XYXYXX (10)




 第五回公演『百鬼伝 炎』の初日の夜のことは忘れられない。
 みんなで打ち上げに行った。
 珍しく酔っ払ったナラサチが俺の横にやってきて、ものも言わずににっこにこの笑顔を向けてきた。
 それでも収まらずに手のひらを空中に出すので、俺もハイファイブを返した。
 ナラサチの目が笑みに細まって三日月どころか線になっていた。いつになく、かわいらしい。
「覚えてる?!」
「何が」
「ここ、旗揚げ公演の時と同じ店!」
「ああ」
 本当だ。
 安くしてくれるので行きつけなだけだが。
 ナラサチはあの時の暗い空気を思い出して現状と引き比べているらしく、「くうーっ!」とか言いながら俺の長袖シャツの腕を引っ張った。
 珍しい。俺というより、ナラサチが普段人の体にあまり触らない。よほど嬉しかったのだろう。彼女でなければ横からハグされていたかもしれない。
「やったね! やったね! ――ここだけの話だけどね」
 手のひらを添えて耳元に顔を寄せてくる。こんなのも滅多にないが、俺も喜んで首を傾けて彼女の囁きを聴いた。
「次は、本多劇場だと思ってる。あのくらいのサイズだと思ってる。もちろん、三部作の次の公演だけど。動員も五〇〇〇人を超すと思う」
「――何のお話しされてるんですか。仲良いなあ」
 加納が皿の散らばる卓を挟んだ向かいの席からにこにこ言ってきた。彼女は酒は飲まない。緑茶のグラスを前にまた背筋正しく座っている。
 上機嫌のナラサチが大声で彼女と話し始め、俺は奥のほうへふと視線をやった。
 他の役者たちと固まって座っている金髪のイズミと目が合った。
 彼のゴージャスさが、第五回公演を特別なものにしたのは間違いない。
 チケットの売れ方が初めから違った。
 第五回公演のポスター・チラシは彼の真正面からのアップが使われた。仕掛けはほとんど何もなく、ただ彼が前を向いて映っていて、周囲に公演情報が印字されているだけだった。
 これまで通りほかの劇団の公演時に客に配られるパンフレットの山に差し込みをさせてもらっていたが、反響がものすごかった。
 インターネットでの反応は俺もできるだけ見るようにしていたが、掲示板の専用スレッドが瞬く間に消化されていくのを目の当たりにした。
 販売開始と同時にチケットが倍の速度でなくなり、関係者からの問い合わせも倍増した。
 初日からもう劇場の雰囲気が違った。写真ブースでは宣伝に使わなかったオフショットも売りに出されていてそこに客が殺到した。
 もともとの芝居の出来も、三部作中、最も良かったというのもある。
 ただ、この公演を境に、明らかに伊積陽生という役者自体も変態を遂げた。
 これまでクセの強いバイプレイヤーと目され、基本的に端に立ち、それを自身の分と心得て、でしゃばることもなかった。
 舞台上でもバックステージでも、小島やヒノデのサポートに回って世話を焼くタイプだった。
 しかし、客のものすごい反応は彼自身にも影響し、その細胞を内部から作り替えた。
 もちろん、これまでの地味な努力の積み重ねが実を結んだのだ。そこに精神的な安定と自信とが加わり、彼の声を変え、彼の体を変えた。
 人間は奇態な生き物だ。脳にストレスが加わると動作までがぎくしゃくする。逆に、自信や闘志があれば、これまで百度失敗してきた跳躍にさえ百一度目で成功するのだ。
 はっきり言って、彼の突然の人気の沸騰は単に彼の外見によって引き起こされたものだ。彼は才能や人格を評価されたのではない。
 それでも、彼の全身はそれに反応した。賞賛にふさわしく堂々たる役者になるべく、突然の飛躍を見せた。
 むろんまだ実像が追いつききれない部分も随所にあった。だがそれは、危なげであると同時に、魅力だった。がんばれ、という人の気持ちを引き起こすものだった。
 『百鬼伝 炎』は彼のものだった。それは初日が明けるよりも前から分かっていたことだった。
 人は彼を発見した。
 我々もまた彼を発見した。
 人間はふさわしい評価とふさわしい衣装とふさわしい舞台を与えられると、変わる。花開いてまったく別の姿を顕して微笑むものなのだ。
 まだ彼は俺を見ている。
 俺も彼を見ていた。
 ごろーんと、彼の横にいたヒノデが身を倒してその膝に頭を乗せた。
 奴らの人並外れたスキンシップはいつものことだ。
 もう慣れた。
 俺は笑みを漏らして視線を引き上げた。





