XYXYXX (5)




 例のことがあった翌日、アパートで俺はナラサチに拳固を食らった。
 座っている状態で実際に上から脳天をグーで殴られた。
「馬鹿者」
 彼女は父親のように仁王立ちになって見上げる俺を睨んだ。
 しばらく半月のような目で俺の顔を見た後、続ける。
「辞めたいなら辞めたいと言えばいいだろうが」
 机の上の一向に進まない新作ノートに首を傾げるようにする。
「逃げたいなら逃げればいい。それをしないで、人をいじめるなんて――」
 ごん、と同じところをまた殴られた。
「馬鹿者」


 本当にそれだけをするためにナラサチはアパートに寄ったようで、すぐにまた出て行った。
 俺は一人で座卓の前でうなだれた。
 顔に血が上る。恥ずかしかった。
 何もかもバレているんだな。と思った。
 逃げたいと思っていることも。でも逃げられないと思っていることも。その鬱憤を晴らすために、一番脅威でない、いかにもバカにしやすい、伊積を標的にしたことも。
 垂れた前髪の中に手を入れて額を抑えた。
 こんなぼろくずみたいな人間。
 いったいどうしよう?




 俺はまた食事を抜き始めた。
 これは癖で、書けない時、落ち込んだ時俺は食事をスキップし始める。
 飲み物は飲む。しかも意外と倒れたりすることもない。
 もちろん体調はおかしくなるのだが、その酩酊する感じ、血の足りない感じ、体が動かない感じが、むしろ俺に正気を運んでくるような気がするのだ。
 鞭で叩かれて目が覚めるように。
 飢餓状態の時俺は一番真実を感じる。
 ――そうだ。人生というのはこういうものだ。人はそれを幻想の言葉やキャッチコピーや包装紙や砂糖にくるんでごまかしてしまうが、本来人生というのは、片足に暗い死を踏んであるものだ。
 それが俺の冷静の出発点で、ふるさとだから、多分危機を感じると一旦そこに戻ろうとするのだと思う。
 その甲斐あってか、ようやくのろのろと本は進み始めた。
 俺は練習のたびに出席し、役者たち、特に俺に前作を書かせた林日出を可能な限り観察した。彼から得られるものをすべて得ようと努めた。
 とにかく俺はこれでしか、人の役に立てないのだから。
 迷惑をかけた彼らに戻す手段がないのだから。
 『天球社』にいた頃も同じような思考で芝居を作っていた気がする。
 ところで林日出は今、小島望と仲が良かった。稽古場でもたいてい一緒にいて何かしらしゃべって笑い合ったりしていた。
 そういう時の彼は、少し怠惰な印象を与えるだけで普通の青年に見えた。
 これまで、伊積と一緒で小学生みたいにだらだらしている姿ばかり目にしていたからなんだか意外だった。
 小島も楽しそうにしている。小島ははっきり聡明なタイプだが、日出は賢いのかそうでないのか。明るいのか暗いのか。不思議な人間だ。
 とはいえもちろん、相変わらず伊積ともつるんでいる。俺は二人が一緒の時は目を伏せた。
 伊積とはあれから話をしていなかった。稽古場で集団であいさつを交わすことはあっても、互いに視線を合わせなかった。
 当然だ。
 俺はほっとしていた。彼がやめる、と言い出さなかったから。もしそうなっていたら俺は拳固じゃ済まなかっただろう。多分完全に今度こそ、『プール』は終わりになったに違いない。
 そして俺はいかに自分が卑怯なネズミ野郎であるかをまた思い知り、空っぽの胃がねじれるような気持ちがするのだった。




