XYXYXX (6) 劇団プール第三回公演『あの碧へ還る日』の興行は成功だった。 劇場を移し、収容人数が百のステージで十回公演。俺は恐ろしくてしかたがなかったが、結果は平日のマチネ以外ほぼ満席だった。 役者たちからもスタッフたちからも、明らかに同じ客が三回、四回と見に来てる。千秋楽にもいた、といった報告を受けた。またしてもファンレターが集まり、お菓子の差し入れなども来た。 数日後収支計算を終えたナラサチが制作スタッフと一緒に俺に報告をしてくれたが、その後お互いに顔を見合わせていた。 いや、もちろんそれは、大した黒字額ではない。企業に勤める月給取りが聞いたら笑うような収支報告だ。 しかし、俺たちがこれまで慣れ親しんできた数値に比べたら、大きかった。しかも増収のペースが速かった。 三回目の公演でここまで堅い結果を出せるのは当たり前ではない。というより三回目くらいで失速してその後が続かない小劇団は山とある。 自分たちが今手にしている結果は逆だった。それは明らかに「行け」と告げていた。 「雑収入が増えてるの、分かる?」 リスのような目をクリクリさせている制作の女の子の隣で、逆に恐れ入ったような顔でナラサチがペーパーの一点を指す。 「――写真?」 「写真」 俺の回答に彼女は頷く。 三回目公演にはトラブルもあった。もちろん。届く予定であったパンフレットの仕上がりが遅れたのだ。いつも格安で引き受けてくれていた印刷所があったのだが、不況のあおりを受けて操業が滞り、急遽別の印刷所に出すことになった。そこも事情を汲んで頑張ってくれたのだが、初日の公演に間に合わなかった。 俺らが困っていると、すっと手を上げたのがまたしても加納だ。 『代わりに、写真、出しましょう』 役者たちの写真を――いや、正しく言うべきだろう――『生写真』を、パンフレットを販売する予定だった場所で販売しようと言い出したのだ。 白状する。 俺は、引いた。 まさかそこまで! と思った。 何より、役者たちが嫌がるに違いないと思った。考えてみてほしい。自分の写真が誰かに買われ、誰とも知れないその誰かの家に持ち帰られるのだ。 ところが、役者たちの反応は違った。むしろ嬉しそうだった。 『わーい! かわいい写真いっぱい撮ってもらおー!』 能天気なイズミの反応はまだ予測できた。 『どうでもいいんじゃない? 金になるならやれば』 ヒノデはとかく投げやりだ。 俺はすがる思いで小島を見やった。彼はすました顔でキョロリと俺を一瞥し、言ったものだ。 『’こんなシーンを待ってたぜ’』 俺の愕然は顔に出たと思う。 『功名心があるから、役者なんてやってるんですよ。思い出すなあ。学校のそばにあったおもちゃ屋にジャニーズの生写真が並んでた。驚くほどの手じゃないし、やってダメなら笑ったらいいじゃないですか。枯れ木も山のなんとやらで』 普段よりも口数が多い彼の隣で、和田かおりまで頷いた。 『左に同じ。ちゃんとメイクしてくれるんでしょ? 衣装? 私服?』 ――まったく、役者って生き物は!! 初日だけのつもりだった。二日目のマチネにはもうパンフレットが到着していた。 だが、今度は客からリクエストがあった。初日に写真を売ってたと聞いた。欲しいんだけど、もうないの? その晩の公演にはもう写真売り場が復活していた。 千秋楽にはサイン入りまで販売されていた。その前に女の子たちがたかっているのを俺も目にした。俺らはまた新しい世界に入り込んでしまった気がする。 「バブルのころに比べたら出版も芸能も不況だっていうし、色んなものが売れない売れないって話はよく聞くけど、――お金出す若い人たちも、やっぱりちゃんといるんだね」 「……グッズ販売とかを、新感線さんがやってるのは知ってたが……」 「ちょっと客層近いかもよ。アンケートの結果とかを読むと。今度まとめておくから読んで。あと、加納ちゃんが言ってたんだけど」 今度はなんだ? 「次回の公演から、シリーズ化したらどうかって」 「え?」 「話を一回の公演で終わらせないで、連続ドラマみたいに続く形式にしたらどうかってことでしょう」 しばらくの間、沈黙の中で互いの顔を見合っていた。 「そうすると、集客が見込めるっていうことだと思うよ。