 六月。
 気持ちの良い夜だった。
 アパートまでの道は深夜とあって誰もおらず、電灯と家屋の向こうに月の浮かんだ空があった。
 風が吹いて雲が流れる。
 精神は高揚し足も軽い。頭の中には初日の舞台の光景、なかんずくイズミの姿が無限にリプレイされている。
 俺は彼に、ドレスを着せた。
 長い長い裾の、ゴージャスな白の。
 もちろん長衣であって、厳密にはズボンだ。でも彼は、それを着て舞台に立って大見得を切る彼は、本当に。
 本当に。
 俺は確かに聞いたのだ。彼が現れた瞬間、客席中が息をのんだのを。
 ざまあみやがれ。
 俺はこういうことをしたくて舞台をしていたんだ。
 思い出した。
 日の光の下で、おとなしく、無害に微笑み、自分を抑えていた『先生』が、あの暗闇の中では別人のようにきらめき、無作法をはたらき、弾けていたように。
 俺はこういうことがしたかったんだ。これが俺の舞台だ。
 住友。初めから賢くて強いやつを祭り上げるのは俺の仕事ではない。



 白い月が俺の道を照らしていた。
 家に着いた。
 疲労を感じて、水を飲もうと思った。コップに水道から水を入れて口元へ運んだその時。
 突然、俺の両足に力が入らなくなった。
 バランスを崩し、右足を腰の下に変に折り込んだまま流しの前に座り込んだ。コップも手放した。
 部屋の電気をつける前で暗かった。
 めまいがし、脂汗が出て、心臓がろっ骨の中で底意地悪くうごめき、目の焦点が合わなかった。

 ――どうしたんだ?

 自分でも思った。
 飲みすぎたのか。
 どうしたんだ?

 急に、意識に、誰のものとも、誰に対するものともつかない言葉がひとりでに浮かんできた。

 続くと思っているのか?

 頭は働かなかった。
 体が反応するだけだった。
 いつの間にか俺は両手を組み合わせてそれを胸の前で組んでいた。

 無駄なことだ。
 どうせいつか悲惨なことになる。
 お前は絶対に幸せになどなれない。





 どこからが夢だったのか。寝たのか。それとも意識が飛んだのか。呆然としていただけか。
 分からない。
 気がついたら朝になっていた。
 座り込んだ時とまったく同じ姿勢だった。
 そして俺は動けなかった。
 まるで、車輪に不具合のある台車のように、力を振り絞っても、信じられないほどのろく動くことしかできなかった。
 誰かが腰から下に腕を回して追いすがっているよう。
 目が回った。喉がカラカラだった。脇にコップが寝ていた。頭痛と、吐き気がする。
 呻きながら、とんでもない時間をかけて、乱雑なシングルベッドへたどり着いた。
 とりあえず寝ようと思った。きっと飲みすぎたんだ。次に目が覚めた時には、大丈夫になっている。
 なぜこんなに手が震えるんだろう?
 なぜこんなに俺は汗をかき取り乱しているんだろう?
 おかしい。こんな。
 おかしい。




 電話の呼び出し音にはっと目が覚めた。
 流しのほうで、鞄に入ったままのPHSが鳴っている。
 コールには間に合わなかった。
 這っていって、やっと拾い上げて、折り返し電話をかける。
 相手はナラサチだった。
『どうしたの? 今どこにいるの? もう開場するけど?』
 ――そんな時間になってたのか。
 そうだ。今日は、昼公演がある日だ。
 息が切れて、ろくに話ができないでいたら、異状に気づいたらしく、ナラサチの声が変わった。
『……大丈夫? 何かあった? 今、家?』
「体調が悪い」
 言っている間にも悪心のために頭が下に下がった。
「行けそうにない。そっち、頼む」
 少し間が開いた後、彼女が尋ねる。
『――前と、同じ?』
「だと思う」
 見えもしないのに、手で、額を覆う。
『大丈夫? 行こうか? 熱ある? 病院行く?』
 公演中に演出と演出補、主宰・副主宰の両方が抜けるわけにはいかない。
「大丈夫。寝れば治ると思う。病院も、必要そうなら自分で行く。それより、そっち頼む。今日2ステだったよな」
『…………』
 しばらく沈黙があった。
『コウ、昨日触ったの、嫌だった?』
 首を振った。
「違うよ。そうじゃない。あれじゃないから、誤解しないで」
『……何かしてほしいことある?』
「大丈夫。ありがとう。できるだけ早く、回復するようにするから……」
 どうやって? と思いながらも、空約束をするしかない。
『分かった。携帯側に置いといて。何かあったらすぐ連絡してよ?』
「サチ」
『なに?』
「俺、お前に触られるのは嫌じゃない。これだけは分かって」
 息の音がして、彼女が苦笑したのが分かる。
『OK』
「迷惑かけてごめん」
『大丈夫。こっちは任せて。ゆっくり休んで。うまく言っとくから』



