い教育の経験者だった。彼女もそれを自覚していたし、それはただ偶然の結果に過ぎないことを知っていたので、なるだけ普段から自分の持っているものを人にも分けようと努めていた。
 というわけだからすぐに彼女の店内での位置は確定した。『服のことは何も知らないけど』『店長の親友』で『頭がすごくいい』『先生みたいな人』だ。
 心地よくなかったかと言われれば心地よい立場だった。
 あぐらをかかなかったか? と言われれば、かいたかもしれない。五歳の子供の教室に紛れ込めば大人は自分を天才だと思うだろう。そんな優越感を、まるで感じなかったかと言えば――
 いや、感じなかった。
 ソラは感じなかった。
 何故なら彼女の知識は誰にでも分与可能なものであり、彼女らがひとたび勉強の仕方を飲み込めば、自分など易々と追い抜かれることが完全に分かっていたからだ。
 ただそれでも、女の子達から『すごいですね』『尊敬しちゃいます』とマオのような声で言われた時には若干いい気分になってしまう瞬間がないでもなかったが、それは美容に興味がないにも関わらず美容室にいるソラの大きな存在理由の一つでもあったから、喜んでもらえると安心したのだ。
 彼女は、自分が受けた教育をひけらかさないように戒めていたつもりだ。
 しかしそれでも、誰かにとってはそれは嫌味な態度だったのかもしれない。
 確かに何度か、ソラはその少女が口にした誤った知識を訂正した。彼女も東部の多くの女たちと同じように、根拠の示されていない占い師の言葉や共有された思い込みを信じていた。しかもあたかも店の制服と同様に、それを知っているから自分は一般人だと自認するという不思議な癖があった。
 つまり、北枕は縁起が悪い。それを知っているから自分はまともだ。というふうなのだ。
 しかしソラは世界にはそんな風習をまったく持っていない地域や人々があることを知っていた。東部でその風習が成立したのも二百年ほど昔に過ぎないことも知っていた。
 だから、彼女から『だって北って色々いけないんですよね』と言われても曖昧に微笑むしかなかった。二度三度問い詰められれば反証を上げて説明するしかなかった。
 その時、『無邪気だな』という冷笑を、全く覚えなかったか?
 ソラには自信がない。
 とにかくこのように彼女が求めてくる同意を返せないことが多かった。例の『寂しい』発言も含めて、少女はソラより年下なのに、驚くほど狭くて妙に窮屈な世界観を持っていた。
 どこかで得た手本を型に自ら自由を削り取ってそれをもって『まとも』とするような。
 そしてそれを何故かソラにも認めさせようとするのだが、ソラには学問的誠意があるからそれにうまく対処できないのだ。
 ソラはむしろ罪悪感さえ持っていた。自分にまとわりついてくる少女の求めに応じられない。彼女の希望を撥ね付けてしまう。悪いな、申し訳ないな、と思っていたのだ。
 でもそんな態度こそが、ソラの優越性と思い上がりゆえだったのかもしれない。



 ある日、事務室で仕事をしていると、急に少女が入って来た。
 彼女は眉毛の吊ったやや怖い顔をしていた。室内には他に誰もいない。
 つかつかつか、と傍へやって来ると、仕事を中断して反射的に親切をかき集めようとしたソラに向かってこう言った。
「ソラさんがどれだけ勉強できても、同じ店にいるからには平等なんですからね」
 ソラはずいぶん時間が経ってから言った。
「え?」
 なんのこと?
 少女は何故か笑みをこぼしてくるりと踵を返した。
「はー忙しい忙しい。立ちっぱなしで疲れる」
 と言いながら出て行った。
 ソラは呆気にとられて、しばらく仕事にならなかった。




