XYXYXX (2)



 今でもありありと思い出すのは、夕刻の高校の講堂の入り口だ。
 ものすごく古い、コンクリート造りの講堂の、二枚のドアは、一回きりの公演の観客のために開かれ、奥には暗闇だけがあった。
 まるで洞窟への入り口のようだった。
 戦後すぐに建ったというその講堂はとにかくすごくて、非常灯の明かりなどもなかった。本当だ。だから開演に向けてブザーが鳴り客電が落ちると、本当の闇になった。自分の手も見えない。
 そして俺は、今に至るまでその闇が大好きだ。現在の劇場ではそこまでの完全な闇はめったにお目にかかれないけれど。しばし漂う静寂も好きだ。世の中にこれほど安心できる場所はない。
 音楽が予想よりも大きな音量で鳴り始めた。ライブハウスなんかに行ったことがなかったから、全身が揺れるような音響は初体験だった。
 それは夢の遊眠社の『半神』だった。
 原作は萩尾望都。舞台化したのは野田秀樹だ。もともと二時間ある舞台を削って一時間ほどにしたものだった。昔のことなので、著作権とかは……追求しないでおく。
 舞台の『半神』には、原作にはないお化けがたくさん登場する。登場人物の半数がお化けだ。その総大将を演じていたのが、『先生』だった。高校の演劇部にありがちな話で、男が足りなかったのだ。
 彼は引きずるほど長い衣装の裾を振り回して舞台を走った。客席に下りる演出もあった。彼が横を走った時には、風が俺の前髪を揺らした。少し高い、見事に整えられた声が言葉遊びを含んだきらめく台詞を快く耳に届けた。
 彼はなんと若く、なんと輝いていたか。
 しなやかな筋肉に支えられ、どれほど美しい身体をしていたか。


 今でも、魔が差したのだと思っている。
 部活なんか、するつもりはなかったのに、次の日の放課後には入部を申し込んでいた。
 それからずっと舞台は俺の居場所だ。
 昼の世界と扉一枚で隔離された、真っ暗な祭祀の場。
 そこには化け物が現れる。
 たとえ束の間に過ぎないとしても、化け物たちは、そこで生きている。






 新しく作った劇団は名前を『プール』といった。『劇団プール』だ。
 旗揚げ公演が終わった後の打ち上げの居酒屋で、三時間遅れで現れた先輩の伊達さんは、俺とナラサチだけを少し離れた座敷に連れ出した。
 伊達さんはラジオ局でプロデューサーをしている忙しい先輩で、小太りでひげを生やし、黒縁の眼鏡をかけていて、年齢より年が上に見える。せわしない口調で話す落ち着きのない感じの人だが、面倒見はいい人だ。
 例の浪花荘の持ち主でもある。
「いいか。はっきり言うぞ。(コウ)
 俺のことは完全に弟分として下の名前で呼ぶ。彼は文節をいちいち区切り、それに合わせて右手を振りながら、言った。
「――誤解してた。なまじ、頭は悪くないから、イコール、お前が、器用な人間だって、誤解を、してた」
 俺は面食らい、それから、何を言われているか分かって赤面した。隣でナラサチが黙って下を向いたのがさらに焦りを倍加した。
 どう抗弁してよいかおぼつかぬまま口を開こうとする俺を手で制して、伊達さんは続ける。
「放っておいた俺がいけなかった。立て直そう。まだ間に合う。とりあえず人をもっと集めないといけない。俺からも声をかける。広告も出せ。またすぐ連絡する。今月中に、人を確保して、次の公演の計画を立てよう。やめる気はないんだろ? だったら――もしもし!」
 話の途中で鳴り出した携帯の通話ボタンをついに押し、伊達さんはおいてあるサンダルをひっかけて居酒屋を横断していった。
 彼の向こうではスタッフや役者達が飲んでいる。否定したいが、みんな景気の悪い顔をしていた。
 店の出入り口の引き戸がぴしゃりと閉められると、ナラサチがいまだに座敷の板目から目を上げないまま、断固と言った。
「失敗だったよ。この公演」
 彼女の持っている布かばんの中には、簡易金庫に加えてチラシの予備などがある。それがこれまでの『天球社』の公演に比べたら信じられないほど余っていることを俺も知っていた。
