XYXYXX (序章)



 その男のことは前から知っていた。
 所属や名前も知っていた。
 大所帯の劇団のせせこましい稽古場の隅のほうで俺の視界を横切ったりした。
 色が白いんで目立つには目立った。「イケメンだ」とナラサチが言うことがあったけど俺はそうは思わなかった。
 だいたい「イケメン」というこの新しい言葉は胡散臭い。ここ一年ほどでテレビでブレイクして急に市民権を得たが、俺はこの軽薄な言葉に当てはまる生身の人間をまだ知らない。もし自分が言われたら侮辱と感じるだろう。
 とにかく、伊積(いずみ)陽生(はるき)という男を格好いいと思ったことは一度もなかった。
 むしろはっきり変な顔だと思っていた――内心、好きじゃないと。
 身長はそれなりにあるのに、体が妙に薄くて、首など針金みたいだった。唇は変に赤くてだらしない感じ。目は見るたび絵文字のこれ→(^^) だ。大抵の場面でへらへらしていた。
 主に役者だったが、とりわけ実力が顕著なわけでも、練習熱心なわけでもなかった。甲子園を目指す野球部のような雰囲気の劇団の中では、いつも末端にいて、主宰部に寄るチャンスもその意志もないような感じ。W大の名だたる学生劇団の中でも一番実力があると言われていた『天球社』に所属はしているが、していることだけが自慢のような、実際には演劇にさして興味があるわけでもなく、異性にもてることしか考えていないような――あきりたりな学生の一人に過ぎないと思っていた。



 その日は、俺たちは千葉の浪花という場所にいた。
 夏合宿に来ていた。
 海の側の田舎町で、そこに先輩の家族が別宅を持っていて、空いている時は劇団が使ってよかった。
 確か二〇人ばかりいたと思う。
 天気が悪かった。
 台風が近づいているとテレビで言っていた。
 それなのに役者どもは泳ぎに行った。
 「危ねえなあ」と思いながら俺もナラサチも止めなかった。言っても聞かないことが分かっていたし、俺らは忙しかったのだ。
 別荘を貸してくれることからも分かるように、先輩達は心強い味方である反面、芝居に関して厳しかった。彼らは卒業後自分の劇団を運営していたり、もうほとんど引退して仕事をしたりしていたが、本公演のたびにやってきては進捗を尋ね、あらかじめ台本を読み、意見した。
 当時俺は『天球社』のほとんどの公演の脚本と演出を手掛けていた。二年間ずっとそうだった。これまでに受けた評価はそこそこだったが、俺は行き詰まりを感じていた。
 ネタがなかった。
 正確に言おう。『天球社』は俺が入団する以前から続いてきた歴史のある劇団で、これまでに主宰者が五度変わっている。そのたびに少しずつカラーの変更は起きたが、それでも、『天球社』として求められる芝居がどのようなものであるか、という枠は依然として存在した。
 それはもちろん美術、衣装、音効、照明、チラシやパンフレットの水準の高さ、ということでもあったし、芝居のテーマそれ自体、表現方法にも確実に特徴があった。
 先輩たちはそれを揺るがしたくなかった。『質を下げるな』と繰り返し言われた。俺とナラサチはそれによく応えたと思う。二年間。名作と言われる作品の再演も含めて『天球社』というネームバリューを、すくなくとも下げない仕事をしたと思う。
 しかし、ここにきて、俺は、息切れを感じていた。
 それは素直に台本に出た。
 覚えているのは、三月初旬に絶望的な気持ちで梅を見たこと。煩悶し続けてなんとか夏までに一作絞り出したが、俺もナラサチも分かっていた。体裁だけが整った凡作だと。
 『天球社』を守ると決めている先輩達がそれに気づかぬわけはなかった。
 俺は合宿前にさんざん言われた。
 いいや、彼らが悪いんじゃない。彼らの期待に添えない自分が無能なのだ。
