XYXYXX (4) 覚えていることがある。 ある日、俺は学食の4人掛けの席で時間外れの昼食を食べていた。 一つ離れた席に女の子が三人いて、出たばかりらしいファッション雑誌を囲んで話していた。 ほかの人にもある習慣だと思うが、俺は公共の場で、素知らぬ顔をして他人の会話を盗み聞きしていることがある。勉強になるからだ。 女の子たちは「かわいい」「かわいい」と言っていた。 服なのかと思ったらスニーカー特集号であることが会話から分かった。 「これ、かわいくない?」 「かわいい」 「かわいいね」 ページをめくる音。 「あ、これかわいい!」 「ちょーかわいいね」 「ほんとだ。あ、これもかわいいよ」 「かわいー。ほしー」 「ね。これ、これと合わせたらかわいくない?」 「かわいい! かわいい!」 彼女たちは十分くらいこの会話を続け、ページが尽きたらしく互いに満足げな溜息をもらして雑誌から顔を上げたのだった。 俺は冷えたつけあわせのナポリタンを食べながら心ひそかに驚愕していた。 『かわいい』の侵略だと思った。 彼女らはコンバースやアディダスといったスニーカーを指して『かわいい』と言うのだ。それが何色のものであっても。決して『かっこいい』とは言わなかった。デザインがどうとか、重さがどうとか、実用性があるとかそういうことも言わなかった。 それはもちろん、実際にかわいい靴もあったに違いない。だが、決してそうではない靴だってあったはずだ。 あきらかに引き倒しが起きていた。すべての価値が大雑把にただ『かわいい』の一語に置換されていた。 正直に言おう。俺は、言葉を扱う人間だけに、それを白痴的だと感じた。ましてここは大学の学食である。高い学費を払う四年大学の大学生の感性がこれだとは。 しかしじきに俺はそれが、社会全体の方向だと知らざるを得なくなった。『かわいい』という言葉は以前よりもはるかに広範な意味と強い包括力をもって、多様なメディアで当たり前に使われるようになった。 今では、明治時代の建築も、恵比寿の大袈裟なホテルも、老舗の和菓子も、村上春樹の単行本のデザインも、キティちゃんも、ひげ面のハリウッドスターもみんな『かわいい』ものである。『かわい』くなければ、親しみが悪く、受け入れられづらいものである。 周囲の人間も、バカではないから俺と同様、それに気づいていた。 そしてなんとか、踏みとどまろうとしていた。 俺は特に演劇界ではそれを感じていた。舞台を見に行くたびに、装置や、衣装や、音楽や、メイクや、物語性そのもの、またチラシ、パンフレット、さらには劇場という空間そのものが、安易な商売に陥るまいとギリギリのところで抵抗しているのが感じられた。 例えばきわめて現代的でモダンな装置は作っても、決して「かわいい」とは言われないよう、大きさや色でつけ入る隙を与えないような努力が間違いなくされていた。 そして俺が金にならない演劇を好きな理由の一つに、その偏屈さは確かに含まれるのだ。 演劇はむろん客商売だ。なのに安易な大衆性を拒もうとする。これは自己矛盾だ。しかし小劇場の舞台はそれゆえに楽しくそれゆえに自由でもあるのだ。 大きな金に惹かれる人間は細かいことにこだわらず大きな商売をすればいい。テレビ局に就職すればいい車に乗れるだろう。 だが俺や、少なくない演劇人たちは、簡単にはこだわりを捨てきれない商売の下手な分野としての演劇が好きなのであり、その狭い界隈で細々とやっているのに慣れている。 もちろん思いがけなくドカンと受けてしまって、大きくなった元・小劇団もある。しかしそんな集団にもやはり商品化されることへの抵抗感というものは少なからず残っているものだ。 大衆化されることなく、生活ができるくらいの規模になりたい、というのが舞台に根付く演劇人の普遍のテーマであり、矛盾である。いわば、美大生が芸術家として世の人に認められながら好きな芸術だけで飯が食えるような状態になりたい、と願うようなものだろう。 どれだけバカげた願望でも、俺はこれは何か作る人間にとって、必須の矛盾であると思う。これがないような人間には、少なくとも作る側として、相手に友情を感じない。 