XYXYXX (16) 「――これが、精一杯だよね?」 俺のアパート。劇団プール第七回公演『経糸/緯糸』の台本を読んだナラサチが初めに言った言葉がそれだった。 俺は柱につけた額のサイドがこすれるのにも構わず頷いた。髪がねじれてじゃらりと鳴った。 胃が悪い。ずっと喉元に何かがつかえているような感じがする。執筆が終わってもきっとこうなると分かっていたが、その通りだった。 出産後も苦しみが続く感じ。産んだら産んだで不安に襲われどうしようもない感じだ。 でもいったいどうする? 一度妊娠したら、いずれ出すほか選択肢があるだろうか? 「誤解しないでよ。これ、最高の出来だよ」 紙の束を手にナラサチは強い声で言ったが、その顔にも笑顔はなく、目だけが光っていた。 「R&Bみたいに甘いラブストーリーだと思う。ただし――」 彼女は言葉に詰まり、間をおいてから、尋ねた。 「主役、誰にする?」 かつて迎えたことのない事態だった。これまで俺は主に自分の創作能力や演出能力の欠如について悩んできた。しかし今回初めて、資源が足りない――役者がいない、という問題に直面していた。 俺はその点恵まれてきたのだと思い知った。『天球社』には役者は腐るほどいたし、『プール』になってからもほぼ悩まされることはなかった。 例外は旗揚げ公演の時だが――事情が違う。公演規模、観客動員、舞台レベル、関与する人間の数、どれをとってもあの時点とはかけ離れており、もはやどれほど勘違いをしても俺が主役として出ていく、などとやれる状態ではない。 舞台の規模は下げられない。質も絶対下げられない。そして小島がいないのだ。 俺はそれを分かって書いたつもりだ。しかし、二年に及ぶ劇団生活で染みついた小島の身体性と声は、容易に排除できなかった。あてがき人間の俺は、またしても新作の中に彼にふさわしい役を作ってしまった。 書き直そうとした。何度も変えようとした。しかし、家族の一員を記憶から消し去ることは難しい。無限に続く編集作業は、結局、締め切りによって終了した。 ナラサチはそれも分かっていて『これで精一杯なんだね?』と念押ししたのだ。 「ナラサチの意見は?」 「……」 小島の残像から抜け出せないのは俺一人ではなかった。 相当長い間悩んだ挙句、彼女は 「……ヒノデ……?」 と答えたが、いつもの自信がまなざしにない。それでも、俺も言うしかなかった。 「俺もそう思う」 「うーん……。ロマンティックな役だし……。完全に異性愛者な役だし……」 『経糸/経糸』は男女の転生恋愛ものだ。ある日、高校生の主人公(和田かおりを想定している)は、酔っ払った父の秘書から『あなたの夢を見る』と言われる。 『あなたと僕は前世で恋人でした』と。 ――少女マンガ? 言えばいい。 これまで同様に、最高の芸術にしてやる。 だが―― また『こうしたい。しかし』の葛藤に陥りそうになった俺を、ナラサチが止めた。 「オーケー。それで一応本読みしてみよう。それから様子を見よう。すごいはまるかもしれないし。あの子、女の子からの人気すごくあるからね」 「みんな、今日はどうだった?」 ナサラチに自主練の様子を尋ねる。小島の一時離脱を伝えてから半月ほど経っていた。 「……うーん。まあ、影響なしとは言えないけど、みんな切り替えて次回公演に集中しようとはしてるよ。あと、若手ちゃんたちはチャンスと思っている向きもあるみたい。――役が回ってくるかもだから。特に、客演を呼ばないと決めてからは」 主役級の身体性と演技力を持っていた小島の穴を、客演を呼ぶことで埋めてはどうかという提案もあったのだ。 だが、結局俺は踏み切れなかった。 つくづく俺は柔軟性のない作家で、『だれでもよい役』、を作ることができない。 参考のためにビデオや公演を見まくったが、小島の代わりになるような俳優を見つけることは遂にできなかった。 俺は彼の演技を愛していたんだなとつくづく思う。 「じゃあ、あとの割り振りはこうで……」 ナラサチと残りの配役を決めて、明日の本読みに向かうことになった。 アパートを出がけに、彼女は振り向いて俺に言った。 「舞台の密度、下げなかったね。えらいぞ、イヌイコウ」 下げようにも、下げられなかっただけだ。 一人になって俺は考えた。 本来であれば戦力が足りないのだから小規模な舞台にすべきだったかもしれない。 しかし、一度膨らんだ感覚は元に戻せなかった。