あなたの眼が好きだ 恋人よ
ぱっとひらめく火の花のふたつ
あなたの眼が好きだ




「――ど、どうしたんです?」
 基本的に善人のハン・リ・ルクスは、思わずそう言った後、自分でしまったという顔をして凍り付いた。
 それで、呼び出されてしまった昔の空気が、宙ぶらりんのまま、そこに投げ出される。
 静まり返った夜に。どこかの部屋で。三人、つかずはなれずの距離で向かい合った。
 消すことも捏造することもできない共有された記憶。
 そこから今までの間に無数の出来事が挟まっているけれども。
 結局その空気はイル・カフカス・イラカが引き受けた。潰れた顔半分を引きつらせるように、微笑を浮かべて。
 彼が部屋の中へ歩みを進めると、影が動いて、さらによく様子が見えるようになった。彼の顔の右半分は、眉毛から顎のあたりまで、まるで爪をかけて斜め上へ引っ張りあげたかのように損傷していた。
 頬に踊っていた黥も巻き込まれて奇妙な模様を描き、眉毛も一部、でたらめな方向へ伸びている。
右目は半開きの状態で、遠くからでも瞳孔が白く濁っているのが分かった。
「ちょっと事故に巻き込まれてね」
 よっこらしょ、とおどけたような掛け声で、等分な位置に配置された椅子に座った時、さらに右目からぽろっと涙がこぼれる。
 ソラもハンもぎょっとしてしまうわけだが、当人はいたって平気で指にて頬をぬぐう。
「ごめんごめん。涙腺も壊れちゃって、涙出っ放しなんだよ。汚いもの見せるけどごめんね。つらくて泣いてるんじゃないから」
 見てみれば、青白く濁った瞳は涙に濡れ、引きつった瞼の縁も荒れている。
 ものも言えず黙ってしまった二人の胸中をまるで意に介さぬ風に、イラカは微笑みを浮かべた。
「久しぶりだね。五年くらいだっけ? もっとも、ソラさんはこないだちょっと会ったよね」
 えっ? というハンの視線が飛んでくるのを感じながら、ソラは頷くしかなかった。
「……偶然、行き交っただけだけどね」
「そ。あの時も思ったけど、これはまあ、すっかり落ち着いた女性になられて」
 なんだって意識が揺さぶられて顔に血が上るのだろうか。
「そ。そちらこそ」
 必死に言うも、相手の顔を見る勇気はなかった。代わりのように出で立ちに目が走る。
 イラカは前と同じように服飾の捌き方が巧みだった。明らかに日に焼け、そのために髪の毛や肌が傷んでいたし――どう見ても苦労していて、衣類もところどころ擦り切れていたり色あせていたりしたが、それでも全体に上手に身づくろいをしていた。
 そして顔半分を失いながら以前にもまして笑顔が絶えなかった。
 何かの証のように。
 もう彼は、伝説の英雄クローヴィスに似ているとは言えなかった。もっと何か、まったく別のものになっていた。
 そして――手に視線を走らすが、やはり、指輪はなかった。
 その確認が、歯を震わすのを感じながら、ソラは懸命に息を吸う。
「それで、どういったご用件でしょうか」
「はい。そうですね。時間もあまりないし。とは言っても、ハンさんには心当たりがあるんじゃないかと思うんだけど」
「え?」
 今度はハンが、ソラのそれとぶつかるより一瞬早く目を脇へ反らした。
 彼女の注意を呼び戻すように、大きな声でゆっくりと、イラカは言う。
「力を貸してほしい。ンマロの学院跡で今、アルススが復活しようとしている」