 ナラサチは耳の上の生え際を掻いた。
「予算って意味でもそうだし、内容という意味でもそう。――私らが思うより、『天球社』のネームバリューとか歴史って、大きかったんだね。認めよう。潔く」
 俺は残りのメンバー達の島を見た。誰も俺を見なかった。あるいは、目が合うと、疲れたような視線を戻した。
 不幸な空気が流れていた。
 つまり、負けた試合の後のチームのありさまだ。
「――とにかく、役者。役者を増やさないと!」
 伊達さんが戻ってきながら、店中に聞こえるくらいの声で言った。多分わざとだろう。また靴を脱いで、座敷へ上がる。
 片膝を立てながら、俺に言った。
「お前はもう、役者やるな! 戯曲と演出に専念しろ!」
「でも、伊達さ――」
 伊達さんは俺に反論も許さなかった。覆いかぶせるようにして言った。
「ダメなもんはダメ! きっぱりしないと、全部台無しになるぞ。芝居をやめる気はないんだろ? 次の手で間違えたら、――お前、ペンネームを使わないといけなくなるよ」
 乾巧(いぬいこう)という名前では、活動できなくなるということだ。
 恥ずかしくて。
 さすがにこの脅迫には俺も口ごもった。
「てゆうか、お前、もうちょっと考えろよ! もうちょっと考えてると思ってたよ! 客はみんな『天球社』の乾の劇団だからっていうんで見に来るんだぞ。それで内容があれじゃ、予想と違いすぎるよ。口コミをなめるなよ? 見に行こうかと迷ってた客が、評判聞いて実際にやめたりするんだから。――そりゃあ、分かるよ。表現したいことがあるから、『天球社』を辞めたんだってことは。でも、少しは客のことも考えろ。あれじゃ着いてこないよ。――てゆうか実際驚いたよ。お前、本当にああいうものがやりたいの? それとも、単になんか間違えたの? 俺が見ながら一番思い出してたのは、少女マンガよ? 竹宮恵子とかよ? こう……『ジルベール!』みたいな。その世界観にお前が出てくるじゃん? そりゃ笑うだろ!」
 伊達さんの戦略的な大声につられたように、笑いが役者達からも上がった。
 みんな、誰かがそれを言ってくれるのを待っていた感じだった。
「また、コウさんの演技が……」
 役者の一人が言う。俺の反応を見やりながら、遠慮して言葉を選びながら。
「なんつーか……。別に、悪口言う気はないんですけど……」
「垢抜けないつーかね。恥ずかしいっていうか」
 俺は隣に座るナラサチを裏切られた人間の目で見た。
 さすがに、彼女の言葉は胸に刺さったことを伝えたかったが、撤回はされなかった。
「なんで言わないんだよ」
「言ったじゃん! 遠回しに、何回も何回も。十場とか、ラストとか『なんかもっさりしてるよ』って、『変えられないの?』って。覚えてるでしょ? でも、変えなかったじゃん。結局」
「巧、お前がいけない。お前は作・演出なんだから、お前が自分で気づかないといけない。俺はお前がそれ、できると思ってた。でも、そうでもなかったっぽい。――独立を意識しすぎたんじゃないのか? 何か変わったことをやろうと気張りすぎてたんじゃないのか? 方向性がちぐはぐで、クオリティがガタガタになってたぞ。――唯一、言葉だけはな」
 伊達さんは俺に人差し指を立てて見せた。
「言葉だけは、さすがに、よかった。お前らしさを感じたし、詩的だった。お前は言葉を組み立てる力はすごくあるよ。だから、もっとフレームをがちっと固めないといけない。感覚だけで舞台を作ったらダメだ。エモーショナルなセリフを叫ぶだけで作品になると思ってる奴らと一緒になりたくないだろ? 芸術なんて九九%は技術なんだ。もっとちゃんと戦略を立ててやれ。お前が立てられないなら、ナラサチとか、人に立ててもらわないとダメだ。――本当にお前は、できると思ってた。『天球社』を二年も回してたんだからな。あそこ、腐ってもやっぱり大したもんだな」
