02



「なにがあったんだね」
 ネコが尋ねる。
「目をつけられたんです」
 ソラは言う。膝の上で拳を握り締めながら。
「ものすごく、いやな、いやな男に!」




 島内に下宿を定め、学院に実際に通い始めたソラは、すぐに、びっくりした。
 まず、学院の先進性に。それから、その優秀な学生達の、気位の高さに。
 既に話したとおり、ソラは田舎では群を抜いて勉強が出来た。ところが、技能工芸学院では、そもそも前提として要求される高さと範囲がまるで桁外れだった。
 名前だけは聞いたことがあって、ソラが触れたいと憧れていた数々の気鋭の書物も、この学院に集まる選良たちにとっては既に常識か、古書の類とみなされていた。
 知識の探求と技術の追求は、まるで坂道を転がる車のように日毎に加速し、目を見張るような秀才達がその速さに遅れまいと死に物狂いで、脇目も振らず勉学に打ち込んでいるのだった。
 ソラは呆気に取られ、武装した兵士の集団の中に丸腰で放り込まれたような気がした。自分も懸命に勉強をして、何とかその流れに乗らねばならないとは思ったが、気後れしたことは否めない。
 そのように驀進する学問群の最先端にあるのは、アルスス学だった。
 三十年たらずの歴史しか持たない、今、最も新しい学問だ。
 そして、そのアルスス学を追って走る学生達は、有能で、優秀で、そして例外なく不遜で、怖いもの知らずだった。
 学問は通例、研究対象とする神の名前で呼ばれる。
 アルススの神は、ごく最近、ある人物が神話の中から拾い上げるまで忘れ去られた、否、寧ろ――不可触の神であった。
 神話は何故かその神の存在を隠し、接触を戒めていたのだ。
 だが、三十年前、大いなる戦争が起き、大陸中が戦禍に荒れ果てようとした時、ある無名の若者が禁を破ってアルススの力を引き出し、世界を平らげた。
 彼はまた、十七年前に湧き起こりかけた民族紛争についても、この力を使って早々に消火した。
 以来、アルスス学は、学者の追い求める最恵の研究対象となったのである。
 神アルススは、戦争と災厄の神である。この神は自らに仕える者に、人間離れした大きな力を与える。
 かれの目覚め以来、世界と学問の関係性は完全に変わった。学問は、世界の意味を解き明かし、人々の生活を支え随走するものではなく、世界の有り様を直接是正、変革できる独立不羈の要素となったのである。
 学者達の存在意義もこれに伴って大きく動いた。
 今、学院の若き学者、生徒達は、自分が世界に干渉する大きな力を持っていることを疑わない。その知識が、自分をこれを持たない人間に比して遥かに優位にすることをよく心得ていた。
 自然と、彼らの態度は傲慢になった。
 以前から学者は無知無学の徒には情け容赦なかった。そこに力という現実的な要素まで加わって、彼らの自己意識はこれまでになく高揚したのである。
 学院は、アルスス派の教授らによって攻略され、支配された。学生達はその強さと未来性に惹かれて同派の講義に殺到し、力を手に入れて学内で幅を利かせた。
 発言権も財産も尊敬の念も学生も、全てがアルススに偏った。ソラが入学した時、技能工芸学院はそんな状態だったのである。
 はっきり言ってソラは、恐れ入ったし、萎縮した。
 彼女はアルスス学には興味がなかった。彼女がやりたいのは古来から東部で信仰されているシギヤの学問。そして深層歴史学だ。
 今の文明の前には、もう一つ、滅んだ別の人間の文明があったと言われている。神話で示唆されているだけの不確かな説だが、それには興味があった。
 学問の未来ことは秀才達に任せて、自分は辺縁で細々と古いことを勉強していこう。自分の速度でゆっくりと、地味に、だが心行くまで勉強に没頭させてもらおう。
 そう思っていた。
 ところが、学内を席巻するアルススは、それさえ妨害したのである。
 ある日のことだった。学内を歩いていたソラは、ほんの偶然からある女生徒とぶつかった。
 向こうが連れの男子生徒とじゃれあっていて、ふいに体勢を崩したのだ。
 ソラは持ち物を落とした。向こうは謝らなかった。それどころか、
『あれえ』
 と、文句でもありそうに上体を乗り出したのは、男の方だった。女生徒の連れだ。
 彼は、一目で分かるアルススの学徒だった。



