XYXYXX (1)



 俺は前歯が汚い。
 黄ばんでいるし、なぜか白い横筋がついている。
 歯科医は永久歯が生えるころにカリエスになり、それが自然に治った痕だと言う。
 まあでも見た目を除けば俺は歯が丈夫なほうだ。理屈に合わないくらいに。


 十歳の時だった。夏の暑い盛りに田舎道を歩いていたら、天から弁当が降ってきた。
 わんわんと響く蝉の声のエコーの厚い帯を切り裂いて、天から弁当箱が降ってきて俺の前髪のすれすれをかすめ、アスファルトに音を立てて落ち小学生だった俺の足を止めた。
 一瞬の静寂の後また蝉がわんわん言い始めた。
 周囲は住宅街だが空き地が多く、接している家はなかった。俺は空を見たが夏空が広がっているだけで、飛行機もヘリコプターもましてや鳥の影もなかった。
 弁当は大判のナプキンにくるまれていて、まるで几帳面な手がしたように、箱の中央にきっちり結び目があった。
 俺は逡巡した。


 もちろん地面に落ちている弁当を食べていいわけがない。
 いくら小学生でもそれくらいは分かる。
 でも、誘惑された。
 口の中に唾がたまった。
 俺が食べることのできなかったすべての食事がそこに入っているような気がした。



 結局俺はそれを食べず、踏まないようにそろりと越えて、そのまま家に戻った。
 今でも分からない。
 あれはなんだったんだろう?
 拾い上げて、中を確認すべきだったのだろうか?
 暑さのあまりに見た幻覚だったとしても、例えば一口食べていたら、そのあと、何が変わったんだろうか。



 分からないことはもう一つある。
 今、また天から同じものが降ってきたとしよう。
 俺はそれを取るだろうか。




(いぬい)君」
 俺が病室に入ると、先生は読んでいた文芸誌を置いて、黒い眼鏡越しににこりと笑ってくれた。
 病室は四人部屋だったが、ちょうど何かの時間なのか他は無人だった。
「空いてますね?」
「天気がいいからみんなうろうろしているんだ。退屈だからね」
 紙袋を差し出す。
「どうぞ」
「手ぶらでよかったのに。ただでさえ遠くから来てくれるのに」
「食べ物とかじゃないんです。古い演劇ぶっくが見つかったので。暇つぶしに。あと遊眠社の戯曲も見つけて……。もうお持ちかもしれませんが」
 雑誌と本を取り出した先生の喉から割と本気の感嘆が漏れる。先生は野田秀樹が好きだ。
「ありがとう。これは持ってないよ。絶版だよ。嬉しいな。見たら後で返すよ」
「いいですよ。持っていらしてください」
「椅子がそこらにあるから……。あれ、ないな。ああ、窓際に動いてる。あれを持ってきて、座んなさい」
 言われたとおりに窓際のヒーターのそばに寄っていた椅子を持って戻る。
 その間に居ずまいを正した先生が俺の服を褒めてくれた。
「乾君はいつ見てもおしゃれな服を着てるね」
「古着ばかりですよ。金がないから」
「手足が長いからモデルみたいだよ。モノトーンがよく似合う」
 もちろんこれはお世辞だ。俺は背はそこそこだが見た目はよくない。だから格好に気を付けないと見れたものじゃない。
「先生もいつも素敵でしたよ。アイビールックで」
「部活の時はイモジャーだったけどね」
「それはまあみんなそうです」
 それでも素敵でしたよ、という言葉を俺は飲み込み、灰色のマフラーを外して膝の上に置いた。
「治療はどうですか」
「僕の話はいいよ。いつもの通りだし、面白くもないから。それより東京生活はどう?」
「ぼちぼちです」
「メール読んだよ。『天球社』から出たんだってね」
 いかにもやさしい第一印象そのまま、先生も気を遣うほうだ。俺が息を吸い込む前に言葉を続けた。
「新しい劇団を作るの?」
「はい。そのつもりです」
「いつかはそうするだろうと思ってた。旗揚げ公演はいつ?」
「まだ未定ですが2月か3月にしたいと思っています。それまで少し金も貯めないと」
「そうだね。授業は出てるの?」
 俺は唇の両端を最大限横に広げて笑みを作った。
 先生も苦笑したが、責める気配は全くなかった。
 この小さくておとなしい人は、俺の高校時代の部活の顧問だった。
 演劇部だ。
 たくさんのことを教えてくれた、俺の人生を変えた人の一人だ。
「またチケット送ります」
「いつもありがとう。いつも行けなくて悪いね」
「俺が勝手に送ってるんです。今回も寒い時期なんで無理しないで下さい。場所も狭いですから」
「どこでやる予定?」
「決めてませんが、下北か高田馬場じゃないかと思います」
「懐かしいなあ。いつかまた芝居を観に行きたい」
「来てください。退院されて体力がついたら」
「いや実際僕はもうだめかもしれないよ」
 俺はこれまで二十本くらいは戯曲を書いてきた。
 一般的な学生より本は読んでいるし、語彙もまあまあ豊富だと思う。
 それでも、こういう時に言葉が出ない。
 袋の中に手を突っ込むように喉の奥に手を入れて体中を探してみるのだが、からからに乾いていて俺の指先には何も当たらない。
 自分が世界一の役立たずなような気がする。
「――お医者さんはどう言ってるんですか」
「…………」
 いやいや、と先生は手を振る。ごめんごめん、という意味でもあるだろうし、無駄無駄、という意味でもあるだろう。
 医師が言った気休めの言葉を俺に繰り返す気はないらしかった。
 基本的に遠慮がちで、他人を気遣う人なので、いつもならあまり心配させるようなことを言わないのだが、今日は気弱になってしまっているのだろう。
 闘病ももう四年になる。独身だ。他の家族はそばにいない。くたびれても仕方ない。
「――本当の末期患者はそんなことを言う余裕もありませんよ」
 ずいぶん年の離れた恩人に対して思い切って俺が言うので、さすがに先生もレンズの奥の目を丸くした。
「おー?」
 そんな声を出しても、かわいらしさしか漂わないのがこの人の難儀なところだ。女子にも人気があった。
「勝手に一人で悲観的になるのはいつもの悪い癖です、先生」
 先生は痛いところを突かれたというように苦笑した。
「乾君はいくつだっけ」
「二十三です」
「若いなあ」
「もうそうでもありません」
「いやいや」
 先生の白い左手が伸びて俺の右肩を二度叩いた。俺の骨や筋肉の固さや温かみを確かめるような叩き方だった。
 手を放し、次に口を開いた時にはもうかなり教師の口調に戻っていた。
「日帰りだろう。長居すると帰りが遅くなるからもう行きなさい。バスも少ないし」
「まだ大丈夫です」
「僕が疲れた」
「じゃ、お暇します」
「うん」
 ここは東京から電車で一時間半ほどの田舎町だ。先生はまるで俺がまだ高校生であるみたいに、いつも帰りの時間を気にしてくれる。
「それじゃ、先生。またメールします」
「うん。ありがとう。――乾君」
 もう出入り口の手前で振り向くと一瞬病室が冬枯れの空き地に見えた。パジャマ姿の先生はその中に一人で座っているように見えた。
「はい」
 先生はしばらく言葉を探していたが、やがて体内からそれをつかみだして俺に投げた。
「君は幸せになってくれ」




