XYXYXX (14)



問 組織のリーダーが海で溺れかけるとどうなるでしょう
答 ひまになります


 九月。久しぶりに俺は先生の見舞いに訪れた。
 再入院することになったという報をしばらく前に受けていた。
 やっぱり同室者のいない静かな病室で点滴を受ける先生が、いつものように穏やかに俺に尋ねる。
「それで、最近はどうなの?」
 俺は答える。
「実は海で溺れまして」
「は?」
「それで降格されました」
 そうなのだ。
『あんたはしばらくの間おとなしくしてろ!!』と逆上したナラサチに、俺は副演出にされてしまった。三部作の締めくくりとなる次回公演「百鬼伝 了」は、ナラサチが演出する。
 だからといって稽古に出なくてもいいわけではもちろんないが、例えば休みは取りやすくなる。一回の稽古に演出がいないのは結構な問題だが、副演出がいないのはそれより影響が少ない。
 ナラサチだけでなく、ほかのスタッフ達も結託して俺から仕事を取り上げたり、俺を早く家に帰そうとしたりと、明らかに『保護観察』扱いになっていた。
 はっきり言って、演劇の世界の労務管理は無茶苦茶だ。深夜労働も当たり前だし、本番が迫ってくれば連続しての徹夜も全然ある。拘束時間を分子にして給与計算したら、法定の最低賃金を虐待レベルで下回るだろう。そんな奴隷生活に慣れきっていたので、いきなり余暇時間を与えられても何をしたらいいか分からず困惑してしまうのだが。
『もっと早くからこうしておけばよかった!!』
 彼女の怒りを前に何も言えない。というより、多分これまで彼女を含めた全員が、この人も一応主宰者だし、ということで気を使って遠慮していたのだと思う。その忍耐を、俺の不格好なバタ足がこの夏とうとう破壊したわけだ。
『――さては、こいつ、ポンコツだな?!』
 もちろん。
 俺は知っていた。自分のことだから。
 だから、まあ、みんなに正体がバレたと、そういうことなのだが。
「なんでそんなモジモジしてるの」
「知らなかったんですが、恥ずかしいですね」
 俺は膝をゆする。
「え?」
「海で溺れたって人に言うのって」
 先生にまでクリーンヒットして、ますます恥が深まる。頭の緩みが体にまで作用して力が抜ける。俺は背中を丸めて、どうしようもなく、はあ、とため息を吐いた。
「なんで海になんか入ったの。乾君、別に泳ぎ得意じゃないでしょう」
「……それは……」
 言葉に詰まって先生と顔を見合わせた。
 ただ、賭けてもいいが、俺はその時、赤面していたはずだ。
 顔は熱いし、汗は出るし、言葉は出ないし。みっともないことになっていたはずだ。
 先生はとてもやさしい人なので、二度は聞かなかった。俺の持参した過去公演のパンフレットに視線を移し、ぱらぱらとめくって、そして、微笑んだ。
 『さあて、どいつだろう――』という表情をそこに読み取ったのは多分、俺の被害妄想のなせる業だろう。
 ところで、俺が「劇団プール」でどんな芝居をしているのかは、ここへ来る前にすでに白状していた。先生から言われたのだ。インターネットのチケットサイトに記事が出てたよ、と。
 それはそうだ。昔とは違う。現地にいなければ情報収集できないわけでは、もはやない。しかも公演の宣伝用の記事だから、思い切りポスターも写っていた。
 それでも俺は対面した時の先生の反応を本当に心配していたけれど、やさしい人だから、疑うようなことやネガティブなことは何も言わなかった。
 分かってはいたのだが。
「しかし今のパンフレットは印刷がきれいだね。紙もいいし」
「こだわってるんです。印刷にうるさい、怖いスタッフがいて……」
 加納のことだ。
「小劇団の役者も昔はアイドルみたいに人気だった。それを堕落だという奴もいたよ」
「まあちょっと売り方が……、『天球社』とかとは違うんですけど。あからさまというか」
 先生が言わないので俺は自分で言った。先生は細い首を一度傾げる。
「包装紙が違うだけで、やってること自体はそれほど変わらないと思うけどね。『天球社』は『賢い』とか『ハイセンス』ってことで売ってるわけでしょう。これを見に来たらその分賢くなれますっていうことで。理解出来たら『はい、文化人』みたいな」
 先生は眼鏡の奥でいつもの笑みを作り、俺の虚を突かれた間抜け面と相対した。
 先生も、『天球社』のOBだ。
 彼がそれに対して批評めいたことを言うのは、初めて聞いた。
「時代は変わる」
「住友の芝居は相当冴えてますよ」
「もちろん。それはそれだよ」
 先生は頬杖をついて俺を見た。痩せているせいもあるが、そういうしぐさをすると雰囲気が大変柔らかくなる。
 顔に皺が寄るけれど、それもとても素敵だ。見惚れていると、
「乾君、言っていいかな」
「はい?」
「……君に最初に会った時ねえ、ちょうどそういう事件が続いていたころだったというのもあって、僕、下手をしたらいつかこの子にナイフで刺されると思ったんだよ」
 俺は目を見開いた。あまりに心外なことを言われて椅子から飛び上がりそうになった。
「そ、そんなことするわけないでしょう!」
「うん。今ならそうなんだけど」
 くすくすと先生は笑った。そしてずれてもいない眼鏡の蔓を指で押し上げた。腕についた点滴の管が揺れ、楽しそうに支柱を叩く。
「その時は、本当に怖かった。あんなに真剣な顔して演劇部に来る子いないもの。もう僕よりも背も高かったし。思いつめて、追いつめられて、飢えていて、生きるか死ぬかって、そういう子だったよ、君」
 俺がなんて言ったらいいか分からずにただ口を開けていると、先生の指がさっとパンフレットの伊積陽生の上を撫ぜた。
 偶然だと思うが、それを見た瞬間、俺の心臓はずくりと痛んだ。
「ところが実際には君に助けてもらったんだから分からないものだよね」
 その後のことはあまり覚えていない。
 先生が、あの時のことを話すのは、多分、初めてだったと思う。
 俺はすっかり慌ててしまって、ろくに言葉も話せなかった。
「これまで、言ったことなかったと思うけど、乾君、あの時は、助けてくれてありがとう」
 生きていてよかったよと彼は笑った。
 後ろで看護師たちが食事の用意を始める音がしていた。
 先生の指が俺の上着の腕を少しつまんだ。
「不便なこともあるけれど、こんなに丸くなった、やさしい乾君を見ることができたしね」