「ああ。あの子ね。なんだか面倒くさそうなおうちの子よ。家にいるのが嫌でここに来てるみたいね。美容にも興味があったけど、むしろお店が新しい世界って感じがしてわくわくしたんだって」
 長椅子に座ったフルカは、そう言いながら決算書類をめくる。
「学校は行ってるの?」
「どうかしら。うちは学歴不問で読み書きと計算の試験してから採用するんだけど、実のところ、ぎりぎりだったかな。でもまあ熱意があったから採用したの。そういう子はほかにもいるわよ」
「……そうよね」
「――やっぱり響いてるわね。『相談所』の開設」
 書類を小机の上に投げ出して、フルカは上にため息を吹く。
「せっかく赤字経営脱出してたのに。もー。許すまじだわ。何かいい案ない?」
「放火するとか?」
 向いに座るソラが応えると、フルカは人差し指で彼女の顔を指して言った。
「いいね」
 くすくす笑いながら、長椅子の背に身を委ね、顎を反らす。
 元気がない。落ち込んでいるな、とソラは思った。
 やがて細い声が、漏れる。
「――裁定、終わったのよ。『コマリ』の、旦那の」
「……どうだって?」
「三年の入牢ですって」
「……人一人殺して、たった三年なの?」
「ねえ。言語道断よね。都市じゃ強盗が、毎月処刑されてるっていうのに。だからさあ、あたし達、人間じゃないのよ。取引されて、焼き印押されて、働かされて、犯されて、逃げ出したら殺されて。人間と違うのよ」
 丸い頬を涙の粒が滑って行った。
 従業員の前では決して涙を見せないフルカだが、ソラの前では時々泣いた。
 学生時代に散々みっともないところを見せているから、今更気負うものがないのだ。
 ソラはフルカの親友であり、互いに大きな精神的な支えになっていて、――それがために、確かに特別扱いも受けていた。
 一番後に店に入ったにも関わらず、彼女だけ個室が与えられていたし(もっとも元物置を開けただけの狭い部屋ではあったけれど)、採用試験もなく、何の段階も踏まずに事務方へ就任して店の財産の管理を任されている。最も新参者であるにもかかわらず、店の全員から気をつかわれ、敬語で対応される。
 ソラもそれは分かっていたから、他の女の子に申し訳なく思い、いい気にならないように自分を律しているつもりでいた。
 ――が、足りていなかったのかもしれない。
 女の子達から見たら、やはり自分はずるい立場かもしれない。一番楽な仕事をしているのかもしれない。
 ソラは、泣くフルカにあの少女のことを相談できなかった。自分が悪いと思ったし、自分に仕事を与えてくれている彼女に些末なことで負担をかけるわけにはいかない。
 ましてソラは自分がフルカに影響力を持っていることを重々承知している。立場の強い自分が、立場の弱い、年下の小柄な女の子を脅かすようなことになってはいけない。
 この店は大事な場所だ。いっそシギヤの祠にも似た神聖な場所なのだ。万が一にも、自分の不注意でここを荒らしたり壊したりしてはいけない。
 いきなり浴びせかけられたあの意味の分からない言葉を思い出すたび、ソラはどうしても一瞬頭が白くなってしまうのだが、それも自分の弱さだと任じて、こらえる他なかった。




