XYXYXX (7)



 当時の俺はこうした突発的な断食を繰り返していたので、それぞれについて期間や深刻さなどは覚えていない。
 自分の中に物差しがあったらしく、ある程度「満足」すると精神的な安定を取り戻して少し食事をし、また打撃を食らうと食べるのを止め、ということを繰り返していた。
 どうしてただでさえ弱っている自分に栄養を与えないなどというひどい選択をし続けるのか、今は分かるが、当時は無意識だった。むしろ当時は、合理的なことをしているつもりでいた。
 これはお前の至らなさに対する正当な罰である。
 苦しみを骨に刻め。そして、二度と同じ過ちを繰り返すな。
 と。
 自分を教育しているつもりでいた。
 だが、過ちを犯さないことは不可能だし、まして俺は『おっちょこちょい』なのだ。精神的にキツい出来事はいくらでも来る。
 だからこんなことをしても意味はない。
 何故こんな無意味な自分いじめを繰り返していたのか、今は分かるが、当時は無意識だった。本当に。
 何度くらいやったか、毎回どんなだったかはだから、覚えていない。
 ただ幾度か、はっきりとしたきっかけのために途中でやめることができたこともあって、その出来事は記憶している。
 一度は、第四回公演の直前だった。あの頃は、色々なことがいっせいに今現在に向けて変形し動き始めていたのだが、とにかく俺はまたしても無駄に苦しみ、七転八倒しながら絶賛絶食中だった。
 例によってナラサチはそれに気づいていて、割と鋭い声で「ご飯食べて?!」と言ってくれたりもしていたが、――俺は彼女のそういうところが好きだが、実は遠慮深くて、言うことは言うが礼儀正しく距離は守るのだ。
 第一、俺はこれを自分の至らなさに対する治療としていたのだから理詰めで来られても従ったかどうか。
 俺の悲壮な思い込みと自傷の意志を台無しにしたのはまたしても――
 またしても。
 ヤツだった。