 例によって、病院から駅までの交通費をケチって歩いて、鈍行で東京まで帰った。
 途中駅に着くたび、引いたり満ちたりする人の波の中で、四人掛けの席の奥に座って俺が何をしていたかと言うと、PHSを取り出して眺めていた。
 伊積陽生から来たメールや、自分から彼に送ったメールの文章を読み返していた。別にさしたる内容じゃない。劇団の用事で送り合う、連絡メールだ。
 それでも何度でも何度でも読み返すことができる。詩みたいに。
 時折は恥ずかしさの波が襲ってきた。
 先生は、気づいていたのかもしれない。それでイズミの写真の顔を指でなぞったのかもしれない。今頃パンフレットを読んで、一人で静かに笑っているかもしれない。
 限界値を越したらPHSを下げて、背もたれに頭をつけ目をつぶって我慢した。
 傍からはきっと仕事に疲れた人間に――いや、やっぱり挙動不審な人間に見えただろう。
 人のことで頭がいっぱいで、副交感神経がやられて、脳みそがケーキみたく甘くなって、もう秋なのに一人で花畑をさまよっている左巻きの三月ウサギにちゃんと見えたと思う。
 世界中にお前の正体はバレているよ。
 どんなに粗忽な人間かも含めてな。
 恥ずかしい。
 消えてしまいたい。
 そう思いながらまた、膝からPHSを取り上げた。




 そのまま夜勤のバイトのために高田馬場のコンビニで買い物をしていたら、女性に声をかけられた。
 ちょうど今、新宿の駅ビルの店でディスプレイされていたのと同じような服を着た二人連れだ。鞄に前回公演の物販のキーチェーンをつけていたので、ファンだと分かった。
「あの、乾さんですよね。『劇団プール』の」
 俺はとにかくへにょへにょだったので、威嚇やバリアどころか、まともな受け身も取れなかった。大きなカップ麺を抱えたまま、「あ、は……」と言い、自分の間抜けさに冷や汗が出た。
「ファンですー。がんばってください」
「ど、どうも」
 なにがどうもだ。
 自分を呪いながらレジに並んで会計をすまし、外に出ると彼女らがそこで待っていた。
「あの、すみません。もしよかったら、写メ撮ってもいいですか? 友達にも見せたいんで」
「え……。あ。でも」
 長旅から返ってきた直後で、且つ道中ずっと腑抜けていたので今、自分がどんな外貌になっているか不安だった。
 かといってそばに鏡もない。慌ててコンビニの扉を見返りながら、
「か、髪とか、大丈夫かな」
と言ったら、二人が二人ともきゃらきゃらと笑った。
「大丈夫ですよー。かっこいいですよ」
「いや、かっこいいとかじゃなくて……」
 社会人としてまともに見えるかどうかだけを心配していたのだが。
 ご存じないかもしれないが、人は一回海で溺れると色んなことに対して自信を失う。
 おろおろしつつも、結句二人に挟まれて一緒に写真を撮った。それから握手をして別れた。
 二人は好意を示してくれつつも、しつこくはなかったし、はしゃいではいたけれど、店からは出るなど、節度のある人たちだった。俺の創作を褒めてくれたし、拘束も十分に満たなかった。
 最後に『ブログにあげてもいいですか?』と言われたので、『いいですよ』と言った。確かに言った。
 後日、俺たち自身がそのブログを見つけることになった。ファンの間で人気になり、回りまわって俺達にも届いたのだ。
 奇妙なことだが、このたった一件のファンの記事が、その後の劇団内における俺の立場を決定的なものにしたような気がする。
 彼女は記事の中で俺を「かわいい」と呼んだのだ。


 見た目はきりっとした文学青年なのに、
 あたふたして、照れ笑いしながら写メに応じてくれました。
 このぎこちない笑顔をご覧ください(*´艸`*)

 別れた後、ガストでひたすら写真を見ながら二人で
 「かわいい……」
 「かわいい……」
 「まじかわいい……。やばい……」
 と言い合ってましたよ (ノД`)ノシ
 乾さん、ありがとうございました!!
 ますますファンになりました (≧∇≦)



 ナラサチが机に突っ伏して動かない俺の横で、小刻みに身を震わせていた。
 俺の権威はもはや救いようがない。
 ついに「かわいい」が自分をも飲み込んだ。





(了)





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