加納ちゃんのことだから」 「見たことあるか? シークエンシャルな舞台って」 ナラサチは、とっくに考えていたらしく、首を振った。 「世界観をゆるく共有した舞台っていうのなら、ある気がするけど。基本的に、映画と一緒で一話完結だからね。読み切り? ――たださ、映画で言うなら『ハリポタ』とか『ロードオブザリング』とかも、あるわけじゃん」 初めから連作構成のシリーズ映画だ。 確かに、最近多いが。 「加納ちゃんが言うにはね、キャラクターが一話限りで終わっちゃうのが惜しいんだって。客はみんな、コウの描くキャラクターが好きで来るんだって。もっとそのキャラのエピソードが欲しいんだって」 なんだか演劇というよりアニメとかライトノベルの話をされてる気がする。 そして俺は、申し訳ないが、ああいうオタク系文化が苦手だ。 「まあそんな顔しないで。考えといて」 俺の小さな脳みそのことなど知り尽くしているナラサチがさっと退いて、収支報告は終了となった。 俺たちは大学近くのなじみのファミレスにいた。リス顔の女の子がジュースの残りを吸い上げ、「バイトなんで」と先に席を立つ。 「あ、いいよ。ここはこっちで出しとくから」 「そうですか? ありがとうございます。お疲れ様でーす。また次回」 ナラサチはテーブルに置いてある白い感熱紙の伝票を引き抜きながら言った。 「コウもいいよ。こないだコーヒーおごってもらったし。今日はこれからバイト?」 「駒場に芝居見に行く。宮原の」 「ああ、岸ちゃん出てるやつね。よろしく言っといて。私も明日か明後日には行きたいんだけど」 「分かった。バイト?」 「うん。居酒屋。――なんか、面白いよね」 「?」 「私らさあ、もう何年も、芝居やってバイトやってってのが当たり前になってて。頭が良くないよね。もちろん芝居は真面目に作ってきたつもりだけど、それでお金を稼ぐことは、それほど真剣に期待してなかったと思う。芝居って金にならなくて当たり前だっていう思い込みがあって。だから、今回みたいに思ったより稼げると――なんか、当惑しちゃう。悪いことでもしてる気になる」 俺は少し俯いて正直な声で話すナラサチをずっと見ていたかった。しかし彼女は顔を上げる。 「そこに向き合わないといけない地点に来てるよ、今。みんなのおかげでね」 はっきり言って、金を稼ぐことに関して俺は完全に無能だ。 特に楽をして金を稼ぐことを賢さとするなら俺の偏差値は底辺だ。 今こうして目の前に『ビジネスチャンス』が開けても、間抜け面で罪悪感に打たれてぽかんとしているだけ。 『行け』『行け』と結果は囁くが、俺はむしろ競技開始のピストルの発砲を恐れている。 駒場に移動する道すがら、空いた井の頭線の中で俺はぼうっとしていた。考え事をしていたとも言い難い。 しかし感覚というのは面白いもので、向かいに座った女性達の会話の内容がふと舞台に及ぶと急にそれが大きな音で耳に割り入ってきた。 そういえばね、このあいだ、私、江東区にミュージカルを見に行ったのよ。 ミュージカル? どうしたの? どういうの? それがね、ほら佐々木さんいるでしょう。テニスで一緒の。あの人の奥様がね、市民ミュージカルの劇団に入ってらして、それでチケットをくれたのよ。だから見に行ったんだけど……。もうそれが、ひどいのよ! あはははは。 ほんとうに、ほんとうに、ひどいの。もう、踊りはバラバラだし、歌なんてグラグラよ。見てる人がみんな笑うの。それで、長いの。二時間近くもあるの。ほんと私、参っちゃったわよ。 チケットもらったの? 買ったの? もらったのよ! ああ、じゃあまあよかったじゃない。 けどね。もう家に帰してくれって気になるのよ! 本当に途中で帰りたかったわよ! お金払ってもいいから! 俺は連れの上品そうな女性が手を叩いて笑うのを目線をやることなく見ていた。 本当に、ああいう素人のやるのを見ると、ああ、ほんとプロってすごいんだなあって気持ちになるわね。テレビなんか見てると歌手とか芸人とか、バカみたいじゃない? 変な格好をして。でもあの人たち、本当にすごいわ。 私も前、つきあいでギター教室の発表会みたいなの行ったことあるのよ。結構立派なホールでやるのね。