XYXYXX (15)



 忘れもしない。
 第六回公演の千秋楽の五日前だった。
 翌日が休演日で、2ステの日で。
 相変わらず順調だった。小さなトラブル――例えば、加納がゲネプロ直前におたふく風邪になったり、『天球社』が自分たちの公演の際に配るチラシの束に『プール』のチラシを挟み込むことを拒否したりとか、まあそういう――はあったものの、客席は埋まり、反響も大きかった。演出のナラサチがカーテンコールを派手にしたので、いつも終演後もしばし賑やかで多幸感があった。
 だから余計に覚えているのだろう。
「コウさん」
 終演後の混み合う廊下を通り抜けようとした時、誰かにぎゅっと腕をつかまれた。驚いて振り返ったら小島だった。
 もちろんメイクと衣装のままだ。髪は汗で濡れ、薄紅色のアイシャドウもぼんやりと浮いて瞼の上で滲んでいた。舞台の上、真っ白いサスペンションライトを浴びて見事に台詞を話していた彼の姿が思い出された。
「ちょっとお話があるんですが、いいですか」



 二時間後、俺とナラサチは劇団の事務所にめいめい腰を下ろしていた。
 もちろんほかに誰もいない。最近気づいたのだが、コンビニはこの事務所の三倍は蛍光灯を配置している。
 俺たちはこれくらいでよかった。特に、深刻な空気の時には。
 あまり照らし出してほしくない。
 どちらも長い間黙り込んでいた。身じろぎさえ稀だった。それくらい二人とも、衝撃を受けていた。朝までこのまま居続けるかもしれなかった。
 問題が、あまりに互いの心臓に近い場合、初めからその話はできない。ナラサチがついにくつくつと笑い始めたのも、別の理由からだった。
「……休演日の前の、公演終了後に言うあたりが、本当に小島氏って感じ」
 俺の眼差しを受けて彼女は付け足した。
「じゃない? 私たちに受け止める時間をちゃんと用意するあたりが。礼儀正しくて、遠慮深い」
「……なんでだ?」
 彼女の力ない笑いに促されて、俺もついに、からからに乾いた喉から、声を出した。
「どうして急に『退団したい』なんて」
 咳払いして、座りなおした。安物の事務椅子は、俺に再び座られる前に軽く跳ねた。


――実は、ある先輩から声をかけられてまして。僕にあてて役を作ったから出てくれないかと。前から色々相談に乗ってもらっていた頼りになる先輩でして。僕と演劇感がとてもよく合うんです。
――先輩は、僕を使って表現したい舞台があると言ってくれているんです。僕もそれをやりたい気持ちがとても強くなっていまして。
――それで、今回の公演をもって、『プール』を退団させていただきたいと考えています。


