XYXYXX (17) そのさなか、どうして俺はこんなところにいるんだろうとぼんやり考えていたのを覚えている。 平日だったのだが、子供連れの母親や、中高生くらいの制服の集団や、友達連れや、カップルで十分混みあった水族館の中で、予想していた以上に途方に暮れて、ベンチに腰を下ろしていた。 アウェイ感が半端ではない。 いや、水族館自体が嫌いなわけではない。レジャー施設が苦手なのだ。ディスニーランドにも一度しか行ったことがない。その時共に行ったナラサチに、『ここでこんなに手持無沙汰な人初めて見た』と言われたことを覚えている。 はしゃぐことができないのだ。そんな俺が、それじゃあなんで、サンシャイン水族館なんて超メジャーなレジャースポットにいるのか。 一人ではなかった。コートを着た連れは今、空飛ぶペンギンの下で見知らぬ五歳くらいの女児とぴょんぴょん飛び跳ねている。 「来た! 来た来た来た! きゃーっ!」 昨夜の舞台ではヘテロ恋愛の男役として、汗と色気を振りまいていたとはとても思えない嬌声と関節だ。 つまり、伊積陽生が休演日の今日、ここへ来たがったのだ。 『すごい楽しいんですって! ともだちが行ったんですって!』 おおっぴらにみんなの前で『行きましょうよう』と誘われたから、他にもメンバーがいるのかと思っていたら、待ち合わせ場所に集まったのが二人で驚愕した。 ――少なくともヒノデはどうした? 俺はかなりたじろいだ。だが、同時にもう彼の希望にはなんでも従う精神状態でもあった。多分このままディズニーランドに行くと言われても行っただろう。 命の恩人だ。 義理を返せるならなんでもやる。 正直音楽の鳴るサンシャインビルに入る前からもう逃げ出したかったし、安全で楽し気な場の雰囲気に全くそぐわない人間で、イズミが一時でもどこかに行ってしまうと、かわいそうな不審者になってしまっていたが、文句はなかった。 ただ体力がないので疲れて、今はベンチに座っている。 イズミは俺よりはるかに鍛えているし持久力がある。恐ろしく長い期間、持続的にハイな状態でいられる。どこからそんなパワーが湧いてくるのか信じられないくらいだ。 遊ぶ彼を見ていると子どもとか、水場を連想する。音もないが砂の下から切れ目なく湧きだしてくる泉水を見たことがあるだろう? まさにその名の通りのイズミなのだ。俺は力なく笑った。 「疲れました?」 ベンチに彼がやってきて俺の隣に座る。挨拶のつもりか、肩をぶつけるようにして体を一度押してくる。 これでくすりともしないのは人として不可能だろう。 「僕もお腹が好きました。おみやげ屋に行ったら、ファミレス行きましょう」 俺はようやく口を開く。 「もうちょっと、ちゃんとしたところでもいいよ。おごるよ」 「ファミレスのパフェが食べたいんですよ。でもありがとうございます」 こてん、とものすごく無造作に肩に頭を乗せられた。 小学校の頃に、同級生にこういう女の子がいたな。と俺は前を見ながら考えていた。スキンシップに対して全然ハードルを感じない子だ。普段のヒノデや和田とのじゃれ合いを見ていても、イズミがそういうタイプなのは間違いない。 俺はそうではないけれど、黙って受けることくらいはまあ――なんとかできる。 赤面してなきゃいいが。 イズミはやがて体勢を戻し、俺の顔を一回見てから、俺の手を引き、立ち上がった。 ミュージアムショップでペンギンのぬいぐるみを買い、それから彼に案内されるままにサンシャインを抜け、街中のファミレスへ入った。店内も混んではいたが、運よく窓際の席に座ることができた。 「このくらい時間ずらすとギリ大丈夫なんですよ。すいません、お腹すきましたよね」 「――うん」 俺はあまり空腹が苦痛でないのだが、彼に聞かれると、じゃあ食べようかなという気分になるから不思議だ。 「肉とか食ってください。肉」 「……雑炊とかうまそうなんだけど」 「そうですかぁ! 