「君? ――乾君?」 呼ばれてはっと我に返った。 俺は見慣れた病室で椅子に座っていた。 先生はベッドの上でいつものように姿勢正しく座っている。 いつかと同じ配置。俺の服が、夏のそれに変わり、白っぽいほど明るい窓の外から蝉の声が聞こえること以外は。 先生の顔は青かったが入院生活が長いせいなのか、俺のことを心配しているからなのか判然としなかった。 「大丈夫かい? 疲れてるのかい?」 疲れているのは事実だ。朝まで居酒屋のバイトをして、それからここへ来たので睡眠が足りていない。にしても、一瞬完全に意識が飛んでいたようだ。 「すみません。少し、ぼうっとしてました」 先生は気づかわし気に丸い目を俺に向ける。昔とちっとも変わらない、その小動物のようなまなざし。俺は慌てて彼を安心させなければいけなかった。 先生は俺に尋ねた。 「劇団が、うまく行ってないのかい?」 帰りの電車の中で、俺はまた考えに沈んでいた。 劇団がうまく行っていないのか? いや――うまくは行っている。行っているから、よくないのだ。 劇団プール第二回公演『ブループラネット』は昼夜合わせて六ステージだった。かなり強気な興行だったが、結果は、満員御礼だった。初日や二日目までは空席もあったが、その後は、当日券も売り切れる状況だった。 旗揚げ公演は惨敗だったから、劇団は沸いた。客からのアンケートの戻りもよく反応も極めてよかった。機を逃さずすぐに第三回公演をすることが決まった。ナラサチや伊達さんは今度は十ステージも行けるかもしれないと見込んでいた。 そう――好調なのだ。一時の停滞に比べれば、すべて信号が翻ったかのように好調に進んでいた。 では何が問題なのか? 確かに俺には世の中に出したい物語があった。表現したいことがあった。今、それがかなって祝福されていた。 しかし、自分はこういう形でやりたいのではなかった。それが俺の悩みと苛立ちのすべてだった。 『ブループラネット』では、主役の少年二人を、誰もが認める実力派の小島望と、ほぼ新人の林日出が演じた。この二人はもともと美形だが、衣装とメイクで少女漫画から出てきたみたいないでたちになった。 チラシもポスターも彼らの見た目の良さと、親密さ・絆を感じさせる見つめ合いの図像が選択された。 俺は狙いすぎだと思ったくらいだ。こんなのは恥ずかしいと。みなに失笑されてギャグになるのがとどのつまりだと思った。 それでも、とにかく加納とナラサチ、そして和田かおりをはじめとする女性陣が強く推すので受け入れた。 そうしたら、どうなったか。 俺は芝居の筋には手を付けなかった。にもかかわらず、三回目以降のステージが全席売り切れ、客席の九割が若い女性で埋まることになったのだ。 千秋楽には花が届きファンレターが届いた。大した数ではなかったが、そんなことは、これまでにはなかったことだ。 俺は自分が何をしたか悟った。女の子たちが大好きなものを、かなり望まれるままの形で放り投げてしまったのだ。男たちの中に無修正のエロ本を投げ込むようなものだ。それは、当たるに、決まっている。 俺は知らなかった。そこにものすごい要求があること自体に無知だった。ただ、なにかあからさまに分かりやすいパッケージになってしまっていることは、薄々感じていたが。 俺たちは宣材に少し手を加えただけだ。それで、伝統ある学生劇団『天球社』から分派した劇団プールはどうなったか。少女漫画やビジュアル系バンドが大好きなオタクな女の子たちが、主役二人の美少年に群がってきゃあきゃあ騒ぐような、そういう劇団になったのだ。そして俺はそこの主宰且つ座付き作家なのだった。 これに気付いた時、俺がどれくらいダメージを受けたか表現するのは難しい。 まず、俺は先生に正直な報告ができなくなった。だから先生は俺がこれまでどおりの、いわゆる小劇場らしい芝居を続けていると思っているだろう。 これまでの俺の芝居を見てきた人たち――特に『天球社』の人間と、先輩たちが、この事態を見てどう思っているか、想像するのも怖かった。たぶん彼らは笑っている。そして言っているだろう。 『乾がダメになった』『天球社の面汚しだ』と。 