 どうもその少女にとって、ソラは『特別』らしかった。
 何故ソラにまとわりつくかと言えば、彼女が『特別』をたくさん持っているためらしかった。
 それにソラが気付いたのは、ハン・リ・ルクスが訪ねて来た前後での彼女の態度からだった。
 少女はどうやら彼に気に入られたいらしい。好きなのかもしれない。
 だが彼はソラの友人だから、ソラを訪ねてくる。彼女らの友情は固い。そしてそれはどうにもできないことだ。
 そこには学問と同じで、積み重なった年月がある。その間に勝利や敗北や生命の危機や再会の喜びなどがあって、それだけ関わり合いは『特別』に深くなっている。
 それを横から取ろうとしても、それは無理な話だ。
 ソラはお茶を運びがてら話に割り込んで来ようとする彼女に、それを感じた。
 少女は無理な要求を世界にしている、と。
 ハンの方は知っての通りの性格なので、慇懃無礼に彼女に応接してまったく傍に近づけない。もとより、無闇に接近して来ようとする人間に対しては、性の別なく警戒が厳しいのだ。
 それでも少女が引き下がろうとしないと、彼はソラを散歩に誘った。ソラは立ち上がりながら、少女はハンが好きなのだろうかと考える。
 ――どうだろう。
 恋ってこういうことだろうか。
 その人間の『特別』になることに執着してまとわりつくことが恋だろうか。好きな相手の気持ちも考えずに領域を侵犯し、心や時間を盗むことが恋の目的なんだろうか。
 つまりそうだという人もあるだろう。だがどうもソラはそういう考え方に同調できない。だとしたら恋愛なんて、くだらないものだと思ってしまう。
 不幸なことにハンもそういう気持ちがあるので、ますます二人は同調してしまうのだった。
「ひょっとしたら僕は本当に何か欠落した男なのかもしれませんね。少しも嬉しくない」
 歩きながらハンは言う。
「でもね、あの子も本当は僕のことなんか好きじゃないと思いますよ。たまたまあの子の中で、僕が『好きになるべき人』と判断されてしまっただけです。そういう女の子、結構多いですよ。とにかく近寄って来て、がんばっていい点を取ろうとします。感心されるようなことを言ったりしてね。それって、いったい、恋愛ですかね」
 『点取り』、か。
 そういえば、自分がされたことも似たようなことだとソラは思った。やたら絡んできて、積極的に話しかけて来て、当初は『懐かれているのかな』と思ったくらいだ。
 だから、優しくしたつもりだったのだが――。
「――気を付けて下さい、ソラさん」
「?」
「フルカさんに聞かれたらぶっ飛ばされるでしょうが、僕は女の子を信じていません。特に女の子の集団には、陰湿で不快な側面が確かにあると思っています。色んな事が嘘や幻でも、恨みだけは本物に化けることがあります。あの子の思い込みの恋愛と失恋に、巻き込まれないようになさってください」



 その時、ソラはハンの物言いを大げさに思い、笑ったが、彼女は分かっていなかった。
 やはり侮りがあったのだろうか。学のない、自分より小柄で自分より年若い女の子のことを、自分より機会に恵まれず弱いのだから、責めることなどできないと思ったこと自体が侮りだったろうか。
 次第に少女は、歯も立たず、掠め取ることもできないソラの『特別』性を出し抜くために、色んな事をし始めた。
 ある日ソラは、廊下で門番の女性に呼びとめられた。そして
「私たちの関係を気持ち悪いと思っているなら、こそこそ悪口を言ったりせずに、直接私にそう言えばいいじゃないですか!」
 と、険しい声で非難された。