食べたらいいですよ、昼から雑炊! いい若いものが、昼から雑炊!」 笑顔での圧迫に負けてシチューにした。 (そうしたらそうしたで「いや、好きなものでいいんですよ?」とか遠慮を始めるので「いやいいよ」「いいじゃないですか、雑炊」「いや」と不毛なやり取りで時間を無駄にした。) イズミはと言えば、トマトソースのスパゲティセットに、サーロインステーキ単品だ。俺は目をぱちぱちした。 「……この後、パフェ、食うんだろ?」 もちろん、と頷いた上、注文時にパスタを大盛りにしたので俺はもう何も言わないことにした。 やってきた料理はもちろんテーブルに溢れた。イズミは、さっきペンギンに熱狂していたのと同じかわいい顔で、片端から平らげていく。 「いつもこれくらい食べるのか?」 「ダイエットしている時もありますけどね。今は公演中だし、とにかく食べないと」 「筋トレも相変わらずやってるんだろ?」 彼は食べるのに忙しいのか、もぐもぐしながら親指を立てて見せた。 もちろん! 「前に、俺がいじめたこと、あったな」 「……」 「あの時は、悪かった。本当に失礼な態度だった」 なんで俺はこんな時まで場を暗く深刻にしてしまうんだろうか。 そんなことは今、思い出さなくてもいいし、言わなくていい。 食事にふさわしい楽しい雰囲気を続けたらいいだけなのに。最悪な友連れだな。 ステーキを切り分けながらイズミが言う。 「あれがあって、今があるんですから、いいんですよ」 俺は顔を上げて彼を見た。社交辞令か、やさしいフォローか。目が合った。 「あなたが本気で期待してくれたんで僕も真面目になれたんです。あーん」 口元へ肉が差し出される。 俺は少し躊躇した後、それを噛んだ。 落としそうになり、慌てて咥えなおして、やっと全部口に入れてもぐもぐと咀嚼する。 「ツバメのヒナみたいですねえ」 と、彼。 いつか水を飲ませてもらっているヒノデを見て呆れたことがあったが、金輪際俺はそれを笑えない。 「お母さんキャラなんですよ、僕。想像つきます?」 「……?」 「初めに会った頃、あんまそういうイメージなかったでしょ? 顔のせいかな。この美貌のためかな。うーん、罪だな、イケメンに生まれて」 「はいはい」 「いやこれ、本当のことなんですよ。――サラダも食べてくださいね」 小鉢を俺の方へ押しやりながら彼はさらっと言った。 「まじめな人間だと思われないんです。へらへらしているように見えるみたいで。学校の先生によく怒られました。まあ確かにふざけるのも好きなんで、しょうがないんですけどねー」 その声にはいつもと少し違ったところがあった。ほんのわずかだが。 罪悪感と、興味と、心配と、恩返しをしたい義理の気持ちで、俺は彼の顔を覗き込む。鳥のように。 「僕が好きなのは――かわいいお洋服、靴、髪飾り、お花。お菓子。お茶。ぬいぐるみ。まんが。まじめに受け取ってもらえなかったし、決して理解してもらえませんでした。 前にコウさん見つけてきたじゃないですか。うち、両親とも歯医者なんですよ。だから結構勉強に厳しくて、子どものころから歯学部で当然、いけるなら医学部入れって言われて。がんばったんですけど、がんばり切れなくて、高校入った段階で燃え尽きちゃって。文系と決まった大学受験の段階でほぼ親から見捨てられちゃいました。 兄貴がいるんです。今、歯科の研修医ですけど、結婚を決めたカノジョもいて。親にとってはもう兄ばっかで、弟の僕はいないも同然ですね」 そうなのか。 ……え? ならばあの――カーネションは? 彼は最初からそう決めていたのか、俺の反応を見ることなく、さらに続けた。 「まあ金は出してくれたんで、大学入って、僕ももう好きなことやろうと思って――この辺も来ました。新宿も顔出してた時期があるし、新橋の方にも行ったかな」 その時、俺は間抜け面をしていたと思う。 