秋が深まり、身に着ける衣類が増え、日当たりによっては、室内のほうが早く薄暗くなるようになった。
 そういう時、窓の格子は黒い。乾いた植物と明るい外の光景が、四角く切り取られて宙に浮いている格好になる。
 いつものように店の事務室で、ソラと、客人のハンは向かい合っていた。
 椅子と椅子の間に挟まれた卓にいいわけ程度お茶が置いてあるばかりで、会話はほとんどない。今日は店も静かで、扉の向こうからは風の音のようになった人の声が時折聞こえてくるばかりだ。
「少し間が空きましたがお元気でしたか」
 二人は、長い付き合いの末に、いつしか本当の親友になっていた。互いに互いの浮き沈み程度ではちっとも驚かないで、相手が話しやすいとぼけた世間話からの導入もお手の物だ。
 誰に対してもできることではない。互いに信と情があるからこそである。
 初めからこういう関係だったわけではなかった。それこそ自分のもっとも率直な本音や本質に関わることまで、昼間から遠慮なく話し合えるような。一か月や二か月会わなくても、すぐにまたその水準へ戻れるような。
 学院で会った頃は少なくとも、まだ普通の知り合いだった。それを、ハンが時間をかけて辛抱強く、少しずつ少しずつ本物の友情に変えて行ったのだ。ソラは思い出せるくらいだ。彼が間合いを詰めて、礼儀正しさは保ったまま、すっと奥へ入って来た幾度かの会話を。
 且つ又、昔から自分だけがなんだか偉そうに彼に接して来た気がするので、罪悪感も覚えていた。正直言って「面倒くさいな」「男のくせにしつこいな」などと邪険な態度をとっていた時期の記憶がある。
 そんな無礼も許してもらって、挙句つらい時には彼の友情に頼って、今また世話になるのかと思うとソラはさすがに自分がみっともなくて汗が出るのである。
「今日は静かですね。フルカさんも出てるとか。おかげで僕には居やすいですが」
「……フルカは街に求人の手配に行っているんです」
 恥ずかしくて額に手を当てながらソラは白状した。ハンはおや、という顔でお茶を運ぶ手を止める。
「また増員ですか?」
「今月末で、三人、辞めるんです。門番の女性と、施術の子が二人。――ハンさん、私は、女の子の国を滅茶苦茶にしてしまいました」
「はあ」
 ソラはしどろもどろになりながら事の顛末を説明する。
 ハンはまあ他人事と言えば他人事であるから、冷静だ。さらに――
「そんなのソラさんのせいじゃないじゃないですか」
常にソラの味方である。
「僕にはただ、愚かな女の子が自爆して、それに迂闊な女性が二人巻き込まれた、というだけにしか見えませんけどね。フルカさんが説得してもだめならもう仕方がないじゃないですか。レリゴーですよ」
「え?」
「すみません、この間読んだ本に出て来た古代語です。『諦めろ』って意味です。――で、その三人はこれから先どうするんですかね? 店から出て」
「……分かりませんが、三人でやって行くそうです。特に門番の女性は、今後はもう信頼できる人間とだけ付き合うと、泣いてフルカに言ったみたいです。本当に彼女は、悪だくみによって追い出されたと思っているみたいで……」
 本当は、女性はもっと色んな事を言っていた。
 ソラが来てから、店は色々変になった。ハンが頻繁に訪ねてくるのも不快だった。
 この店は女性の店なのに。だから安心なのに。男なんて見たくもないのに。
 ソラはそういうことがまったく分かっていない。
 実際、彼女は噂通りの男狂いなのではないのか。夫のほかに愛人もいたというではないか。私たちのことも異常だと決めつけた。
 あなた達の友情は分かっている。しかしソラは、この店にはふさわしくない女だ。店の指針と合っていない。みんなが迷惑する。
 フルカにどうしてもそれが分かってもらえないなら、自分たちは、出ていくほかない――。
 そしてフルカはそれを分からなかったのだ。ハンは聞かなかったのに、文脈を的確に解していた。
「つまり今後は『男を憎んでいる女性』とだけ一緒にやって行くってことですか」
「…………」
 ハンは、眼鏡の蔓の下で眉根を寄せ、少し唸った。
「……嫌いとか、憎いとか、妬ましい、恨みがある、苦手だ、という暗い感情を共有することで、連帯もどきや共同体もどきが生まれることがあります。僕には、質の悪いものだと感じられますがね。
 男達の連帯がそうですよ。性別は単なる偶然なのに、『女よりはまし』という最悪に誇りのない下劣な感情でつるみます。でももしそれを否定するなら――『男よりはまし』じゃあ駄目なんじゃないですかね。男の浅知恵ですけれども」
 『男の国』に対抗する『女の国』を作ってそこに立てこもる。
 それで実際に救われる人もあるのかもしれない。
 ソラには何とも言えない。まして、そこにあの策士の少女が入って感情を掻きまわし話をややこしくしている。
「それは、僕だって思うことがありますよ。他人に性欲を抱かない人間だけの国があったら、どれだけ楽だろうと。そこでは自分はどれだけ安心して暮らせるだろうと」
 ソラはハンを見る。ハンは眼鏡の下の眼を細めてとぼけた表情を作る。
「でも同時に思います。――そこにはソラさんがいない。おまけでフルカさんもいないと思ってやっていい。なんて、狭くてつまらないんだろう。
 だから僕はそういう自分の発想をあまり信じないようにしています。
 覚えていらっしゃるでしょう。学院にいた頃、僕は典型的な東部の学生でした。小心で、恥を恐れ、自分の小さな人脈から出ることもない。他学派に興味を抱くこともない。ところがそんな平穏無事を破壊して下さったのはソラさんでした。ガニア先生であり、ポリネ先生でした」
 多分ハンは、もう一人の名前を敢えて言わなかった。それはソラの胸を裏側から深く突き、遠く、鈴の音のような音を立てる。
「とにかく、門番の女性はもう少し冷静になるべきですね。僕もソラさんもフルカさんも彼女の敵ではないのに。寧ろ本当の敵はもっと身近に、味方のふりをしているでしょうに。その子に操られて、自分の未来や可能性をひどく狭める選択をしていますよ」
「……フルカも言っていました」
 ――『いい年をして、子どもの讒言に振り回されて、情けない!』
 そしてもちろん、
「私も、すごく怒られました……」
 ――『あなたも、もっとしっかりして頂戴! また悪い癖を出して! 自分より格下の人間にわざわざ自分を差し出すような真似をして! 自分の名誉を易々と汚させて! 何を考えているの?! 名誉はいくらでも回復可能だと思っているわけ?! それはあなた、お嬢ちゃんじみた甘い発想よ。みんなが迷惑するからやめて頂戴!
 ……本当に、悲しいわ。お願いだから、あたしに二度とこんなことを言わせないでよ!!』