 『大学に入ってくれ』と言われたなら大学に入ることができるし、『家や車を買ってくれ』と言われたなら家や車を買うことはできるだろう。
 『君は幸せになってくれ』はどうだ。
 いったい自分がどういう状況になったら、それが満願成就することになるのか?
 病院から最寄りの駅までの田舎道を三十分以上歩いた。途中でバス停にとどまり、バスに乗るつもりだったが、忘れた。金もかかるし、いい。
 鈍行で東京へ帰る間もずっと考えごとをしていた。
 アパートに着くと、ナラサチが俺を待っていた。彼女は鍵を持っているので、部屋に入って勝手でコーヒーを淹れているところだった。
 いつものことなので、こっちも「おう」くらいで靴を脱ぐ。
 それから音を立てて両手を払った。
「――分からん。とりあえず、芝居だ」
「なに?」
「いや」
 ナラサチは怪訝な顔をしつつ、ガタつくテーブルにカップを二つ並べてコーヒーを注いだ。一つを俺にくれた。お互い、カップに三分の一ほどだ。
 ナラサチのこういうところが好きだ。
「ていうかピッチ(PHS)鳴らしたんですけど?」
「あ。そう? 病院に行ってたから切ってた」
「だろうと思った。――吉田君、来ないって」
 黙ってコーヒーを味わった。少ないから早く飲まないと冷めてもったいないことになってしまう。
 吉田は、旗揚げ公演の役者として当てにしていた一人だ。
「準主役なのに? 今、フリーだろ?」
 ナラサチは目をつぶって手を振る。詳しいことは分からない、というジェスチャーだ。
「最後に話したときは結構乗り気だったんだけど。――まあその、上への遠慮もあるのかも。あとはまあ――」
 カップを空にしてテーブルに戻した。
「いいさ。仕方ない」
「……でも、あの役、どうすんの? 誰か代わりの人の当てがあるの?」
 俺が言った時のナラサチの表情は忘れられない。
「俺がやるよ」




(了)





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