「外見を当てて見せようか」
 ネコが楽しそうに口を挟んだ。
「…………」
「まず、膝丈まである上着。袖には切れ込みがあって下地の柄や色が出る。ぴっちりとしたズボン。それに皮の、膝下までの長い靴だ。腰には、剣」
 頬に当てていた指を空中で振りながら数え上げる。
「髪は長めで、香油で後ろへ撫で付けている。左右に二三本、網込みの紐飾り。耳朶の側壁に引っ掛ける形の銀の飾り。そして頬に、黥(げい)。とぐろを巻いた、ララシアス文様の」
 ソラは頷いた。
「その通りです」



 その格好は、ほぼアルスス学徒の制服だった。多少の違いはあれ、基本的にみなその形式に添った姿をしていた。
 雛形があったのである。
 他でもない。三十年前、危機に際してアルススを起こした学派の始祖、クラレイ・ファル・クローヴィスその人だ。
 流行歌に『大きい戦争。小さい戦争。英雄さまは壁の中』とあるように、彼は十七年前の戦争の後、病気で亡くなった。その功績を称えて、遺骸は防腐処理を施され、過去の学者を祀る中央聖堂の壁内に安置されて誰でもその姿を見ることが出来る。
 後に彼の石像や図像が際限なく作られたが、みな基本的にその遺骸を手本としている。
 彼の直弟子達は、崇拝の念のあまりにその姿形を真似た。それがいつしか風俗として、完全に定着したのだ。
 クローヴィスは西部の辺境出身で、中背で髪は金髪、目は水色。知性的で、少し冷めたような美しい顔をしていた。
 生年が不詳で、死亡時の年齢がはっきりしないなど、神秘的な逸話にも事欠かない。無口で、いつまでも青年のような容貌で、生きていた頃から既に彫刻じみていたと言われる。
 若者は尚更彼のようになりたいと憧れ、みな、ためらいもなく顔に黥を入れた。
 それでもそれぞれの出自というものがあるし、個性と言うものもあるから、少しずつ結果は違っていたが、その男子生徒に限って言えば、かなり完全に近い模倣だった。そして彼はそれを知っているし、自分でも満足している様子があった。
 彼らはクローヴィスの有り様や性格をも真似た。彼は無口だったが言いたいことははっきりと言った。遠慮や物怖じを知らない、気位の高い、反逆児だった。
『あれえ』
 女生徒の首周りから腕を放さぬまま、彼は上体を傾けて、ソラの顔を覗き込んだ。
『わー。すご。今時こんなみすぼらしい学生さん、ウチにいたんだ?』
 他人を自由に評価する資格があると信じている人間だけが持つ、はっきりとした自我に触れ、ソラは反射的に一歩引く。
 その瞬間に、彼らの関係性は決まってしまった。
 男子生徒はからかう側。ソラはからかわれる側――。
 生徒はソラには話しかけず、連れの女生徒に対して、冗談めかして言い始めた。
『俺さ、こういうヒト見ると、悲しくなっちゃうんだよな。外から見れば、同じ学院の仲間だと思われちゃうわけだから』
 あはははは。ほんとよねー。と女生徒が身をよじって笑った。しゃらしゃらと髪飾りが鳴る。
 多くの学生が足を止め振り向く気配があった。
 男子生徒は青い目でソラの体をじろじろ眺めながら、飽く迄も連れに対して、という体裁で続ける。
『迷惑なんだよねえ。こういうやる気ないヒト。だって失礼だよ。みんながんばってるのに、一人で学校の雰囲気悪くしてさ。化粧くらいして、まともな女らしい服着て、少しは人に気を遣えっての。そうでないなら、この学院なんかに来るなっての。クニに帰れっての』
 彼はいきなりソラのほうへ視線を向けて恫喝するように言った。
『聞こえた?!』