 そしてフルカは今日、求人の手配に出かけて行った。
 というわけだからソラは落ち込んでいたのである。
 確かに自分は愚かだった。
 大馬鹿だった。
 くだらない自分の甘さのせいで、一番迷惑をかける筋合いのないフルカと、門番の女性に、最も被害が及んでしまったのだ。完全に第三者的な目で見ればそれは、その二人にもそれぞれ責任はあったろうが、同時にソラの不注意は確実にあったのである。
 それでこんな静まり返ったよそよそしい店を呼んでしまった。
「…………」
 ハンはしばらく改めて俯くソラを見ていたが、やがて、神官服の下で足を組み替え、別の話を始めた。
「ところで、僕の近況を報告させてもらっていいでしょうか」
「……あ、はい。もちろんです」
 ソラははっと顔を上げて頷く。
「すみません。せっかく来ていただいたのに自分のことばかり」
「いえいえ。こっちも面倒くさい話です。――実は半月ほど前、所用である小さな町に滞在していたんですよ。ところが夜中に急に呼ばれて、病人を診ることになったんです」
 東部には、施療師として医者とシギヤ神官がいる。ほぼ全員が公式にせよ非公式にせよシギヤ学を学んでおり、且つ優秀で社に所属する者が後者である。
 だからハンも、医師として宛てにされる場合がある。
「行ってみたら、町の外でしてね。そう貧しくはないですが、古い一軒家で、五歳くらいの女の子が虫の息でした。病気じゃないんです。腰骨が折れてる。高いところから落ちたという。家は警邏隊の隊士で埋まってて、親の姿はありません。拘束されて詰め所に連れて行かれていて。
 まあ、なんでも、言うことをきかないからというので子供を天井裏に閉じ込めていた。何日も何日も。子どもは空腹のあまり、遂に窓の隙間だか何かを破って外へ出た。で、落ちた。
 たまたま通りがかった近隣の人間が倒れている少女を見つけて、警邏隊に通報した。何故かと言えば、前にも子供が死んだそうです。悪い噂のある家だったんですね。警邏隊もそれは知っていた。だから女の子を死なせたくなくて僕を呼んだわけです。子どもが死んだら、証拠がまたなくなりますから。
 ――僕は治療しました。女の子は生き延びました。薬では足りなかったのでシギヤにも縋りました。彼は応えてくれました。いつものように、まったくありがたいことに。
 社に戻って数日後、僕は、町長に呼び出されて厳重な注意を受けました」
 ハンは、真黒でつやのある髪の毛を後ろでぴったり一つにまとめている。その頭を傾けて耳の後ろを少し掻いた。
「町長は、『前々から気になっていたことですが』と前置きしました。
つまり、僕の学問的な才能と実績は、町のためにあるので、みだりに使うのは困るということです。まして、よその町の、その外の、何でもない家の、くだらないもめ事にしゃしゃり出て、本分を忘れるとはどういうことかということです。これまでも何かと首を突っ込んできたのは知っている、だが、今後は一切人に任せて、そういう事例とは関わり合わないでほしいということです。
 もしそういった些事のために、いざという時、町に神が来なかったら、どうしてくれるのかというのです。神官は町のためにいる。それでみんなが給与を払っている。家も確保している。だから他の神官のようにしてくださいと。彼らは治療に呼ばれても、『分をわきまえている』。決して神には縋らない。診たてるだけ診たてて、薬までは出してもいい。だが『力』は駄目だ。後は医者の仕事です。
 まして神官は謝金を取らない。『だからあなただって困るでしょう。病人が山と押しかけてきたらどうするんです。』」
 一部もっともと思われる部分もあった。だからハンは丁寧に説明した。真夜中であり、子供は本当に死にかけており、近隣に医者はなく、だからみんな困って仕方なくハンを呼んだのだ。
 それでも町長の考えは変わらなかった。
 あなたはいつもそういう時、手を出してらっしゃるでしょう。心を鬼にして、そこは帰るべきでした。今後は言ってください。これは自分の仕事ではない。神官ではなく医者を呼んでくださいと。
 それで助けられるはずの子どもが死んでもですか。
 それはその子の運命だったのです。