「みっなさーん。今日十一月二日は全国民にとって大切な日ですが、いったい何の日でしょーかっ!」
 ヒノデと一緒に、稽古場にやってくるなりイズミはそう騒ぎ出した。
 みんなの顔が「?」から失笑交じりの「……」に変わるさまは鮮やかだった。
「そう! 国民的スター伊積陽生くんの二十四回目の誕生日でーっす!! このあと彼には内緒でケーキ出ますんで。あと居酒屋でのお祝いもありますんで皆さま是非ー! なお、諸費用は主賓の伊積君はタダでーす!」
 誕生日だ。
 みんな俺にケーキおごれ。買ってきたから。
 あと居酒屋にも連れてけ。
 もてなせ。
 と、ここまでぬけぬけと公言できる人間を俺はほかに知らない。
「内緒って。自分で企画しといて」
 ナラサチも笑うしかない感じだった。
 後で本当にケーキが出た。イズミは驚いたふりをして、「えっ?! ほんとに?! うそ! みんなありがとう!!」と言って回っていた。
 まさに自作自演だ。
 人間、あまりに呆れると底が抜けてしまって腹も立たない。かえってある種の感嘆の気持ちが湧くものだ。俺は別の生物を見るような目で、またくにゃくにゃした動きでみんなの注目と笑いをかっさらう彼を見ていた。
「なんだこれ。なんだこれ」
 と、和田。写メを撮る者もいた。
 小島が静かだと思ったら壁に額をつけて痙攣していた。
 あまりの騒ぎに事務所にいた別の劇団のメンバーまで見に来る始末。
 とにかく彼はその日練習場にカオスを巻き起こし、その場にいた全員に伊積陽生の誕生日とはどんなものか知らしめたのだった。
 ケーキが回ってきたが、食べなかった。
 人数が多かったので遠慮する人間は歓迎された。
「誕生日プレゼント随時受け付けまーす!」
「これあげる、これあげる」
「ゴミは要りませーん! どういうことですか、こんな国民的スターに対して!」
 ふざけ倒す彼らが先に引き上げた後、俺とナラサチは遅くまで残って次作の話をした。
 実際、重大な決断をしなければならない局面だったのだ。次の公演を三部作の第一作とするか、それともこれまで通りの単発にするか。
 相変わらず加納は『そこには需要がある、そのほうがファンが喜ぶ』と主張し続け、伊達さんまでが『試してみたらいいんじゃないか』と言い出していたが、俺には心理的な抵抗感がまだぬぐえなかった。
 なによりも、これをしたら、ほかの連中から何を言われだろうと思った。
 俺たちはすでに、売り方やグッズの販売で白い目で見られているのだ。三部作なんて出し方をしたら一層彼らから『金儲け主義』と言われるのではないか。
 かといって、すでに獲得した多くの観客のことを考えないわけにもいかなかった。今更パッケージを変えることは難しい。次作の情報が出れば同じファンたちが来ることは明らかだ。
 ならば、同じような芝居をしていても仕方がない。それを続けたら本当に鋳型だけを活用して金を巻き上げるモンキービジネスになってしまう。
 新しい挑戦をするべきなのか。
 それによって、古巣からさらに遠く離れることになっても。
 俺は決断を下しかねていた。三部作にしても、単発作にしてもいずれにせよ自分が苦しむことが分かっていた。
 それでも書かなければならない。
 お馴染みの葛藤だった。
 ただ、迷っていたのはナラサチも同じで、何しろ前例がない。俺たちは練習後も延々と事務所で悩み続けた。
「おなかすいた」
 と、ナラサチがつぶやいたのが二十三時だか零時頃だったと思う。俺ははっとした。自分が食べないものだから他人の空腹も忘れるのだ。
 すまない。もう出よう、と言いかけた時、携帯が鳴って呼び出しが来た。
 ヒノデからだった。いまカラオケ屋にいる、お願いだから来てくれと。
『イズミさんが呼べってうるさくて』
 言っている背後で『うおおーーい! コウもサチも来おーーい!!』と叫んでいるイズミの声が聞こえた。
 なんだ今の呼び捨ては。
「酔ってるのか?」
『すごく。みんなも。それで俺が』
 それでヒノデが珍しくも電話してきたらしい。店に迷惑をかけてなきゃいいが。
 場所を聞くと駅前だった。店自体は俺もナラサチも知っているところだ。
『ていうか、もうお金がないです。ないのに、ばんばん頼んで。食べ物とか。何人か払わずに帰っちゃったし』
 結局それで行かざるを得なくなった。
 この時期に無銭飲食トラブルだなんて冗談じゃない。大学も近いのに。
 十一月の深夜だからものすごく寒かった。俺とナラサチはガタガタ震えながらカラオケ屋へ行った。
 部屋へ行ってみたら酔っ払った和田が熱唱中だった。彼女は普通に歌える人間だ。でももう歌うためのカラオケではなくなっていて、和田も俺らが入ると歌を止め、指さしてケタケタ笑った。
「来たよ来たよ! イケメンが来たよ!!」
「?」
「イズミー! 起きろー! 主宰が来たぞ、主宰がー!!」
 奥のビニルのボックスベンチに三人が固まってもうほぼ寝ていた。真ん中がイズミで、その左は女優の子、右に小島。小島の片足がイズミの体にのっかっている。なにが起きたか知らないが、相当飲んだのは確かだ。小島は普段あまりこういう姿は見せないのに。
 一番こういう真似をしそうなヒノデが独立したスツールに座って、むしろしらーっとしている。
 席の余裕がなく、俺らは左右に分かれて座った。メインテーブルにはカラオケグルメが山盛りだった。ヒノデが言ったように景気よく注文したものだ。大して減っていない。
 ナラサチが我慢ならん、というふうにフライドポテトをつまんだ。俺の目は唐揚げのつけ合わせのミニトマトに一瞬止まったが、手は出なかった。
 コートを脱いだりしているうちに和田の歌は終わってしまった。採点機能を使っているらしく、結果を待つ間に俺達も飲み物を頼む。
「おーい! イズミ! コウさんとナラサチさん来たって! 起きれ!」
 和田がナラサチ越しに三人団子を小突いて左へ雪崩れさせる。バランスを崩して三人ともが眠りから覚め、めいめい呻った。
「コウ。あんた、昼も夜も食べてないでしょ。ちょっとは食べなよ」
 騒ぎに乗じるようにしてナラサチが指摘した。俺は眉を掻く。その時ナラサチを呼ぶ者があったので視線が俺からそちらへ転じた。
「ナラサチさんじゃん」
 ものすごく眠そうな顔をしたイズミがまだ肩に女の子の頭を背負ったまま彼女を見ていた。
「なんでいんの? ――コウさんは? コウさん来てないの?」
 ナラサチが手のひらでテーブルの向かいの俺を示す。
 彼はそれでやっと俺の存在に気づき、その姿勢のまま叫びだした。
「ああ、コウさーん!」
「……おう」
「コウさーん!!」
 角のスツールに座ったヒノデの目つきが気のせいか凄い。
「やだコウさーん!! この野郎!!」
 彼は右手を伸ばし、斜め右に座った俺の肩をばしばし殴った。顔がこんな(≧o≦)で、左手は胸の前でグーを握っている。
 な、なんだよ。
「おーい。だれー? 『LOVEマシーン』入れたの」
 カラオケマシンは職務に忠実に曲を流す。コールにイズミがすっくと立ちあがった。
 うってかわって凛々しい声で「俺です!」。
 俺はピザを食べるナラサチの顔にこの四字が浮かび上がるのを見た。
 マジかよ。