 あっという間に、ソラは少女を陰でいじめ、嫌味なことを言い、他の従業員たちのことも馬鹿にしている性格の悪い人間に仕立て上げられてしまった。
 少女は、特に、あの門番の女性とその恋人である女の子の二人に着いて、延々とソラが彼女らを気味悪がって嫌っていると吹き込んで店を割った。
 女性と恋人の少女は、自分たちがもともと持っていた罪悪感と被害意識を刺激されて冷静さを失くし、どれだけソラがそんなことは言っていない、思ってもいないと否定しても聞かなかった。廊下で行き合うと共に来た道を戻ったり、挨拶をしても無視して返さないなどするようになった。
 他の店員たちは驚いて一歩退き、成り行きを見守っていた。
 ソラは、あの少女が、何をしようとしているか分かっていた。
 少女はソラと同じ、ある種の権威になりたいのだ。しかしソラ自体になることは出来ないので、まず彼女を攻撃し、その戦いの指揮を執ることで新たな権威になろうというのだ。
 ソラは愚かだった。
 まずたった十八歳の少女のその権力志向の強さが理解できなかった。
 次に、正しい態度さえとっていればそのうち誤解が解けると思っていた。
 実際にはソラは何もしていないのだから、それで断罪されることなどないと思っていた――より正確には、『同じ女性達から』断罪されることなどないと思っていた。
 だって、女性達は味方ではないか。
 ここにいる女性達はみな味方ではないか。
 分かってくれるはずだ。何も言わずとも。寧ろ言わなければ言わないほど。
 しかし、実際には、ソラは日増しに、店の中で孤立していった。
 女の子たちは初め、ソラの出方を見ていた。やがて彼女が無抵抗なことを見て取ると、彼女たちは、ソラに対する尊敬を失くしたのだ。
 少なくとも助けに入ってくれる者はなかった。
 その無言の承認の中でソラの話題はいつしか『いくらでも言ってよいこと』になり、着飾ったかわいい女の子たちの間で、楽しいお茶の話題として花開いた。
 もちろん、店長のフルカのいないところでだけだ。彼女たちはまるで天賦の才があるかのようで、その見極めは見事だった。 
 ソラが姿を見せると同時に会話を打ち切って不自然に沈黙を拡げるのも楽しい遊びだった。
 もちろんこうした遊びの先陣を切っていたのはいつもあの少女だ。しかし、他の女の子たちはその流れをいっかな止めなかった。寧ろ乗って遊んだ。
 門番の女性が、ソラが現れるまでの間、一番年長で一番権威を持っていたことも関係している。彼女が完全に反ソラとして立ってしまったため、みんなが何となく声と体が大きく、付き合いの長い彼女の方へ流れたのである。
 ソラは、事あるごとに人の手落ちを店長であるフルカに告げ口する卑怯者になった。ハンをつかんで離さないために忙しいフルカに髪の手入れをさせるわがままな人間になった。行き場がないところを雇ってもらったのに、店の奥でふんぞり返ってあら探しばかりしている恩知らずになった。みんなが煙たがる偉そうな年増になった。人の見ていないところで、少女をねちねちといじめるお局様になった。



 ソラの余裕はあっという間に崩れ去った。
 そして、追放生活で培われた際限のない自責と疑いの念が、朝な夕なソラを苦しめた。
 それは一度呼び出されるや、後は習慣になるのだ。
 どうせ。
 どうせみんな私の悪口を言っているんだろう。
 また悪口を言われているんだろう。
 そして、その意識で頭がいっぱいになって右手一つ簡単に動かせなくなる。
 廊下をすれ違いざまの伏し目も、遠くの誰かの笑い声も、すべて疑いを証明するものとなる。
 あの門番の女性が見事に被害意識を突かれたように、ソラも弱いところを突かれて方位を狂わされた。
 少女はまだ彼女にまとわりついては、笑顔で話しかけ、最後に『寂しい』だの『いいですね』だの『ソラさん、こわーい』だのと言って去って行った。
 大人の女を二人手玉に取って一体どんな気持ちなのかソラにはさっぱり分からない。
 たぶん、店の少女らの中にはこの事態を、ある程度冷静に見ていた子もいたはずである。
 しかし、悪くなるに任せていた。誰も動かなかった。空気を読み、その中で如才なく振る舞うだけだった。
 だれも同僚の少女のことを諫めない。
 何故言わないのだろう。そんなことをしてもあなたの望むものは手に入らないよと。
 ソラの持つ学識が欲しければ、毎日勉強するしかなく、ソラの持つ友情が欲しければ、同じだけの献身が必要だと。
 人の心はそんなふうに買収できないものなんだよと。
 なるほど少女には友達がいないのだ。
 女の子同士のおつきあいがあるばかり。
 思えば、誰が星占いに噛みつくだろうか。誰が北枕に喧嘩を挑んだだろうか。
 女の子の周りは間違ったことばかり。女の子は、それを正さない。
 一番強い人の間違いに自分も乗って一緒に遊ぶのだ。それが楽しくて安全な遊びだから。
 それが女の子の、遊び方だから。




 ソラはようやく、敗北を認めた。
 自分は、強くも賢くもない。たかがこれくらいのことで振り回されてくたくたになり、毎日があっという間に駄目になってしまう。
 迂闊だった。
 あの女の子を傍に寄らせてはいけなかったのだ。
 隙を見せてはいけなかった。何一つ与えてはいけなかった。ハンみたいに。
 油断があった。だって――だって。同類だ。
 同性だ。
 同じ、東部の、女同士だ。年も若い。
 知識を分け与えた。事情を汲んでやった。
 のに。
 自分が何もできない立場なのをいいことに、まさかこんな卑劣で、破滅的な真似をされるとは。