何の話をしているのか分かったのは、彼が目を上げ、付け加えた後だった。 「知ってます? コウさん、このあたりのバーとか、ハッテン場とか」 凝固した。 そういう話だったのか。 ――いや。知らない。 俺は何しろ、演劇バカで。 出会いとか恋愛なんて余裕は。 彼と違って俺は醜いし。 それに危ないことだから。 一生恋人なんてできないとハナから諦めていた。 凍りついたまま俺に、だが彼は首を振った。 「ダメだったですね。居場所が欲しかったけど、あまりいい出会いがなくて。やさしい人も時々いたけど、とにかくまじめな人間だと思われなくて。遊んでるみたいに見えるみたいで。ただ僕――多分、自分で思っているよりもずっと頭が固くて、それに、時間がかかる方なんですよ。警戒を解いて、人を信頼するのに」 彼はにこっと笑った。 「こんな話も、めったにしないでしょ」 確かに、そうだ。 彼はいつも人の面倒を見ていて、明るい話しかしない。誰かが窮地に陥っていたら、空気をめちゃくちゃにすることで助けようとする。 いつも努力して、劇団全体を救ってくれる。 ヒノデに水を与え、俺に肉を食わせてくれる。 それでいて、過去のことは水に流してくれる。 自分のことはほとんど話さない。 彼の横顔を三秒見た後、――口を開いた。 「……多分、ちょっと歌が下手すぎるんじゃないかなあ」 イズミの目がちょっと見開かれた。瞳に火花が散って、『よしきた!』という声が聞こえるようだった。 身を倒し額を押さえ大袈裟に残念演技を始める。 「あーそうかー。音痴すぎるのかー」 「ちょっとやそっとの下手じゃないから。天才的な下手さだから、君」 「そうだよなー。こう、どれだけまじめなこと言ってても、歌があれじゃーなー。カラオケに行った瞬間、信用ガタ落ちになるよなー。って、バカなこと言わないでくださいよっ!!」 俺は拍手した。 みごとなダイコン寸劇だ。 イズミは嬉しそうに破顔する。 「おお、今なんか、いい呼吸でしたね?! コウさん、僕と漫才コンビ組みましょうか? イヌイくんとイズミくんで?」 俺も思わず苦笑した。 「いいよ」 「やったあ。――コウさん、僕ね、今の『プール』が今まで入った集団の中で一番好きです。名前もいいです」 『プール』 舞台と同じように人工的な、広くて四角い箱。 そこに満たされ、たたずむ水。 俺ときたらあれほど水が苦手なのに、よくもそんな名前をつけたものだ。 でもそうだな。今度は海ではなくプールで、泳ぐ練習をすべきかもしれない。 彼は泳ぎ方を教えてくれると言った。 「あと、前も言いましたけど……小島さんに、戻ってきてもらいましょう」 「うん」 頷いた。 実は明日、小島とも話し合うことになっている。みんなには伝えていないのだが。 「ありがとう」 そのあと、珍しく気が向いてサラダボウルに手を伸ばした。その手にそっとイズミの手が触れた。 馬鹿な俺は、彼がサラダを取るな、と言ってるのかと思った。そうじゃないことに気付いた時にはさすがに心臓が跳ねたが、多分、第三者的に見れば俺は一時停止したのみだったと思う。 それくらい、俺は、分からないのだ。 どうしたらいいのか。 イズミの手は、クロスの上で停止した俺の手の甲に、セキレイのようにしばらくの間無言で留まっていた。 ファミレスに入ったもの遅かったが、出た頃にはすでに夜になっていた。 貴重な休演日ももうおしまいで、明日からまた仕事が始まる。 明日は長い取材がある。そして、夜には小島との話し合いも予定されている。 とはいえ、なかなか休日気分が抜けなかった。慣れない場所で慣れないことをし続けた疲れのせいか、足元が覚束ない、思考も回らない。 熱でもある日のようだ。集中しようとしても意識の蓋が閉まらない。イズミとの会話も、かみ合っているような、平行しているような。ただとにかく、ずっと互いが互いのそばにいて、同じ方向を見て、舞踏の列に並んでいるように、進んでいく。 