 そこから、ステージに出たイズミによる『LOVEマシーン』の熱唱が始まったのだが、絶叫とどう違うのか俺には説明ができなかった。
 イズミは難しい趣味ではなく、ヒットチャートに乗るような明るい曲が好きなのだと思うが、そんな誰もが口ずさめるようなJ-POPをどうやったらあんな前衛音楽に変えてしまえるのか未だに謎だ。
 みんな曲を救おうと周りでアカペラで頑張ったが、早晩もう笑って笑ってダメになり、結局彼だけが生き残った。
 途中で店員が追加のドリンクをもって入室してきた時、俺はヒノデの気持ちが分かった。こんな恥ずかしい思いをずっと強いられてたら腐りもするわ。
 店員が入ってもイズミは全く怯まない。寧ろこれまで以上にマイクを握りしめて振りまでつけて絶叫した。俺が経験した中で一番近いのは猫同士の縄張り争いの喧嘩である。
 あまりにも格好がいいことを英語でkillingと言うが、まさに室内は死屍累々のありさまとなった。ナラサチは壁に背を反らしてあごの裏側のほくろまで見せて笑っていたし、和田かおりはその膝で喘いでいた。目を覚ました小島は当初ぼんやりしていたのに、二番が始まると同時に爆笑を始め、地団太を踏みテーブルを蹴飛ばし俺のウーロン茶を動揺させた。
 女優の子も唯一平静なヒノデの肩に寄りかかり泣かんばかりだったし、――俺も。一生懸命持ちこたえたほうだと思うが、何度目かの「wow wow wow wow」でついに噴出してしまった。
 一度ハマると後戻りできず、もう何を聴いてもおかしい。
 体を斜めに倒し、這いずるようにして、ほぼ本能だけでヒノデに助けを求めに行った。二人に寄りかかられたヒノデは迷惑そうな顔を隠しもしなかった。
 タイトルコールによって曲が終わるころには、ヒノデ以外の全員が酸素不足で正気とは言えない状態になっていた。ヒンヒンすすり泣くばかりで顔も上げられない。
 大量殺戮を終えたイズミはむしろ誇りに満ちた顔で採点を待った。
 どうして当時のカラオケマシンは絶叫に高得点を与えたのだろうか。
 九十八点の表示に俺たちはもう一度撃沈した。
「ほっほーい!! さすが伊積陽生! 天才!!」
 イズミは得意満面で両手を前に突き出し、眼下でのたうつ彼の犠牲者たちを睥睨した。
 とにかく、実際に汗と涙を流しながら死の瀬戸際で俺が感じていたことは、彼は最高の誕生日を過ごしているということだ。
 自分で宣言して自分で人を集め自分で企画して自分で自分を最高にもてなした。
 性格でできることではない。
 バカだとか、ナルシシズムとか、厚顔無恥という言葉で説明することとも違う。
 何かだ。
 確かにこれは別の何かだ。


