XYXYXX (13)



 後から思い返してみれば、あの夏合宿に出発する前に、すでに兆候があった。
 小島が浮かない顔をしていたこと。
 真面目に練習には参加しつつも、どこか悩んでいる様子があったこと。
 俺は気が付いていなくもなかった。ただ、自分のことで目がふさがっていた。
 俺はこのころの自分を思い出すと恥と罪悪感で消え入りそうになるし、その後起きた事態もまったく自業自得だと分かる。
 とにかく合宿に出かける頃の俺は地に足がついていなかった。さらにまた、現地で起こした別の事件によって、前後の色んな些事が吹っ飛んでしまったのだ。



 何年かぶりにやってきた浪花は暑かった。佃煮が作れそうなほど大量の蝉の抜け殻から羽化した蝉たちが朝から晩まで大音量でわんわん鳴きまくっていた。
 海水浴日和ではあった。とはいえ、別荘のすぐ側の海は遊泳禁止なので、車に乗って少し離れた海水浴場へみなで出かけた。
「コウさん。いくらなんでもそれは海水浴に行く格好じゃないと思います」
 加納の冷静な指摘によって、俺は途中の店で適当なボードショーツを買うことになった。
 『ボードショーツ』などという言葉も初めて知った。
 こういう新しい商品名は季節のたびにしれっと登場し、当たり前のような態度で日常に居座る。
「神田をうろつくような格好で海に来る人初めて見た」と、和田が笑う。
 いいじゃないか別にとは思うが、さすがにスキニージーンズだと我慢できないほど暑かった。ついでにサンダルも買ってしまった。
「やっぱり温暖化って本当だよね。明らかに暑いもん最近」
 混みあう海水浴場に着くと、小島が首尾よくパラソルや浮き輪を借りてベースを作り、みんなが荷物を置いて遊びに行けるようにしてくれた。
「慣れてるな」
「いやあそうでもないですよ。でも子供の頃よく家族でキャンプとか行きましたから」
 これは自慢じゃないのだが、やっぱり我々は目立った。
 想像してもらいたい。水着姿の和田かおりと、加納倫子と、小島望と、林日出と、伊積陽生である。それは『なんだあの人たち』となる。
 周囲には大学生らしい男女の集団がそれぞれいたが、どちらも騒いだりはしないものの彼女ら彼らに注目していて、可能なら関わり合いになりたいと考えているのは明らかだった。
 マンガみたいな状況だった。これは本当に自慢ではない。
 なぜなら、それによって俺は、海に入る最後の勇気が挫かれたからだ。
 のこのこパラソルの下に入って体育座りした。
 そこにはナラサチもいて、本を読んでいた。
「海入らないの?」
 俺が尋ねるとナラサチは皆の荷物を背に肩をそびやかした。
「のんびりできたら、十分」
「ビール買ってこようか? ソフトドリンクのほうがいい?」
「いいね。ビールで大丈夫」
 ビール缶とつまみを手にパラソルの下へ戻りながら、俺が海に入らない原因となった集団を見つめた。
 小島望も、林日出も、それにイズミも、大した肉体美だった。伊積陽生は今でもクネクネした動きを笑われることがたまにあるけれど、体自体はかなり引き締まっている。
 俺が彼をいじめたのが確か一年前の夏だ。彼はあれから一度も筋トレをやめていない。日焼けを嫌がってTシャツを着ていたが、それでも広い肩から細い腰への流れるような線は隠されていなかった。
 翻って俺はどうかと言えば、贅肉こそないとは言え、ただのやせ細った枝だ。絶食後なせいもあって完全にあばらが浮いている。こんな表現自体が許されるならセクシーさのかけらもない。人に見せていいようなものじゃない。
 正直ショーツからはみ出している割りばしのような両足さえ俺は恥ずかしかった。
 あそこに混ざるって? 冗談じゃない。
 そもそも俺は、水があまり得意じゃない。