失敗すればデカい。そうとも知りながら。 心臓がうるさい。頭の中で誰かが囁いている。 分かってるくせに。分かってるくせに。分かってるくせにと。 俺は立ち上がってヨロヨロと部屋を横切り、いまだにぬいぐるみが置いてある俺のシングルベッドへダイブして、それから、呻り声をあげた。 計画の変更は早くも二日目に発生した。 和田かおりが稽古の中休み中、いつになく真剣な顔で演出席にやってきて低い声で言うのだ。 「……あのさ、コウ、ナラサチ。これ、ヒノデじゃなくて誰かに変えられない?」 二人ともが黙ったのは、気づいてはいたがどうしようもなかった部分をずばり指摘されて、もう本当にどうしようもなかったためだと思う。 実際、ヒノデと小島は身体的には近いのだ。そして系統は違うがやはり美形だ。声もよい。演技力もある。天性の役者だ。 では何が問題なのか。 ――誠実さだ。 どういうわけか分からない。彼からは、小島が天然資源のように持っていた、溢れんばかりの誠実さがどうにも感じられないのだ。 その状態で少女マンガ的な――そして醜い俺のほの暗い自己表現でもある、詩的なセリフを口にするとどうなるか。 ホストみたいになるのだ。 寧ろ、ヒロインに『騙されてるよ、逃げて!』と言いたくなるのだ。 俺とナラサチは、文字通りシンクロナイズドに頭を抱えて言い訳した。 「……追々、その乖離は埋めていけるかと思ってたんだけど……」 「最終的には、これまでと同じくらいのレベルに、持っているけと思うんだが……」 和田は周囲をちらりと見て、近くに誰もいないことを確認してから、言った。 「あのね、ヒノデは、コピーマシンだよ」 彼女がこんなにはっきりとしたことを言うのは初めてだった。俺は下から彼女の整った顔を見上げる。 「本番中も、ずっと、ずっと、誰かをコピーしてる。だから、うまくなる。どんどんうまくなる。それで小島にも似てきた。基本ずっと彼と一緒だったから。――これまで彼が、落ち着いた役ができてたのも、小島がいたからなんだよ。……気づいてなかった?」 硬い海藻が足のつま先に触れ、頭が、海面よりも下に沈んだ日のことを思い出した。 血の気が引いて、鳥肌が立った。 演出というのは、大抵公演の元締めとして名前が乗る。だから自分は賢いと思いがちだ。だが時折、実は何も知らないのだと思い知らされる。 役者たちの生きる汗と五感の世界を、自分は何も知らない。 和田が言ったのはこういうことだ。ヒノデは鏡であり、毎日他人をそこに写すことで存在している。小島がいればこそ、その誠実さが彼にも反射していたのだ。彼がなければ、ヒノデは誠実を装うすべを知らない。 彼に任せてもいいが、その点は分かっているのかと。 「もちろん、わたしとかイズミとかもサポートには回るけど……。彼がわたしら二人に似たら、それはそれで、まずいんじゃないの」 額に汗が浮いた。十一月だというのに。 加納が遠くからこちらを見ているのに気づいていた。鋭い彼女のことだ。おそらく何を話しているか察しているだろう。だが口を挟んでは来なかった。 「……あのさ、これまで、できるだけ、余計なことは言わないようにしてたんだけど。受け入れてもらって、すごくよくしてもらってきたから」 腕組みをする和田の遠慮に頭を振った。彼女をもう一度見上げた時、首がぎしりと軋んだ。 「じゃあ、誰がいいと思う? 率直に」 和田は口を開かなかった。目だけで、稽古場の隅にいる人物を指す。 そこにはヒノデと、イズミがいた。真っ白いイズミは携帯を片手に、おとなしく、花のように、少女のように笑っている。 三人ともが一緒に彼を見て、それから視線を手元に戻した。 俺は言わざるを得なかった。 「……身体性が違いすぎる」 「一途さはあるね」 と、ナラサチ。 「振りと声はヒノデ。……魂がイズミ、って感じ? でも、――できる? 彼に。一瞬でもふさわしくない動作が入ったら……」 さすがに和田も断言はしなかった。ただこう言った。 「少なくとも、わたしなら彼に恋する。ヒノデの外見にじゃなく」 その瞬間、俺は万感の思いを込めて和田かおりを見た。 ――……言いたくはない。言いたくはないが、俺たちの客はそんなに上等なんでしょうかね?! 「……判断は任せるよ。もちろん。どんな状況であれ、全力を尽くすけど」 「待ってくれ。待って」 離れようとした和田を引き留める。 「……色んな中傷があるのは知ってるだろう。