 前に、こうなったのは、確か『天球社』の主宰になってすぐだった。
 OBやOGから作品を高く評価されて、観客動員数の記録を更新して、おまけに先輩の女性から好きだと言われた。
 まるで過負荷でブレーカーが落ちるように、俺は前触れもなくダウンし、起き上がれなくなった。今回と同じだ。体が他人に載られたかのように重くなり、場に縛り付けられる。
 運よく公演の真っ最中というようなことはなかったから、練習とバイトを幾度か休み、自分を拒むための詐病だと考えた先輩から余計な恨みを買ったくらいで済んだ。ナラサチはその時のことを知っているから、今回の引き金が自分だったのかと心配しているわけだ。
 違う。
 俺はもう分かっている。
 嫌なできごとが起きるから、ダメージを受けて動けなくなるのではないのだ。先輩のことも、俺は別段、嫌いじゃなかった。
 むしろ逆で、幸運なことばかりが続き、幸せに最も近づいたその時、俺はブラックアウトするのだ。
 まるで幸福になることなど許さないシステムが俺の中に装備されているみたいに。



 次に目が覚めたのは夕方だった。
 頭痛や吐き気は少し引いたが、体が重く言うことを効かないのは前のままだった。
 口元が濡れていて、よだれだと分かった。思わず引き寄せた手の甲にひげが当たった。
 部屋はまだ明るいが、明らかに日暮れの気配があった。
 行けるか?
 ――今から出れば、夜公演には、間に合うか?
 体を起こすきっかけがつかめず、俺は寝返りを打って、一度ベッドから床へ落ちることにした。
 どさり、と、自分でも荷物のような音を立てて、床に落ちた。
 ――だめだ。と分かった。
 これは、動けない。
 なんとか集中力をかき集めて、昨日のままだった上着と、ズボンを脱いだ。
 Tシャツとトランクス姿で、いらだたしいくらいのろのろとベッドに這い上がり、やっとのことで、ナラサチにメールを打った。
 彼女からはすぐに返信があった。昼公演も成功だった。これから夜公演の客入れだ。みんな心配してる。加納ちゃんが、救急車呼んだほうがいいんじゃないかって言ってる。

 ははは。救急車か。
 なんかすごく、ふさわしくないな。

 微笑むと同時に強いめまいがするので、押しとどめるように、額に手をやった。

 ――おなか空いてない? お弁当差し入れに行こうか?

 字面だけで吐きそうになった。
 食べたくない。
 何一つ、食べたくない。
 大丈夫。と返信するので精一杯だった。
 PHSを放し、天井を向いた。
 鼻の奥が勝手に痛み始めた。
 じわりと、涙が盛り上がる。
 ――くそ。
 いったい何をやってるんだ、俺は?
 遠くでは、仲間たちが、大成功の舞台をやって盛り上がっているっていうのに。
 俺一人ここで。
 演出や主宰としての義務を果たさずに。
 関係者に迷惑をかけて。その気分にまで水をさして暗くして。
 なんて仕事ぶりだ。
 ネガティブな気持ちになっては思うつぼだと(誰の?)分かっていたが、ついに追いつかれて、悔し涙を流した。
 やたらでかいだけの自分の図体も、めそめそ泣いている自分の弱さも何もかも憎らしかった。



 ――なんだよ。どうしたよ。落ち着けよ。
 教えてやってるんじゃないか。
 はしゃぐな。と。
 どうせすべては消えていく。
 いつかみんなばらばらになる。
 こんなのは今だけだ。
 つかの間のものだ。
 いつかお前も『先生』と同じ場所に行く。
 病院のベッドの上へ。
 一人で病気になって死んでいく。
 だからはしゃいで夢を見るんじゃない。
 冷めていろ。冷めていろ。
 もう二度と傷つきたくないのなら。