 店は、何の支障もなく、続いているかのように見えた。
 少女たちは相変わらず美しい。店内で苦悶している人間がいても、彼女たちは変わらず髪を巻き、化粧をし、香水の甘い匂い。毎日楽しく過ごしている。
 ソラはいっそ店を辞めようかと思った。苦しんでいるのはソラだけではない、あの門番の女性と恋人の少女もそうなのだ。彼女らはなぜ自分たちが嫌われたのか分からないだろう(ソラにだって分からない)。それだけより一層苦しんでいるに違いない。
 彼女らはあの少女のむちゃくちゃな行動の材料にされただけなのだ。だが、そう言っても信じてもらえないだろう。
 彼女らのためには、去るのも手だ。
 だが、今の状態で店を辞めたら、もう店に来ることもできなくなってしまう。フルカは怪しむだろう。そして多分、嘆くだろう。ソラだって悲しい。つらい時期を堪えている友達の傍で支えてやりたい。一緒に戦いたい。恩を返したい。裏切りたくない。
 仕事を失うのも痛手だ。人はどう噂するだろう。ほら、やっぱり。あの呪われた女はどこにも長居できないんだよ。
 もしとどまるなら、どこに突破口があるだろうか。
 自分も派閥を作って対抗するか? ――敵でもない人達の悪口を言って? 互いに生まれた場所からはじき出されて、本当は助け合わなければならない女性を相手に、傷をえぐるようなことを言って?
 出来ない。どうしてそんなことが出来るだろう。
 この世界を生き抜くために、フルカが一生かけて整備した夢の城を、たかが自意識のために分裂させるなんて。
 そんな低劣な真似をするくらいなら、自分はやはり耐え忍ぶ。
 ――耐え忍ぶなら、あの少女は、無から作り上げた対立する両陣営の間を行ったり来たりしながら、ねつ造した嘘で人を振り回してその喜怒哀楽をむさぼるという真似を永久に続けることになる。
 多分どちらかが潰れるまで。
 本人は無傷だ。
 なんなんだ? ――あの少女は。
 一体、なんなんだ?



 ソラは次第に追い詰められて行った。怒りが体内に募って行ったのだ。
 心をおもちゃにされたことに対する怒り。人間性を馬鹿にした行動を取る歪んだ少女に対するどうしようもない怒り。
 まんまと侵入を許した自分の甘さも腹立たしい。同様に簡単に乗っ取られ支配された門番の女性も腹立たしい。他の少女たちに対してさえ恨みが募っていく。
 男なんていなくなればいいと可憐な少女は言った。
 ここは男のいない国なのに。
 女を苦しめる怪物はいないはずなのに――。
 女は。
 女もまた、同じくらい
 同じくらいに――



 結論にたどり着くのは怖かった。
 認めるのは激しい抵抗があった。
 だから代わりにソラは思う。なぜいつでも自分は夢を見ていられないのだろう。
 現世に、戻ってしまうのだろう。
 それは、彼女が、あの海上の奇術師の弟子だからだろうか。




 お茶の時間。みんなの見ている前で、少女が近づいてくる。
 フルカは忙しくてまだここにいない。
 だからかわいい顔に卑しい笑みを浮かべて、また乞食のように、魂の糧をせびりに来る。



 あなたは知らないだろう。
 渺遠たる海原に、浮かぶ学問の城。
 そのふもとの水面を、ただ一人、悠然と散歩する。
 そんな限りなく啓けた、自由のことを。



 潮の香りと一緒に、ソラは思い出していた。師の教えを。
 どうして忘れていたのだろう。
 封じ込めていた。
 悪いくらいに思っていた。
 自分だけが教育を受けて。自分だけがその驚異を見て。世界はもっと広いことを知ってる。人はもっともっと高いことを知ってる。凄まじい天才たちを見て来た。
 まるで罪みたいに思った。手加減した。子どもを相手にするみたいに。
 何という傲慢!
 その傲慢を女の子たちも見抜いていたのだ。――だから、だからこんなことになったのだ。