 俺はここにいる間になんとか集中して、作品を手直しするなり、新しいものを作るなりしなければならかった。
 出来ないならば、他の人間がやることになる。
 大きな劇団では、ホンを書くのも一人ではない。
 先輩たちはすでに俺の後輩の一人に目をつけていた。彼は高校演劇の経験者で、目下芝居のあらゆることが楽しくて仕方がない状況で、『天球社』が大好きで、大好きという気持ちがストレートに詰まった作品を一本劇団に提出していた。
 彼らは、それを気に入っていた。
 俺ができなければ、おそらくそれが次の本公演の台本になるだろう。演出も彼がするだろう。彼は目に見えないグリッターを周囲に飛ばしながらはつらつと、装置についての話をした。表現をしたくてしたくてたまらない感じだった。
 俺は二つの感情を覚えた。
 一つは分かる。という感じだ。
 分かるよ。俺も、一年の時はそうだった。いくらでも書けると思ったものだ。
 二つ目は焦りだった。
 奪われる。二年間、俺は『天球社』の中心人物だった。必死に努力してようやく得たポジションだ。それをこの一年坊主に奪われてしまう。彼の才能が俺のそれを圧倒すれば、二度と俺にはチャンスが巡ってこないかもしれない。
 俺はこの合宿の間になんとかしなければならなかった。
 いつも心情を汲み取ってくれるナラサチは、できるだけ俺を一人にしようと気を使ってくれた。俺は書斎のような場所にこもったけれど、ノートを広げても、少しも集中できなかった。
 時間を追うごとに、外の天候が悪くなっていった。もともと薄暗かった空は三時過ぎには真っ暗になった。俺はノートに書き散らされた自分のメモを目で追いながら、あいつらバカかとイライラと一人ごちた。
 泳ぎに行った連中のことだ。
 まださほど海は荒れていないだろうが、それでも、外海だ。灰色の空と灰色の波の中ではしゃいでいる蟻のような彼らを想像すると腹が立った。女の声が言う。せっかく水着買ってきたから使いたいよ。
 風が窓を圧す。木々がしなり騒ぐ。馬鹿か。まったく。
 デパートで売っている水着を着て、男の胸板の前で騒いだ後、波にのまれてどこかへ行ってしまえ。
 悪態をついても、手直しは、あるいは、創作は、まったくうまくいかなかった。
 俺は自分を責めた。
 他の人間もみんなそうなのか知らないが、俺は最初に怒って後から悲しくなる人間だ。だから憎悪についても後悔した。俺はなんて嫉妬深く心が狭いのかと思った。
 自分からこの劇団に入ったのではないか。自分から彼らの望む芝居を作ったのではないか。今更何だ。
 だめだ。何を考えている。二年前はお前はすごく『天球社』が好きだったじゃないか。どうして『天球社』らしい作品を作ることができないんだ。彼らの期待に応えろ。彼らを信じろ。がんばれ。
 要素はすべて分かっているだろう? そうだ。雑多な会話。一見本筋と関係なさそうな無数の場面。時代考証を無視したギャグ。一時間くらいで奇妙な深刻さへ転落。大騒ぎの背景に浮かび上がってくる陰惨な現実。詩的で断片的な台詞。不思議な後味。
 分かる。すべて分かる。なのにどうして作れないんだ? どうしてもう一本、新しく作れないんだ? 無能なのか? バカなのか?
 彼らの眼に現れた疑いが思い出される。
 なんだ、こんな程度なのか。
 遠くで人の声がした。どうやら海から戻って居間のほうで騒いでいるようだ。気が付けば18時になっていた。晩飯の時間だ。なにをドタバタしているんだ。うるさい――。
 俺は両手で耳を塞いだ。
 ――集中できない。彼らのせいばかりじゃない。雑念が多すぎるのだ。
 何をしているんだ。しっかりしろ。集中しろ。
 俺は自分の頬を張った。ためらいつつも、意識がはっきり戻るまで殴った。
 そして取り掛かった。一から。