「そんなことって、ある?」
 長い長い沈黙の末のソラの言葉に、イラカは微笑する。
「精確に言うとね、アルススは、復活させられようとしている。だからそれを阻止したい」
「誰によって?」
 これはハンだ。イラカは彼の方を向いた。
「ゴンクール。覚えてるかな。アルスス学徒でね、俺と同じくらい熱心な奴で、事故後もンマロに残ってたんだけど」
「……赤毛の人?」
 と、ソラ。
「そうそう」
「――この間あなたと一緒にいた人じゃない。どういうこと? 仲間に見えたわ。あなたはどういう立場なの?」
「そもそも、そんなことは起こり得ない。アルススは確かに崩壊しました。だからあの爆発が起きた。復活など、不可能です」
「東部のしかめ面が二人分はなかなか歯ごたえがあるね」
 イラカは足を組み直してけらけらと笑い、思わず前のめりになった二人ともを赤面させた。
「でも学者魂は忘れていないみたいで、安心した。
 順を追って話すよ。まずね、学院が崩壊してからこっち、アルスス学の関係者たちは厳しい選択を迫られ続けて来た。学問に熱心に取り組んで、全人生を賭けていた奴ほど何もかも失った。小さな黥なら焼いて他学へ転向することもできるけどね、全身入墨だらけの、例えば俺のような人間は――学問どころか、まともな未来を思い描くことさえ難しくなった。特に学院再生委員会が分裂して解散して以降はそうだ。
 すべて諦めて引退した奴も、自殺した奴もいる。けどね、何しろ、あれだけの人数がいたわけだ。『何とかしたい』と考え、全力で『解決方法』を探そうとする学者も大勢いた。
 ゴンクールもその一人だ。かなり早い段階から、旧学への復帰とは別の、自分や仲間たちを救う『方法』を探していた。彼は、素晴らしい学者だよ。熱意も行動力もある。漂流する仲間たちを集めて組織を作り、全員でとにかくあるだけの資料を片っ端から調査した。救出された学院の大図書館の資料はもちろん、他の学院の資料、特に二年前南部からどかんと発見された多量の新資料と、――ネコ教授の海上の庵から回収された資料は大きかった」
 潮騒の音とともに、ソラの眼裏に干潟の夜がよみがえる。波間をさまよう奇術師の庵。
 開放されていたのか。
 ハンがなお懐疑的に申し立てる。
「それでも、復活などあり得ないでしょう。アルススは雲散霧消しました。拾い集めるなどもはや不可能です」
「『あの』アルススはね」
「――どういうことです?」
 イラカは顔を少し斜めにし、右の眉を指で掻きながらどこか言いにくそうに言った。
「俺達が知ってる『あの』アルススは消え去った。確かに。でも、ならば、別のアルススを求めればいいのでは?
 南部から発見された新資料の研究ではっきりしたことなんだけどね、アルススは、やっぱり、人工の神だったんだよ。前文明の学者達が作り上げ、最終的には、地中に遺棄した。前々からそういう説はあったが、完全に裏打ちされた。
 ――ならば、作ればいい。また一から、新しいアルススを。学問とはそういうものだ。そうすればみな救われる。ゴンクールはそう考えた。天才の発想だ」
 ハンは途中から、手で口と顎を覆っていた。しまいにそのまま、いかめしい顔で言う。
「馬鹿な」
「いや。同じことはネコ教授も考えていた。もちろん仮説だけどね。『もしもアルススが人造の神ならば、理論的には何体でも、製造可能なはずである。』――日記に書いてあった。『だからこそ、アルススは早期に滅ぼさねばならない。』時間が経てば、別の誰かも気付いてしまうと分かってたんだね。ていうか、あの人けっこう性格が悪いね? 日記読んだけどひどかった。
 それはともかく、ついにゴンクールがそれに気付いてしまい、今、着々とその準備を進めている。悪いことに南部の資料にも、ネコ教授の資料にも手掛かりがたくさんあった。全く同じものではないかもしれないが、奴はじき――試験型くらいの開発には成功してしまうだろう。
 時期尚早だと言っても聞き入れない。同胞を救うのだと息巻いている。自分のことはすべて犠牲にして注力している。その姿にまた大勢のアルスス学徒が希望を抱く。
 これが一度成功してしまえば、おぞましいことが起きる。次々に。阻止したい。協力してもらえないだろうか」
 イラカはその言葉をハンに向けて言っていた。ハンは手を外し、顎を引いた。眼鏡越しにイラカと見合う。眉間の深い縦皺が蔓の中央からはみ出していた。
 ふっと、顔を歪ませてイラカが笑った。
「今気づいたけどハンさん、髪の毛伸ばしてるんだ。俺みたいになっちゃって」
「――私の質問には、答えてもらってない」
 ソラはイラカを呼び戻した。
「あなたはどういう立場なの? 私はあなたがゴンクールと行動を共にするのを見ている。力を失ったことを嘆き――理不尽ないじめに遭ってきたなら、あなただって、アルススの再来を望んでもおかしくはない。何故阻止に動くの? 疑っているんじゃなくて」
 ソラは誤解を避けようとするように、手を顔の前に構えた。
「情報が矛盾してる。説明してほしい」
「そうだね。ゴンクールと行動を共にしているのは、情報を得るためだ。彼からは強く信頼されている。複雑なことに」
「……間諜を務めてると?」
「裏切り者だということは承知しているよ。でも奴は用心深くてね、他の人間じゃ多分気を許さなかった。俺は再生委員会で一緒に苦労してたし、学生時代から一目置いてくれていたみたいだから」
 それはそうだろう。学院時代のイラカと言えば、クローヴィスの完全模倣者だったのだから。
「ゴンクールは今、クローヴィスみたいだよ。失われたものを、アルススで取り戻そうとしてね」
「あなたはそうじゃないと?」
 イラカがにこっと笑うので、ソラは顔をくしゃくしゃにせねばならなかった。
「……だってあなたには理由があるでしょう。何度も言いたくはないけれど、人の愚かさに怒り、薄情をなじって復讐を志したって、少しもおかしくはない。誰も文句は言わない。――私は、今日、覚悟してた」
「――『誰も文句は言わない』状況ってさ、結構大事な分かれ目だよね」
 これはソラもハンも分からなかった。二人共のしかめ面がさらに濃くなるのを見て、イラカは手を振る。
「ごめん、こっちの話。――えっとね、ソラさんの言うことも分かるけど、それなら俺の話をちょっとした方がいいかな。ここ五年ほど俺が何をしてたかって話なんだけど、とにかく、再生委が分裂して、これはどうにもならないって状況になって――、ただそれまで首を突っ込んでた人間関係を放り出すわけにもいかないから、あちこち奔走してた。主に住居の確保やら、もめ事の解決やらだね。んで、そうこうするうちに、偶然に、懐かしい顔に会ったんだわ」
 ソラは内臓がねじれるのを感じたが、イラカが口にしたのはまったく意外な名前だった。
「リリザ。覚えてる? 学院時代、俺の彼女だった人」
「は……」
 ハンもあまりのことに虚を突かれてぽかんとしている。
 イラカはまるで学生みたいににこにこしながら、楽しそうに自分の話を続けた。
「三年前くらいだったかな。なんてのかね、懐かしくて、何とも言えない感じがしてね。再び別れがたくなって、結婚した。互いに、心の支えが必要な状態でもあった。その時は、俺は社会的にあまりいい状況じゃなかったんだけど、それでも彼女は構わないと言ってくれて、嬉しかったな。仲間にからかわれたよ。『お前、生涯で女一人か?』――かもね。
 それで、割とすぐ子供が産まれた。病気の子供だった。今も苦しんでいる。それで俺はアルススの復活に反対する。納得してもらえたかな」