「下がりなさい」
 ソラはそれが口を開こうとした瞬間に相手を睨みつけて低い声で言った。
 少女の顔が凝り、瞬時に雰囲気が緊張したのが分かった。
 ぱちんと手でも叩かれたみたい。
 それまでみんな、のびのびしていたのだ。のびのびと、少女がまたぞろソラに嫌がらせをするのを、眺めていたのである。
 ――そんな真似は許さない。
 あなた達には、誇りがないのか。
「席に戻りなさい」
 え。ちょっと、なに。
 少女が、周りの女の子たちに何か訴えるように、そういうのが聞こえた。
 始めから、彼女はどこか演技をしているふうだった。本当は常識とか世界とか何も知らないから、書かれたこと、言われていることを全部真に受けてそれを盾に人を攻撃することで自分を保っていた。
 そこには相応の事情があるのだろう。どう考えても、家がおかしいんだろう。
 しかし、だからと言って。自分がその標的にされる筋合いはない。
 女の子たちも誰も動かない。ソラも動かない。部屋の真ん中に立った少女は、しまいに、泣き出した。わーっと、喚くように、訴えるように泣き出した。
 門番の女性の元から、女の子が飛び出してやっと彼女を収容した。
 ようやく仕事を済ませてやって来たフルカが騒ぎに目を丸くしている。
「どうかしたの? 何の騒ぎ?」
 ソラは立ち上がった。そしてフルカの傍へ行くと「事情は彼女たちから聞いて」と言った。
「彼女たちの言うことがすべて正しいから」
 そして泣き声の響く広間から、背筋を伸ばして出て行った。







 外に出た。最後の客を送り出した時には真っ赤だった西の空ももうわずかな残光を残して、森は黒々とそびえたち、風が渡るたびに乾いた葉を吹き上げていく。
 ソラは玄関の踏み石を蹴って、枯れ葉の散る庭を歩き、敷地を取り囲む、鉄の柵のところまで行って、台座に座った。
 石は当然冷たい。それが衣服越しにじわじわと染みて来て、怒りと室内の熱にほてっていたソラの体を徐々に冷やしていく。
 背中には鉄柵。体を反らして天を見上げると、槍のかなたに白い月があった。
 私の居場所はどこだろうか。
 ソラは思う。
 男の元でもなく、女の元でもなく。実家でも学校でもここでもないなら。
 一体どこにあの果てまで空を映す一面の海原が広がっているのだろうか。
 前文明の女たちはそれを掴んだのだろうか。
 それとも同じようなくだらない内輪争いに、やっぱり疲弊していたんだろうか。



 いずれにせよ、分かったことは。
 自分は、怠慢だったということだ。
 学問を始めた頃、自分は何を考えていた。ここでは生きていけない。どこかへ行かねばならない。
 そして学院へ行った。学院でつまずいた。帰らずに踏ん張った。ところが学院が崩壊した。それで、くじけてしまった。
 祖母に頼った。町長に頼った。そして今、フルカと女の子たちにまで頼った。
 自分を頼ることはなく。
 他の人間達に、善良さや親切さ、気高さを求めた。
 自分に求めなければいけないものを。
 誰も自分の要求には答えられない。当然だ。誰も天才でも聖人でもないのだから。答える義理だってない。ゾンネンだっていい迷惑だ。彼が悪い人間だったことは関係がない。
 自分は怠けていた。幸運にも無事だった故郷、与えられた環境に甘えて、怠け続けていた。
 誰かが自分を受け止めてくれるのではと思った。馬鹿だ。あんな幸運は二度はない。あの人の名を、汚すところだった。
 あの、海の上の人は、たった一人であそこまで行ったのだ。
 しかも自分に、その景色を見せてもくれたのだ。
 ――ソラ。あなたが好きな人間で、そうしなかった人間がいるだろうか。みんな自分の力で生きていた。
 私はそれを、――あの大崩壊で、見失ってしまったのだ。