「スタッフにも役者にも、ノウハウの蓄積ってもんがありますからね」
 ナラサチが頷く。
「それに、卒業生からの寄付とかも大きい」
「固定客もついてる」
「――だからこそ、窮屈になってきたってのは分かる。分かるぞ。でも、お前はもうそこを出たんだろ? 出ないといけなかったんだろ? だったら、ここで失敗を認めないと次はないぞ。分かったな。みんなにも謝れ。公演に失敗したし、負担を掛けたんだから」
 伊達さんの主導で、俺は、スタッフや役者たちに頭を下げる始末になった。
 でも仕方がない。
 半分学生が大半とは言え、みなこの公演に人生の時間を占領されたし、チケットノルマもあって実際に生活費が消えたりしているのだから。
 ここに来ているのはまだましで、打ち上げに来なかった人間も数人いた。彼らは次の公演には参加してくれないかもしれない。今頃、俺がいかに無能かを、この狭い演劇界の中で誰かに吹聴しているしれない。大いにあり得ることだ。
 暗くなりかけた俺の肩を、伊達さんは大きな手でばんばん叩いた。
「みんな! もう一回こいつにチャンスをやってくれ! 今度は俺が全面サポートする! ホンもいいものを作る! 二度と恥ずかしい思いはさせない! だから、頼むよ。いろいろ大変だとは思うけど、次もこいつに協力してやってくれ! ――こいつ、いい奴だろ? 悪い奴ではないだろ? もう二度と、役者はさせないから――」
 満座から笑いが起こった。
 俺は無論穏やかでない。
 そんなに、俺……変だったのか?
 携帯が鳴った。すぐさま応答する伊達さんの「はい、もしもし!! あ、お世話になっております!!」という大声にまたどっと笑いが起こって、少し場が和やかになった。
 伊達さんは再び店を横断して行った。みなはやれやれと言いながら酒や料理へ戻った。
 俺は、救われたのに違いない。
 が、それとは別に、やはり落ち込んだ。
 俺は今回の舞台になんの問題も感じなかった。だからこそ、事態はより深刻だ。
「コウ。しばらく次の本を書くことに集中してくれる? 私は伊達さんと連絡とりつついろいろ手配する。必要な時には連絡するから」
「……」
 なんだか蚊帳の外へ追い出すからねと宣言されたような気分だった。
 俺は。
 俺がやりたいようにやるために、『天球社』を出たのに。
 この新しい劇団は俺が主宰なのに。
 そんなに俺は……。
 実際、俺は俺が思うよりも自分の感情がコントロールできていないらしい。
 ナラサチが俺の顔を見て、それから、振り切るように大きな声で言ったからだ。
「少しは私たちのこと、信頼しなよ!」
 後から聞いた話では、この時俺はいじめられた犬のような暗い目つきをしていたらしい。



 伊達さんは阿修羅像のような人だ。とにかくいつも忙しくて手が四方八方に伸びている。それだけでは足りないので回転もしている。回転すると体が二重に太って見えるが、本当にそういう感じの人だ。
 彼とナラサチはとんでもない速さで仕事をし、それまでガタガタだった集団の体裁を整えていった。
 俺はほとんど放っておかれた。とにかく「次のホンを書いてろ」と言われた。それでそっちに専念しようとしたが、はかどらなかった。またしても長い迷いにつかまりそうな悪い予感がしていた。
 旗揚げ公演の台本は、書くのに二日しかかからなかった。
 もちろん産みの苦しみはあったが自由に書けて、無駄な気遣いや気苦労はしなかった。
 ああ、『天球社』の看板を負わなければ、こんなに楽に書けるのかと思ったくらいだ。
 ところがそれが全面否定されて――みんな、もうあの公演はなかったことにしようとしている気配さえあった――俺は自分の能力を疑わざるを得なくなった。
 そもそも俺には一から作品を作る力などないのではないか。すべて『天球社』というシステム、伝統、フォーミュラに乗って創作していただけなのではないか。それどころか、そもそも舞台の良し悪しを判断する能力さえ、怪しいのではないか?
