追われている感じがした。 少しずつ、追手との距離が縮まっているような。 息苦しさを感じるが、振り返って見る勇気はない。 何が起きるのか分からない。 気配がする。靴の下の礫の軋み。吐かれる白い息。上下する厚い胸板。 それは人生がまだ鮮やかだったころの五感を呼び覚ます。 誰知ろう、風渡る海上の家を。 学者らの城を。石造りのうねる径。 実験の数々。大図書館。偉人を祀る聖堂。 靴音を立てる学徒達の頭上で、鳴る大鐘。 森に閉ざされた東部で一体誰が、あの眺めを、この記憶を、信じるだろう。 それとは別に、目の前の日々がある。 人のいないがらんとした店の愛おしさ。連なる木々。閉じる冬。一斉に花開く春。 せせこましいハライの、野暮ったい広場。 砂の上がった商家の陳列棚。化粧木だけが修理されて新しい井戸。古くて小さな家。 とにもかくにも続く、日毎の食卓。 二つの世界。それぞれの匂い。 それらが二つながらソラを追跡していた。 「ソラさん! ご一緒していいですか。私も町に行くんで!」 フルカの店の玄関口で、ソラはそう呼び止められた。大急ぎで外套を羽織ってやって来たのは若い女の子だ。 ソラは臨時の買い物のために至近の村ソイの市場へ出かけるところだった。籠を持ったまま、女の子を振り返って、やや躊躇う。 「町じゃなくて、ソイの市場よ。いいの?」 「あ、はい。十分です! ごめんなさい、言い方悪くて。市場で大丈夫なんです」 「歩きだけど?」 「もちろんです!」 遠回しに懸念を伝えたが相手にはまるで通じず、同行することになった。 女の子は、今回の人員募集で採用されたばかりの子だった。最初は雑用を申し付けられることも多いので、多分用事というのも、その類だろう。 それでソラは、緊張してしまうのだ。前の一件が頭を離れない。考えるより前に体が強張り、受け答えも不自然になってしまう。 若い子がすべて、あの子みたいにおかしいなどとは思っていないけれど。覚えのある接近の速さが、ソラを警戒させる。 女の子の方は、彼女の胸の内も知らずに無邪気に話しかけてきた。 「ねえ、ソラさん。ソラさんって、昔、中央の上の学校に行ってたって本当ですか?」 どきり。と胸が鳴るが、もはや理由は混然としていてはっきりしない。 頭の中ではしゃらしゃらと金属の音がし、同時に一体どうしてなんだと文句を言いたいような気持も湧いた。 追われている。 「――そうだね。昔だけど」 「で、帰って来て、結婚なさったんですか?」 いちいち心臓を攻めてくる子だ。 「そう。……学院が、閉鎖されたから」 『あの子』なら、ここでひどい一言が来るところだ。 哀しいかな無意識にそれを待ち受ける態勢でいたところ、女の子の答えは違っていた。 「ああ。あの、大事故でですよね。あの時にいたんですね。大変でしたね」 「……知ってるの?」 女の子はくしゃっと顔を歪めた。 「まだ子供だったですけど、怖ったです。兄が何があったか教えてくれて。怖くてしばらく夜、寝られなかったですよ。兄は去年から、北部の高等学院に行ってます。 ――で、あの、ソラさん。もしよかったらなんですけど、今度、学問のお話をさせて頂いてもいいですか。私最近、兄が送ってくれた数理の本を読んだんですが、よく分からないところがあって。先輩達に聞いても分からなくて。示唆を下さるだけでもいいんですが、駄目ですか?」 ソラは歩きながら、しばらくの間、ちょうど真横にある女の子の顔を眺めた。 ソラは東部の女性としてはまあまあの背の高さだが、この子も同じくらいだった。もちろん顔つきは違うし、格好も、フルカの店にいるくらいだからこざっぱりしている。 だから若い頃の、挫折も何も知らない頃の、自分を見た、などとは言わないが。 「――学問の話が、したいの?」 「はい!」 「いいよ。役に立てるかどうか分からないけど。私にも分からないところたくさんあるから、その時は教えてくれる?」 「えー! そんなことってありますか? ――そういう時は絶対、私にも分からないんで、一緒に悩みましょう!」 若い頃の、挫折も何も知らない頃の、自分を見た、などとは言わない。 この子は私よりも上等だ。 ――何故なら、『教えてくれ』とは言わなかった。私は言った。 店に勤め、自分で自分の身を立てながら、自分なりに学問も進めようとしている。 この東部で。 