 ソラは言った。
「お子さんの病気が、アルススのためとは限らない」
「もちろん。ただ、仲間を見渡しても、実際に数が多い。先天的な臓器疾患の他、視覚障害もかなりいる。隠されている場合も相当あるはずだ。きっちり調査、分析をしないとだめだ。アルスス学徒らの努力は、そこにこそ注がれるべきだ。アルススの復活ではなく」
 イラカが足を組みかえた弾みに右目から再び涙が落ちた。
「俺達が、諦めきれぬ夢や蹂躙された人生のために体を壊すのは自由だ。『誰も文句は言えない』。だが踏みとどまらなければ、俺達ではなく罪もない別の人間がその支払いをすることになる。俺はアルスス復活をもくろむゴンクールと行動を共にしているが、それは情報を集め、いざとなれば止めるためで、信条は他学者と協力してこれまでのアルスス学を総括し、成果を得たうえで先に進む側にある。既に同じ考えを共有する学者達が集まって動いてくれているが、――今ここにきて、ゴンクールの実験がいよいよ実現しそうな段階になってしまった。現場経験のある、有能な学者の協力が一人でも多く必要だ。これで分かってもらえたかな」
「……で、でも」
 ソラは、自分の声がおかしいので咳払いした。額に手をやりながら、言う。
「でも私は、何年ももう学問をしてない。役に立てるとは思えない」
「そりゃそうだね」
 イラカは躊躇う素振りもなく肯定し、顎を倒して耳の後ろを掻いた。
「学問を捨てちゃったみたいだもんね。結婚と一緒に」
「――それは……!」
 ハンが怒りを込めて割って入ろうとする。
「分かってるって。『誰も文句は言えない』状況があったんだろ?」
 青い目が今は意地悪な半開きになっていた。下を向いて笑うイラカに、めまいを噛み締めながら、ソラは尋ねる。
「それならなぜ、今夜私を訪ねて来たの?」
「しょうがないんだよ。何度お願いしても、ハンさんが会ってくれないから」
 首を振り向けた時、音がしたような気がした。
 ハンは、石のような強張った青白い顔で、二人の視線を受けた。
「学者として、ハンさんの実力は申し分ない。俺と一緒に働いてくれてるシギヤ学者の中でもかなり有名だったよ? それで俺はこの半年間、何度も何度も会見を申し入れたんだけど、返事もくれないんだもの。最後の手段に出たってわけです」
「…………」
 それでか。
 心臓の波打つ沈黙の中でソラは思った。
 それで、ここのところ、ハンが焦ってこちらに近づいてきていたのだ。
 それだけが理由ではなかったかもしれない。
 でも彼は、逃げたかった。
 過去の面倒に、邪魔されたくなかった。
 理性的で、学もあり、体つきも立派で、健康ながら、臆病で卑小な精神。
 ハンも、そう。善人だけど、東部の男だ。