 ナラサチから「書いてる?」と聞かれるたびに習慣で「ああ」と答えたが、嘘だったしナラサチもあまり信用している感じではなかった。
 彼らは戸惑っている俺を置いてどんどん先へ進んでいった。
 半月ほどして本拠地が決まった。いつも使う練習場の側の事務室の一画を貸してもらえることになったのだ。いくつかの学生劇団と共用だが、打ち合わせなどは格段にしやすくなる。これも伊達さんのコネと交渉による成果だった。
 本拠地なんて俺のアパートでいいじゃんと思うような俺と違って、やはり社会人のためか、伊達さんはハコを作るのが巧みだった。
 体裁が整うと外部からも把握がしやすくなる。窓口が設定されればコンタクトがとりやすくなる。自分を含めたメンバーに与える安心感も大きい。
 実際に得て初めて、なるほど。と俺は納得した。あまりにも遅い。
 本来であればまず初めに、こうして事務所を定めるべきだったのかもしれない。そうしたらもっと人も集まったかもしれない。
 俺は主宰なんかやってるが基本内向きな人間で、運営について完全に無能なのだと思い知った。ナラサチや伊達さんのような人間に頼らないとやっていけないのだ。
 それなのに、居酒屋であんな態度をとって――。
 浮いたり沈んだりだ。
 いや、沈みっぱなしか。
 共用事務所で最初の打ち合わせをしたとき、俺はナラサチに謝った。
 ナラサチは「何が?」と言った。
「打ち上げの時、態度が悪かった。あと、ナラサチ最初のころに、ちゃんと言ってたよな、『事務所作らないの?』って。あの時、真面目に取り合わなかった。ごめん」
「おぬしはがさつな人間だからなあ」
 口を横に開いてにやーと笑う。目が線になって、こういう時の彼女はちょっとパタリロに似ている。あまり言うと怒るのだが。
「私もいけなかった。遠慮しちゃいけないところで遠慮してた。今回の失敗は私のせいでもあるよ。これからはガンガン叩くからね」
「うん」
「書いてる?」
「――うん」
「おぬしはアテ書き人間だからなあ」
 ナラサチは苦笑しながら頭の前を掻いた。
「ないしは『実在のモデルが必要』人間だから。本当に役者を早くそろえて、顔合わせとかエチュードとかしないといけないね」



 多分、天が身長一七八センチの赤ん坊を抱えたナラサチを不憫に思ったんだろう。
 それからすぐに、団体での加入の申し込みがあった。役者が五人、音響が一人で、伊達さんの呼びかけを耳にしたり、校内紙に載った広告を目にしたりしたらしい。
 というより、全員が知っている人間たちだった。『天球社』の人員だったのだ。
 最初、音響担当の加納という女子だけが来ると思っていたら、役者男女五人がくっついていた。広くない事務所はいっぱいいっぱいだ。
 俺とナラサチはびっくりしたが、知り合い同士なので向こうのあいさつはこんなのだ。
「あ、ども〜〜。お久しぶりでーす」
 一番奥で、ワカメ頭が笑いながらひらひら手を振った。24 hour party personはしばらく見ない間にとんでもない髪形にしていた。
「……イズミじゃん。ヒノデも? あー、和田ちゃんまでいる。てか、みんなどうしたの?」
「移籍したいんですよ」
 加納はいつもおとなしく、話すときも囁くような小さな声という分かりやすく変わった子だ。しかし大変有能で、音響ユニットの頭脳だということは誰もが知っていた。
「ぜ、全員?」
「はい」
「なんでまた? ていうか、加納ちゃん抜けたら、向こうが困るでしょうよ」
 唯一人椅子に座った加納は、指で鼻の上の銀縁の眼鏡を一度押し上げた。
「――乾さんが抜けられてから、『天球社』変わったんです。雰囲気が悪くなりました。ああいうギスギスした場所にいるのが、わたし、すごくいやなんです。今日になって、同じように移籍したいメンバーがいることが分かったので、じゃあもう一緒に行こうってことになりまして。――乾さん、急に大人数で押しかけて申し訳ありません」
 彼女は丁寧に頭を下げた。
「いや、別にいいけど」