確かに俺は、芝居がしたかった。人に見てもらいたい物語があった。林日出という役者をそこで使いたかった。この先もまだ使いたい。評価されたい。黒字であってほしい。それはそうだ。それはそうだ。 だが、――こういう形ではなかった。 こんなつもりではなかったのだ。 気が付いたら俺は美少年芝居をやる美少年劇団の主宰になってしまった。 回り始めた商売は止まらない。伊達さんは欣然として俺に次回作を迫り、俺は書かざるを得ない。 スタッフも役者も成功に気をよくして前向きで、客が待っていることも分かっている。書かざるを得ない――彼女らの期待を裏切らないものを。 ナラサチは少し心配していたが、俺は、自分が書くことを分かっていた。ドツボにはまることを分かっていながら書くことを知っていた。 俺は人の期待を裏切れないのだ。書けない時は、水を浴びて、食事を削る。そうまでして、自分の首を絞めるとわかっている作品を書こうとする。俺はそういう人間だ。 バカなのだろう。 だからこそ、こんな分かりやすい場所へ陥ってはいけなかったのに。 この時、俺は混乱していた。 後から思い出すとそう分かるが、当時はそれを自覚できないほど混乱していた。 だからと言って、俺がしでかしたことを、正当化することはできない。 俺は自分自身に猛烈に腹を立てていた。その怒りを別の人間に向けた。立場的にも、性格的にも、抵抗する力がないとわかっている人間に。 許されることではない。 ――何をしたか、具体的に書こう。 その日は、練習日だった。公演と公演のはざまは、基本的には練習はなく、みなこの間にアルバイトなどをして生活に備えるのだが、時々集まってストレッチやトレーニング、エチュードをすることもある。スタッフはいないし、出席が必須ではないので自主練のようなゆるい集まりだ。俺とナラサチも含めて十人ばかりが、夏の暑い稽古場に集まった。 俺も彼女も稽古着だ。なお、林日出はいなかった。 ストレッチとウォームアップを兼ねたゲームを終えて、中休み中だった。ナラサチがやってきて、汗を拭く俺に囁いた。 「劇団『天球社』が、第11回のシアターARC演劇賞大賞に決定したって」 十分有名だと思うが、シアターARC演劇賞は、渋谷にある大きな劇場が主催する演劇賞だ。一年ごとに、有望な若手劇団・小劇団を表彰する。受賞した劇団は賞金を受け取り、劇場側とツテができ、シアターARCでの公演も約束され、大きなチャンスをつかむことになる。 芸術性や個性を確保しながら商業的成功を果たした劇団が必ず受けてきた賞であり、野心ある若手は受賞自体をひとつの目標とする。そういう賞だ。 学生らしい甘さを排することで『天球社』を厳しく鍛えたという主宰者・住友に対する、考えられる限り最大にして最良の褒章だった。 このニュースを聞いて、夏のさなかに体がひやりとしたことを覚えている。斜幕をかけたように視界の隅が真っ暗になって、体もうまく動かなかった。 たぶん、普通の状態で聴いてもその知らせは胸を刺すものであったと思う。まして俺は普通の状態ではなかった。 俺は抗うすべもなく考えた。住友が栄光をつかんだその時に、俺は何をしているのか? と。 みっともない、程度の低い女受けのいい芝居を書いて、呆れられている。しかもそれに足をとられて、抜け出せないでいる。 なんて誤りを自分はしでかしたのか。いや、『天球社』を出たことは間違えてない。だが、どうして俺の芝居を変形させられた時、抵抗をしなかったのか。されるがまま押し切られたのか? 分からなかっただって? 見ろ。あの壁に貼ってあるポスターはなんだ? 一年前の俺なら失笑した。あれを見てもなお、分からなかったというのか? あれを先生に見せられるのか? あれを見て住友や先輩たちがなんと思うか、予想ができなかったというのか? お前はバカか? いったいどうしてこんな寒いところにいて、こんな暗い泥沼にはまっているのか。 いつもそうだが、ナラサチは俺の気分の変化を見て取って気を利かし、その後を仕切った。 後半はエチュードだった。短い寸劇を用意し、チームに分かれて練習後、披露しあう。