01 ソラは思考を巡らした。 一体どうしてこうなったのか。首の背後を滑る危険で大きなハサミ。盛り上がった頬に躍る揃いの そうだ。だけれども。 本当はもっと昔から始まっている。 感情は長い物語を既にもっと古くまで遡っている。 彼女の今日の爆発と逃走の前には積み重ねがあるのだ。 誰も知らない。これまで誰にも話したことのない。同郷の友人さえ知らない。 それを自分は見も知らぬ人間に話そうというのだろうか。しかも、こんなに年の離れたおじさんに。 けれど、ソラは、表面的にはためらいながらも、内心では寧ろこういった無関係な年上の人のほうが、自分の話をよく分かってくれるのではないかという、奇妙な予感を抱いていた。 これまでずっとそうだったからだ。自分の話を聞いてくれる人は、みな初老のよそ者だった。 逆に、この中立な立場のおじさんにさえ、状況を分かってもらえないのなら、自分は何か相当間違った道を通って、不必要な苦労をしているということだ。 少なくとも、それを判断する手がかりにはなる。 それにこの人は、魚屋や八百屋ではない。きちんと片付けられた、広々とした庵の中を見れば、彼が学問をする人間であることはすぐに分かる。 居間の壁には植物の解剖図や古代の図版がかかっているし、奥には書斎があり、タリン紙の書物が本棚いっぱいに詰まっている。 それに、彼はこの庵を見事に隠していた。ソラにはその技術の詳細が分からない。少なくとも、ある程度以上の修養を終えていなければ、出来ることではないはずだ。 学院で見た覚えはない。教官ではないだろう。が、ここはトートだ。街にも港にも自由身分の学者は溢れている。多分、そういう在野の学者の一人なのだろう。 学院の教師はよく『町学者を信じてはいけない。山師ばかりだ』なんて警告するけれど、ソラには、お茶を出してくれる目の前の太った男が悪者で、下心を隠し持っているようには見えなかった。 これでも、数ヶ月の都会暮らしの間に詐欺師めいた人間に勧誘されかけたり、邪な意図に巻き込まれそうになったことがある。この人物からはそういう気配はしなかった。どこか奇術師めいた不思議な雰囲気はあるけれど、芯は落ち着いていて、プライドと品のある人だという気がした。 もっとも今は、困っているし、頭が働いていないから、全部気のせいだという可能性はあるが――。 「偉大なる哲学者チーファンが、『カリタ人はみな嘘つきだ』という。そのチーファンもカリタ人である」 眼鏡をかけた男は言いながら、ソラに湯気の立ち上る茶碗を差し出す。 「というわけで、あやしい奴が俺はあやしい者ではないと言ったところでなんの保障にもならんが、あやしい者ではない。薬種屋で買ってきたばかりの新鮮なテニを使ったお茶だから、飲んでくれるともったいなくない」 「い、戴きます」 ソラはテーブルの上から茶碗を取って胸元に引き寄せた。微かに赤い薬湯から立ち上るさわやかな香りが、驚くほど気分を丸くしてくれた。 ぼんやりしているソラに男が言う。 「テニのお茶だ。飲んだことがあるだろう?」 「はい。でも、学院のは、色ももっと薄くて、全然こんなにおいしそうでは……」 疑っているわけではないことを示すためにも、口を着けた。 暖かいお茶のまろやかな甘さと磯の香りが、実はくたびれ切っていたソラの体にゆっくりと染み渡って行った。 すばらしかった。 だが彼女は、おいしいとは言わなかった。言えないのだ。 彼女の育った地方では、人から何かしてもらった時や贈り物をもらった時、派手に喜んでは無礼になる。『まるで期待していたみたいだから』だ。かえって目を伏せて黙らなければならない。 もちろん、他の地方の人間がみなそうでないことはおいおい知ることになる。若くしてトートに出てきたソラのような人間は、尚更だ。 それでも習慣というのは抜け切らないもので、彼女は感謝したり喜んで見せたりするのが未だに苦手で、うまく出来ないのだった。 