 今頃。ふりだしに戻るのか。
 ソラは涙をぬぐい、月の光を浴びながら笑った。
 見失っても、すべては投げ出されたまま残っている。古代の遺跡のように。解読されぬままに。世界のかけらは膨大だ。
 大分年を食ってしまった。悪評もたんと貯めてしまった。
 一体まだ、間に合うのだろうか。




 体が冷えるのも構わず、ソラはそこに座っていた。
 まるであの日飛び出した干潟のように。安全のことは忘れて、気が済むまでは動けなかった。
 ふと、耳に四つ足の蹄の音と、金具の擦れ合うガチャガチャという音が聞こえ始めた。
 誰かが、獣に載って道をやって来る。一頭ではない。三頭か、四頭。
 足並みは緩く、やがて館の門の方で止まった。
「おい、なんだこりゃ。場違いな館だな」
 男の声がした。
 ソラは動かなければ気付かれないはずだと思い、背を向けたまま黙っていた。
「――数年前にできたらしいぞ。女が通う理容室だ」
「本当か。びっくりするな。娼館かと思ったぞ」
「田舎者だな。ンマロにはよくあった」
 思わず体を返して、柵の間から声の方を伺う。三頭だった。めいめい白い息を吐きながら、玄関の前あたりで人を乗せたまま足踏みをしている。
 男達は全員が大きな外套を羽織り、フードを被っていた。顔はほとんど見えない。時折物音の狭間に、僅かな耳飾りや髪飾りの音がした。
 風が吹く。
「まだか? もう先に行ったんじゃないのか」
「もう少し待とう。先に行ったなら何らか手掛かりを残しておくはずだ」
「あいつマメだからな」
「あ」
 しまった。
 偶然、ソラはそのうち一人に見咎められてしまった。三頭ともがすぐにソラの傍へ来る。ソラは植え込み近くまで下がる。
 間には柵がある。何も出来はしまいが――。
 見てはいけない人間だったのは明らかだった。向こうも戸惑っている。
「どうする、ゴンクール」
「……気にするな。どうせここらの無学な女だ――」
 言い終わりかけていたその顔つきがみるみる変わっていく。ソラの表情も変わる。
 互いに、その顔を、知っていた。
 技能工芸学院で見たことがある。
 ゴンクール。アルスス学の生徒だ。ほうら、フードからのぞく、頬に見事なまでの美しい黥。
 久しぶりに見た。
 頭が、燃えるようだ。
 向こうがソラの名前を知っていたかどうかは定かではない。
 そこに新しい蹄の音が近づいてきて、三頭がまた乱れたからだ。



「彼だ!」
 と、誰かが言った。最後の一頭が手前で速度を落とし、がしゃがしゃと金具を鳴らしながら上手に合流する。
「待たせて悪かったな。何してる?」
 ゴンクールの視線をたどるようにして、その人物が柵の中のソラを見た。
 青い瞳だった。
 ――ただ、片目だった。
 向かって右の眼は、頬の黥も巻き込んで、斜め上に強く引っ張られたかのように、潰れていた。
 あごには無精ひげ。
 それでも見間違いようがなかった。
 向こうもソラを見るや、長い長い時間の果てに、にっと笑ったものだ。
 指の長い手で心臓を掴まれたような気がした。
「学院にいた女だな」
 ゴンクールと呼ばれた男が言うが、彼は軽く受け流した。
「――ほっときなよ。夜のうちに街道を抜けないとまた遅れる。行こう」
「…………」
 男達は手綱を持ち直す。聞きなれた髪飾りの音を鳴らしてイラカも四つ足の頭を回させた。
「元気そうで安心したよ。おやすみ、ソラ」




 あっという間に四頭は駆け去ってしまった。
 彼らが道にいたことを知っているのはもうソラと、天球の月星だけだった。





(つづく)
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