 俺は成功した。書斎だけを世界から切り離すことに成功した。それは寂しくて奇妙に満ち足りた境地だ。セルの中に一人だけしかいないのだから、もう人に怯える必要はない。
 俺は書いた。すべて忘れて書いた。ソファで眠り、起きている間は書いた。飲み物以外はとらなかった。空腹なほうが貪欲になれる。どうしても集中が切れてくると冷水のシャワーを浴びた。頬をはたいた。膝を殴った。柱に額を押し付けた。
 同じ行動を二晩繰り返した。外が晴れていようが荒れていようが関係なかった。合宿の間、海に近づくこともなく、筒の先からほとばしる花火を楽しむこともなく、一滴のアルコールも飲まなかった。
 三日目の晩。台本は出来上がった。
 そして俺は絶望した。
 それは一本目よりもっと出来の悪い駄作だった。最低最悪のごみくずみたいなものだった。こんなの中学生だって書かねえよ。
 時間切れだった。合宿は四泊五日だ。
 あと一晩。あるけれども。
 ――無理だ。無理だ。もう書けない。できないことが分かる。
 どうしたらいいんだ?!
 どうしたらいいんだ?!




 俺は静かにパニックになった。自分が許せなくて机に頭を打ち付けた。誰もいない暗いセルの中で俺は俺の才能のなさに絶望し死にたいと思った。
 机の上に突っ伏して、知らぬ間に俺は嗚咽していたんだと思う。
 そうでなければ扉が開いた理由が分からない。



「――何やってんの?」



 一番、その場に現れる可能性があった人物はナラサチだった。
 俺の右腕。常に演出補を務めてきてくれた頼りになるオンナ。これまでもちょくちょく覗きには来ていた。
 それ以外の人間は、可能性で言えばまったく横並びだった。だから誰が来てもおかしくはなかった。
 ただそいつが来た。物音と、たぶん、うめき声を聞きつけて、扉を開け、俺を見たのだ。



 一瞬、そいつが驚いて身をすくめたのを、はっきりと覚えている。
 何しろ部屋の明かりは消えて真っ暗だし、デスクライトだけがぼうっと点いているし、その前に俺が倒れているし、無理もない。
「……どうしたの? 大丈夫?」
 軽い声だった。
 伊積は今でも身長の割に声が高い。そして、その声はいついかなる時にも絶対深刻に聞こえないという忍者的な特徴を備えている。
 俺は、母親に泣いているのを見つかったような気分になった。
 きまりが悪くなり、頭をごろりと反転させて目をそらした。
「泣いてんの?」
 視線の最後の最後に、彼が持っていたビール缶を持ち上げて口元へ運ぶ絵が引っ掛かった。
 みんな飲んだくれていたのだ。開いた扉から、外の世界が波のように入ってきて恥ずかしい俺の足元を浸す。
 ――出ていくだろう。酔っ払いだし。
 偶然ここに居合わせたとしても、彼のような人間は俺に用事がないだろうし、興味もないはずだ。
 そう思って、恥をこらえて、待っていた。
 差し込んだ廊下の明かりが壁に描く白い台形が狭まってまた黒に溶けるのを。
 ところがそれが容易に起きなかった。
 俺は発言の力もなく、ただぼうっとしていた。
「あのさあ。――ナラサチさんから、聞いてはいたけど、やりすぎたら、だめだよ?」


 それは俺の聞きたい言葉じゃないと思った。
 だから俺は壁を向いたままだった。
 伊積は誰も望んでいない言葉を続けた。


「教えてもらってないの? 親とかに。みんながんばるの好きだけど。がんばって確かにえらいけど。死ぬほどやるのはだめだよ? 死ぬほどはやっちゃだめなんだよ?」



 彼を去らせたのは別の声だった。
「兄さん! 何してんの。花火終わるよ」
 廊下から誰か男の声が彼を呼んだ。
 すぐに彼は扉を閉めた。応じる声だけが聞こえた。
「道に迷った」
「玄関こっちだよ。酔ってんでしょ」




 物音がすっかり消えてから、俺は、体を起こした。
 拍子抜けした空気が漂い、俺はもう絶望にも集中できない自分の戸惑いを持て余した。
 ついさっきまで、俺は中学生みたいに取り乱していたのに――取り乱せたのに。呼んだつもりもない常識の息吹が部屋に吹き込こまれ、やるかたなく俺は部屋の電気をつけた。
 ぺかっとした丸い蛍光ツインライトが室内を照らし、これで、極めつけに、悲壮な空気が台無しになった。
 怒ることもできなかった。
 彼は何かそんな激しいことを言ったわけではない。恥をかかせたわけでもなく、邪魔をしたわけでもない。そのつもりもなかったろう。
 ただ、確かに何かを台無しにしていったのだが。
「あーあ……」
 事実は変わらない。俺の前には駄作を書きなぐったノートが載っていて、おそらく問題は全く解決せぬまま合宿は終わる。
 がんばろうががんばるまいが、追い詰めようが追い詰められなかろうが、そういうことだ。
 俺は、新作を作れない。
 ほどなくして、ナラサチがやってきて、部屋の電気がついていることに驚いた顔をした。
「どうだった?」と聞くので、「書けなかった」と答えると、彼女はちょっと意外そうな表情をしながら、「そっか。仕方ないね」と言った。彼女の声の向こうでロケット花火の音が聞こえた。
 そのあとはもう気が抜けていくばかりだった。
 俺はもうがんばれなかった。残り一晩あったけど、みんなと一緒に遊んで過ごした。遊びの中心になることはなかったものの、ほかの連中が話したりゲームをしたりしているのを遠くから眺めて過ごした。
 もちろん伊積はそこにいたが、お互い別に話すこともなかった。気の抜けた俺の視界の隅のほうで、これまでと同様、白い顔がちらちら泳ぐだけだった。
 夜、外に出てみると海の音がした。別荘は高台の上にあり、庭木を透かして海面が見えた。
 台風は運良く北西へ反れてもう空は晴れている。それでも夜の海は黒く、俺はよくもまあみんなあんな時に泳ぎに行ったな、と恐れ入った。



 それが最初のきっかけで思えばそこから色んなことが動き出した。
 まず三か月後に俺は『天球社』を退団して自分の劇団を作った。ナラサチも着いてきてくれた。
 その旗揚げ公演のための新作を、俺はたった一日半で書き上げた。




(了)





<<表紙 1 >>







inserted by FC2 system