男は椅子の肘掛に左肘を置き、その手で顎を支えて笑いながら彼女の様子を見ていたが、出し抜けにこう尋ねた。 「ハライから出て、半年ほどかね?」 二口目が喉に詰まった。 なんとか飲み下して気管に入れずに済んだが、熱さと驚きで混乱した真っ赤な顔を男に向ける。 男は彼女の反応に実に気をよくしてうふうふと笑い、楽しそうに足を組み換えた。どうもこうして人をびっくりさせるのが、根っからお好きなようだ。 「ど、どうしてハライって……」 「簡単なことだよ。まず黒い目と黒い髪。東部と中部民の特徴だが、君のように緑がかったものは『夜の森』以東に偏っている。それに上着の裾の重し兼縁飾り――。森林と医療の神シギヤの信仰者がつけるもので、これも東部に多い。そして飲み物をおごってもらって礼も言わない非社交性。これはもう間違いなく東部の証だ。最後に、君の舌に残るほんの僅かな訛り。そこからハライと見当をつけた。昔そこ出身の友人がいたのでね」 「――え。だ、誰ですか? 知っている人かもしれない」 「アガタ」 男は神の名前でも唱えるようにはっきり言った。 「ニキ・スズキリ・アガタ」 「……ニキ・スズキリ家の。アガタ……さん?」 ソラには、聞き覚えのない名前だった。スズキリ家は知っているかもしれない。だがいずれ自分達の親戚ではないし、直接付き合いのある家ではない。 「まあ知らないだろう。もう故人だし、時代が違う。今度、じいさんばあさんにでも聞いてみたまえ」 「……あの。ネコさん……でしたっけ。すいません」 「カイデン・ライカス・ネコ。ネコでいいよ」 さすがに、祖父祖母の年齢の人を呼び捨てには出来ない、と、ソラは思った。東部民は、一見非社交的だが、目上の人間はよく敬うのだ。 「あなたは、どちらの方ですか?」 「おや、分からんかね」 からかうような眼差しがソラを見た。ソラがうっとなって固まると、すぐに吹き出して冗談冗談、と手を振った。優しいのか優しくないのか分からない男だ。 「中部だよ。中部は漁業都市アレッサ出身だ。――冗談だよ。分かりはしないさ。私の場合、服装の趣味も口調も削れてしまって、すっかり万国共通的になっているからな」 確かにそうだ。妙に万遍がなくって、偏りや土臭さがない男なのだ。超国境的と言うのか。それで奇術師みたいに見えるのだろう。奇術師は年齢や故郷が不明なものだから。 「学者さん、ですよね?」 「そうだよ。何年も前に、学院にいたのさ。君と同じようにね。『裏庭のネコ』。聞いたことがないかね?」 「い、いえ……」 「『青春は遥か遠くなりにけり。』これもチーファンだ。まあ、私のことはどうでもいいじゃないか。君の話を聞こう。いったいに、ひどい髪形だね、君」 急に核心を突かれて、ソラの胸がまた固く冷たくなった。 我が身に加えられた屈辱のことを思い出し、心地よいお茶の香りも一気に消し飛んでしまう。 ネコは穏やかな声で労わるように続けた。 「誰にやられたんだね? まさか、自分でやったとも思えんが。東部の女性は、髪の毛を長く伸ばす。そして首の後ろでお団子にするだろう。私の友達もそうだった。それをチョキンとやられたかね? どこかの馬鹿な生徒に?」 「…………」 「図星か。やれやれ。生意気盛りのガキどものことだ。田舎育ちの、習慣の違う学生をからかうくらいのことは昔からやってたが、まさか手を出したりはしなかったがな。それも髪を切るなどと野蛮の極みだ。周りの者もただ見ているだけなのかね? 情けない。近頃の若い者は、性根が腐っているな」 「…………」 黙ったままのソラの目の縁に、じわりと熱い涙が盛り上がった。 ネコは彼女が感じていて、とても言いたかった言葉をいくつか代わりに言ってくれたのだ。直接慰めてもらったわけではないが、心は勝手に反応して、嬉し涙を流した。 ところが、続く次の言葉に、彼女はびっくりして顔を上げることになった。 「今すぐ学院を辞めて田舎に帰りたまえ」 「……っ?!」 ネコは大きな頭をうんうんと縦に振りながらさらに続けた。 「そうとも。