誰に言われたわけでもなく。 初めから。 ――なんということだろう、この子は私よりも上等だ! しかも、ずっとずっと、ずっと上等だ。 ソラは自分でもびっくりするくらい、このことが嬉しかった。 ソイの村までのたった十分ほどの道すがら、ずっとずっと嬉しかった。 用事を終えて帰る頃には、もう女の子は学問の話を始めてしまっていた。待ちきれなかったのだろう。 まだソラにも十分に答えられる範囲だったので、受け答えをしながらソラはもう彼女のことが好きになっていた。 フルカの時もそうだが、友情はふって湧くものだ。 彼女の名前はマコトと言った。 マコトは、店に着く頃、 「すごい楽しかった! 私、この店に来てよかったです。大変なこともあるけど、これでがんばれます!」 と笑った。 その台詞はソラのものでもあった。 本の貸し借りの約束をして、彼女らは微笑み合い、店内で別れた。 その一件があって三日も経たぬうちに、ソラは今度はハンに呼び出されて、初めての町に遠出することになった。 『求婚じゃないの?』 事情を知らないフルカが、事情を知らないのに妙にするどい冗談を言ったが、実質それに近いことが待っていた。 救護院で保護されている、ハンが救ったという五歳の女の子と対面することになったのだ。 彼女はまだ寝台にいた。砕けた腰の骨はハンの施療でくっついたものの、まだ歩くには早いようだ。 それよりも、少女を一目見てソラはひそかに驚愕した。五歳――には見えない。体が小さく、痩せている。もっとずっと幼く見える。子どもの年齢には詳しくないが、三歳くらいの体つきではないだろうか。 ――ハンが憤った理由も分かる。 保護された時はもっと痩せていただろう。そして瀕死だった。 この子を助けてそれを咎めだてされたら、自分だって反発したろう。自分はハンより凶暴だから、もっと過激な行動に出たかもしれない。 女の子はハンに懐いていた。彼の姿を見るや、寝台の上でばたばた手を動かして接近と抱っこをねだった。もう何度もお見舞いに来ている様子だ。 「はいはい」 ハンは彼女を抱き上げ、ちゃんとお医者さんの言うことを聞いてるか、食べているか、寝ているか、などと話しかける。少女は彼の首にぴったりとかじりついたまま、うん、うんと返事をしている。 ソラが寝台の足元で待っていると、やがてハンがくるりと体を回した。 「あのね、ナライ。今日はもう一人お友達が来ています。ソラさんです。はじめましてのご挨拶ができますか?」 神官服のハンの腕の中で、少女ナライは顔を上げ、首を回してソラを見た。 ソラは気後れした微笑を浮かべ、精一杯のカラ元気で「こんにちは」と言った。何しろ、ここまであからさまに懐きっぷりを見せられてはたじろぐしかないではないか。そもそも、そんなに子供が得意なわけではない。 ナライはしばらくじーっとソラを見ていた。 じーっと見ていた。 大人であればとっくに反応を表す頃合いを越して長いこと長いこと見ていた。 さすがにソラが困ってきた頃、少女は思いっきり眉間に眉根を寄せ、口を大きく開いて上下の歯をカッと彼女に見せつけた後、また蓋が閉まるみたいにぱたっとハンの首筋に顔をうずめてしまった。 「……」 ソラは苦笑するほかなかった。自分がいわゆる『イーだ!』をされたことが分かったからだ。これはハンにも予想外だったようで、驚いて体を揺らすも、少女は怒られる一瞬前に手を打つ。 首にしっかりと抱き付いたままいきなり言うのだ。 「おしっこ!」 「え?」 「おしっこ! ひとりじゃできない! いっしょにきて!」 「――すみませんね。ソラさん。ちょっと行ってきます」 さすがのハンもやや赤面していた。 「はいはい」 ソラは笑いながら送り出した。 子どもはなんでも使う。身も蓋もなく恥の概念も大人とは違う。その図太さ、たくましさに、ハンも赤面、ソラも赤面だ。 ――これは、どうだかなあ。 一人笑いながらソラは考える。 ――ずいぶん、楽しいことになりそうだけどなあ。 でも、不快な思いではなかった。 いきなり現れた見知らぬ大人を警戒するのは当たり前だ。少女はそれを素直に出した。ここで変に媚びられでもしたら、かえってきまりが悪くなったかもしれない。 ただ、それとは別に、これは手こずるぞーと直感したのも事実だったが。 