イズミに関して」 和田は微動だにしなかったが、それが勿論知っているという回答の代わりになった。 小島が次回公演に参加しないということは、正式発表前にすでにファンの間に知れ渡っていた。同時期にほかの劇団での出演情報があるのだから計算すれば分かる。理由として、劇団内の不和を疑う声は当然に多かった。 とりわけイズミのアンチスレは大盛り上がりだ。小島はイズミと演出の結託ぶりに嫌気がさしたのだ。いやイズミが演出をけしかけて彼と喧嘩させたのだ、と。 もし、ここで、イズミが主役をやったりしたら。 順番は逆なのだ。 小島が出ないことが分かって後に台本は完成した。 でも客にはそれは分からない。台本が先にあって、イズミは主役が欲しいから小島を追い出したと言い出すかもしれない。 和田かおりは、その時、見たこともないくらい暗い顔をした。沈んでいるのではなく、異常に腹の据わった、老人のような目つきだった。 真昼間に彼女は言った。 「知ってる? あるスレではね、コウと小島は穴兄弟だって。わたしを介して」 「――」 蛍光灯が切れる時のように、頭の中が真っ白になってそれから暗転した。 「どうせ書く人はなんでも書くんだよ。自分の親をファックするようなことだってね」 和田が去って、みんな時間だから元の椅子に戻ってきたが、俺も、ナラサチもしばらくものが言えなかった。 緊張した雰囲気だけが伝わって、三分ほども、稽古場に無音が流れた。 それはまるで、芝居が始まる直前の客席のようだった。 限界が見えるころ、俺は口を開いた。なんだかイタコにでもなったような気分だった。 「――じゃあ、三回目の本読みを、始める。……少し配役を変えて試してみる。ヒノデ、次は『キタムラ』の役を」 ヒノデは分かってるのか分かっていないのか、ただ単に「へーい」と答えた。その隣で、寧ろ『キタムラ』役だったイズミが目を丸くして俺を見る。 「ヒノデの役はイズミ――、お前が」 器のヒノデか、中身のイズミか。 俺たちは結句、中身を採り、この決定によって、公演の運命はイズミに託されることになった。 始まった時から、俺は知っていた。無茶苦茶なことを要求している。犯罪的なことをしていると。 何故ならば、イズミは小島ではないのだ。イズミはイズミであって、その資質がある。どれほど鍛えてもどこか細さの抜けない体つきと、真っ白い肌。気が抜けたらすぐにやわらかくなってしまう関節と、やさしい微笑み。水のような存在感。 それが俺は彼に別人になれと命じた。 小島になれと。 演出はそういうことをすべきではない。役者になんでも命じることのできる演出はそんなことを絶対すべきではない。だから俺はあてがき人間なのだ。 なのに。 罪悪感が凄まじかった。 一旦、稽古が始まれば、俺もナラサチも、和田も、スタッフ全員がまでもがあらゆる手を使ってイズミと小島の距離を埋めようとした。メイクや衣装の提案を見てもそうだった。すべては彼が小島になるために整えられた。 いったい俺は何をしてるんだ? 稽古のない日にも俺は思っていた。戸惑ったような、それでもなんとか人の期待に応じようともたつくイズミの姿が記憶に焼き付き、輾転反側して一睡もできないこともあった。 ベッドに横になるたび、誰かが俺に囁いた。 ――お前、失敗するよ。 とうとう、全部だめになるよ。 次がどこか分かってるだろ? 本多劇場だぞ。 ごまかしなんか通用しない。よしんばミーハーな客には通用したとしても。それは、演劇関係者たちの軽蔑を呼ぶ。 ――お前は一番やっちゃいけないことをしてるよ。 資質を認めて生かさないって、法律には書いてないけど罪だよ。 それをやったら人間が歪む。 知ってるくせに。 ――遂にお前、同じことをするようになったな。お前の両親と。おめでとう。 ――お前はやめるべきだった。延期すべきだった。別の選択をすべきだった。もしそのどれもできないというのなら――だったら、失敗は必然だ。 うふふ。いつか、こうなると思っていたよ。 自滅すると分かっていたよ。 これまでがどうかしてたのだ。 お前は幸運を全部失う。 劇団も。メンバーからの信頼も。客の愛も。 ――イズミも。 本当にそう思っていた。 俺は彼にも演劇にも許されないことをしていて、イズミはそれを見抜くだろう。 自分を改造しようとする俺を、決して許さないだろう。 俺は誤った判断をして興行を無理やり決行した。