「多分、彼の言うことが正しいのでしょうね」
 ハンは言った。
 口調は穏やかだったが、声には、不穏な反逆の影が滲んでいた。
 ハンには珍しい――。ソラは眉間に皺を寄せて目を瞠った。
「子どもなんて後からいくらでも生まれて来ますからね。一人や二人死んでも、大人にいじめられても、追いかけまわされても、強姦されても、殺されても、『運命』なわけです。そうである子とそうでない子を分けるものは偶然ではなくて、『運命』だというわけです。
 そう言われたらそれは、黙るしかないじゃありませんか?」
 ハンの口元がくすりとした笑いに綻ぶ。
「――ただ、あまりに町長がね、それを自信をもって繰り返されるから、本当に、心から、面白くなってきましてね。――絶対に逆らってやると決めたんですよ」
 うわ。とソラは思った。
 ハンの心に、頑迷な錠が下りたのが分かる。しかも、下り切ってしまったのが。
 この男は本来、大変な頑固者なのだ。
 争いを避け、従順なようでいて、ハンは決して他人に心を預けない。ソラのようにぐらつくこともない。一番すごいのは、人に好かれようなどと毛ほども思っていないことだ。
 しかし、これまでであれば、よっぽど付き合いの長い人間だけがちらりと感じるばかりであったその頑固さが、こんなにも前面に出ているのは初めてだった。
 よほど、その子供の件は彼の核心に触れたのだ。
 ハンの町の町長は彼を見誤り、手を誤った。
「というわけなので、ソラさん」
 態度ばかりは穏やかながら、急に視線を振られてソラはびくっと飛び上がった。
「僕と結婚してくださいませんか」




