町長の命令によって、フルカの店にやって来たロクオ・トウ・ウタリ青年は、前とは様子が違っていた。 始めから不機嫌さを隠そうとせず、むしろそれを自己表現と前面に押し出して恥じなかった。何か勘違いしている学校の教師でも家に来たみたいである。 確か、以前会話した時、彼の最後の言葉は『嫌わないで下さいね! 敵じゃないですから!』だったはずだが。 それから今日までの間に、ソラは何もしていない。ただ『コマリ』が殺された。世界は、自分が思っていたのとは違った。その足のまごつく段差を彼は、はっきりとソラのせいにしていた。 青年は頭は悪くなかった。 だから以前自分が言ったことを覚えていたし、その実恥じてもいるのだ。だが、そんな暗い感情と向き合って自分を変えなければならないのはごめんだから、そもそも悪いのはソラやこんな面倒を起こす愚か者たちであって、自分は悪気がなく巻き込まれただけだ。こんな連中と、関わることになったこと自体が己の不幸なんだ。という理論を編み出して、しかも隠さぬことで堂々とソラに責任転嫁していた。 賢くて、卑怯で、そして吐息も出ぬほどありきたりだ。 典型的な東部の人間の挙動だった。 ソラは動じなかった。動じるわけがなかった。 これよりさらに多重に稚拙だった夫と、もっと紳士的でずっと狡猾な町長と渡り合ってきたのだから。 気の毒に、ウタリ青年にはそれも気に食わないらしかった。自分が不機嫌さをこれほど露骨に出しているのに、怯えもせず気をつかわないとはどういうことだ? 大の男が、まともな公人がこうして大いに気分を害しているのだぞ? なぜお前は自分を慰撫しないのか。 ――いかんせん、まだ若いのだな。ソラはくすりとして、それでいて無視を貫くから、ウタリはますますソラのことが嫌いになる。 空気ばかりがどんどん不穏になって行く中で、寧ろ倍増しに淡々と、青年の説明だけが続いた。 「――というわけで、午前四時ごろ、奥様は永眠なさいました。ソラさんにおかれましては、葬儀に参列は及びません。弔問や弔文も不要です。寧ろ町長家とわたくし共の迷惑にもなりかねませんので、ご遠慮いただくようにお願いします」 青年の眼が飛んでくるが、ソラは表情を動かしようがない。それがさらに相手を刺激するのを感じる。 どうやらそういう星回りらしいな、とソラは思った。 多分、この先もこの青年との間には、憎悪と隔たりしか育たないのだろう。 そういうめぐりあわせなんだろう。 青年は諦めたらしく、ため息をついた。 「ちなみに、あなたのお父上には既に色々お手伝い頂いています。あなたは、そのお父上のご努力の邪魔をされないように慎んで下さい」 ――父親か。 元気で町長の部下を続けているようでなによりだ。申し訳ないが、あの人には、似合いの仕事だろう――。 「ところで、お知りでないことと思いますが、生前、奥様は繰り返しあなたを町長家の戸籍から抜いて、削除するよう要求しておられましたが、町長はお応じになりませんでした。奥様は亡くなられましたが、これから先も、あなたは義理の娘であり、町長はその責任を放棄しないお考えです。感謝の気持ちくらいは、持っていただきたいですね」 今日は遠慮しているフルカがこの場にいたら、言うところだ。 『管理下に置いときたいってだけでしょ。ソラが自由にうろちょろしたら困るってわけよね!』 ソラは実際には言わなかったけれど、ウタリ青年はもはや自動的にその手ごたえを彼女に見つけ出し、雰囲気をとげとげしくさせる。 不毛な会見だった。始めに「すぐ終わります」と宣言されていたことがせめてもの救いだ。 「――最後に、形見分けです」 冗談ではなくソラはぞっとした。町長夫人の形見? いらない。そんな呪われたもの置いて行かないでくれ。 ウタリ青年の手がポケットから小さな布包みを取り出し、二人で囲んでいるテーブルの上へ置いた。 ソラがなんのことか分からないでいると、包みの端がひとりでに落ちて中身がのぞいた。 指輪だった。 ソラは無言のまま、手を伸ばしてそれをつまみ上げた。 「見覚えがなく、家族のものとは思われないので、多分あなたのものではないかと、町長が仰いまして」 そう言われて大きく波打つ心臓の上に、ソラのそれは、ちゃんとある。 紐を通して首から下げてある。片時も離したことはない。 ――じゃあ、これは。 明らかに師匠の手になるこの、見覚えのある指輪は――。 「奥様の持ち物の中から見つかりました。ゾンネン様の遺品の一つだったのでしょう。あの日、身に着けていらっしゃったものは残らず奥様が保管なさっていましたから。 このたび、そうしたお品はほとんど僕が譲り受けましたが、それはお返しします。ゾンネン様のものでも奥様のものでもないものを持っていても仕方がありませんし、もともと何かの間違いで紛れ込んでいただけでしょうから」 指輪を掌に置いたまま、しばらく、間があった。 『何かの間違いで紛れ込んでいた』? ソラはそれが町長家にとっての自分のことのように思われた。 ゾンネンは死に、今、姑である町長夫人も死んだ。 一体あの年月は、何だったのだろう。 「町長もご存じのことですか?」 