そのために彼を犠牲にした。 しかもさらに最低なことに俺は結果をも信じていなかった。目も当てられないものを出すことになるだろうと思っていた。 いつかの井の頭線の中で聞いた会話に出てきた、素人によるミュージカル。そういったものを、顔も上げられない状態で出すことになるだろうと、毎日稽古をしながら、思っていた。 それくらいイズミは戸惑いまごついていた。 当然だ。子供に大人の衣装を着せて踊れというようなことをしていたのだから。手足はもつれ、その目には疑いが浮かぶ。 『できるわけがない』 『なんでこんなことをしなければならないのか』 特に和田とのラブシーンの悲惨さは見ていてつらいくらいだった。ものすごくものすごく変だった。虐待にも見えた。本当に俺は、何をしでかしていたのだろう。 やはりヒノデに主役変更をすべきかと考えたことも二度や三度ではなかった。少なくとも彼なら、型どおりだとしても型には到達するだろう。 でもそれをしたら芝居は死ぬ。どちらにしても悲惨なことになる。 小島だったのだ。 決して手放してはならない資源は小島だったのだ。 彼は旗揚げ公演からずっといた。劇団の運命は本当は彼が握っていたのだ。彼を悩ませ、離れさせた時点で、俺の破滅は決まっていたのだ。 それでも、六回の公演を遂行してきた劇団という機構と、単に停止の決断を下せない無策のために、製作と稽古は進んで行った。 赤字経営に陥った印刷所を笑えなかった。なんでこうなる前に辞めないのかと言われても返す言葉がない。 とにかく俺は、演出のくせに、主宰のくせに、その時、一ミリたりとも七回公演の成功を信じていなかった。そんなことは有り得なかった。 ところがそんな俺の真っ暗な予測を、伊積陽生はひっくり返した。 ゲネプロを終えて、初日の幕が上がった時にも、俺はまだ、信じられなかった。 すべてが持ちこたえて無事に興行を開始させたことも。そして、芝居が本多劇場にふさわしい質に仕上がっていたことも。 何日目くらいからだったか。 疲労困憊していたナラサチの目つきが変わってきたのは。和田の全身が芝居の喜びに満たされ、声から緊張が取れたのは。加納がちょっと曲を変えてみましょうと忙しく提案を始めたのは。全体がドライブし始めたのは。 それはすべてイズミが引き起こしたことだった。 彼は一時沈み込んだ。異常な負荷を抱えて完全に進歩が止まった。文句こそ言わなかったが、いつ爆発してもおかしくないと思える疲れた表情を浮かべている日が半月ほど続いた。 ところが、そこから一日、二日と過ぎるうちに、彼はそこから少しずつ這い上がり、変わっていったのだ。 彼は小島になりはしなかった。しかし別の、愛情に満ちた誠実な青年になった。夢で逢う前世の恋人を追う真摯なまなざしと、抱きしめるための腕を持った。 彼の身体から、文脈にふさわしくない所作はいつしか全く抜けた。代わりに、彼がこれまで存在自体感じさせることのなかった秘密の場所から、見も知らない新しい彼を取り出してきて、自らを変貌させた。 はっきり言うが、彼は女性向けの恋愛ゲームに攻略対象として出てくるようなロマンティックな男に完全変態した。 当初似合うだろうかと危惧された秘書風の三つ揃えのスーツも、額を広く出したツーブロックの髪形も、魅惑的な彼の完成に寄与した。 皮の靴もよく似合った。このまま、どこのオフィスにも入っていけそうだった。もっとも、少女マンガ的美形過ぎて、二度見されるだろうが。 イズミは以前に一度変身した。 金髪になった時だ。 それなのに、また変身した。 そして芝居の中心になった。 時間はかかったものの、小島になれという俺たちの不当な要求を手で押し返し、荒れることも、怒ることもないまま、結句予想を超える変貌で俺たちを圧倒し、唖然とさせたのだ。 『小島に』。『小島に』。 なんて俺はバカだったんだろう。俺は伊積陽生という役者の才能を知らなかったのだ。総合力なら小島や和田が一番だろう――器用さという意味ではヒノデがいる――イズミは頑張り屋さんだ――なんて、バカな。 イズミは。 伊積陽生は、役者なのだ。最初から。 決して大人物ふうには見せないけれど、役に求められることをきちんと理解し、努力して身体を変え、個性を加味して結果を出すことのできる、尊敬を払われるべき、一人前の若き表現者なのだ。 俺はあえて認める。 この時まで、このことは、誰も本当には分かっていなかった。 