寸劇はリアルな場合も荒唐無稽な場合もあり、普通なら楽しい稽古だ。 しかし俺は上の空だった。人数の都合もあって俺とナラサチは外れ、審査側に回る。俺はただ椅子に座って、三つのチームが順番に芝居をするのを見ていた。 薄墨の流れる俺の意識を、冬の静電気のようにいらだたせるものがあった。伊積陽生だ。その芝居だ。 違う。 身体性だった。 彼は何か変にぐにゃぐにゃした動きをした。身長は高く、プロポーションは悪くない。だがいざ動かしてみると、妙に腰が据わらず、関節が曲がりがちで、重みがないのだ。 第二回公演の時も、気づいていた。彼は脇役で、四六時中舞台に出ているわけでも、センターで長台詞を言うわけでもない。が、舞台の端にいてもその奇妙な動きは目についた。 むろん俺は再三注意していた。本番の幕が開けてからもしていた。それで改善される部分もあったが、依然として、彼はヘンだった。――そう、『ヘン』なのだ。 伊積陽生は変なのだ。 なんなんだよ、その動きは、と俺は思った。バカにしているのか。それでも役者か。 俺の舞台を素人くさい動きで台無しにしやがって。次の公演でも同じことをして、その上、安易な成功にへらへら笑って幸せになるつもりか。 エチュードは終わり、順番に平和な意見の出し合いがあった。もう稽古は終わる時間だった。 「伊積」 全員を集めての最後のあいさつの前に、俺は彼を突然呼んだ。 「後でちょっと残れ。――以上で稽古は終了。次回は27日だ。解散」 目をぱちくりさせている伊積以外の人間は一斉に「お疲れさまでしたー」と頭を下げ、ばらけていく。みな暇でなく、それぞれに用事があるからだ。 ナラサチは残りたそうな顔をしてそわそわしていた。 「居残りするの? ……わたし、バイトなんだけど……」 「そんなに長くやらない」 ナラサチは少しも安心した様子でなかった。むしろもっと不安になったように周囲を見回す。小島が配慮を見せた。 「俺、付き合って残りましょうか? 今日はたまたま大丈夫なんで」 「あ、小島君、いい? 助かる。あんまり無理させないでね」 「了解です」 「――じゃ、上がるから。コウ! 考えすぎちゃダメだよ!」 俺はほとんど聞かずに、ゆらゆらと傍にやってきた伊積を暗い目で迎えた。 彼は逆らいはしないが、さりとて歓迎している状態でもなく、聞けば当然『帰りたい』と言いそうな様子だった。そういう気後れをいつもの締まりのない笑みで紛らわしつつ、体を左右に揺らしていた。 「時間大丈夫か? バイトとかあるのか?」 「あー……、大丈夫、ですけど……」 従順な態度に、手加減を乞うような笑み。それは俺の神経を落ち着かせるどころか逆撫でした。ちなみに彼は髪を切って、今はワカメではなくなっている。ただ前髪が長すぎだ。眉毛がほとんど隠れている。不精な高校生のようだ。 「前の公演の時も気になったんだが、お前は動きにクセがある。舞台の端で動いていても気になって邪魔になる。直してほしい」 「えー。そうですか? 自分では、分からないけど……」 「小島。お前も気づいてるだろ?」 二人共の視線を向けられた小島はそれでも静かに受け流す。 「ええ、まあ……。個性だから悪いものとは思いませんが」 落ち着いた声と、落ち着いた身体性。 無理なく自然であって、罪悪感のかけらもない。 これだ。 これが当たり前の人間だ。 「もちろん個性でもある。ただ、役者ならコントロールができないのは困る。全体の足を引っ張るからだ」 「そんなに引っ張ってました?」 俺は伊積の悲し気な言葉を無視した。 「試しにやってみよう。『ブループラネット』の第三場。お前と小島、和田のシーンがあるな。和田のセリフは俺が言う。どこか分かるか? じゃあ配置につけ。実際にやったのと同じようにやってみろ」 「――なんか、コウさん、怖いんだけど」 控えめに助けを求めるようなその言葉も無視した。 俺と、俺の指示に従った小島が配置について待っていると、観念したらしく彼もそろそろと配置に着いた。俺は役者と演出の両方の役をやった。和田の位置に着いた状態で、「よーい――」からパン! と手のひらを打ち鳴らす。この合図で芝居が始まる。 小島の台詞。 