「生活ができないとか、そういうことがあるのかな」
 ナラサチはかぶりを振った。
「それについては、新しい劇団に行っても同じでしょう。さっき小島くんが言ってた劇団、知ってるでしょ? 中堅だけど、財政面では今のうちより小規模だと思う」
「じゃあ――」
「本当に、向こうのほうがやりたい演劇だからってことでしょうね」
 この感情を言い表すのは難しい。
 恋愛で、あなたよりもあっちの人のほうが好き、と言われることに近い。
 小島のような理性的な、賢い役者にそうされるのは、皮膚にステンレスのスクープを立てられて、力を込めて一すくいされるような感覚だった。
 それは、好みだと言われたら、仕方がない。
 でも、どうして急に、こんな思いを俺にさせるのか。
 やはり嫉妬になるだろうか。俺は怒りで紅潮する額を手で隠しつつ、我ながら恨みのこもった呻り声を出した。
「そんなに、いい芝居?」
「見たことない?」
「――冷静な意見が聞きたい」
 ナラサチからしばらく返答がなかったのは多分呆れていたのだろう。
「私が三回見た限りでは、多少浮き沈みがあったけど、小劇場らしい芝居だよね。ちょっと『大人計画』よりかな。客層はうちとは結構違う。もともと小島君がしてた芝居に近いかな。ああ見えてあのコ、結構ハードな芝居とか音楽が好きだからね」
「『劇団プールのアニメみたいな芝居』が嫌になったってことか?」
 この表現はとある劇評誌でネガティブな文脈で使われた言葉だ。切り抜いて入り口近くの壁に貼ってある。
「だったら、そう言ってくれればいい」
 俺は自分が震えていることに気が付いた。多分、ちょっと寒かったからだと思う。
「小島の意見なら、俺は聞いたんだ。ちょっと飽きてきたから、別の芝居もしませんかと、提案してくれたらよかった」
 それをしないまま、急に『辞めたい』と言い出した。
 ようやく整理されてきたのだが、俺がショックを受けているのは、そのためでもあった。
 俺は小島には常に尊敬の念を払ってきたつもりだ。役者としてのみならず、演出部の一員、劇団運営部の一人とさえ考えてきた。
 だから、もし俺に不満があるなら、プールの芝居の方向性に懸念があったなら、それを遠慮なく共有してくれたらよかったのだ。
 何故急に『辞める』と言い出すのだろう。毎日、あの理知的な笑顔で稽古に励みながら、『他のことがしたい』と考えていたのか? 成功に盛りあがった打ち上げの時にも、本当は退屈していて、ただ遠慮して人付き合いをしていたのか?
 あまりにも飲み込みづらかった。信じがたかった。
 相手が小島なだけに、余計にだ。
 混乱する俺を見かねたのだろう。ややあって、ナラサチが、携帯を取り出し、操作を始めた。
 その時点でもう零時近かったと思う。彼女は机越しに俺に携帯を差し出した。俺の「何?」という問に、無言で「読め」と顎をしゃくる。
 俺の目はディスプレイの文字列を追ったけれど、情報を把握するのにものすごく手間取った。五分ほどもしてやっと、それが、アンチスレだということが分かった。
 ――伊積陽生に対する、アンチスレだ。
 俺が体を起こすとまた椅子が軋んだ。俺は夢中で読んだ。読んでも読んでも終わらなかった。何ページも、何ページもあった。
 俺の心臓は俺に文句を言っていた。いったい今日一日でどれくらいの負担をかけるつもりだ? と。
「前から、あるのは知ってた。本当に第二回公演の直後くらいからあったよ。一時過疎ってたんだけど、最近また復活してて。――最初はね、イズミの動きが変だとか、顔が変だとか、まあそういう内容だったんだけど」