本多劇場における第七回公演『経糸/緯糸』の初演を、俺は客席に座って見たが、実際には始まる前から、これは成功だと分かっていた。それくらいの完成度に到達していた。ここまで安心していたことは過去にない。 まさかこんな気分で初日を迎えさせてくれるなんて。 暗闇の中で、俺は満員の劇場が、彼に恋するのを感じた。幻想かもしれない。単に俺が彼に恋しているから、そう思うのかもしれない。 だが、賭けてもいい。今この瞬間、ナラサチも彼に恋しているし、和田も、加納もそうだ。メンバー全員がそうだ。 誰がどう考えても重責だった。彼は潰れてよかったし怒って俺たちを責めてもよかった。公演を失敗させる権利があった。それも彼のせいではなかった。 でも彼は、そうしなかった。 そうしないでくれた。 そうしないで、こんな舞台を作り上げてくれた。 芝居が終わって、拍手喝采があって、カーテンコールがあって、ロビーでの客の送り出しがあり、そして片付けがあった。 楽屋に行くと、イズミはいつもの通りで、鏡の前でメイクをふき取りながら、隅に写った俺を見るや、にかっと笑った。 「あ、コウさん。おつかれさまでーっす!」 俺はもうかける言葉もなかった。 「イズミ。――ちょっと」 恥ずかしいとか人目があるとか考える余裕もなかった。手招きをした。 「ハグさせてくれ」 鏡の中で彼は「おお?」と目を見開き、すぐに立ってこちらへ向き直った。衣装のスーツはすでに脱いでいて、白いタンクトップとショートパンツ姿だった。 「へへへ。どーしたんですか、そんな神妙な顔してー」 まったくいつもの彼だった。今しがた、自己の魅力で公演を成立させられる、観客を熱狂させられるスーパースターだと証明した、そんな伊積陽生ではなくて、昔どおりの、ガードの低い、やさしいイズミだった。 不思議なことに、目の前の彼は今まで以上に細く、少女のようにも見える。 彼は俺やみんなの愚かさを暴くこともなく許してくれて、――俺を実際に、経済的にも、社会的にも、救ってくれた。 表情を操作できていたとは思えない。俺は実際救世主を見る目つきをしていたはずだ。 イズミはちょっと照れたみたいだった。耳が赤くなり、あまりに真顔な俺をからかってはしゃいだ。 「なんだろ。えーと、なんか、そんなお顔をされるようなことした覚えがないですが、あはは、ふふふ。うん、ハグしましょーかー」 とうとう白い腕がするりと俺の体に回されて、俺は彼に抱きしめられた。 身をかがめて彼の肩に顔を埋めながら、俺も手を伸ばす。 こんな自分を助けてくれた彼に感謝が伝わるよう、両腕にぎゅっと力を込めた。 イズミは少し押しつぶされて息を漏らした後、幸せそうに笑った。 「やっぱり寂しいですね。小島さんと、またやりましょうね」 イズミの言葉を契機に俺たちは離れたが、今度はイズミの右手が俺の左手を握った。 俺は、空いたほうの手で拳を握り鼻を押さえながら、二三度頷いた。 本当にそうだ。 この成功を無駄にしてはならない。 俺は、彼の信頼と存在も取り戻さなければならない。 始まりの頃を覚えてるか? 誰が、イズミがこんなふうに俺を支え助言を与える人間になるなんて思っただろう。 いや、初めからそうだったのか? 彼はいつも、繰り返し俺に、こう言ってきたのかもしれない。 こっちは大丈夫だと。 助けるから、 そんなに心配しなくていいんだと。 見くびって彼という人間を分かっていなかっただけかもしれない。 役では決して見せなかった目じりの溶けるような笑みで、彼は握った手を軽く振りながら、無言で泣く俺を見つめた。 それから女性用楽屋へも声掛けに行こうと、イズミのもとを離れて出口に向かった時、ドアのそばにじっと立っているヒノデに気が付いた。 彼は濡れたタオルを手に、大きな目を見開いて俺を見ていた。 不思議なことにそこには、嫉妬も苛立ちも感情は何もなかった。そもそもイズミではなく何故か俺をじーっと見ていた。 俺はきまりが悪く顔が赤くなったと思う。明らかに目が涙で濡れていたし。 「お疲れ」と言った俺の言葉には返事もなかった。 その時の彼の不思議に平板なありさまを、今なら、もう少し適切なたとえで表現することができる。 まるでAIが学習をしているようだったと。 (了)
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