 こけつまろびつしながら、ようやく新作が八割がた完成してきた頃だった。
 その日も稽古場に集まっていたら、急に事務所のほうが騒がしくなった。
 俺たちはエチュード練習の最中だったのだが、和田が「――住友だ!」と漏らした瞬間に全員の集中が完全に途切れて中断となった。
 狭い事務所の窓に、フラッシュライトがぴかり、ぴかりと瞬くのが見えた。やがてカメラマンの姿も見えた。住友の姿はまだ見えなかったが、取材だと分かった。
 角材とベニヤ板でハンドメイドされた扉が開いて、稽古場に彼が現れた。黒い色のTシャツの上にジャケットを掛けていた。それよりもっとラフな格好のカメラマンとライターらしき男性を一人ずつ伴っていた。
 俺の最後の記憶にある印象よりも、ずっと大人の男に見えた。
「あ。おはようございます。すごい偶然だ。乾さん達だったんですね」
 彼が口を開くまでの間に、まず、和田がすーっと壁際へ退いて、ほかの役者の背後に身を隠した。役者たちのあるものは目を輝かせ、あるものは『どういう状態だ』という顔をした。そして俺は、保護者でも探すみたいにナラサチを探したが、あいにくこの日は彼女はバイトで自主練に参加していなかった。
 汗で背中が冷却されるのを感じた。それくらい、俺は狼狽した。
「いやあ、本当に懐かしいなあ。高校の時からここにはよく出入りしてたんですよ。ここに来たらチラシがいっぺんにもらえるから。ほら昔は全部自分で集めるしかなかったじゃないですか。
 ――ええと、その人は、僕の先輩で、乾さんです。今自分が主宰をしている『天球社』の前の主宰者でもあります。乾さん、ごめんなさい邪魔をして。リクルートの取材なんですよ」
 リクルート社の雑誌か何かの取材だということらしい。
 彼らは稽古場の中まで進んできた。入り口で立ち止まらなかった。
 みんながなんとなく退いて明け渡した空間に彼らは立ち、非常に妙な、極めてすわりの悪い空気が生まれた。
 俺はその頃までには立っていたのだが、何と挨拶したらいいのか分からなかった。
 彼の態度に悪意はないように見えたが、しかし稽古場に踏み込まれるのはやはり、無礼な感じも受けた。
 はっきりしないので、こちらも困った。
 向こうは友好的に近づいてくるでもなく、中間に止まったままだ。何か? 俺が歩み寄るのを待ってるのか? そして『おめでとう』と言われるのを待ってるのか? カメラマンは何故この写真を撮る? ライターはどういう文章を書くつもりだ?
 結句、三十秒ほど経つ間に俺が考えたのは、やっぱり『何しに来たんだよ』だった。
 昔の演劇仲間に再会&祝福の図を撮りたいというのなら、もっと別のところに行くべきだろう。あきらかに俺たちのところじゃなくて。
 確かに俺らは『天球社』から人材を得たかもしれない。でもたとえ偶然でも、そんなことまで要求される筋合いはないと思うぞ――。
 不自然な位置にとどまっている住友に、俺がついにあらわな困惑のまなざしを浮かべたのと完全に同時だった。人の脳天から出て宇宙まで突き刺さりそうなほどハートまみれのハイノートが、その場の全員の鼓膜を震撼させた。
「キャー! わあ、住友さーん!! お久しぶりです!! イズミでーす!!」