その時のチケットたしか二千五百円くらいしたのよ。でもおつきあいあるから四枚くらい買って……。 結構誰でもできるのよね。 そう、その気になれば、誰でもできちゃうのよ。それでスケジュール表で見たら、プロのピアニストとか噺家さんと並んじゃうの! それで花もらってね。さぞ本人は、いい気分でしょうねえ! 駒場に着いて、劇場に入った。 平日のソワレだ。 引き比べるものではないが、実際、俺たちの第三回公演のほうがずっと混んでいた。 ただ劇団のカラーはもちろん違うし、そもそも、小劇場なら、こんなものだ。ここがとくべつ不人気なのではない。 客席へ入ると前が桟敷席で後ろ半分はパイプ椅子が並んでいる。空いた椅子に座ると、開演まで山と渡されるチラシを眺めた。 何人か知り合いにも会い、挨拶のために立つこともあった。 慣れた動作をしながらとにかく考えるのは、客層がまるで違う。ということ。 駒場東大前の劇場。客も大学生くらいの年齢の人間が多い。あとは見るからに役者や舞台関係者。男女比は一対一。それで開演までに七割くらい座席が埋まる。 こんなものだ。そうだ。こんなものだ。 芝居は面白かった。賢くて品が良くて刺激になった。 チケットをもらったから、一言挨拶をしておこうと思い、終演後楽屋に向かう。 そこで俺は、住友に会った。 目当ての楽屋に行く手前の廊下に彼はいて、出演した女優の一人と話していた。俺を見ると二人とも挨拶する。俺も挨拶して、目的通り楽屋に入り、劇団の主宰に礼と感想を言って、邪魔にならないようにすぐに出た。 「乾さん」 一人になった住友が俺に声をかけてきた。 立ち止まらない理由がなかった。 「おお。……こないだ、ありがとな。雑誌わざわざ送ってくれて」 例のリクルート社のあれだ。結局バイト雑誌のフロムエーだった。 「イズミが大喜びしてたよ。雑誌に載ったって」 「いえいえ」 公演前だからもう二、三か月前の話だ。狭い廊下で再会した住友は、さらにそれより大人になったような気がした。いつ見ても服がジャケットというのもあるかもしれない。それに、なんだろう。正直言って、彼にはほかの演劇仲間には感じない一種の怖さを感じた。 ひとたび彼の前に雑誌だろうが映画だろうが差し出せば、手厳しい言葉がすぐさまその口から飛び出すのではないかというような気配。 される側ではなく、ジャッジする側のオーラ。 しかも何故か、無条件な。 今も彼が呼び止めたのに会話に間が生じ、しかもそれを向こうが埋めようとする様子はない。仕方がないので、俺は言った。 「受賞記念公演、大成功だったらしいね。いろいろ雑誌とか見たよ。おめでとう。なんかもう完全に職業舞台人って感じだな」 彼は壁を背にほとんど動かぬまま、口を開閉して話す俺を見ていた。それから言った。 「乾さんこそ三回目の公演のご成功、おめでとうございます」 俺は少し驚いた。 「来てたの?」 「いえ。チケットはお送りいただいたんですが、忙しくて。役者やスタッフが何人か行ったと思います。それに評判は聞いてますから……」 その間も廊下をスタッフや、別の関係者が出たり入ったりした。俺はここで二人で話していては迷惑になると考え始めた。 「また話聞かせてくれ。ちょっとここ狭いから俺行くわ」 「乾さん」 呼ばれて振り返る。正直、もう息苦しい場所から出たいと思いながら。 俺を見る住友の眼差しが、岩のように硬く鋭く光っていた。 「自分は職業人として、本気でこれからの舞台芸術の発展に寄与するつもりです。大学も退学しました」 照明の筋が見えるほど埃の飛び交う廊下で、自分がどんな顔をしていたのか想像もつかない。 息と一緒に感嘆の情を吸いこんだのは確かだ。 次の言葉に吐き出す動作を忘れたのも。 「売名だけが目的の悪質な連中は積極的に潰していくつもりです」 夜の最寄り駅に着いて、アパートまで歩く十五分ほど。暗いコンクリートの上に書かれた白い線をひたすら目で追いながら歩いた。 蝉の声の代わりに、虫の声が鼓膜を覆いつくしていた。 その夜から俺はまた、食事を抜き始めた。 (了)
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