 そんな俺の気後れなどにかかわりなく、彼らは大喜びで海に入り、泳ぎまわったりはしゃぎまわったりしていた。結構離れているのに、さすが役者たち。声がよく聞こえる。
「ほとんど家族サービス中の親の気分だね」
 ナラサチに冷えたキリンを渡し、めいめい小気味の良い音をさせて缶を開けてから、乾杯した。
「あー。うまい」
 思わず漏らしてしまった。これでは本当にどこかのおやじだ。
「気を付けないと。前、誰かが酒飲んで海入って救急搬送されたからね」
「伊達さんの代の人だろ。たしか夜に浜辺でバーベキューして……」
「伊達さん親にめっちゃくちゃ怒られて、一時ここが使えなくなりそうになったんだよ」
「何年か前にも、ここに来たろ。その時は台風だったよな?」
 ナラサチは缶を持ったまま、手の人差し指だけを立てて俺に向けた。
「だっただっただった。あの時もあたし危ないなーと思ってヒヤヒヤしたんだ。一応止めたんだけど、聞かないし。ていうか、あの時のメンバーが何人かあそこにいるじゃん」
 ナラサチが目線を映した先に、イズミとヒノデ。たしか和田もいたと思う。
 イズミとヒノデは足で水をかけあって子犬の兄弟のように人生を楽しんでいた。
 水が日の光を受けて水晶のように輝き、彼らの体に当たっては四方に砕けてきらきらと散っていく。
 なんて似合うんだろう。
「勇敢だよねえ」
 と、ナラサチ。
 表情をうかがうと、皮肉ではなくて、本気で感嘆しているのが分かった。
 俺も同じ感想を胸に、また彼らに視線を戻した。
 水を蹴立てながら、太陽の下に素の体をさらして、人目も気にせず嫉妬も知らずむき出しの笑顔でむき出しに楽しむ彼女ら彼らを。
 やがて俺らは静かになった。ナラサチは読書を再開し、俺はただ酒の缶がカラになるまで飲んだ。少し、酩酊した。
 なんだってその時だったのだろうか。
 周りは別に静かでもなかった。
 二人きりだったわけでもないし、落ち着いた雰囲気でもなかった。
 すぐそばで子供がかき氷をこぼしたと泣いていた。能天気なレゲエ調の曲がどこかで鳴ってもいた。
 周囲は真っ白に照り映える砂で、一歩出れば灼熱。そこを半裸の連中が周囲をうろうろ。そして俺はほろ酔い。
 ある意味地獄の光景でもあった。
 なのに俺は言った。
「あのさ、ナラサチ」
「なに」
「俺はホモだけども」
「あー」
 ナラサチは本当にそう答えた。
「別にそういう芝居をしたいわけでもない」
「……」
「俺の中に生まれる物語を形にしたいというのはあるんだけど。別に、そこにはそういうものが含まれてない」
「――客の期待を気にしてるの?」
「……」
 第五回公演「百鬼伝 炎」は盛況のうちに終了し、ストーリーが連続したことによって客はキャラクターに思いを寄せ、写真はそれぞれの衣装を着けたものが真っ先に売れ、掲示板には女子たちの声が溢れ、夏のコミケでは二次創作が販売され続けていた。
 そしてまたぞろ俺の中では次の公演に対するプレッシャーが高まり始めていたわけだ。
 三部作であるから初めから物語の結末は決まっている。が、それは、彼女らが予期するようなものではない可能性があった。
 それが俺には恐怖だった。
 ここまでファン人口が増え声が大きくなった。それが一斉に「がっかり」と叫び、背を向けたらと考えるのは恐ろしいことだ。今では、俺たちの失敗を喜ぶ人間も大勢いる。
「言ってることは分かるけど。次で話を終わらせないといけないからね」
「特に……、主要キャラクターが一人死ぬだろ?」
「はいはい」
「どう思う? 変えたほうがいい? ――今なら間に合う。俺はもっと彼女らの期待に応えるような、ハッピーエンドを書いたほうがいい?」
 男同士が見つめ合ったり口を吸ったり抱き合うような?
 さいわい、俺は当事者なわけだし。


