XYXYXX (12)




 誕生日のケーキ。
 入学お祝い。
 おすそ分け。
 クリスマスのチキン。

 知らないわけじゃない。
 俺を引き受けてくれた親類は親切だった。
 でも俺には罪悪感があった。
 たまたま親戚なばっかりに自分のような人間の面倒を見てもらって申し訳ないと思っていた。
 俺はスポーツ万能なわけでもないし、知能的にも凡庸な人間で、目に楽しい容貌でさえない。
 そして疑惑もあった。
 彼ら彼女らが俺の本性に気づいたら、俺が「半神」に出てきたような夜にうごめくばけものの一人だと気づいたら、この態度は同じだろうか。
 やはりまた、親切と義務が停止するのでは?


 その時の失望に備えなければならない。
 春に慣れれば冬の厳しさには耐えられない。
 俺は生きたかったのか生きたくなかったのか。


 舞台は食べることとは関係のない表現の場だ。
 ここで受ける評価は俺は甘んじて受け取っていいと思っていた。
 そこは家庭とは違って俺のフィールドだから。
 俺の住処だから。
 それでもやっぱり媚びていたわけだが。
 媚びるのをやめたらやっぱり受けなかったわけだが。
 やむを得ずまた媚びることになって、そしたら思いもよらず、何千人もの前に押し出された。
 みんな笑い拍手する。
 口々に俺を褒めてくれる。
 俺のことを写真に撮り文章に書いてくれる。


 俺は嬉しがりながら同時に過去最高に疑っている。
 小さな俺が油断するなと裾を引き囁いている。
 この世に信頼できるのは不信だけなんだぞと。
 死ぬほど悲しいことを言っている。


 その俺にぬいぐるみを差し出してくれる一対の白い手がある。
 小さな俺は両腕にぬいぐるみをかかえるために、大きな俺の裾を放す。


 同じ手がある日には赤いカーネーションを持っていた。
 ある日には俺に雑炊を作ってくれた。
 今日、初めて気づいたのだが彼は爪の形をきれいに整えていて、薄いピンク色のコーティング剤を塗っているのだ。
 どうしてあんなに形がよいのだろう?
 あの手に額を撫ぜられたら最高に心地がよいだろうな。
 俺と子どもの飢えた目がお菓子を追いかけるようにそれを追いかける。