「――協力するわ。イラカ。どこに行けばいいの?」
「ありがとう。まずはチシェフのこの住所へ行って。本屋だけど、同志で資料が揃ってる。そこで情報を装備して。何も分からず来られても困るから。それからンマロの本部へ行ってもらうことになる。悪いけど宿もなにも手配できないから自分でやってね」
「どれくらい、かかるんですか」
 呻くように、眼鏡の神官が言う。
「僕には本職があるんです。ソラさんだって、勝手に住居を離れるのは」
「さあ、一月くらいでカタがついたら嬉しいけど。分からないなあ」
「私は構わない。うるさい人には、後で謝ったらいい」
「…………」
「言っておくけど、危険はほとんどないよ。シギヤ学徒が戦闘できないことは分かってるからね。ただ、とにかく手助けがひろく必要なの。作戦を立てるためには専門知識や実績を持った学者が要る。他にも大勢の人に協力を求めてる。恥ずかしい仕事じゃないよ。宜しく頼むよ」
 ハンは眼鏡の蔓を押した。
「いつだって、暴走するのはアルスス学者じゃないですか」
「――私たちは一度目クローヴィスを止められなかった」
 ハンは、ソラの言葉に分かっていたんだという悲し気な表情を浮かべた。
二度目ゴンクールは止めないと」
 あなたがそう言うことは。





 イラカは話がつくと、すぐに店を後にした。二つの陣営を渡り歩いているのだから、もちろん忙しいわけだ。沈み込んでいるハンを残して、ソラは立ち上がり、彼を送った。
 灯りもない戸口に立つと、青白い月に照らされた風渡る庭を、丸まった枯れ葉が生き物のように転がっていった。
 外套の前を合わせて「うわっ、寒いな」とこぼすイラカに、ソラは言う。
「……あの。イラカ」
「ん?」
「……ネコ先生のくれた、形見の指輪。まだ持ってる?」
 青い光の中で、イラカは答えなかった。間に耐え切れず、すぐにソラが言葉を継ぐ。
「――あ、あのね、ついこの間、姑が死んだの。そしたらそこから、指輪が出て来た。ゾンネンがきっと、隠し持っていて――。
 どうしたら、いいのか。私は、何も知らなくて。ものすごく、動転していて、でも。許されない。あの時は、うまく――違う。ひどいことを――とてもひどいことを――。私達夫婦はどちらも、あなたに、償いきれないほど、ひどいことを――」
 いきなり、大きな二つの掌が乱暴なくらいの強さで二度、ソラの両肩を叩き、彼女をほとんどよろめかせる。
 びっくりして顔を上げると、イラカが笑っていた。
 傷と歪みがあっても分かる。満面の笑みだった。
 忘れたよ。
 残ったほうの青い目にソラの呆然を映しながら彼は言った。
「何もかも、大切なこと以外は、全部忘れちゃった」


 ソラは、ポケットの中から、指輪を包んだ布を取り出し、差し出した。
 手が震えていたのは、寒かったためだろう。
「くれるの? ありがとう。じゃあまたね」
 イラカはそれを受け取ると、懐にしまい、つないであった四つ足の獣に飛び乗って、小走りでソラが駆け寄り、開いた鉄の門から出て行った。
 髪飾りの音に紛れて、何か聞いたことのない歌を歌っていた。
 君の眼が好きだ、というような。
 責められても仕方がなかった。
 なのに彼はそれをしなかった。
 誰も文句を言えない状況だったのに。


 玄関のところで、今更様子を見にやってきたハンと目が合う。合った瞬間、ソラの両の眼から光る水滴が一つずつ地に落ちた。




(つづく)
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