 じわりと汗が出たのは、それは俺が昔感じていたことでもあるからだろう。
「最近、人気が出てきたでしょ。それが気に入らないみたいで、すごい叩いてるの。下手だって。過大評価されすぎだって。和田ちゃんとか――小島氏とか、そういう人こそが正統なんで、イズミなんかは素人芸だって、まあそういう感じ。でね、――最後のほう、読んでもらったら、分かると思うけど、その中に、イズミが、……あんたにごまをすって、うまいこと取り入って、いい役を振り分けてもらっているっていう、陰謀説が、ある、」
 んだわ……、とナラサチはこらえきれないようにため息を吐き、胸の前で両腕を組んだ。
 俺はと言えば、ぽかんとしていた。
 何と言ったらいいのか、分からない。
 ――イズミが俺に取り入って役を取ってる?
 どうやって?
「あのね、向こうはあんたがアテ書きをしてるってことを分かってないんだよ」
「書いてあるぞ」
 スレにも時に反論者がいて、『乾さんはいつもあてがきしてるって前インタビューで言ってたと思うけど』とある。
 それに対する答えは『あてがきでもひいきはできる』だった。
「あのさ、ネットだから。こんなスレ作っちゃう人達にとっては、事実は割とどうでもいいの。その人達は、自分の嫌いなイズミが評価されることが気に食わないの。彼が評価されて、客から愛されるのは、本人の実力が素晴らしいからじゃあなくて、単純に役がおいしいからだと言いたいわけ。おいしい役を、あんたにごまをすって、不正に回してもらってるんだと、そしてみんなはキャラに騙されてるだけなんだと思い込めば、彼を認めないで済むでしょ?」
「――……」
 その強引なメカニズムに視界がぱちぱちしたが、それが落ち着いたころ、俺はきまり悪そうにしているナラサチへ携帯を戻すことになった。
「なんで、これ見せた」
「…………」
「これが、小島と、何の関係がある? ――まさか、小島がこんなデマを真に受けて」
「そんなはずないでしょ」
 ナラサチは俺が全部言い終わるのも許さなかった。
「小島君はそんなバカな人じゃないよ」
「じゃ、どういうことだよ?」
 手を上げて、俺を押しとどめながら、ナラサチは必死に文章を整理していた。彼女も疲れている。
「――多分、小島氏が言った退団の理由は、本当の理由じゃない。少なくとも、唯一の理由じゃない。でも、本当の、あるいは言われていないほうの理由をもし言ったら、誤解されると、思ったんだと思う。だから、否定も肯定もすることができない理由を言って、事前に相談することなく、離れようとしているんだと思う。あんたが言った通り、演劇性の違いが退団の理由なら、少なくとも議論ができたはずじゃない」
「ナラサチ。俺にはまだ分からない」
 俺の狼狽にナラサチは俯き顔を押さえた。見せないほうがよかったかなと後悔している様子だった。
「……すこし、時間をかけて考えて。それと、本人から、もう一度話を聞くべきだよ。本人から、本当の理由を聞くのが、色んな意味でいいと思う」
「ナラサチには、見当がついてるのか?」
 ナラサチはしばらく答えなかった。やがて「多分」と、短く言った。
「言っとくけど、下らないものじゃないよ。真剣な、でも言いにくい、とても言いにくい、悩みだよ」
 ナラサチを一人で歩かせるには時間がよくなかったので、結局俺たちが分かれたのは、午前五時過ぎだった。