「――もしもーし? イヌイさーん。イヌイ、コウさーん。いらっしゃいませんかー」
 病院の受付係の真似をするナラサチの声に我に返った。
 俺のすぐ隣には、口の横に手を当てたナラサチ。そして前にはしらーっとした顔つきのヒノデが座っていた。
 不興げな彼の顔を見るに結構長い間待ったようだ。
 いつもの稽古場である。俺たちは第六回公演に向けて自主練を始めたところだった。まだ台本とは関係なくエチュードや筋トレをする。その休憩時間だ。
「あ、ごめん。なに?」
 俺が全く聞いていなかったとわかってナラサチの頭ががくんと下がる。
「――だから浪花まで行く車の手配をヒノデがつけてくれたって話だって」
「ん? ああ。ああ、そう」
 返事を先にするが思考が完全に後を追った。
「ああ、車! はいはい。あ、なんとかなった?」
 ヒノデのような美形に氷のような眼差しで刺されるのはなかなか体温の下がる体験だ。
 彼の尽力に見合った反応を返さない俺が悪い。もちろん。
「――親戚が貸してくれることになりました。だからこれで全員積めると思いますけどね。ったく」
 ヒノデは人に無視されることがとにかく嫌いだ。
 そして一回怒ると結構長いことフレッシュに恨むタイプだ。
 しまった。
「ごめん。ぼうっとしてた。ありがとう」
「ナラさん、この人いつもこんな感じ? 病気のせいじゃないの?」
 今更だが、よくもこれまで演劇界で生き残ってきたなというタメ口だ。
 ナラサチはうんうんと小さな頭を振る。
「いつもこんな感じ。注意力散漫だし、ごはんは食べないし、ちゃんと寝ないしねー」
「ガキじゃん」
 ヒノデの怒りの表現はいつも大変ストレートで、生々しく、憎々しい。
 ちょっと返事をしなかったくらいでそんな吐いて捨てるように言われる筋合いがあるだろうか。
「十回以上呼びましたけど?」
「ごめん」
 思わず謝ったその時、稽古場に明るい笑い声が弾けて全員の視線を集めた。
 和田とイズミが何かの拍子に大爆笑を始めたのだ。イズミはばしばしと和田の肩を叩いて「もう、やだー!!」と笑っている。声だけ聞いたら、完全に女の子が二人だ。
 ヒノデがイズミのほうを見て、それから俺の横顔を見て、またイズミのほうへ視線を戻した(彼は目が大きいので動きが見やすい)。
「なに。どーしたの。兄さん」
 『兄さん』はまだ笑いを引きずりながら、こちらへ近づいてくる。
「ひっどいんだもの、このかおり姐さんが。こないだ楽屋に遊びに来た某劇団の人に電話番号聞かれてたから、その後どうしたのかと思ったら……」
「だめだめだめ。言っちゃだめ」
 和田が後ろから彼をハグして黙らせようとする。
「なになに? なに?」
 ナラサチが目をきらりとさせて促す前で二人がもみ合う。
「……そいつが……、その男が……飲みに行った先で……」
「だめだめだめだめ。イズミ。言ったら絶交する」
「あはは。あはははは」
 和田の手が彼をくすぐりだして、結句二人とも床にフォールする。
 女子高生か。
「あの関西弁の人? 結構かっこよかったじゃん」
 と、ナラサチ。
「ねえ。かっこよかったよね。でもかおたんはイマイチなんだってー。俺今度話しかけてみよっかな」
 床でようやく和田の腕を逃れ一息ついたイズミが髪の毛を直しながら言う。前髪の中で、ピンク色の爪が光る。
 誰よりも早くヒノデが反応した。
「兄さんはだめ」
「えー?」
「おとなしくしてて」
「なんでー? いいじゃん。話すくらい」
 ヒノデはそれ以上何も言わず、なんと彼の横に座ったかと思うと彼の首に腕を回して抱きしめに行った。傍で見ていても、力の限りぎゅうぎゅうに抱きしめているのが分かる。
 相変わらず、この『兄弟』のスキンシップは度を越している。
 俺やナラサチ、和田が思わず黙ってしまうくらいだ。
「……まあここから『プール』の躍進が始まったと言っても過言ではないけどね」
「……」
 俺はナラサチを見た。彼女も俺を見た。
 俺らは時々、一つの脳みそを共有しているみたいな言動をしてしまうことがある。
 だから俺らもまあ、大概だが。