 俺も飛び上がるほどびっくりしたが、住友も同様で思わず視線が俺からずれた。間髪入れず、その体に伊積の例のへたへたの、腰の据わらない体が風に飛ばされた洗濯物のように抱きついた。
 住友がよろめき、「うわあ」と声をもらしたのを俺は聞き逃さなかった。
「い、イズミさん」
 イズミは大きな、大きな、大きな声で言った。
「シアターPARK演劇賞おめでとーございまーす!!」
 みんながどっと笑った。
「イズミ! ARC演劇賞。ARC!」
「あれ? そうなの? 公園じゃないの? 竹下公園のことだと思ってた。すいません。おめでとーございまーす!!」
 イズミは住友を放し、両手を胸の前でぱちぱち叩いた。つられるように、みんな叩いた。俺も叩いた。俯いて息を吐きながら。
「あ。えーと、この人は、イズミさんと言って」
 住友が体勢を立て直しながらライターに話す。カメラマンがカメラを構えていると知ると、イズミはさっと住友の腕をとって顔を寄せピースサインまでした。
 プリクラを撮る女子高生みたいに。
「伊積陽生でーす。元『天球社』でーす。役者でーす。よろしくー」
 ライターが言う。
「わあ、イケメンですね」
「そうなんですよー。イケメンなんですよー。住友さんほどじゃないんですけどー」
 住友は笑うしかない感じだった。イズミはその手を離さず左右に振る。
「今度また公演やるんで、見に来てくださいね。住友さん!」
「うんまあ、行けるかな……」
「チケット送りますんでー百枚くらい」
「送りすぎでしょう。――あ。あれが前回のポスターですよね」
 住友が稽古場の壁に貼ってあるポスターを見つけて寄った。取材陣もイズミも一緒に動く。
 住友はしばらく、美少年二人が大写しになったポスターを見ていたが、急に俺のほうへ首を反らして言った。
「すごい入ったそうじゃないですか、乾さん」
 俺はまだ机の前に立っていた。返事をする前に彼は継いだ。
「評判は聞いてますよ」
 くすっとその口元が綻ぶ。
「予想もしない分野を開拓されたみたいで」
 やっぱり、三十秒くらいの間だったのだろうか。
 俺はゆっくり腕を組んだ。
 大丈夫だ。冷静だ。
「――『天球社』とは少し違う戦略で人を使ってるんだよ」
「みたいですよね」
 住友の目が稽古場を見回して、小島と共に立つヒノデを、それから和田を見つけた。
「あの人は休みですか?」
「ナラサチ?」
「加納さんです」
「加納? ――あ、ああ、彼女はスタッフだから」
 ああそうかと住友の口のなかで言葉が回った。
「公演に来たらいますよー! また来てください! チケット送るんで! 百枚くらい」
 イズミはまだキャーキャー騒いでいる。
「あと『天球社』のチケットもください! 手に入らなくて! 二百枚くらいください! テンバイ! ひと財産!」
 住友が苦笑する。取材陣も苦笑する。笑いの中で誰かが思わず、という感じでこう言った。
「ほんとバカだな……」
 そのあとすぐに彼らは出て行った。イズミは最後まで扉に張り付き「お疲れ様でーす! またー!」と声をかけ手を振っていた。
 俺は十分休憩を宣言した。俺自身、気を取り直さないと練習に戻れない。イズミがなにか『やりきった』感じでヒノデのところへ戻っていく傍らで、和田かおりがほうっと大きなため息を吐いていた。