 俺は初めて聞く話にナラサチを見る。彼女も、初耳だという顔だった。
「とにかく、チョー厳しくて。住友」
 和田というロングヘアの役者がため息交じりに言った。
 住友というのは、俺の後を継いで『天球社』の主宰になった例の才能ある一年坊主だ。いや、今は二年坊主のはずだが。
「実力主義っていうのかさ――自分のお気に入りの役者とかスタッフはチョー近づけるけど、そうでない人は遠ざけて、それが露骨なんだよね。彼の中でいっかい『いらない』と思われた人はどれだけ先輩でも全然声がかからなくて」
「居場所がなくなって結構な人数が抜けてるんですよ。来なくなっちゃった人もいます」
 ナラサチがえーっ、と漏らすのが俺の耳に届く。
 その時俺は、口々に話す彼らの一番奥で、黙ったままの二人の男を見ていた。
 ワカメ頭の伊積と、その隣の――ナラサチが『ヒノデ』と呼んだ男だ。苗字なんだっけ。
 伊積の腕が『ヒノデ』の肩に回っていた。『ヒノデ』の口は真一文字。俺のまなざしと目がぶつかっても、なんだか心ここにあらずな状態でにこりともしなかった。
 親戚同士が話している横でぼけーとしている子供みたいな様子だった。だが、それでも、思わず見入ってしまうような美貌だった。
 彼もワカメと一緒であまり熱心なタイプではなかったと思う。端役くらいしかやったことがなかったはずだ。こんなに美形だったか? 表情が、あまりにも死んでるが。
「――あの、事情は分かったけど、誤解してもらったら困るのは、ウチだって遅刻やサボりは厳禁だよ? あと、努力しない人は、いくら人が足りてなくても役が回らないよ? 分かってる?」
 堰を切ったように続いた住友に対する不満の波がいったん落ち着いたところで、ナラサチが釘を刺した。それは俺も気になったところだ。
 ナラサチの言葉には若干の嘘が含まれている。少人数の劇団の場合、実力がなくても役が回る可能性は確かに上がる。スケジュールを合わせて劇団外の人間を呼んでくるのも大変だからだ。
 しかしだからと言って初めからナメた態度で来られたら困る。俺と住友とどっちが厳しいか知らないが、俺なら優しいだろうというのは誤解だぞ。
「俺だって大声くらいは出すよ? 灰皿は投げないけど」
「確かに時々大きな声は出されますね」
と、加納。
「でもペットボトルは投げません」
「机も叩かない」
と、和田。
「挨拶も無視しない」
と、伊積@ワカメ。
 俺とナラサチは再び顔を見合わせた。
 そこまで?
「分かってるつもりです。わたしたちはこれでもお芝居がやりたくて、ここにいるんです。ただ、静かに、落ち着いて、集中して仕事がしたいんです。『天球社』のほうがネームバリューもあるし、経済的な負担が少ないことも分かっています。それでも、移籍したいんです。至らぬ点はいろいろありますが、少なくとも、真面目にやるつもりです。一応わたし、来る前に、全員に念を押してあります」
 確かに、真剣な雰囲気だった。
 真剣さという言葉が致命的に似合わない人間も一名いたが、少なくともそういう雰囲気を出そうと努力はしていた。
「加納ちゃん今日はよくしゃべるね」
 ナラサチが冗談を言って頬を押さえた。体内にたまりそうになった圧力を逃そうとしたように見えた。
「……さすがにすぐに決められないから、ちょっと時間くれる? 『天球社』にはもう、退団の意志は伝えたの?」
「いいえ、決まってから伝えようと思って」
「じゃ、明日までには連絡する。加納ちゃんの携帯に電話すればいいかな?」
「はい。それで結構です。わたしからみんなに伝えます」
 育ちがいいんだと思う。
 加納は椅子から立つと、誰よりも深々と礼をして、事務所から出て行った。意外なことに二番目に深いお辞儀をしたのは伊積だった。
 それから、ひょこっと顎を動かす程度のあいさつしかしなかった『ヒノデ』の肩に再び腕を回して、その状態のまま扉から出て行った。
 背中を見送って俺は言った。
「あいつなんだっけ、苗字」
「誰」