 一度椅子の上で深呼吸して気を取り直す。
「結局、浪花に行くのは何人?」
「まだ返事来てない人いるけど、十七人。かな。体調大丈夫?」
「大丈夫。ちゃんと食ってるし」
 第五回公演時の俺の体調不良は五日ほど続いた。その後もやや低調気味ではあったものの千秋楽までなんとかもった。サポートしてくれた劇団のメンバーにも、客たちにも感謝している。
 次の公演ではそれを返さなければ。
「あとメールで伝えた件だけど」
「ああ……浪花が使えるのは今年で最後だって?」
「なにそれ?」
 横にいた和田が聞き咎める。ナラサチは話していなかったようだ。
「あー。伊達さんがね、今年はいいけど、来年からは貸せなくなったって。『天球社』の人たちから苦情が出たって。いやなんだって。私たちが同じ施設使うのが」
 俺やナラサチが控えていた感情表現を和田かおりが代わりにやってくれた。
 彼女は一度髪の毛がメッシュになってから(今はもう戻っている)、結構パンクだ。
「――どういうレベルの嫌がらせ?!」
「そもそも別に劇団の持ち物じゃないんだけどな」
 と、俺。
 別荘は、俺らの共通の先輩である伊達家の財産だ。貸すも貸さないも本来は、伊達さんの自由のはずだ。
「だからさあ、つまりびっくりしたんだよ。あの人たち」
 ナラサチが頬杖をついて妙に落ち着いた声で言う。
「私たちの成功に、ビビったんだよ。実際」
「それでそんな小学生みたいなこと言い出す?」
「言い出したんでしょう。住友君がどれくらい噛んでるのか知らないけど――」
 また俺らの脳みそがつながって、視線のやり取りの中で今度は俺が口を開く番だと分かった。
「住友って、まだ加納にちょっかい出してるの?」
「え? いや、まさかそれはないでしょ。聞いてないから分からないけど。……今度それとなく聞いとくよ」
 俺も、いくら何でももうないだろうとは思うが。
 こんなくだらない嫌がらせには関与していないと信じたい。
「伊達さんも、色々付き合いがあるから、あまりムゲにもできないんでしょ。でもいいじゃん。とにかく今年は貸してくれるんだから、楽しもう。久しぶりだしさ」
「――前、すごい前に、俺、コウさんがカンヅメしているところ、のぞいちゃったことがありますね」
 床から立ち上がったイズミがにこにこしながら俺に言った。
 俺の喉が詰まったのはきれいな笑顔のためか、その背におぶさって俺を睨むヒノデのためか。
「あん時、びっくりした。真っ暗な部屋の中で、コウさんが一人で書いてて」
 気を使った言い方だ。
 書いてたのではない。
 自棄になって錯乱していた。
 顔に血が上るのが分かった。
 もちろん俺も覚えている。中学生みたいに自己陶酔して絶望していたら、こいつが扉を開いて、外の空気と、騒音と火薬のにおいを引き入れ悲愴な雰囲気を台無しにしていった。
 むしろ、あれがすべての始まりだったのかもしれない。
 あの決定的な挫折をきっかけに、俺は『天球社』と袂をわかつことになったのだし。
 もうあの段階から、彼に影響されていたのかもしれない。
「そんなことあったの?」
 ナラサチも知らないことだ。
 俺が返事をできないでいる前に、またしてもヒノデが邪魔してきた。
「もー、兄さん。おとなしくしてて」
 と、イズミを揺する。イズミも付き合い良く揺れてやる。揺れすぎてバランスを崩す。ヒノデがそのまま引っ張る。
「兄さん、あっち行こ。ジュース飲も」
「えー? ちょっと待ってよ。痛いよ、ヒノデ」
「いつも言ってるじゃん。兄さん。『ママが欲しいような奴にはうんざりだ』って。なんで分かんないの? 完全にそういう奴だよ」


「…………」
 俺はヒノデという人間がけっこう不可解なのだが、なんだってあんなになんでもかんでも考えたことを口からべらべら話すんだろうか?
 どういう生まれ育ちだったらそんな真似が許されるのか?
 俺なんか、考えすぎて口に出す前に抹殺される言葉がいくらでもあるのに。
 ――当人はすぐに忘れるような一言でも、長いこと人の感情を傷つけることがあるんだぞ?!
「どんまい」
 と、和田かおりが俺の左肩を叩いた。
「ファイト」
 今度はナラサチが右肩を叩く。





 家に帰って、洗面台の前に立った時、鏡に映る自分の顔の醜さに、ため息が出た。
 ヒノデのあのまつ毛に彩られた大きな派手な目。
 イズミのあの、マンガのキャラクターのような非現実的な容貌。
 和田かおりも、小島望も美しい。
 どうして俺はあんな造形に生まれなかったのか?
 明るい舞台に立つことのできない、ばけものとして生まれたのか?
 親の手に余るような。
 鏡の中の自分は、いつも困惑している。


 ママを求めてるって?
 ご飯を作ってくれて、掃除をしてくれて、眠るまで側にいてくれるような?
 さみしい時にぬいぐるみを与え抱きしめてくれるような?
 血色の悪い頬がひくりと歪む。
 そうかもしれない。そうではないとどうして言える?
 ヒノデの言葉がむかつくのは、いつもたいてい、真実だからだ。
 彼は思ったことは何でも言う。
 反面、思ってもいないことは絶対言わない。正直者だ。
 俺は彼に嫉妬している。
 人に何と思われようと言いたいことを言い続ける生物としての強さに打ちのめされる。
 俺にないものをすべて持っている。
 彼は好意を丸出しにしてイズミにも受け入れられている。
 俺に何ができる?


 ため息をついて、鏡から離れた。
 落ち着いて、飯を作ろうと思った。
 最近、初心者向けの料理の本を買ったのだ。
 とにかく自分の面倒は自分で見られるようにならなければいけないから。






(了)





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