 ソラはたぶん、五分間くらい凝固していた。
 眉根を寄せて、真っ白になった頭に解答が浮かんでくる。
 ――ああ、なるほど。
 ソラは腕を組み、鬼の形相で彼に確かめた。
「養子に迎えたいんですか」
「そういうことなんですよ」
 ハンは、その命を助けた子どもを引き取ろうとしているのだ。
 しかし、当の社が、独身者の養子引き取りを認めていない。それこそ、犯罪の懸念があるからだ。
「町長の鼻先で彼が一度『どうでもいい』と言った子供をずっと遊ばせてみたいと思いましてね。僕も学問を続けますよ。有能である限り、神官としては使わざるを得ないですから。そうやって一生、彼を悩ませてやることに決めたんです。
 だからソラさん。正しくは名義をお借りしたいのです。書類上、婚姻したということにするだけでよいのです。どこにお住い頂いても構いませんし、育児や家事はすべて自分がやりますからこのままの生活を続けて頂いていいんです。ただ、僕のこだわりに巻き込むことにはなりますから、何かしらご迷惑をおかけすることになるとは思いますが」
 ソラは手を振って、そこは問題ではないと示した。
 ハンと親友として付き合って行く限り、いずれにせよ互いに迷惑をかけることはあるだろう。実際、これまで彼が、ソラとフルカという二大変人を友人としていることで職務上の影響を受けなかったとはとても思えない。口がさない連中は(そして門番の女性も)、男女の仲を疑い、時には平気で中傷する。
 それはもうお互い様だし、今更ソラにとって大した被害ではない。
 それに子供――
 ソラはゾンネンとの間に、幸か不幸か子供ができなかった。結婚した以上、一度は覚悟していたものの、その覚悟にはぽっかりと穴が開いている。
 たとえ養子であっても、自分の持てるものを託す対象が得られるのは、幸運なことだ。ハンが子供を育てるなら、ソラはもとより、フルカだって無条件で全面的に協力するだろう。



 だが、『婚姻』。か。
 ただ書類の上のこととはいえ。
 『婚姻』。――か。



 ソラは自分が未だにそこまで割り切れていないことに、自分で驚いた。
 あれだけ無残な結婚をして、すでにそこに何の期待も妄想もなくなっているというのに。
 いったい『婚姻』のどこに、こうして自分を怯ませる謎があるのだろうか。



「……少し考えてもいいでしょうか」
「もちろんです。それにもちろん、お断り頂いてもいいのですよ」
「その時はどうするんです?」
 ハンはにっこり笑った。
「養子は諦めます。別の方法で彼女を扶けて行きます」
 それは暗に、彼にとっても相手はだれでもいいというわけではないということを示していた。
「あの……、フルカとかどうです?」
「彼女は僕が無性愛者だということを知りません」
 ああ、そうか。
 その点もあるのか。
「教えたら?」
「教えたくありません」
 笑顔で拒否されるとどうしようもない。
 彼は彼なりに、そんなことをしたら自分がどんな目に遭うか予想して避けているのであろうから。
 つまりソラは、『無性愛者』なるハンと実体のない婚姻契約を交わし、五歳の女の子の書類上の養母になってくれまいかと言われているわけだ。
 それは、どれほど『書類上』と言ったところで、やはり彼と一緒に『無性愛者』の面倒を生きるということ、そして女の子と一緒に『親に死ぬまでいじめられた人間』の面倒を生きるということになる。
 重い責任を伴う行為だ。ハンは興奮しているようだが、予想する以上に、何もかもこれまで通りとは行かないだろう。
 しかし、無下には出来なかった。寧ろ協力したい気持ちも、確かにある。
 そしてもう一つ、かき回された精神の中で鈴のように、鳴るものがある。
 考え込むソラにハンが囁いた。
「ソラさん。ひょっとして誰か好きな方がいらっしゃいますか?」



 ソラはその問いに答えられなかった。
 しゃらしゃらという鈴の音は微かで、それほど明確なものではなかった。
 けれどあの月の夜から、ずっと秋の虫のように、世界のどこかで鳴り続けている。
 その音を聞くと、彼女の脳裏にはどうしてか夜の海の光景が浮かぶのだ。
 その遠浅の、平らな海には廃墟が浮かんでいて、半ば月の光を浴び、半ばは波に沈みながら、誰かが来るのを、待っている。




(つづく)
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