「町長のご命令です」 全部清算したい。そういうことだろうか。 ままならぬ息子。それを何とかしたいと招いた地味な嫁。協力しない妻。そういう『使えない』ものはこの機に掃って、――気分を変えたい。そんな感じだろうか。 そして、この無駄に品行方正な『使える息子』青年は、彼の期待に応えてその王国運営の後半に大きな位置を占めるのだろう。 「そういうことでしたら、ありがたく頂戴いたします」 面白いことにウタリ青年の顔には明らかな安堵があった。 もしソラが受け取らなかったら、本気でその処分に困ったのだろう。確かに、持ち主の分からぬ指輪などというものは、気持ちが悪いものだ。 自分でも自覚があったのか、ウタリ青年は急いで釘を刺しにかかる。 「引き続きハライの街へ入ることは入場制限されています。形見分けは単なるご好意ですから、誤解されたりなさならいように」 とうとう、ソラは本気でおかしくなってきてしまった。 相変わらず彼の言葉遣いはどこか変だし、そして話も、決して噛み合わない。 一つの場にいて、同じ時刻に同じ空気を吸い、一つのことについて話し合っているのに。――同じ義理の父を持つ、いわば、姉弟なのに。 おもしろいくらいに流れは並行し何物も交換されない。 ソラはひどく昔、こういう齟齬を感じて地団駄を踏んだことがあるのを思い出した。あの時も、相手が広げる世界と、自分の世界がまったく擦り合わず、怒りを覚えたものだ。 だから、この怜悧で卑怯な東部の青年とも、実は分かり合えるのかもしれない。 真正面から衝突したなら、彼も変わり自分も変わってまったく違った未来が開けるのかもしれない。 だが、その『相手』は私ではない。 ソラは膝の上で、指輪を包む手を握った。 ――つまりそういうことだ。 自分は彼の相手ではないのだ。 そういう星回りじゃない。 帰ってほしい。 ウタリ青年はしばらく不快そうに、返事もしないソラのすまし顔を睨んでいたが、やがて、用事はこれまでですと告げて立ち上がった。 ソラは立ちもしなかったし、見送りもしなかった。寧ろ目を伏せた。 会見前と会見後で二人の間には無関心と憎悪しか育たなかった。 諦めるしかない。 そういうめぐりあわせも人生には、ある。 さて、指輪である。 改めて眺めて確認する。 間違いなく、ネコの造作による指輪である。首元のものを引っ張り出してもまったく同じだ。 これを持っていた人間を、ソラは知っている。 そしてゾンネンが死ぬ間際に、それを持っていたのだとしたら。 体が他人の持ち物のように重くなり、椅子を突き破って地底へ沈んでいくような気がした。 『彼』が、イル・カフカス・イラカが無実の罪を負わされたということは、既にほとんど分かっていた。これは、決定打だ。 あのどんくさいゾンネンに、イラカの指輪が盗めたか。奪えただろうか。 否。そんなことは出来はしない。 イラカがクローヴィスの形見であるこの指輪を捨てるなどということもあり得ない。 だったら、ゾンネンは、彼を呼び出し、イラカにこの指輪を、渡させたのだ。どんな理屈をこねたか――(ソラは知らず胸の指輪を握った)知らないが。 それでイラカが怒って彼を殺した? 違う。なら何故指輪を取り返していないのだ。彼にとっては、至極大切なものだ。 彼は、何もしていないのだ。ゾンネンの死に関して。まったく何もしていなかったのだ。それどころか死の瞬間、彼はそこにいなかったのだ。死んだことさえ知らなかった。 まったく潔白だったのだ。 彼の、主張した。通りに。 ソラはもう、泣いたり悔んだりする段階を過ぎていた。 全身から力が危険なほどの勢いで抜けて行ったけれど、既に感じるのは罪悪感とか後悔ではない。 そんな新鮮な感情を持つにはあまりにそれは過去に過ぎたし、そんなものに酔って泣いたりできるほど破廉恥でもなかった。 彼女が持ったのはこういう感情だ。 これでもう、逃げも隠れもできない。 自分はついに、追いつかれた。 その手ごたえを裏付けるかのように、――数日後、フルカがこれまでにないくらいの真剣な顔で、ソラの元へやってきた。 例によって、町長夫人の訃報や養子の件について話し合うためにハンが訪問している時だった。 「あのさ。……ソラ。手紙が来てる」 娘時代に戻ったような口調で彼女は戸口で紙片を見せた。 「イラカから。用事があって、どうしてもソラに、会いたいんだって」 何故だかその時、ソラは、自分だけでなくハンも何かに追いつかれたような白い顔をしていたような気がするのだ。 ソラには選択肢はなかった。 一つの身に、二つの指輪。 どんな逃げ口上があるだろうか。 彼はウタリ青年とは違うのだ。 痺れて音もよく聞こえない空間の向こうでハンが言っていた。 自分も同席したいと。 それから、五日後だったか。八日後だったか。 ついに彼はやってきた。 従業員たちも寝静まった夜。大きな外套に身を包んだ彼が戸口に立った時、懐かしい髪飾りの音がソラとハンの耳に響いた。 掌を上げて挨拶する彼を見て、隣に座ったハンが息を止めた。いつか見たように彼は、顔の右半分が、潰れていた。 (つづく) |
|
<<戻 | 次>> |