 多分びっくりさせられたことへの怒りが大きいのだろう。和田は結局憎まれ口をしまっておけなかった。
「何しに来たのよ、あいつはもう!」と練習が終わった後も言っていた。
「こんなところまで来て、成功を見せつけて! イヤミったらしい! ――加納ちゃんにフラられたくせに!」
 俺だって「え?」と思ったのだから周りの人間だって反応した。
「そうなんですか?」
 と、小島。
「だって、そうじゃん。住友は実力のある人間が大好きでしょ。だから加納ちゃんのことは大好きだよ当然。一時すごいグイグイ行ってたんだけど、加納ちゃんは拒否アンド逃亡。なのにまだ言うか! もーほんとびっくりしたわ、さっき!」
「ああ、そうなんだ」
「へー、知らなかった」
 俺も胸の中で『ああそうなんだ。へー知らなかった』と呟きながら、荷物を持って、稽古場の隅に行った。
 そこにイズミがいた。一人で座り込んで携帯をカチカチいじっていた。
 あの一件以来、ここまで近づいたのは初めてだった。
 イズミが気配に気づいて顔を上げ、またすぐ携帯に目を戻した。
 俺は立ち続けた。相手が終わるまで待っていた。
 沈黙が続く。イズミが遠慮をしたのか、指を動かしながら口を開いた。
「――ヒノデ、明大前にどう行ったらいいか分からないとか。本当に小学生みたいだ」
 先に出た彼のために乗換案内をしているらしい。
「なにか、話ですか?」
「礼を言おうと思って」
「はい?」
 俺は座り込んだままの相手に頭を下げた。
「今日は正直、助かった。恩に着る」
 イズミは手を止め目をまんまるにした。あ、こんなに丸くなるのかと思うくらい。
「何のことです?」
「……住友が来た時に。ナラサチもいなかったし。お前が騒いでくれなかったら、どうにもならなかった」
「いや、俺別に、普通にミーハーなだけですし。カメラあったからテンションが上がっちゃって。キャーキャー! みたいな」
 お疲れ様でーす。という声が幾度か響いて、それにこちらも返しているうちに稽古場は静かになった。
 もともと俺は最後に出る予定だったが、もう俺と彼の他、誰もいなくなった。
「俺のことを助けてくれなくてもよかった」
「だから、別に助けるとかそういうのじゃないですって」
 変わらず携帯をカチカチしながら彼はついに微笑した。
「助けになったなら、そりゃー、良かったですけど」
 俺は彼を斜め上から見ていた。前にも言ったように、俺は彼をイケメンだと思ったことは一度もなかった。変な顔だと思っていた。今、改めて見てもやはりそう思う。
 彼は白すぎる。唇も赤すぎる。伏せられた目は筆で描かれたよう。現実味がない。異形だ。
 沈黙を続けるのが悪いと思ったのかどうか知らないが、イズミがまた口を開いた。
「そういや、コウさん。俺ね、今、毎朝ランニングして、筋トレもしてますよ」
「えっ?」
 と俺が聞くまで間があったと思う。聞く前から、答えが分かっていることが、時々人生にはある。聞いた時にはもう勝負がついている。ただ負けるためだけに尋ねる。
「筋肉がついたら、もう少し、俺の動作もましになると思うんで」
 椅子と机をすべてどけた教室のような稽古場の空間に、しばし、ボタン操作のかすかな音だけが響いた。
 やがてそれが終わる。イズミは目を伏せたまま、鞄を引き寄せ、中に携帯を放り込んだ。
「イズミ。お前はどうして『天球社』に入ったんだ?」
「はい?」
 彼は俺を見上げた。前髪の中で目が光っていた。
「――がつがつ、役を取りに行くタイプじゃなかった。今もそうだ。なんでわざわざ苦労して芝居をしてるんだ?」
 とくに俺みたいなバカで間抜けな主宰がやっているこんな弱小劇団で。
 彼は確かにそこにいるし、練習とあらば真面目に出てくる。舞台でもちゃんとする。ただ、自己主張がなく、言われたことはするが、情熱が見えない。
 だからどうしてここにいるのかが分からない。ただ流れに身を任せているだけに見える。
 それで俺とか、住友のような、成績はいいし一見賢げだけれども、その実他人を見下しがちなバカにバカにされる。
 俺はそれを知る必要があった。自分が二度と同じことをしないために。
 床に座ったまま、イズミはちょっと唇を前に突き出した。少し、『先生』のことを思い出させる仕草だった。
「うーん。まあ……。色々ありますが」
 マンガみたいに頭を掻く。
「なんでお芝居を始めたかって言うと。――えーと。小学生の時に、劇団四季を見てですね」
 俺の位置からは彼の鼻先と、左右に振られる両手しか見えなかった。
「役者になればきれいなドレスが着られると思いました」


 彼は俺を見上げた。
 にっこりと笑った。
 俺は鳥肌が立った。
 初めて彼の魅力の水滴を吸った気がした。




 俺は家に戻って、台本の続きを書き上げた。
 何故だか彼のくれた梅の香巻をかじりながら。





(了)





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