03



「やはり、助言の内容は変わらんね。君は今すぐ、故郷へ帰るべきだ。何故なら状況が好転する見込みはまずないからだ」
 ネコは白いぷくりとした手を前に出して、何かを先に留めおいてから、言った。
「驚かなくてもいい。私は、学院にいた際、銀鈴博士の認定を受けている」
 ソラの驚きは掌一枚で見事にせき止められた。
「?!」
「そうだ。『木槌』、『鉄尺』、『銅鼎』の先の『銀鈴』だ。『金杯』は創設者一人だから、学者の中ではまあ制度的に最高の位を持っている。そして、もう一つ面倒だから黙って聞いて欲しいが、私は、クラレイ・ファル・クローヴィスと、学友の間柄だった」
「ええっ!?」
 とどめ切れなかった驚きがさすがにあふれ出す。
「何も不思議はないだろう。計算をしてみたまえ。三十年前に青春時代を過ごしていれば今頃これくらいの老骨になる。そして当時、学院に在学していたならクローヴィスと無関係というわけにはいかない」
 ネコは背もたれを乗り越すように首を上げた。
 眼鏡のつるが横になって頬や鼻梁が直接、もちろん鼻の穴も一緒に目に入った。
 ソラにとって、クローヴィスはあの、壁の中にいる若者の姿でしかない。この太った初老の学者と彼を同じ地平に並べるのはひどく困難だった。
「あれが全ての始まりだった。それまでの世の中のほうが、今よりも美しかったなどと言っては老人の繰言になるが。私達は終わりの始まりを見た。そして終わっていく一つの時代をなす術もなく見守った。新しい世界の始まりも頭から経験した。そして今、その経過を生きている。
 私はクローヴィスが嫌いだった」
 首を戻したネコは、目を見開くソラを見て小さく笑った。
「奴の起こした神も嫌いだった。それよりも一層、奴を利用して勢力を拡大した連中のことが、大嫌いだった。我が不肖の学友達――今では学院長になっていたり、学部長になっていたりする連中だが、奴らは、それまでアルススの神に対する信仰など微塵もなかったのだ。クローヴィスを異端視し、軽蔑し馬鹿にしていた。それが、ひとたび大きな成功を収めたと見るや、それまで奉じていた学問を投げ出して一斉にアルススになびいた。
 神は普通、学者に長い期間の献身と集中を求める。長い研究から神の性向やその特徴を知悉し、神との間に相互関係を構築し、祭具を含めた高度の技術で支えながらその力を最大限に引き出すことが、学者の使命だった。
 だが、アルススは違った。あの特殊な神は、技術との相性がすこぶるいい。技術的な要件さえ満たせば献身の精度を問わないという特異な性格を持っている。
 大勢の学者が、長い『犠牲』を求める従来の神々から、よりこだわりのないアルススへ鞍替えした。方法は簡単だ。まず黥さえ入れてしまえばよい。それだけで、かの神は人に爆発的な力を与える。そしてそれが、戦争の力と来ている。
 あの頃、学院で何が起きたか。口にすることも出来ないようなことが横行したのだ。身を守れぬ者から順に暴力で蹴落とされて行った。そして全てが変わってしまった。
 学院はアルススの城になった。その流れは、クローヴィスが壁の中に入っても変わらない。私はと言えば、十六年前に学院をクビになった。それからここに暮らしている。我が愛し奉る水の神ミハクの庇護を得て、波の上に家を流しながらね」
 ソラは思わず窓の外へ目をやった。
 ほんの僅かだが、景色が流動していた。
 これまで、学院と同じように干潟のある部分を補強してその地面の上に家があるのだとばかり思っていたのだが。
 庵自体が、大きな船のように、波の上に存在していたとは。
 ソラの背中にじっとり汗が浮かび上がる。それが、奇術的な場所にいることをいきなり知らされた驚愕のためなのか、目の前の男の話の尺度の大きさに対する震えなのか――多分どちらもだろう。
 家を隠す。家を海の上に浮かべる。
 どちらか一つだけでも夢のような技術なのに、二つともをけろりとやってのけて、しかもこのネコは、『裏庭』にいるのだ。
 学院を追われて。
「時流には逆らえない。今はこういう時代なのだ。いかに昔を懐かしんでも、クローヴィスの出現という事実はなくならない。アルススもまたしかり。
 アルススの学徒らは技術に溺れ、性根が腐っている。その上うんざりするほど多量にいて、学院をすみずみまで占拠している。そして暴力でほかの学問を圧迫している。
 しかも。この現象は技能工芸学院に留まらない。大陸のほとんどの教育機関が今、同じ変化を辿っているのだ。学界が、まるごとアルススに席巻されていると言ってもいい。
 従来学の学者はますます肩身が狭くなるだろう。差別的な扱いも受け、迫害もあるだろう。君は既にそれを受けた。公衆の面前で侮辱され、髪を切られた。
 こんなことを我慢してはいけない。そう思わないかね?」
 ソラは、黙ったまま自分の膝の上の手を見ていた。
 頷いた。
「そうだ。もし君がこれに耐えたら、奴らは増長するだけだ。今度はよりひどい暴力が君の身に降りかかるだろう。一生を傷つけぬものでないとも限らない。君は爆発した。それで当然だ。それでいて、君は時流に乗ってアルススの学徒になる気もあるまい?」
 ソラの表情が曇る。
 そして首が横に振られる。
 ネコはぱんと手を打ってそれを広げて見せた。
「というわけだ、荷物をまとめて、田舎に帰りたまえ。学院は君の安全を保証するところではなかった。その上、やりたい学問さえ満足にやれる環境ではなかった。しかもその一方的な状況は今しばらく変わりそうもない――。耐える理由がない。帰ってしまえばいい。これ以上こんな茶番に付き合わなくてもいい。もっと有意義な時間の使い方があるだろう。
 それは、田舎は君のような若者にとっては窮屈な場所だろう。しかしまさか髪を切られたりはしまい? その一点だけでも帰る理由になる。それは、少しくらい陰口を叩かれるかもしれないな。鳴り物入りで出て行って、半年で出戻りとは何事か、と。
 だがそれがなんだね。その髪の毛を見れば、みんな分かってくれるさ。私のすすめる道はそういうことだ。分かったら、島へ帰りなさい。今、道を用意しよう」