そんな思いまでしてあんな下らん城にとどまることはない。辞めて帰ってしまえばいいんだ。私ならそうするね。こんなところで潮に浸かっている暇があれば、やった連中の下宿を探し出してその部屋に泥水をぶちまけ、それから荷物をまとめて定期運行の郵便貨車に飛び乗る。永久におさらば。そして故郷で楽しい田舎暮らしだ。なんなら渡りをつけてこようか。ンマロに詳しい知り合いがいるから」 「ちょ、ちょっと、待ってください」 弾みに目から飛び出した涙を、指で拭いながら、ソラは慌てて止めた。 「わ、私は別に……、学校を辞めたいわけではないんです!」 「おや、そうなのかね? だったら、一体どうしたいのかね?」 男は、眼鏡の奥から、栗色の目をぴたりとソラに据えて言った。 「ただただ泣きたいのかね? そして、誰かに慰められたいのかね? 永遠の被害者、敗者として?」 そこには優しさのかけらもなかった。寧ろ、突き放したような公平さだけがある。 この男が敵なのか味方なのか、ソラには本当に分からなくなった。 情け容赦なく、意地悪だ。手綱を絞ったり、放したり、自由自在。 ただ、その背後にある、岩盤のように固い不動の何かを感じながら、ソラは、振り回されぬために、告白する。 「私、田舎もダメなんです」 「おや。自分の故郷が、嫌いだと?」 「…………」 ソラは頷いた。それから、やはり罪悪感が湧いてきて、頬が赤らんだ。 でもこれを、これを説明しなくては、何故自分が爆発したか話したことにならないのだ。これを言わなければ、この男に相談に乗ってもらうことも出来ない。 分かる。この男は、簡単に人に同情したり騙されたりしない人物だ。教養があり、老獪で、本当のことを言わなければすぐに見抜かれ、退屈される。 ソラはただただ優しい老人の家へ招かれたのではなかったのだ。もちろんそんな甘い話が転がっているわけはない。 「き、聞いて、もらえますか……」 「もちろん喜んで聞くがね」 ネコはまた肘掛にもたれて顎を押さえながら、素っ気無く答える。 「君に都合のよい感想ばかりを言うとは限らんよ」 ソラはまた頷いた。 それはもう分かっている。そして、それでいい。 自分だってただ黙って磨耗していたわけではない。これまで、何人かに相談したのだ。けれど、誰もみな彼女の言うことを十分に理解してくれなかった。 彼や彼女らは、ソラの言うことを聞くような振りをして、その実決まりきった彼らの助言を押し付けるだけだった。 『努力しろ』とか『我慢しろ』とか『耐えろ』とか『変われ』とか。 そんな実行不可能な励ましはもうこれ以上必要ない。 それでも、やっぱりほんの僅かなためらいは心の中にあった。何と言っても、はじめて会った相手なのだ。 けれど、庵の有様や、彼の眼光や、その立ち居振る舞い。最後に自分の直感が保障する、ネコの知性の確かさを信じて、ソラは、ゆっくりと、話し始めた。 / 本名カエル・ソンターク・ソラは、1402年、言っている通り大陸東部の町ハライに生まれた。 『夜の森』と呼ばれる深い森林に囲まれたハライは、さしたる産業もない、人口三万程度の古い田舎町だ。 一般に東部民は土着的であまり異文化を好まず、伝統を保守する傾向があると言われる。街道から遠く、樹木の葉陰に守られてきたハライはまさに東部の典型だった。 ハライでは、基本的に自ら出て行くことがなければ、誰もが一生町の囲いの中で過ごす。生まれ、育ち、結婚して、家族を作り、年をとり、そしてそこで死んでいくのだ。 当然町内のことに詳しくなり、結局死ぬまでの間にほとんどの町民について知っているということになる。全員が完全な顔見知りであるわけではなくても、話題や噂を介して、知らない家や人間など町には存在しなくなるのである。 父親達は父親達で、母親達は母親達で情報を交換し、それがまた家へ持ち込まれ、両親の間で交換されて、いずれ子ども達もその中へと巻き込まれていく。 