 その時の強烈な感覚を覚えている。目の前には水着の若い女性達がおしゃべりしていて、そのサンダルに道化みたいなビーズの飾りがついていた。口の中にはビールの苦み。世界はばかに明るい。
 なのに俺の頭は暗い劇場にあった。あの匂い。あの埃。あの寒さ。あの人工的な場所。人で埋まるロビー。手金庫の上を飛び交う千円札。
 それ以外の場所を、俺は知らない。
 何年もあそこだけで生きてきた。


「別にいいんじゃないの」
 ナラサチが言ったのが結構すぐだったのか、間が空いていたのか、俺には分からない。
「コウがそういう人だからって別に必ずそういうものを書かなくても。だって住友くんなんかもわざわざ異性愛テーマの話を書いてないでしょ。書きたかったら書いたら。でもそうでなかったら別に書かなくていいよ。それ自体を、テーマにしたようなものは」
 俺は彼女の顔を見た。
「マジで?」
「……もしかして、私たちが期待してるかどうかを気にしてる?」
 答えないでいたら、ナラサチは笑い出した。
 文庫本がその腹の上で二度三度バウンドした。
「そんなこと考えてるからぶっ倒れるんだね」
 肩をどやされる。
「だって、それは、考えるだろ」
「あんたは住友氏からすこし傲慢さを分けてもらったほうがいいね。――自分にとって大切なことを、書きなさいって。私たちはそれをマーケティングして売るかもしれない。でも物語の内面までは手を出さないよ。私だって、加納ちゃんだって、話をこうしろああしろって、そんなことは言ったことないでしょ?」
「だから、外側をそういうパッケージにすることで成功してきたじゃないか。中身自体ももっと、客の期待に寄せたら……」
「賭けてもいいけど、それやったらあんたぶっ倒れると思うわ。また」
 ナラサチの両目が笑い涙に濡れていた。
「敢えて言うけど、潰れて死ぬね。一瞬で」
「…………」
 彼女の手が文庫本を離れて俺の左肩に触った。
 めったにないことだ。
 やはり太陽と夏と海とアルコールが我々にも作用していたのかもしれない。
 彼女は俺の目をしっかりと見て話した。
「コウが書いたものには、いつも必ずコウの人間性の気配がしてる。わざわざ騒がなくても。あんたのファンはそれを必ず見つけ出して、いつくしむ。だから――」


 会話は最後まで続かなかった。途中で立ち消えになった。
 そういうことは実際にはよくある。吐かれるべき言葉は吐かれてしまったので、ピリオドまで文章が続かない。
 ナラサチは手を放し、文庫本を再度拾い上げ、俺も視線を前に戻し、何事もなかったかのように、昼は続いていた。
 水と戯れる仲間たちの姿を遠く眺めていたら、ナラサチが付け加えた。
「あたしらメンバーは、コウの作品の一番古いファンなの。それを忘れないで」


 俺の作品の、あちこちに、俺らしさが表れているというのは本当だろうか?
 物語がどう進むかとかとは無関係に、俺の気持ちが隠れているというのは本当だろうか?
 例えば俺のまなざしが隠れてるだろうか?
 走るイズミに憧れるこの俺の臆病さが、自分の痩せた醜い体を羞じる気持ちが。
 そうなら、そうだったなら、あの満場の拍手にも、経済以外の意味があるかもしれない。
 信じていいのだろうか。
 天から降ってくる弁当を。
 俺は、いつか拾い上げることができるんだろうか。


「あーあーあー」
 ナラサチが言うのは、おふざけが行き過ぎて、イズミとヒノデがほとんど取っ組み合いを始めたからだ。
 彼らはもう互いにずぶぬれだったが、何がどうなったのかヒノデがイズミのTシャツを脱がしにかかっていた。
 結局、イズミはシャツを奪われてしまい、首筋を真っ赤にして胸元を隠しながら海から上がってきた。
「顔赤いよ」
 ナラサチが俺をからかったが、彼女だって負けず劣らず照れていた。
 俺は大きなタオルをかばんから出して、近づいてくるイズミに投げてやった。
 生きてるってことは本当に恥ずかしいと思いながら。