「そっと歩きなさい。そうすれば水は君を島まで支えてくれる。心を乱したり無駄な道を通って神に無礼をはたらかないように。その時は私の技もそれまでだ。
 島に戻ったら、荷物をまとめて、干潮を待って、すぐにンマロへ行くのだね。退学届けなぞ郵便でもいいのだから。そして田舎に帰って、田舎の変わり者として、末永く達者で暮らしたまえ。さらばだ」
 ネコはそうやってソラを送り出してくれた。
 彼の言った道とは、水の上のことだった。さらりと講じてくれたが、まるで魔法だ。
 すごいな。と素直にソラの心は騒いだが、同時にそれへ通じる道を阻まれていることを思い出してすっと血が冷めてしまう。
 背後にネコの視線を感じながら、歩き出した。よく磨かれた床の上を歩いているのと同じような感触だったが、靴が前へ踏み出すたびに丸い模様が確かに水面を広がって行った。
 思い切ってしばらく行って振り返ると、ネコの丸い背中が庵の中へ戻っていくところだった。
 風が吹いた。
 ソラは向き直り、雲を浮かべた空と、鏡のような水の間を、一人歩いていった。



 そうっと歩きなさい――そうっと。
 そうすれば、濡れずに行ける。
 抜き足、差し足、忍び足で。
 まるで幽霊のように。この世に存在しないもののように。
 そうすれば、無事に済む。
 無傷で渡っていける。
 彼岸まで。



 ソラは、いきなり体を反転させて、来た道を戻り始めた。
 途端に足元が怪しくなり、足が水を突き破ってしぶきが上がり始めた。
 もう駄目だった。ソラは一気に海へ沈んだ。
 なんとか底に足が着いたが、ぎりぎり頭が出なかった。
 ソラはもがき、かろうじて呼吸を確保しながら、必死に庵を探した。
 見つからなかった。きっと、ネコが再び隠したのだ。もう出てこないかもしれない。自分は馬鹿だ。
 意識が暗くなった。潮水を飲んでしまいそうになる。手足も急速に冷えて痺れてきて、ソラはかなり真剣に、生命の危機を感じた。
 と、いきなりふわりと辺りが暗くなったかと思ったら、影が落ちて、同時に目前に庵が現れた。玄関口にはネコがいる。
 彼は呆れた様子で、手を出して彼女の手首を捕まえ、一息で石の上へ引っ張り上げてくれた。
「何をしてるんだね、君は。死ぬぞ。重いし」
 ソラは実際息をするのでやっとだった。だが、粘土のように重くなった衣と、腕を無理やり動かして、前にしゃがんだネコを見上げる。
 そしてもつれる舌を無理やりに動かして大きな声で言った。
「やっぱり私、帰りません。――このまま、帰れない!」