彼らの主要な関心事は結婚、離婚、借金、病気、誕生、作柄、蓄財などで、それが成功したの失敗したのという口伝えの情報が、閉じられた城壁の中で木の葉のように堆積していくのだった。 さて、町の助役を勤める父親の長女として生まれたソラには、問題があった。変わり者だったのだ。 彼女は幼い頃から「頭がいい」とよく言われた。というより、勉強が好きだったのである。他の子どもが不承不承通う学校というものが、彼女にはまったく苦ではなかった。 十歳のある日、同じ年の男の子から、教師に命じられた詩の記憶は終わったかと尋ねられた。全員に課題として与えられていた一種の祝詞で、一番正確に記憶できた子どもが、町の行事で暗誦をすることになっていた。 ソラはできていると言った。男の子がさらに、何日で出来たかと聞いてきた。ソラはなんとなく不安を感じて、本当は二日で出来ていたところを、六日かかったと嘘を言った。 男の子はそれでも信じず、大声でソラを嘘つき呼ばわりしながら走って行った。 そんなわけだったので、じき彼女の「頭のいい」という評判は何か不名誉な色を帯びて行った。女の子たちは「ソラさんは頭がいいから」といって彼女を避け、男の子たちは彼女が浮いているのを見て彼女を避け、ソラはどうにも、孤立しがちで大人とばかり付き合って過ごす、少し変わった子どもになってしまった。 家庭でもじき、彼女は生きづらさを感じるようになった。 彼女の両親は気弱な人間達で、一家を統率しているのは寧ろ父方の祖母だった。祖父が早死にした後、一族を牽引してきた強力な皇后様だ。 皇后はソラが家に来るたびに、服商人を家に呼んで商品を広げさせ、何か買ってくれようとした。新しい衣服とか、髪飾りとか、靴とかだ。 言っておくが、これは田舎町では破格のことだった。同じことを言われたらあれもこれも、と舞い上がる女の子は多かったに違いない。 しかし、ソラはいつも困惑した。そこに欲しいものは何もなかった。何一つ買ってくれなくてよかった。 結局何を買うかは祖母が決めることになり、ある時は「女の子なのだからこれくらいは」と言って指輪を、またある時は「人に見せることでかわいくなるのだ」と言って流行りの服を買ってくれたりした。 だが、ソラはそうやって与えられたものをどうにも出来なかった。才能がなかったのだ。祖母のほうがソラなどより三倍もおしゃれだった。 ソラは十五くらいになると、教師の控え室にこもりがちになった。そこには田舎町には数少ない、タリン紙の書物が十冊ほど、仮綴本が二十冊ほどあった。それを読んだり、遥かに年の離れた教師達の話を聞くのがとても楽しかった。 同年代の少女達とはますます話が合わなくなっていった。ソラは困ったなあと思いつつ、でも互いに大人になれば、なんとかなるだろうと思うようにしていた。 が。ある日、決定的に限界を思い知る日が来た。 少女達の中にも、優しい心の持ち主がいて、あまりにも浮いたソラをわざわざ誘って仲間に入れてくれることがあった。その日も、そうやって、女の子ばかり五、六人で、編み物をしながら話していた(この年頃になると、学校とは言っても、女生徒はこういう実技がほとんどになっていた)。 その話題は、結婚についてだった。 ある少女がまず、結婚するなら商人がいいと言い出した。農夫はいや。私も。私も。私はもっと偉い人。例えば代言人や書記さんがいいわ。――そうね。すごいね。でも本当はなんでもいいわ。性格が優しいひとなら。性格が優しいのと、顔がかっこいいのとどっちがいい? 性格。わたしも性格。でも、どうしても好きになれない顔もあるよ。確かにね。子どもは何人欲しい? 三人! 四人。わたしは一人でいい。女の子がいい。え、男の子がいいよ。男、女の順がいい。逆が良くない? ウチはそうで、弟ってかわいいよ。だって私お兄ちゃん欲しかったんだもの、子どもにはあげたいわ。名前はなんてつける? ○○? △△? 親の文字って取るべき? でも最近は取らないことも多いよね。