 お前はこの世がどんな場所か知ってる。
 人と人のつながりなんて信頼できないものだ。
 魂が報われることなんて絶対にない。勘違いだけがある。
 お前はみじめに世界に引っかかっているだけ。
 お前が真面目に連中の期待に応えるうちはお前を愛するかもしれない。
 けれど、ひとたびその機嫌を損ねたら、
 彼らはお前の母親がお前にしたのと同じことをするのだよ。
 スイッチを切るように、何一つお前に与えなくなるのだよ。
 ケアも、言葉も、視線も、注意も、金も、――食事も。


 恐ろしいことだよな? たかが小学生の息子が、同性の同級生を少し長く見つめたり、その子の手を握ったからと言っては食事をさせないなんて?
 そんなことを何年も続けるなんて?
 いいや。ひょっとしたら、彼女は最初からお前のことが嫌いだったのかもしれないな?
 そうでなければ、理屈に合わない。
 彼女はお前のことを前からホモだと気づいていたのかもしれないし、そうでなくてただただお前のことが嫌いで放り出す理由だけが欲しかったのかもしれないな?
 お前のおやじだってそうだろうな?
 だってそんなことを自分の妻が息子にやっていたのに、赤の他人のスーパーのレジのおばさんがおかしいと気づいて騒ぐまでの間、何の手も打たなかったものな?
 お前が死んだって良かったんだよ。妻が殺したなら自分は被害者だものな? 都合が良かったくらいのもんじゃないのか?
 誰からも望まれないのにこの世にいてしまっている。
 世界はそんなもんなんだよ、忘れるな、コウ。
 夢を見るな。
 信じるな。
 幸福なんて、アルコールの酩酊と同義だ。
 そんなものに心を許したら、お前は、破滅するぞ。


 分かっている。
 この頭に響く声も俺自身の声だ。
 俺の中には俺にひどいことを言う人間がいる。そいつは俺のことを必死で守ろうとしている。
 俺を守るために、俺に断食をさせたり、こうして昏倒させたり、仕事に行けなくしたり、信頼を失わせて、人との関係性を危機にさらし、俺を不安にさせたりする。
 何故なら。
 なぜなら。
 そいつが習い知っているのは、飢えて、孤独で、見放され、絶望した状態だけだからだ。
 それだけが俺のこれまでの人生で安定的に続いたために、それ以外の状態が訪れると不安を来たしパニックに陥る。
 子供が暗い道に恐怖して親の手を引き戻ろうよと騒ぐように。
 俺は明るい道に恐怖して俺の手を引き戻ろよと騒ぐのだ。
 こんなの違うよ。
 こんなの怖いよ。
 こんなのおうちじゃないよ。
 成功なんて、幸福なんて、――恋なんて、してはいけないよ。


 俺が俺を憎いわけはない。
 不安に怯え俺にすがり喚く小学校五年のころの自分に、腫瘍を切除するようにナイフを向けることはできない。
 ただうずくまり鎮まるのを待つしかない。
 けれど、いつまで続くのか?
 いつこの子供は癒え、安心して俺の中で眠れるようになるのか?
 あるいは俺はストレスに耐え切れずこの子と共に破滅するかもしれない。
 ひょっとして彼の望みはそれだろうか?
 だって、死んでしまえば、その後は、葛藤も動揺もない。
 永久の平安だからだ。



 俺は夢を見ていた。
 もう隠すのもバカらしい。
 伊積陽生の夢を見ていた。
 世界はものすごく明るく、金髪のイズミは世界との境界が曖昧でほとんどとけ込んでしまっていた。
 ものすごく明るいのに雨が降っていた。
 俺の頭は彼の膝の上に抱かれていた。
 白い手が俺の首元にあって、その感触は、頭が狂いそうになるくらい、気持ちが良かった。