 頭といわず、顎といわず、全身からぼたぼたと潮水が落ちる。
 ネコは感心した様子もなく、あの突き放したような距離感で、肩をすくめた。
「なぜそんな阿呆を言うんだね? ひとつ、学院の連中は君をいじめる。ふたつ、君はいじめられるのは真っ平だ。みっつ、だが学院の体質はもはや変わらないし、アルスス優位も動かない。従って結論、自主退学。矛盾はないだろう?」
「そ、そうです。でも、逃げたって、なんにも解決しません! なにも変わりません! 田舎だって、同じだもの。力の強い人間が威張って、多かれ少なかれ、弱い人間をいじめて過ごしてるもの!」
 その時ソラの頭に浮かんだのは、一族に対して今も絶大な権力を振るう、祖母の姿だった。
 あの人に悪気があるとは、言えない、が。
「確かに、故郷なら、私はいきなり髪を切られたりはしません。でも、それは私がたまたまそういう立場に生まれたから。逆に私が金髪で、違う家で、例えば父なし子なんかで生まれたら、ものすごく浮いて嫌われて目をつけられて、何をされたか分からないです。
 前から感じてました。だから、変わってることが、みんなと馴染めないことがすごく怖かった。田舎はのどかだってそんなの、嘘ばっかりです。
 でも、どこに行っても、結局そうじゃないんですか。あなたは私よりも長生きです。世界のどこかに、そうじゃない場所がありましたか?!
 もし、本当にそんな場所があるとしたら、それは私が、その場で一番強い存在だという場所でしょう。あの人達みたいに振舞える場所という意味でしょう?! いじめられる側にはならないから安心だというだけでしょう?!」
 叫びすぎて咳が出た。石の上に置かれたソラの手の爪は、真っ青だった。
「私はそれが、嫌なんです。そういう世界しかないのが嫌なんです。いじめたり、いじめられたり、力で人を押さえつけたり、つけられたり。こういう格好をしろとか、それはふさわしくないとか。命令と圧迫。そんなのもううんざりです。でも世の中の常がそうだとしたら、これからもずっとそうだとしたら――逆に私はそれについて、答えを用意していないといけないんです。もっと別の意味で、解決できるようにならないといけないんです。
 ここは悪い、だから逃げようとか、ここなら私は安全だ。だからここにずっといよう、とか、違う! そんなことをしてもまた同じよ! 私、何も解決してない! 何も変わらない! 死ぬまでこのままなのは嫌!!
 私も悪い。何もしてこなかった。ただ我慢したり、逃げたりしてただけで、自分なりのなんの答えも作ってこなかった。逃亡でも、服従でもない。私は、これについて、もっと別の選択がしたい。私は、もっと他の、逃げ道を探したい。――ないなら、それを作りたい。創造したい。
 私は何か、阿呆なことを言ってるでしょうか?!」
 ネコは置物みたいに無反応だった。
 ソラは震えながら必死でその袖口を掴む。
「ネコさん――博士。あなたは、クローヴィスの学友だったんですね。世界の大変動を見てこられたんですね。私にそのことを、そしてあの人たちのことを教えて下さい! 彼らのことをもっと知って、いつか、対抗するためです。一生懸命努力します。最低でも、自分の道くらいは自分で作り上げられる人間になれるよう、私を手助けして下さい! お願いします!」
 ほんの少しの沈黙の後、相変わらずさっぱりとネコが応じた。
「報酬は?」
「お?」
「君は金など持っていないだろう」
「お礼は……」
 盲点且つ急所を突かれて、ソラの目がぐるぐる回る。
「ぜ、全体的に、えらくなってからします!」
「今、空の手形が切られるのを目の当たりにしたな」
 ふうーっと、ネコは息を吐いて立ち上がった。腕を組み、呆れた目でソラを見下ろす。
「まあ……、始めから、分かってはいたがね。面倒事になると。声をかけた瞬間からだ。東部の娘は誰も彼も、見た目を裏切る頑固者ばかりだ」
 彼は大きな眼鏡からはみ出すくらいに片眉を上げた。勢い額に皺が寄る。その顔を彼女に寄せる。
「私はいくらやる気があっても、愚か者は弟子に取らんよ。後から君があのアルススの学徒共と同程度の連中であったと分かっては、いい面の皮だからな。
 質問に答えなさい。学院の創設者は現在唯一の『金杯博士』の称号を持つルル・シル・カントンだ。彼の確立した、学問の定義とはなにか? とりわけ俗信との違いを意識して述べよ」
「が、学問は――」
 体に暖かい湯が注ぎ込まれたかのように意識がさあっと活気づき、自分でも目から火花が散るのが分かった。
 楽しかった。まるで予想していた通りの質問が試験に出てきたときのようだ。
 これまでになく、はっきりした声で、ソラはその質問に答えた。
「学問は、繰り返し試行を重ね、原因と結果の間に再現可能な関係性が永続的に存在することが証明されたものであり、俗信とは、その試練に合格しないすべてのもののことです!」
 大好きだ。この言葉が。
 基本中の基本に過ぎて、最近では誰もカントンの書など読まないというけれど。
 一番初めに、あの緑深い田舎町の学校の、無人の教員室でこの文章を目にしたとき、どれほど感動したことだろう。
 学問というものに。そしてそれを的確に言い表す知性のはたらきというものに。
 それがただ、人を押さえつけたり、人を傲慢にしたり、人を逃亡させたり、歪ませたり、そんなことしか出来ないとは、認めたくない。
 何かあるはずなのだ。あの感動の先には。まだ。
 白い手が差し出されてソラは反射的にそれをつかんだ。
「中に入りたまえ。衣服を貸そう。私の娘達のものだが、合うだろう。それから髪の毛を切り揃えよう。私の弟子には金輪際、指一本触れさせん」





(つづく)
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