男の子で◇◇◇とか、よくない? あ、いい! かわいいー! □□は? ※※は? ――ソラは、ただただ冷や汗を流しながら、黙って棒針を動かしていた。 どうしよう。と思った。 心の底からどうでもいい。 かけらほども興味が湧かない。 ダメだ。わたし、ここでは、生きていけないかもしれない。 ソラは、女の子達や祖母を恨みに思ったことはなかった。でも、彼女たちはソラの理解者ではなかった。 彼女らはソラが変わっていることを知っていた。それでも、その頭に髪飾りを載せれば、指に指輪をはめれば、女の子らしい格好をさせれば、そして同性の中へ放り込めば、ソラの体の中から「女の子」が立ち現れてきて、やがてまともに「戻る」と思っていた。 ソラがそのために生まれついていないことを予想もしなかった。ソラにとってはその疑問符なしの当然の前提が苦痛であり、時には受難であることを、理解できなかった。 ソラは故郷にいる限り、誰にもその困惑を理解されずに一生を終えなければならないのだった。 こうして将来について真剣に悩み始めたソラに助言をくれたのは、十数年前に都会からやって来た、初老の教師だった。 『君はトートの高等学校――特に、技能工芸学院へ進むべきだよ。ここで教育を終えてしまうのではあまりにもったいない。トートへ行けばもっと書物があるし、教師もたくさんいる。学べることの範囲はぐんと広がる。それにあそこでは、男女は対等だ。自分の好きな勉強が好きなだけ出来て、自分の得意な仕事を選べて、結婚するもしないも、自分で選択できるんだ。君にはそういう場所のほうが合っている。是非ご両親に言って、早いうちに外へ出してもらいなさい』 田舎町ハライと言えども、こういった外部への進学はないではなかった。有力な家の子どもが毎年一人か二人、進学のために町を離れていた。 しかし、それは基本的に男子で、女子は普通外に出ないものだった。 きっと祖母が許さないだろうと思いながらも、ソラは両親と学校に進学の意志を伝えた。 彼女は運が良かった。その時の町長が噂を聞きつけ、どういうわけか、応援してくれたのである。 理由は後で分かった。町長の一人息子が、一年前に技能工芸学院へ進学していたのだが、それ以来手紙も寄越さず帰省もせず、まったくの親不孝状態になっていたのである。町長は自分の息のかかった生徒を送り込んで、息子の様子を報告、あわよくば監督させたかったのだ。 かくて話を聞きつけた町長がソラの父親に「助力は惜しまない」と伝え、ソラの父親は祖母に相談。祖母は女の子を外にやるなんて! と思いつつ、町長との関係強化の誘惑に耐えられず、結局、ソラの進学をしぶしぶ許した。 それでソラは天候の荒れる秋が来る前に、早々と郷里の町を離れたのだった。 家族をはじめ、大勢の人間に見送ってもらって、町の城門から外に出た時の、自分の気持ちが忘れられない。 ソラは、心底うれしいと思ったのだった。 どれほど飼い主に懐いていても、鳥かごの入り口が空いていたら、外へ飛び出してしまうテンテ鳥の気持ちが分かった。 彼女は解放された。そして自分が、物心ついて以来、どれほどその不可視の檻を窮屈に感じていたのか思い知ったのだ。 幸福だった。これから自分は自分の力だけで生きていくのだと思い、不安どころかわくわくした。 道を歩いても、誰も自分を知らず気にもとめない。誰の目も気にせずに、好きな場所に行って、好きな勉強に思い切り打ち込むことが出来る。ほかの事はしないでいい。最高だった。 彼女は、これまでの性格に似合わないほどの活気と希望とに満ちて、長い旅路を存分に楽しんだ。やがて無事に大都市の集まるトート平野へ至り、その東端にある港湾都市ンマロへ。そして遂に、海の上に浮かぶ人工学府、技能工芸学院へと、たどり着いたのである。 ところが、そこで彼女を待っていたのは、これまでとは別の、新しい不可視の檻だった。 (つづく)
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