 Tシャツの件を別にしても、この合宿期間中のヒノデのイズミに対する甘えっぷりはすごかった。
 普段目にする以上に彼にまとわりついて、隙あらばおぶさったり寄りかかったり。酒が入るとほとんどキスをしに行って、さすがに小島に引きはがされる始末だった。
 俺がよく分からないのは、そこまでされてもイズミがほぼ抵抗をしないことだ。
 嫌なら、ぶん殴ればいいのに。
 押し倒されるままに押し倒されて。反らした首を真っ赤にしてからくも誰かに助けてもらって。
 どういうことなのか。
 嫌じゃないのか。
 それ以上に引っかかるのは、何かというとヒノデが俺の顔を見て反応を窺ってくることだ。はじめは気のせいかと思っていたが、三度目を数えて以降は疑いようもなくなった。
 彼は俺に、二人の仲の親密さを見せつけている。
 病気の俺をかわいいと呼んで顔を撫ぜた男が。
 ――分からない。
 全然分からない。
 ただ、腹だけは立つ。
 イズミがお前のお気に入りでその体にべたべた触っても問題がない仲だということはもう前々から知っているし、もうよく思い知った。
 なんだって俺を不愉快にする必要があるんだか。周りの人間だって変に思うじゃないか。
 結局俺は彼を無視し続けるほかなかったし、限界を感じればその場を去るしかなかった。
 さいわい伊達家の別荘は広い。
 皆あちこちで集まってゲームをやったり酒を飲んだりしていたが、それでも誰もいない場所を見つけることは難しくなかった。
 俺は庭に出た。
 いつかもこうして、庭に出たなと考えた。同じように潮騒が聴こえる。少しだけ冷えた、海の香り。空には星。部活で毎日遅く帰っていた高校時代を思い出した。暗い田舎道に並ぶ独居者用のアパート。
 一息ついた時、
「コウさーん」
 イズミがやってきた。
 一人だ。
 俺は、嬉しいのと、うろたえるのと、同時だった。
 いつも以上に、ろくに話もしていない。
 それに俺は最近、この人間の前に出ると、恥ずかしくて顔もちゃんと見られないのだ。いつかはすごく変な顔でむしろ不愉快だと思っていたのに、冗談みたいだ。
 今も、何がここまで面はゆいかと言われると、解答に困るのだが。
「お邪魔ですかあ」
「いや、別にいいけど」
「蚊がいるから、気を付けてくださいね」
「え? あ、本当だ。道理でかゆいと思った」
 あははは。と笑うイズミをようやく見ながら俺は思う。
 あんたこそ気をつけろよ。その白い肌に傷がつくぞ。
「泳ぎませんでしたね? コウさん」
「俺、水着持ってないんだ」
「それで泳げますよ」
 彼は俺のボードショーツを指す。
「え?」
「そうでしょ。サーファー用のパンツなんだから」
「……」
 そう言われてみたらそうだ。とにかく泳ぐという考えが最初からほぼないから。
「泳げないとかですか?」
「い、いや、泳げはするけど」
 俺は鼻水が出てきて焦った。体温が上がっている証拠だ。
 彼に変に思われないことを祈りながら、手を顔にやる。
「あまり得意じゃないし、特に海は結構怖いし」
「そうですよね。この辺モロ外海ですしねえ」
 イズミはただにこにこしている。ああ、みっともない自分。
「泳ぐの好きなの」
「僕の唯一の得意なスポーツですね! 僕は早く走るのも飛ぶのもダメですけど、水だけは、得意です。特に潜るのが好きです」
「――潜る?」
「子供の頃、スキューバダイビングをやりました。酸素ボンベ背負ってアクアラング咥えて。でも素潜りでもかなり行けます。5、6メートルは余裕で潜りますよ。僕、多分前世は魚です」
 俺の頭の中にはばっと、複雑なイメージが多重に浮かんだ。
 一つはこいつはやっぱり金持ちのぼんぼんだということだ。俺は子供の頃、プールはともかく海水浴に行ったことは一度もない。それで不慣れだというのがある。『アクアラング』だって? なんのことだ?
 ――それとは別に、海に潜っていく彼の姿がアニメーションで浮かんできた。手描きアニメで。広大な夜の海を、踊るように潜っていく彼の白い姿。
 それは魚のようで、そこでなら、もう誰も彼の動きが変だとは言わないだろう。
「次はコウさんも一緒に泳ぎましょうよ。僕、教えてあげますよ」


 教えてくれるって?
 泳ぎ方を?