「あ。起きた」
 目を開いて、幻滅した。
 明るい明るいと思っていたのは、部屋の電気が点いていたからで、横から俺をのぞき込んでいるのはイズミではなくヒノデだった。
「死んでんのかと思ったよ」
 ……軽々しく失礼なことを。
 みっともない姿を見せるのが嫌で上体だけでも起こしたかったけれど、呻るばかりで、体が動かなかった。
 ヒノデは全く遠慮なく渋面を浮かべる。
「うわあ。マジで動けないんだ。大丈夫なの? 顔の色がセメントみたいだし、どっか悪いでしょ、絶対」
「……」
 ほかに人選はなかったのだろうか。
 いくら参った状態でも、公演後に様子を見に来てくれたのだということは分かるが。
 ヒノデだって俺のことはさして好きでないはずだ。特に、前から仲が良かったイズミに近寄る俺を、100%の迷惑顔で牽制することも多い。
「公演、終わったのか」
 一生懸命声を出したら、ヒノデは目をむいてわあ、という顔をした。ひどい声だと言いたいのだろう。
「終わったよ。ナラさんとか後から来ると思うよ。俺暇だから先に行けって言われて……」
 肩越しに振り向いて、座卓の上の鍵と、買い物袋を指す。
「栄養ドリンクとかー。ポカリとかー。ゼリーとか、おつかいしてきた」
 思わず言った。
「ごめん」
「重かった」
「……冷蔵庫に入れといてもらっていい?」
「しっかたねーなー。兄さんの命令だし」
 例によって兄さん=イズミだろう。
「あんたに親切にしろって。俺らを本当に俳優にしてくれたんだからって。まーね。あのSM野郎にはできなかったことだしね」
 ――住友(SuMitomo)?
「今日もすごかったよ。兄さんにさ、ファンレターとプレゼントの山! 兄さん今、それを家に運びに行ってる」
 彼のことを思いだすと、笑みが浮かぶ同時に、ぐらりと頭が揺らいだ。完全に体は横になっているというのに。
 知らない間にうめき声が漏れたようで、バタバタと近寄ってくる気配があった。
 目を開けると、視界がヒノデでいっぱいになっている。距離が近すぎる。
「大丈夫? あんた。大丈夫?」
 俺はめまいに翻弄されるのとぎょっとするので忙しかった。子供を相手にしてるみたいだ。
「水持ってくる」
 彼は芝居の時はそうでもないが、日常生活ではとっちらかった身体性をしていて足音も高い。夜なので俺は近所迷惑を慮り、ヒヤヒヤした。
 頼むからもう一人誰か来てくれ。寿命が縮む。
 とはいえ、親切にも彼はペットボトルの水を持ってきてくれた。思えば、昨夜から一度も水を摂取してない。
 飲みたいがどうしようかと思っていたら、いきなり首の後ろに手を入れられ、躊躇なく頭を上げられた。
 びっくりする口元に、ペットボトルの飲み口が差し出される。
 まさかいつか稽古場で見た、あの親子鳥の情景を自分が再現させられることになろうとは。
 もちろんうまく飲めなかった。唇からこぼれた冷たい水が顎と言わず喉と言わずこぼれて気味悪く奥へと滑って行った。
「アハハハハー」
 ヒノデはティッシュを探し当てて俺の首筋に突込み、大雑把にふき取った後、俺の頭を枕に戻した。
 何がおかしいのか笑って、息をつく俺を見ている。
 青い髪の毛が目元にかかっている。改めて見て思うが、確かにこいつは、美少年だ。
「いつも憎たらしいことばっかり言うのに、こうしてみると、かわいーね。演出さん」
 何を言ってるんだ。くそ。
 うんざりと顔を反らそうとしたその時、彼の手が俺の前髪を触るので、ものすごくびっくりした。
 彼はまるで子犬でも撫でるみたいに、俺の髪の毛を手で梳いて、絡まる毛並みを整えた。
 男の髪、という前に、一昼夜風呂に入っていない病人の頭だ。
 俺の顎は不精髭だらけだし、全身がベタついている。彼にも分かっているはずだ。
 どういうわけか、彼の手は、髪の毛を撫ぜるだけでは終わらなかった。
「よしよし」
 彼の指は俺の額をなぞり、それから優しく頬を撫ぜた。
 俺は口がきけなかった。
 ただ彼の顔を見つめるうちに分かったのは、それは本当の愛撫ではないということだ。彼は人形遊びをする女の子と同じような顔をしていた。本気で人形を愛する女の子もいるだろうが、彼のそれは違った。
 そういうものだから、そうしている、という感じ。年長の誰かがやっている面白そうな遊びを、真似している感じ。
 初めから異常に演技がうまかったことを思いだす。こいつは本当に、天性の役者だと思う。いい意味というわけでもない。人間の真似をするのは、天邪鬼をはじめ世界中の妖怪の性でもある。
 それでも、優しい指が顔を撫ぜていくと、俺の体は勝手に安心して瞼が重くなってきてしまう。
 こんなの遊びなのに。
「あっははー。寝ちゃったの? かんたーん」
 意識が眠りに滑り込む直前、笑う我らが天邪鬼の声が聞こえた気がする。





(了)





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