「『じゃあ、なにか? 僕らはまだ幼年期なのか? もう十八歳なのに?』」 和田の台詞。 「『海王星人は寿命が地球人より長い。成長もゆっくりだ。第二次性徴はこれからだよ』」 伊積の台詞。 「『そこからが大変だ』」 小島「『大変?』」 伊積「『爪が伸びて口が割れて目が血走って頭から角が生えてね。一説によるとなまはげは海王星人をモデルにしたものと言われているよ』」 和田「『嘘を言うんじゃない。ただ、異形になるのは確かだ。じきにわかってくるよ、坊や。それからウチに来てもいいけどね。警告だけはしとく。いずれすべて露見し崩壊する。つらい目に合うより先に自分ですべてを諦めてここへおいで』――ストップ。そこだ、伊積。どうして歩くときにそんなに体が揺れる?」 「……」 「普通に歩け。ほら、歩いてみろ」 伊積は俺の指示したとおりに歩いた。気を付けたのだろうが、どうしても、下半身が揺らいでいる。 「小島。歩いてみろ」 それから俺は小島の歩く姿を彼に見せて、それのようにやれと命令した。伊積は黙ったままだった。 次の場面に移った。俺は、執念深く、伊積の出現するシーンを残らず覚えていて順にやっていった。 予想通り伊積が妙な動きを見せると、俺がやったり小島にやらせたりして比較した。 だが、面白いことに、伊積はどれだけ俺達が手本を示してもその通りにはできなかった。努力はするのだ。ある程度近づくのだ。しかし、どうしても最初から芯が通ったような動きはできなかった。そのできなさは、不思議なほどだった。 格闘シーンなども含めて繰り返し繰り返し練習するうち、いかに夕方とは言っても、俺は汗だくになっていた。もちろん小島も伊積も同様だ。小島の前髪も落ち、伊積のTシャツの前は汗で濡れて皮膚に張り付いている。 疲れてくると、伊積の動きはますますくにゃついてきた。そうなのだ。芝居も後半に行けば行くほど彼の動きの変さは目立った。後半に大立ち回りがあったので、さらにそうだった。 確かにそれはいつかは解決されねばならないものだった。特に終盤は芝居のトーンから浮き上がっていたからだ。 だが、それは、決してこのような形で是正されるべきものではなかった。 小島が言ったように、役者の身体性は個性だからだ。声と同じで、だれか一人に似せて、矯正などすべきものではない。 この日、俺はいったい何をしていたのか。 怒りにとりつかれていた。伊積の、へたへたした動き――男性らしからぬ動きが、理屈に合わぬほど憎かった。 どれだけ指摘しても命令しても決して治らないそれが、癪に障り許せなくて体が震えたのだ。 なんなんだ。お前は。と、考えたことを覚えている。 男のくせに、赤い唇をして、そんな動きをして、ふわふわ笑って、許されると思ってるのか。 「そうじゃない。なんでそうなる! こうだ!」 勢いあまって手首をつかんだ瞬間。自分でも、やりすぎたことが分かった。 さあっと引いていく自分の血の気の音を聞きながら、俺は、伊積の顔を初めて至近距離からまともに見つめた。 伊積は、表情はあまり変えなかった。ただ、体は引いていて、されるがままになりながら、明らかに怯えていた。 細い手首を握ったまま、彼の光る眼と視線がぶつかった瞬間、俺は突然、あることを悟った。 「――コウさん……!」 小島が俺の肩を掴んで引いた。たぶん小島も驚いただろうが、俺の力はとっくに抜けていて、ほんのひと払いで伊積を放し、二人と一人の間に距離を生んだ。 緊張と疲労に潰されたように、伊積はその場にしりもちをついて倒れこんだ。それから、さっきまで俺が握っていた右手首を、無言のまま、自分の左手で触った。 恥じるように、彼は垂れた前髪の中に表情を消した。赤い唇が、震えていた。 「こ、コウさん……。彼は……」 囁くような、小島の言葉が暗示することを、俺ももう、分かっていた。 そして俺は自分自身の加虐性に慄然とした。 いったい俺は彼に何をしているのか。 狂った小芝居を演じる俺たちを、壁のポスターの二人が、微笑んで、見つめていた。 (了)
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