「――今と同じ格好かね? 一般的な女性の姿だと思うがね。男には見えない」
「決まった格好があるんです。女にも」
「それは知らなかった」
「クローヴィスの恋人の、テプレザ、という人の」
「テプレザ……?」
 ネコはこれまでで一番派手に眉根を寄せた。
「テプレザって、あの学院で教師をしている、頭の空っぽな、けばけばしい、下品な女のことかね」



 ネコの表現が適切かどうかは分からない。ともかくアルスス派の女生徒が、女教師テプレザの体現する見本を元に着飾ることは事実だった。
 テプレザは、クローヴィスと同世代で、彼の恋人だったという。五十を過ぎても尚、体の線がくっきりと出る上質な衣服を好み、色っぽい歩き方をする熟女だった。もちろん頬には、クローヴィスと同じ形の黥がある。
 彼女は回想録を執筆してクローヴィスの伝説化に一役買い、講義でもそれ以外の場でも、求められるままに彼との思い出を語った。
 話を聞く限り彼らは最高の信頼で結ばれた熱い恋人同士であり、女生徒らはそれに憧れ、自分も有能なるアルススの勇者の隣にいたいと望む。
 男子生徒がクローヴィスの図像を見て手本とするように、彼女らはテプレザを真似、テプレザもまた新しい衣服の着方を自分で考案しては学内に何度も流行の波を引き起こしていた。
 彼女の影響力は、現実に強かった。技能工芸学院のあるネル島は全体が学園都市で、島内には商店も料理屋も酒場も旅籠もある。学生達のための服飾品を扱う店も豊富にあったが、どこもその実ほとんど同じ品揃えで、つまり常にクローヴィスとテプレザになるための衣装を売っているのだった。
 ソラは、テプレザの影響力が強いことは分かったが、彼女のようになりたいとは思わなかったし、そもそもそんな資金もなかった。彼女は少女時代から着通しの、もったりとした衣を洗い換えして着続けていた。古臭いのは否めない。
 そんな自分が、進歩的で勢いのある学院の中で浮いていることは知っていた。そして既に認めたように、引け目も感じていた。だからそれを大声で指摘されて答えに詰まり、顔が真っ赤になった。
『次会った時、またそんなカッコだったら、俺、怒っちゃうからね。分かった?』
 一言も言えないでいるうちに、男子生徒は行ってしまった。
 女生徒と体を寄せ合い、何事か囁き合っては、ソラを馬鹿にするように幾度も大声で笑っていた。
 楽しそうだった。
 追々分かってきた。
 ソラは、彼ら二人で過ごしていた空間に不用意に入り込んでしまった羽虫のようなもので、彼らは彼女を、彼らの結束と気晴らしの材料にしたのである。