 うんともいいやとも言わずに、俺は彼の顔を見ていた。
 気恥ずかしさはどこかに消えて、むしろなんで彼の黒い瞳に自分が映ってるんだろうなと不思議なくらいの気持だった。
 ここは、どこだっけ?
 暗い舞台裏でもなく。
 夜のアパートでもない。



 もちろんここは伊達家の別荘で俺たちは劇団で合宿に来ているのだった。
「兄さん!」
 いつものヒノデの声が聞こえた時に思い出した。そしてほぼ同時に二本の腕が後ろからにゅっと伸びて俺の目の前でイズミの上半身をがっちりと抱きしめ、体重をかける。
「スイカ切れたよ。食べようよ!」
「スイカ? ほんと? 食べようか」
 不思議と、その時は俺は腹が立たなかった。ヒノデが子どもみたいに見えた。俺の子ども時代とは違うけれど。お気に入りの『兄さん』を、ライバルを蹴散らし、独り占めしたいという気持ち。
 分かるような気もした。
 俺は彼らよりも先に家に入り、スイカが振舞われている居間に戻った。
 その後、ほかの連中と話しながら、ずっと落ち着いていられた。
 ただ、何かというとヒノデがこっちを見てくるのがやはり気になったが。
 一度だけ彼の面倒を見ているイズミと目が合った。彼はヒノデをおぶさったまま、どこか満足したように微笑んでいた。



 その翌々日。明日は帰京するという最後の日だった。
 再び全員で海に行った。景品をかけてビーチボール大会をやるということになったのだ。それなら海に入れない人間も参加できる。
 とはいえ、運動のできない俺は初戦で敗退して、すぐにやることがなくなった。
 パラソルの下にいればよかったのに、その日の俺は歩き回った。波打ち際を歩ていると、遠くに、遠泳用の旗の立った基地があるのが見えた。
 正式な名前を知らない。規制線の傍の海上に櫓が組んであって、そこに上がって休めるようになっている。円錐形をしていて、てっぺんには赤い旗が立っている。
 そのベースに、二人の人間が並んで座っているのが見えた。イズミとヒノデだった。
 彼らはまるで本当の兄弟のように、足をぶらぶらさせながら、安心しきって空を見ていた。
 そこには他人が絡むことによる緊張関係も、不安も、欲も、何もなかった。
 彼らはただそこにいた。体を寄せ合って。陽の光を浴びていた。
 それがどんなふうに俺に見えたか。
 俺はそこに行きたいと思った。



 覚えているのは、一応パラソルのところにサンダルを脱いで、暑い砂を素足で踏んだこと。
 バランスを崩し、沈み込みそうになりながら、一歩一歩、海に近づき、Tシャツにボードショーツのまま、泳ぎ始めたこと。
 平泳ぎみたいな、そういう泳ぎ方で行ったと思うけれど、なんだか息がしにくかった。途中で足に触れる水が急に冷たくなった。下も深く暗くなって、なんだか嫌だった。
 近いと思っていた場所がなかなか近づいてこなかった。
 頭が下がったその時、運悪く波をかぶって鼻に水が入った。
 咳込んだ時、自分の息が完全に上がっていることに気が付いた。まるでマラソンでも走っている最中みたいだ。頭が熱く肺が痛い。いつの間にか全身の関節もくたくたになっている。
 あ。やばい。これは。
 泳ぎ切れない。
 戻ろうと考えた。
 それでくるりと方向転換して、砂浜に向けて泳ぎ始めた。
 ――ナラサチに言わせると、その時点で俺はもうほとんど溺れていたらしい。
『ちょっ、誰が泳がせたの?! コウは泳げないよ?!』
 彼女は俺が海にいることに気が付くと同時に大声で叫んだらしいが、誰も悪くない。自分で入ったからだ。みんなゲームに気を取られて、俺の入水は見てなかった。
 しかも俺は服を着たまま海に入った。
 全く愚策だ。
 泳ぎの達人でも着衣のままでは容易に泳げない。
 何を考えていたのか? 体を見られるのが恥ずかしかった?
 一人で泳いで一人で溺れて騒ぎを起こす以上に恥ずかしいことがあるだろうか?