やがて、二人は戻って来て、寝台に戻って色々話していたが、少女はずっとソラのことを無視していた。 ハンが話題を振っても、そんな手には乗らない、とばかりにつんと顔を反らす。決して譲らない。 しまいにソラはおかしくなって笑い出してしまった。 二人が見る。 「ごめんごめん。……あのね、ナライ。私達、恋人じゃないよ。言った通り、お友達だよ」 「……」 少女がハンを見た。それから詰問口調で、 「ほんとうなの?」 と、まるで夫を問い詰める奥さんだ。 「え、ええ。そうですよ」 ハンは顔を真っ赤にして、たじたじとなりながら答える。最近冷静で小憎らしいハンの、こういう姿を久しぶりに見るのは愉快でもあった。 とは言え彼はすぐ気を取り直すと、はっきりとした口調で、手ぶりを交えながら、彼女に言う。 「私と、ソラさんは、友達です。私と、ナライが、友達なのと同じです。――どうかな、ナライ。じきに、ナライも元気になるでしょう。私はその時、大きな家を借りてね。仲のいい友達みんなで一緒に住んだら、素敵じゃないかなって、思っているんですよ」 「…………」 「まだ、考えてるところです。決まってはいないんですよ。もちろん、ナライが嫌だったら、やめておきます」 少女は口をとんがらせたが、その眼に、今までにない濃い寂しさの影が漂ったのがソラにも分かった。 聞きたいことがあるが聞けず、言いたいこともあるが言えないという感じだった。 ソラが傍にいるせいかもしれないし、あるいは、言葉にならないのかもしれない。 しまいに少女は 「かんがえとく」 と言った。 「はい。お願いします」 ハンがその髪の毛を撫ぜると、銀色のつやが髪に合わせて波打った。 夕方が近づくと、少女はひどく不機嫌になって色んな文句を言ってはぐずりだし、しまいには本当に泣き出してハンに抱っこを要求し、彼の首にかじりついたまま寝てしまった。 「お別れが嫌なんですよねえ」 ハンは少女を抱えたまま呟く。 「だから先に大暴れして寝ちゃって一番つらいところを避けようとするんです」 これじゃ情が移って当然だ。 苦労して、寝台の中に少女を戻すハンを眺めながら、ソラは思った。自分だって、もしできるなら彼女とハンが一緒に暮らせるようにしてあげたい。 というより、彼女が望むとおりの環境を出来るだけ整えてあげたいが。 「実の両親はどうしているんですか?」 救護院の廊下を歩きながらソラは尋ねてみた。 「引き続き拘束中で、そのうち裁判があるはずです。警邏隊はやる気みたいです。なにしろ初犯でないので」 「――あの子も証言するんですか」 「おそらく。あるいは調書を取られるだけかもしれません」 いずれにせよ親の犯罪について証言をしたら、もはや親を亡くすも同然だろう。 それでも、両親に対する恋しさが完全に消えるとはとても思えない。 どうしたいか、という問い自体が酷だ。 少女自身にすら、自分がどうしたいかなんて、まだはっきりとは分からないだろう。 かわいそうだ。 外に出るといきなり気温が違っている。 水の中にでも落ちたように二人して震えながら、無数に木の葉の散る道を歩き出す。 細い枝がかしかしと鳴り、頭の上にまで葉っぱが飛んでくる。一枚を払いながら、ハンは薄闇の中振り向いて、眼鏡の奥で、微笑んだ。 「今日は、お忙しい中、ありがとうございました、ソラさん。――ソラさんも、考えておいてくださいね」 ――そう。 そうだね。 追いかけてくる気配がする。 一つが競ってくればかえってもう一つも縋りつく。 町の広場を横切った時、掲示板に町人向けの広報が出ていた。 頭はナライのことでいっぱいだったのにどうしてか目に入る。 曰く、不審な外国人に注意。目撃したらすぐに、町役場に相談を――。 耳の奥に微かに、あの金属の触れ合う音。もっと正確に言えば、あの夜聞いた、髪飾りの音が、東部の生活が再びソラを掴もうとする度にどこからか聞こえてくる。 おれのこと、わすれたの。とばかりに。 ソラは追われていた。 追跡の足跡が二方向から自分の背後に迫っているのを、どうしようもなく聞いていた。 車を乗り継いで、最後には徒歩で、夜更にようやくフルカの店に戻ると、報せが待っていた。 義理の母親に当たる町長夫人が、亡くなったという。 (つづく) |
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