 これだけでも、ソラにとっては十分不愉快な出来事だった。
 しかし、始まりに過ぎなかった。
 この日以降、ソラは学院中の生徒から少しずつ軽んじられ始めた。特に、アルスス派の生徒は彼女を見ると、会話を止めてじっと見たり、わざとぶつかってみたり、すれ違った後囁きを交わしては忍び笑いをすると言ったようなことを平気でやり始めた。
 生徒達は本当によく見ていた。
 本人も知っていたように、ソラは島へ到着した時点からもう浮いていた。なんの権威も、神秘もない、ただ分かりやすい生のままの違いを持ちすぎていたのだ。
 あの男子生徒は、みなが薄々と思っていたその違いをずばりと言葉にした。そして、自分とは異なるものに文句を言いたい、攻撃したい、ないがしろにしたいという本能的な欲望を隠さずぶつけた。
 ソラに対しては、遠慮する必要はないと見なしたのだ。
 生徒らはそれを認め、彼に倣った。
 彼女は、小さな魚が大きな魚に追い回されるように、迫害され始めた。なるだけ人を避けようとしたが、嘲笑はありとあらゆる機会を狙って浴びせられた。努力して振り払っても怒りと不快の情は彼女の体内に少量ずつ蓄積され、じきに部屋から出るのも嫌になった。
 彼女は、故郷の人間達が期待するような女性になれなかったから、ここへ来た。なのにここでもまた、彼女は劣った存在と見なされ、冷酷に扱われるのだった。
 学院が求める女は、穏やかで母親的で家庭的な女ではなかった。都会的で、進歩的で、色気があって頭が切れ、自信満々でなければならなかった。或いはテプレザでないのなら――、テプレザの信奉者でなければならなかった。
 ソラはどちらにも魅力を感じなかった。どちらになることも出来なかった。
 『迷惑』していたのはソラのほうだ。話が違う。
 擬態、という発想がないわけでもなかった。たとえ嘘でも、格好だけでも真似るということである。そうすれば紛れ込めるかもしれない。彼らの攻撃対象ではなくなるかもしれない。
 しかしそのためには、顔に黥を入れなければならないだろう。
 服を買うことは、やろうと思えば出来る。だが刺青は、一生消えない。
 東部民には、身体をいじることに対する強い禁忌意識が昔からある。まして信仰してもいない神のために黥を入れたとあれば、祖母を始めとした一族郎党、どれほど驚き自分を非難するだろう。その責任を、学院の誰が取ってくれるというのだろう。
 ソラにはどうすることもできなかった。また、どうしたいという希望もなかった。始めから、巻き込まれただけの事態だ。彼女にとってはどうあっても興味を持てない内容なのだった。
 彼女は、生徒たちがじき自分に飽きてくれることを期待した。いつか勘弁してくれることを願った。
 二、三日なにもないことがあると、これで事態が好転するかと望みを抱き、翌日再び失望する。そんなことが繰り返された。
 そして今朝。ソラは学内で突然複数の生徒に囲まれ、彼らの体を檻代わりにして、回廊の隅へ連れて行かれた。
 名前も知らず、見たこともない新手の五人組だった。
 はじめから彼女は小突かれた。そしてたくさんの侮蔑の言葉を吐かれた。いつまでこんな格好してるつもりなんだ? と、黥の躍る頬を動かして一人が言った。
 迷惑なんだよ、東部ブス。みんながあんたをうっとおしいと思ってるんだ。いつまでも自分でできないのなら、俺達が格好良くしてやるよ。
 鋏が取り出された。
 そしてソラは、後ろでまとめていた髪を切り落とされた。






 まさか、こんなことまでされるとは。






 有り得ない侮辱だった。
 ソラはそれほど侮られたのだ。
 生徒達はそれほど侮ったのだ。
 ただ彼女が、想定される範囲にいないというだけで。
 彼らのようには生きないというだけで。
 ソラの期待は裏切られた。
 ここになら自由があると聞いたのに。ありのままの姿で生きていけると思ったのに。
 また別の見えない規則が彼女を閉じ込め、縛り、非難して、生き方や姿かたちを変えようとするのである。





 ソラは、深く深く失望した。
 彼らに慈悲は期待できないと思い知った。
 激怒したと言ってもいい。
 自分の髪を切った生徒達が笑いながら去ると、一部始終を見ていながら何もしなかった生徒達を押しのけるようにして外へ出た。
 学院からンマロへ行く干潟の道は指定されていて、木杭で別けた領域から外へは、はみ出ないようにと警告されている。
 とりわけ低い場所もあり、満潮になると溺れる危険があるからだろう。
 だが、ソラはもうそんなことに構わなかった。腹が立って腹が立って、とにかく自分以外誰もいない場所へ行きたかった。
 そして、望みどおりに無人の干潟へと出て、平穏を得たが、満ち潮に浸かりそうになり、最後に、奇術師のような中年のおじさんに声をかけられて、水の上の庵に招待されたのである。



「なるほどねえ」
 ネコは言った。
 ソラはうつむく。ばらばらな髪の毛が、彼女の顔に影を作った。





(つづく)
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