 俺はやっとのことで自分の席の背後の壁に戻り、まだ笑いの余韻にさすらいながら、ぐったりしていた。
 影が差したので目を上げると俺の前にイズミが立っていて、俺の顔を見ていた。例によって浮き上がるほど赤い唇が横に伸びて微笑みを作っていた。しばらく俺の濡れた目を見ていたが、おもむろに手を伸ばして唐揚げの脇のプチトマトをつまみ、俺の口元へ持ってきた。
「はい。あーん」


 燕の子が、教わるよりも先に口を開けるように、俺は知らず口を開けてそれを受けていた。
 イズミは上手にヘタだけ回収し、今更戸惑う俺ににっこりと笑いかけて自分の席に戻った。
 ナラサチが俺を見ていた。小島も、ヒノデも、みんな見ている前で俺はそれを噛み、口の中に酸味がかった野菜の汁が思い切り広がるのをゆっくりと味わった。
 次の曲が始まった。小島が飛び出していった。彼も歌はうまい。
 甘い声を聴きながら俺はナラサチと一緒にカラオケグルメを食べた。
 たいがいもう冷えていたけれど、食べている間、小学校の運動会の昼に家族と囲んだ大きなお弁当箱のことを思い出していた。


 今なら、伊積陽生という人間のことが少しは分かっているから、彼が使っていたものが、技術だと分かる。
 生きる技術。
 技術は英語でartと言う。








 俺は結局新作を、三部作の第一作目として用意した。
 読み合わせの日に、俺は全員にそのことを説明し、路線を維持しつつの新しい挑戦に対する協力を求めた。
 本読みを終えて休憩中、テーブルについたままでいた加納に声をかけた。
 色々と提案をしてくれてありがとう、と。
 すると彼女ははっきりと美しく微笑んで、「がんばりましょう」と言った。
「『天球社』を見返してやりましょう」
「――その……」
 彼女のことを尊敬しているために、適切な言葉を探そうとして手間取った。口元を隠すように鼻の下に手を当てながら、声のボリュームを抑える。
「こだわってるよね? そこに」
 加納の微笑みはすっと消え、視線が斜め下へずれた。
 別に人払いをしたわけではないから、周囲でみなめいめい動いていた。何人かがこちらに注意を向けているのも感じていた。
 加納倫子は、賢く雰囲気も超然としていて理論的な人物なので影響力も大きい。彼女を迎えて以来、劇団全体がすさまじい変化と飛躍を遂げた。
 彼女は明確な方向性と態度を示し続け、俺はずっと彼女に押し切られてきた。それはいい。彼女が俺や劇団の味方であることは明らかだし、彼女がいなければプールはもうなかったはずだ。
 けれど彼女の動機を俺はまだ知らない。
 今の発言にはその気配があった。
 和田は『天球社』の住友が彼女に好意を抱いて彼女がそれを嫌ったと言っていた。それを聞いた時から少しだけ心配していた。
 私怨は困る。
 意識的にせよ無意識のうちにせよ、彼女が劇団プールを私的な戦いに使う気なら、俺は、どこかで踏みとどまらなければいけないだろう。
 なぜならば、彼女の影響力は甚だ大だからだ。実際に俺はかなり変えられてしまった。人から悪評や恨みも買った。文句はなくとも、戸惑いはある。
 俺はそろそろ彼女の動機を知らなければならなかった。
 加納はしばらく答えなかった。ひょっとしたらタイミングを誤ったかもしれないと思った。休憩時間が終わりそうだった。
 人も戻ってくるし、どうしよう、と首を返したその時、びっくりするような低い声で、加納が言った。
「だって……悔しくないですか?」
 彼女の声のために逆に周囲がシンとした。幾人かがテーブルのそばで目を開いてこちらを見ているのが分かった。
 加納は顔を上げ、狼狽する俺を見た。銀縁の眼鏡の奥で、眼差しが燃えていた。
 彼女はいつも、音大のピアノ科にいそうな服装をしている。白い上品な手で、ちょっと眼鏡のフレームを押さえた。
「彼は――住友さんは、選ばれた人間のつもりなんです。自分は選ばれた人間だから、そうじゃない人をないがしろにしてもいいし、女が嫌がってもしつこく迫っていいし、嫌いな相手を攻撃してもいいし、何かを一方的にバカにしたり、下等とみなして切り捨ててもいい、と考えてるんです」