 第六回公演では、副演出だったので、俺はすでに次回作を書き始めていた。
 ここしばらく三部作ということで、長い期間同じ物語に従事していたから、新しい物語を始めるのは楽しかった。
 俺は作品を書くときは最初から配役を考えて作る。つまりアテ書きだ。新作も、もちろんプールの役者たちの身体性、声、印象をイメージしながら創作していた。
 小島はいつも中央にいる。彼の安定した技量。均整の取れた落ち着いた身体。まともにも、狂的にも見せるすべを心得ている素晴らしい演技力。
 それは寄せ集めの集団である『プール』の芝居の質を支える土台であり、彼はそういう、「ああ、この俳優がでているならある程度いい映画だろう」と客に思わせるような、信頼感をもたらす役者なのだ。
 彼がいなくなる。その身体と声がなくなる。
 もちろん、代役は可能だ。現在の劇団の人気からすると、外部からよい役者を呼ぶこともできるかもしれない。
 だが、俺にとってそれはピアノの代わりにエレクトーンを用意されるようなもの。チェロがないからといってベースを用意されるようなものだ。
 ――サイズも音も何もかもが違う。それだけで少なくとも今俺が書いている話は、空中分解しそうだ。
 二日経っても、衝撃はあまり軽減しなかった。劇場では小島に会うが、公演中にほかの出演者に動揺を与えてはならないから、おおっぴらに話すこともできない。
 何も知らずに公演は成功を続ける。今日も役者たちはプレゼントをもらう。写真は売れる。相変わらずヒノデがダントツの人気だが最近はイズミの写真もかなり売れるという――。
 小島は誰とでも仲良く話す。今も、イズミと親友のように笑い合っている。
 分からない。
 ナラサチの示唆したことが。
 とりあえず、彼には決断は待ってもらい、千秋楽の後にもう一度集まって話し合うことになっていた。
 気分転換のため、俺は夜の公演前、大学の図書館へ出かけた。資料の複写を取る用事があった。ついでに詩でも読もうかと書架をあたる。後ろから声をかけられた。
「乾さん」
 誰に呼ばれたのか分からなかった。それくらい久しぶりだった。振り向いた先に、今日もまたジャケットを着た、住友毅が立っていた。
 こいつの前に出るたびに、無条件でビクッとなる癖を何とかしたい。実際、身長だって俺のほうが高いというのに――
「ああ。ひさしぶり」
「一年ぶりくらいですよね。でも、ご活躍は聞いてますよ」
「こちらこそ」
 じわじわと思い出してきた。浪花の伊達さんの別荘を使わせないと『天球社』が騒いだことやら、今回の公演のチラシの挟み込みを拒否されたりとか。
 こいつに愛想よく対応する必要はまるでないんだった。
 本はまだ選べていなかったけれど、帰ろう(どうして詩歌の棚は大抵、戯曲の棚の隣にあるのか)。
「そういや大丈夫だったんですか?」
 踵を返そうとしたその時、彼が言った。俺は怪訝な顔を彼に向けた。
「なにが?」
「海で溺れたと聞きましたよ」
 俺は恥で悪心がするほどだった。実際、ちょっとくらっとした。
「だ、大丈夫だ」
「あと、すみませんでしたね。なんかうちの団員が別荘の利用について騒いだみたいで。ご迷惑をおかけしました」
「――君が、何か言ったんじゃないの?」
「いえ、僕はもう合宿には何年も行ってないし。みっともないからやめろと言ったんですが」
 住友は平静で嘘を言っているようには見えなかった。
 戸惑う俺の顔をまともに見つめながら、全く同じ表情のまま、彼は続けた。
「チラシの件は俺の指示です」
 芝居を見に劇場に行くと、受付でチケットの確認があり、アンケート用紙と他の劇団の公演チラシの束を渡される。小劇場の芝居を見に行くような人間は、ほかの公演のチケットを買う可能性も高いからだ。
 今回、『プール』は公演チラシを『天球社』のチラシ束に差し込むことを拒否されていた。
 こういう措置にどれくらい住友が関与しているのか、我々は分からなかったわけだが、今判明した。
 別荘は無関係。チラシは、そうではない。
 俺からの視線を受けても、住友は平然としたものだった。自分が下した決断にも、それを俺に直接言い渡すことのどちらにも、躊躇も気後れも感じていない人間のさまだった。
「現在の天球社を見に来るような観客にはそぐわない場違いな内容なので」
 理由さえ教えてくれる。
 俺の顔がふいに熱くなったのは恥のためではなかった。
 前から知ってはいた。
 しかし、なんでこいつは、こんなに――。
 本当に離れようと決意したときまた彼が言った。
「誤解しないでくださいよ」
 ――なにが?
 もはや俺のほうは完全に顔に出ていたと思う。住友は、ジャケットごと肩をそびやかした。
「なにもあなたの嗜好のために劇団を迫害してるんじゃないです」
 床が動揺したような気がした。プールの水面に浮かべてある偽物の地面のように。
 あたりに人がいないことを、汗をかきながら、俺は咄嗟に確認した。
「前から疑問だったんですが、乾さんどうしてもっと真面目な芝居をしないんです?」
 衣擦れの音がして住友がボトムスのポケットに両手を入れた。
「格好のテーマがあるじゃないですか。今みたいな下らないものじゃなくて、もっと真剣な態度の作品なら、我々だってちゃんと認めて応援しますよ」