いつの間にか彼の手が俺の手を握って、体をほとんど預けるようにしていた。 くっついていると体が温かかった。 人間の体ってこんなに温かいものだったのか。 目的地や明日の予定よりも、弛緩した思考が追っているのはその温度だった。追えば追う程、瞼が緩んでくる。 そもそもお腹がいっぱいだった。 なんだかんだ彼が俺に食わせたから。パフェまで。 こんなに満腹な状態で街を歩いたことがかつてあっただろうか。 とはいえ、池袋だって無限の広さではないからいつしか駅に着いた。二人で山手線に乗って高田馬場で降りる。二人とも東西線だが、行き先が逆だ。 当然別れなければいけないのに、なんでか、イズミの手の力が強くなる。 彼を見たら、俺の視線を避けて顔を伏せるけど、その耳朶が赤くなってそれが代わりに話しているみたいだった。 人の邪魔になるのを避けて柱に寄る。頭のどこかで、ああ、こういう二人連れが駅にいるのを、自分も何度も見たことがあるなと思っていた。 いつの間にこんなのっぴきならないところへ来たんだろう。覚えてない。 雑踏は耳の奥で潮騒のよう。いや、夏の蝉の雨のよう。 向き合ってようやく彼の顔を見る。彼も俺を見上げる。 俺は今、彼が『イケメン』と言われる理由を理解するようになったけれど、実を言うと、時折まだ、やっぱり変な顔だと思う。 なんにでもなる役者の顔。でも、見慣れた、やさしい顔。 彼の赤い唇が動いた。 分からない。多分いいよと言ったと思う。 少し頭を下げて、顔を寄せた。最初に鼻が当たってから、幾度か調整してやっと唇同士がぴったり合わさった。 不思議な気持ちだった。 ああこういう感触だったのか。 予想していたのとは違う。そもそもはっきりした味があるようなものじゃない。 なにもキスをしたのが初めてだったわけじゃないけれど、イズミとするのは初めてだった。 唇が離れると、彼の手が首に回って、彼のおでこが俺の胸に押し付けられる。 そこまでだった。 顔を上げた彼は、風呂から上がった直後みたいに上気して目も濡れていた。 「じゃあ、またね」 きゅっと気を引き締めるように俺の知る男っぽい顔に戻って、彼は去っていった。 家に着くまでの電車で、空いた席に座った俺の頭は相変わらず鍵が壊れていた。 ずっと彼がくっついてきたぬくもりのことを思い出していた。繰り返し。繰り返し。いつか彼からのメールを読みふけっていたように。 そして俺には確信があった。今、逆方向に流星のように遠のいていく彼も、俺と同じことを考えていると。間違いなく俺のことを考えていると。 理屈ではなく、そう分かった。 この世に、俺と関係のある人がある。 俺は今、恋愛関係に陥っている。 恋をしている。 目を閉じて今日のすべてを思い出そうとした。もう一度同じことをしたかった。もう一度触ってもらいたかった。 彼と一緒に、無限に同じ一日を繰り返し、この風呂のような曖昧にずっと身を浸していたかった。 朝が来て、自分が昨日と同じ外形を保っているのが不思議だった。頭の中身が外貌に反映するならば、古屋兎丸が描く知能のない肉塊みたいになっていてもおかしくないのに。 恋の病とはよく言った。風邪を負ってバイトに出勤するのによく似ていた。 今日の取材は雑誌社がセッティングしたもので、これまで受けた中では最も大掛かりなものだった。なにしろ対談相手もいて、やや先輩格の京都出身の演出家で、女性だった。 小劇場の世界は人脈がものを言うので、逆に大学などでつながりがないと同じフィールドで仕事をしていても付き合いが発生しないことがある。彼女とも、互いに互いの芝居を見たことはあるが、ちゃんと会って話すのははじめてだった。 というより、そういう当たり障りのないポジションの人間を雑誌社が連れてきたというべきだろう。もともといた大学の、そして『天球社』界隈では、俺はかなり扱いづらいいびつな物件になっている。 