「ヒノデ」
「林。林日出」
「あそうだ。兄貴もいたよね、確か別の劇団に」
 ナラサチは足を思い切り投げだして胸の前で腕組みした。
 長く息を吐いた後、俺の顔をうかがう。
「で、どうします。主宰」
「……」
「ぶっちゃけ、加納ちゃんなんかは願ってもない人材だけど、いい点も悪い点もある。整理しよ。えーまず、いい点。一、加納ちゃん最高。音響の鬼。来てくれたら信じられないくらいクオリティ上がる。二、今いた人は顔の広い人が多い。劇団の外にも友達がいるようなタイプ。チケットを売る能力がある。地味に助かる。三、二枚目ができる人が増える。ぶっちゃけね、和田ちゃんも美女役できる声と顔だし、イズミとヒノデが来てくれたら、コウがでしゃばる余地はゼロになってくれて安全」
 はいはいそうですね。
 不細工がでしゃばって悪かったよ。
「悪い点――ていうか、考慮すべき点。一、元『天球社』が増えるから、どうしてもカラーの影響を受けると思う。伊達さんが言ってたような、客の予想とか期待値を配慮する必要が増す。特に最初のうちは。二、事情がどうあれ、間違いなく、住友君の恨みをかうことになると思う。なんせ、加納ちゃんを含む六人を『引き抜いた』って格好になるからね。どれだけ当人の意志でも。『天球社』の先輩達も誤解するかもしれない。これが将来どれくらい大きな因子になるか、分からない。ただ結構根強い禍根のようなものになるかもとも思う。……どうする?」


 俺は本当に間抜けで、運営の才能がない。
 今、丁寧にナラサチが説明してくれたのに脳みその中に少しもとどまらない。
 代わりに、脳みその中になにがあるかと言うと、舞台上でセリフをしゃべるヒノデの姿だ。
 彼は挨拶くらいしかしなかったが、声は耳に貼りついている。思ったよりも低く、深くて、音楽的な声だ。
 ナラサチは俺をアテ書き人間だといったがその通りだ。


 その後議論をしたかどうかも覚束ない。
 とにかく俺の中では答えは決まっていた。
 気の毒にも、その尻拭いをするのがナラサチなのだ。
「OKOK。じゃ、電話するから」
 何かスイッチが入ったことを了解したらしい彼女は諦めたようなため息を吐いてさっさと携帯を取り出した。
 すぐにつながったが、相手がすごく騒がしい場所にいることが隣にいた俺にも分かった。
 ナラサチは反対側の耳を掌で押さえ、体を傾けながら必死に呼びかけた。
「もしもし? 加納ちゃん? 聞こえる?」
『はい。聞こえます』
「どこいんの? すごいうるさいんだけど」
『カラオケに来ています。みんなで』
 深窓の令嬢感のある物静かな加納とカラオケボックスはあまりにも似合わない取り合わせだ。
「あ、あのさー。さっきの件だけど、是非、全員ウチに入ってほしいってことになったから! それぞれ、うまく『天球社』と話して、穏便に籍を抜いておいてくれる?」
『承知しました。ちょっと待ってくださいね』
 なにか遠くでごにょごにょと話す声が聞こえた。
 それからバカがマイクで『イエーーーーー!!』とがなる声が聞こえた。
 ナラサチが慌てて耳を離す。
 音楽が聞こえる。歌声が聞こえる。
 ナラサチが「??!」という顔をした。たぶん俺も同じだったと思う。
 俺と顔を見合わせた後、ナラサチは恐る恐る電話を耳に当て直した。
「加納ちゃん。今、歌ってるの誰?」
『伊積さんです。聴きます?』
 加納が端末を近づけたらしく、音楽と声が大きくなった。


 ……俺の推理が正しければスピッツの『チェリー』だと思うが。
 いや、確かなことは言えない。
 歌詞さえ聞き取れればと思うが、恐ろしいことに、歌詞さえ聞こえないのだ。
 なんだこれ。
 額を押さえる俺の隣でナラサチが笑い出した。ひとしきり、体をねじらせて大笑いした後、俺に聞いた。
「どうする? 取り消す? 今の入団許可」





(了)





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