 最後はとにかく水が冷たかった。海藻みたいなものがつま先にしきりに当たるのも不快だった。前に進んでいる感覚が自分でもなかった。上下にあっぷあっぷしているだけで。
 もう腕が上がらない。
 陸は遠い。
 力が尽きたら、沈む。
 引きずり込まれる。
 そう分かった。
 そして実際、俺は一時沈んだ。
 頭が完全に水の下へ入って、拳一つどころではなく距離が開いた。
 助けてくれたのは、ヒノデだった。


 気がついたら首の周りに腕が回っていた。苦しい、離せともがいたけれど、実際には俺の顔は水面に引き上げられて、呼吸ができるように力づくで固定されていた。
 俺はパニックになって、通常の呼吸の仕方さえ一瞬忘れていたのだ。
 彼がどれくらい力があり、運動神経がいいのかこの時俺は思い知った。大人の救助なんて簡単にできることじゃない。いかに、普段の彼が独りよがりで子供のようにわがままでも。
 耳に水音と、自分の鼓動、人の声がごちゃごちゃに混ぜ合って聞こえた。
「ヒノデ! 浮き輪! 浮き輪!」
 多分これはイズミの声だと思う。
 結局俺は、見ず知らずの人を含めた数人に海と岸の両側から助けられ、善意で投げられた浮き輪をあてがわれ、なんとか足の立つところまで引き上げられたのだった。


「なにやってんの!! バカじゃないの!! 伊達さんにまた迷惑かけるつもり?!!」
 ナラサチに記憶にないほど怒鳴りつけられたがさすがに弁解のしようがなかった。
 劇団の主宰が、みんなの安全に気を配るどころか誰にも告げずに遠泳して溺死しかけるなんて。
 精神的に俺を救ったのは和田かおりだった。彼女は一人笑い転げてナラサチの怒りやみんなのショックを崩してくれた。
「笑い事じゃないよ!」
「だって、だって、すごいネタできたじゃん! 今度のパンフに絶対載せようよこれ! あはははは!!」
 わざとだと思う。みんなの気分を救うために彼女ははしゃいだんだと思う。
 小島さえしゃがみこんで両手を顔の前で合掌し、衝撃に耐えていた。
「……いったいどうしちゃったんですか、コウさん。最近」
「前からこんなマヌケじゃん?」
 と、濡れた髪を後ろに撫でつけながらここぞとばかりにヒノデ。
「いやいや……、最近おかしいですよ……。こんな、幼稚園児みたいな……。あーびっくりした……」


 とりあえず危機が去ったことを見て取って親切な救助者は去っていった。近場のメンバーがその人たちに礼を言って頭を下げる。
 俺は砂の上でまだ座り込んでいた。自分でも自分が何をしでかしたのか受け止めきれず困惑していた。
 怒るナラサチ。抱きしめるようにして、俺から引き離しながらなだめる和田。苦笑の面々。ヒノデのあざけるような、楽しむような目。その横で、立ち尽くし俺を見るイズミ。
 彼はやっぱり信じられないような顔をしていた。目を開いて、口も半開きで、俺を見ていた。
「ほんとしょーがねー男だな」
 ヒノデが俺の頭にタオルを放ったと思ったら笑いながらヘッドロックをかけてきた。
 俺はもう逆らう体力も余裕もなかった。海水にべとつく彼の地肌が俺の鼻から下を覆い、空を向く足が砂を蹴り上げた。




(了)





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