俺は相手の演出家に大変好感を持った。彼女の芝居と同じように、導入が巧みで、知的で、バカなことは何も言わない賢い人だった。『プール』の良さや成功を認めてくれ、妙なこだわりや威圧的なところもまるでないので、普通にこれからも同業者として良好な関係を保ちたいなと思った。 話もかなり弾み、楽しい対談だった。最後に彼女が『プール』の役者について褒め始めるまで。 「――あの、今回の『経糸/緯糸』見て、本当にびっくりしたのは、役者の――伊積さん? 伊積陽生さんっていらっしゃるじゃないですか。あの人の、変身ぶりですよね」 俺は彼女を見た。彼女の目は光り、口調は真剣で、身振りは熱を帯びていた。 「前にも、見たことがありましたけど、今回、すごくないですか? 私の劇団の子たちもキャーキャー言ってて」 「ありがとうございます」 彼女はまだ辞めなかった。誰かと共有したい意見だったのだ。 「すごく可能性のある役者さんですよね。多分まだまだ余地がありますよね。開いていない場所がもっとありそう。役者さんも色んなタイプの方がいますけど、彼はピアノみたい。弾く人によって音がまったく変わる、そういう人だと思います。今回の舞台を拝見して、いつか一緒に仕事をしてみたいなってすごく思ったんですよ――」 傍で見ていたナラサチによれば、このあたりでもう俺の顔色は上質紙みたいに真っ白だったらしい。 思ってもみないことだった。他の演出家が彼の才能に興味を示すというのは。 これも俺が長らく彼をナメていたせいだ。 小島なら、分かる。和田なら、分かる。でもイズミについては。完全に油断していた。彼は『プール』のものだと。 もちろん取材はちゃんと終わらせた。だが、その後は、自分でもはっきり自覚したくらい落ち着かなかった。 残りの興行を止めたい思いに駆られた。 狂っているというべきだろう。 まるで映画館でスクリーンの前に飛び出して叫ぶ男みたいじゃないか。「見るな! 見るな!」って。 ナラサチは横でへっへっへと笑っている。 「いやーおもしろかった。見ものだった」と。 じきに俺の醜態は和田や加納に伝わるに違いない。 恥やらなにやら暴走して頭が爆発しそうだ。いったいなんてありさまだ。 それでいて劇場に入ってイズミの顔を見れば、喉が締まって何も言えなくなってしまう。 「やーおはようございます。大丈夫ですか? なんかありました?」 廊下で挨拶されただけで人形のように体が強張り、目はその唇にくぎ付けで、二歳児並みに言葉も出ない。 他の人間が怪訝な目で俺を見ている。 ああもう。 恋愛なんかするものじゃない。 馬鹿になるだけだ。 「見てるのは楽しいよ?」 ナラサチが演出卓で落ち込む俺の横でケラケラ笑う。 そうだろうよ。 だからお前らはいつでも見るんだな。同人誌とか、ドラマとか、舞台とか。 忙しい日だった。夜に小島望と会うことになっていた。 彼は先日もう『経糸/緯糸』は観に来ていた。今夜は次回公演に出演するかどうかを決めるために話し合うのだ。結果がどうなるか不明だったので、ほとんどのメンバーにも言わないでいた。 約束した飲み屋で彼と会い、席について、メニューを見ていた時だった。 メールが来た。 普段は確認をしないこともあるのに、遅れて合流するナラサチからの連絡かと思い、俺はすぐ携帯を取り上げた。 「――どうかしましたか?」 小島が、緊張を忘れ、懐かしい、労わるような声で俺に呼びかけたのが何分後だったのか。 「――すまん、小島」 ざわめきに満ちた飲み屋の中で、彼に応える俺の声は自分のものでないみたいだった。視界は暗くて、小島の顔もちゃんとは見えなかった。 口の中に田舎の夜が広がるのを感じながら俺は言った。 「先生が亡くなった」 (了)
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