 何を言われたのか理解できたのは、五時間も経った頃だった。
 ぼんやりと、楽屋のモニタ越しに、公演中の舞台を見ていると、今更のように思考が追いついてきて、やっと彼の言葉の意味を咀嚼し始めた。
 こういう言葉は、言われた瞬間には頭が真っ白になるだけで、反応も反論もできない。目の前に住友の影も形もなくなった今になって、ようやく。
 つまりあいつは、「悪いのは俺ではない」と言ったのだ。
 最後には「我々」と言ったから、正確には「悪いのは俺らではない」だろう。
 俺らは、お前らに別荘を使うなと言った。お前らの芝居なんか認めないと言った。それは俺らが悪いんじゃない。お前らの行いが悪いからだ。
 もっと少数者らしい振る舞いをするなら、俺達だって、こんなにお前らに厳しくしないんだ。
 と。
 俺がどんな芝居をすべきかも決めてくださるというわけだ。住友が俺に期待するのは多分、少数派の苦悩とか災難とか希望を描いた人間ドラマなんだろう。
 日陰者なんだから日陰者の詩を歌うべきだということだ。
 そうしたら、別荘も使わせてくれるし、チラシも挟んでくれるわけだ。
 手が震えた。
 怒りか、泣きたかったのか、分からない。おそらくただ、衝撃だった。
 心がぐらついているときだったので、防御しきれなかった。
 そのせいなのか? と、俺の思考は一気に不安の雲に覆われた。
 俺は、俺を、出し始めている。好きな芝居をするようになった。ついにナラサチには言った。そうしたら、そうしたらやはり――変わってしまうのか。失ってしまうのか。
 出してはいけないことだったのか。出てしまうなら、強いて隠さなければいけないことだったのか。秘密の仲間同士でただ、暗号をやり取りして。表には出ないように。
 それがふさわしい態度なのか。
 俺はマナーに反しているのか。みんなを不快にさせているのか。だから今、こんなことが、起きているのか?
 俺は最近、意識して物事を悪いように考えないようにし、落ち込まないように努めていた。しかし、そういう生き方そのものがこの事態を招いたのかもしれないと疑うとその努力は一気に崩れた。
 俺はまた絶食した。
 自罰のためにというより、迷いのせいで喉が狭まってしまったためだ。
 悩みぬいた末に、千秋楽が過ぎ(満員御礼だった)、小島との話し合いの機会がやってきた。