 彼女は、しきりに眼鏡に触った。
 そうすることで震える声と感情を抑えられるとでも言うように。
 でも結局、小さく吐き捨てた。
「そんな人間が――『演劇界の期待の新星』!!」
 いつかの雑誌の言いようだ。彼がこの稽古場にやってきて、加納はいないのかと聞いたあの取材の時の。もちろん専門誌ではなかったとは言え。
 加納は、本当に本当に本当に怒っていた。
 言った後しばらく動けなくなった。みなが固まる中、横から小動物でも走ってくるみたいにイズミがやってきて、いきなり彼女をバックハグした。
「どーしたのー!! 加納ちゃーん!!」
 高い高い裏声で、思い切り彼女を抱きしめ、女友達みたいに顔を寄せる。
「…………」
 加納は彼を押さえるように手を立てて自分は大丈夫だと示したが、振り払いはしなかったし、イズミも離れなかった。
 すぐに気持ちを立て直して彼女は改めて俺を見上げた。
「ずっと強引に自分の意見を通してきました。ごめんなさい。でも私は、彼に私たちの力を見せてやりたいんです。彼がバカにしている人間たちが、本当は彼が見くびっているようなものではないことを、そもそも誰にもそんな一方的な判断を下す権利なんかないんだってことを、教えてやりたいんです。言い換えてもいいですか。――私は、シアターARC演劇賞が欲しいです」
 もう休憩終了の時間はとっくに過ぎていた。誰もがその言葉を間近で聞いた。
「彼は私たちのことも、私たちの芝居のファンのこともバカにしています。あんなものは、三流の娯楽だと。演劇ではないと。そこに集まるファンも『本物』じゃないと。自分のような『本物』はかかわるべきではないと」
 イズミはまだしっかりと彼女の体を抱いていた。
「そうじゃない人をバカにするためだけに大学に来た人を大勢見てきました。彼はその変形です。私はそんななら勉強なんてやめてしまえと思うんです。――コウさん。私は嫌です。このまま引き下がるのは。彼らがいい気分で主流に居座っているのは。彼らがナメて侮っている『下等な』演劇で、いつか、彼らの場所を奪って、慌てさせてやりたいです。私はARC演劇賞を目標にしています。それを言わずに人のいいコウさんを振り回してきましたけど――そうですよね、分かりますよね。ごめんなさい」
 言いたいことを吐き出すと加納はもとの静かな加納に戻った。イズミがよしよしとその髪の毛を撫ぜているのがすごい。少なくとも彼女にとって、彼は性的なプレデターではないのだろう。
 俺はずっと心の重荷になっていた住友のまなざしと恫喝の言葉を思い出していた。
 忘れようと思っても、自動的に俺の足が前に進むことを阻んできた。何か目立つことをすれば、彼の注意を引き、また攻撃されるのではないかと。
 だが同時に、加納が言うように、俺も変だと思っていたのだ。
 なんだってあいつに監視されたり攻撃されたりしなくちゃいけないんだ。
 いったい誰がそんなことを頼んだんだ。
 あいつの機嫌を損ねないように生きる約束なんて、一度もしていないぞ。
「シアターARC演劇賞。ね」
 ナラサチが後ろに来ていた。彼女はこの場を納めようとしていた。明らかに全員に聞こえるように言った。
「いいんじゃない? ホラだって、私たち、黒字経営の人気劇団だし――」
 あははは、と和田と小島が笑った。
「生写真だって飛ぶように売れるし。いっちょ、ここらで片手間に演劇賞なんて目指すのも――ねえ?」


 人生には時々ばかげて恥ずかしいシーンが出来する。
 誰かが手を叩き出してしまいに全員が拍手をした。俺たち自身に向けて。熱烈に。
 エヴァンゲリオンかよ。
 でもその時全員を見回したら、全員が俺を見てそして笑っていたのだ。





(了)





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