 場所は俺の家だった。劇団員はまだ何も知らなかったので事務所や稽古場ではできなかったし、外にはファンがいるかもしれなかった。大袈裟に聞こえるだろうが、当時隠し撮りの写メが頻々とネットに上がっていたのだ。
 午後の紅茶なぞをボトルで買ってきて、それを座卓についた三人で分け合いながら話した。
 ナラサチも色々と作戦を練っていた。彼が退団したいという本当の理由を手を変え品を変えて聞き出そうとしていた。
 だが小島も準備していた。彼らしく、当たり障りなく、身をかわして逃げ続けていた。
 ナラサチはもどかしげな表情を浮かべながら粘ったが、踏み込みきれず、見えない一線の前で往生しているのが分かった。
 俺はそれが自分のせいだと思った。
 だから、二人ともがへとへとになってきた頃、口を開いた。
「正直に言ってくれ。小島」
 呼びかけに応じて彼の形の良い目が俺を見た。彼は、実に旗揚げ公演の時からずっと、俺についてきてくれた。
「――俺が、何か、態度を改めるべきなのか」
 住友の言うことなど聞きたくない。
 しかし、彼が言うなら、俺は、それを聞こうと思う。
「俺が、主宰者としてふさわしくない、目に余る行動を取っていて、それをきらって離れるのか」
 小島は、口を少し開いた。
 当惑した表情だった。
「なんのことです?」
「……ネットでは、俺がイズミをひいきしてると非難してる連中もいる」
 間があった。
 小島は眉根を寄せて、目を見開いて、俺を見た。
 午後の紅茶のわざとらしい匂いがふいに漂った。
「――違いますよ」
 これまでとは違って、力の入った声で彼ははっきり否定した。
「違います。僕は、そんな人間じゃない!」
 俺も恥を忍びきれず赤面していたと思うが、小島の顔にも赤みが上ってきた。抗議のそれが。
「じゃあ、どうして?」
 すかさずナラサチが尋ねる。
「だって、明らかに、ほかにも理由があるよね? ――それで、私たち、悩んでるんだよ」
「……すみません」
「違うのか?」
 俺はまだ言っていた。俺のせいだ、俺のせいだと今日までずっと思い続けていたからだ。
 俺は気づいていなかった。自分が小島にどんなに失礼なことを言っていたか。
 俺は、彼も住友と同じように、無条件で自分はジャッジする側だと思い込んでいるような傲慢な人間なんじゃないかと尋ねていたのだから。
「やめてください! 怒りますよ!!」
 大声で叱られた。
 大誤爆だった。
 俺はまた大恥をかいた。
 だがこの誤爆のために、小島の鉄壁もまた、動揺した。本当の理由を話さなかったために、俺らが困って余計な勘繰りをしたのだということが彼にも伝わったからだ。
 そして小島の理由は違った。確かに違った。
 彼は紅潮した自分の顔を手で半ば隠すようにしながら、苦労して、話してくれた。そんな彼の姿は見たことがなかった。
「僕は……努力しています」
「うん」
 と、ナラサチ。
「……だから、分からないんです。それで、苦しいんです」
 何が分からない?
 彼の顔はさらに俯き、声は一段と低く、小さくなった。
「――どうして彼のほうが、評価されるのか」
「彼?」
「……イズミです。――違いますよ、あなたが依怙贔屓してると言いたいわけじゃないです!」
 ほとんど八つ当たりのように彼は俺に付け加えた。
 ナラサチがとりなす。
「どっちがより評価されているなんてことはないよ」
「ありますよ。アンケートの結果を見ても、ネットを見てもそうです。また言いますけど、ネットのアンチみたく、イズミがズルをしてるなんて考えてるわけじゃないですよ」
「……分かってるよ」
「イズミを下げたいわけでもない。彼は本当に努力しました。すごくうまくなりましたよ。体もできてきたし、声も出るようになりました」
「小島君が助けてくれたからだよね」
 小島は話をそらさないでほしいというふうに手を振った。苦しげな眉間がはっきりと見えた。
「僕も努力しています。僕は彼が憎くない。全然、ちっとも憎くない。――でも、だから、納得ができないんです。分かってます。やはり嫉妬してるんだと。でも――だって――なんで――」
 彼は絞り出すようにその一言を言った。
「だって僕のほうがうまいのに」


 どうして、イズミのほうがより評価されるのか。
 100%完全に、努力を認めた状態で、どう考えても、自分のほうが上手なのに。



 ……やっぱり、そういうことなの。
 暗くなり始めた室内で、ナラサチがつぶやいた。
 俺は立ち上がって蛍光灯をつけた。明るくなったが、不思議なことに、寂寥は増した。
 だから、彼は、劇団を去り、別の場所で、芝居がしたいのだ。
 俺たちが彼をどれほど褒めても、仕方がない。なぜならジャッジを下すのは観客だからだ。
 彼は静かに努力し、しかし認められぬことに苦しんでいたのだ。
 どうやって彼に諦めろなどと言えるだろう。
「小島君、とはいってもさ、みんな準備ができてない。私たちもできてないし。いきなり退団っていうのは待ってもらって、今回は一回本公演を休んで客演するっていう形でなんとか納めてもらえないかな。もちろん一度その先輩の劇団でお芝居やってみて、やっぱり移籍したいって考えたなら、その時にはOKするから。ファンのためにも、そのほうがいいと思わない?」
 ナラサチの提案が我々にできる精いっぱいだった。
 小島はそれに同意した。




(了)





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