XYXYXX (18)



 先生はZARDの歌手と同じ死に方をした。
 病院の階段から落ちたのだ。
 事故か、そうじゃないのか、分かっていないと、演劇部の先輩からのメールで知らされた俺は、指定された斎場へ行かなかった。
 もう電車には乗っていた。行き先を変えた。
 通っていた高校のある町の駅で下車した。田舎のことだから、駅前にはバスロータリーがあるきりで店もろくにない。
 バスの本数も限られている。
 少し迷ったけれど、バス停の前で、両手をコートのポケットに突っ込んで待った。
 さっきPHSが振動した。多分先輩からだろう。
 悪いが、今は答える気にならない。
 俺の気持ちは忘れものでも取りに行くみたいに、高校へと走っていた。


 乗客のまばらな昼間のバスはなんだかファンタジーみたいだ。
 現実を走っている感じがしない。刺激もないまま、到着まで30分もかかる。
 なんで俺はこんなところで据わりの悪いバスに乗っているんだろうという気になる。
 実際にそれほど前のことでもないのだ。この路線ではなかったけれど、俺は毎日バス通学だった。
 部活にはまり込んでしばしば帰りが遅くなった。
 先生はよくバス停に見送りに来てくれた。
『気を付けるんだよ』
 小柄な彼はいつも清潔感のある、洗練された服を着ていた。俺はそれまでファッションを学ぶ機会がなかった。彼に憧れて自分のスタイルを探すようになった。
 人にどう優しくしたらいいのか。リーダーはどうふるまったらいいのか。勉強はどうしたらいいのか。賢い人間というのはどういうことはして、どういうことはしないのか。
 彼はまさに『先生』だった。
 今でも思う。高校で演劇部に入らなければ、俺は東京の大学に出なかった。大学に行っていたかどうかもあやしい。そこらで適当な職に就いて鬱々と生活していたはずだと思う。いつか爆発していたかもしれない。
 担任などは部活をしてなければもっと上の大学を狙えたのにと惜しがっていたが何も分かっていない。
 そもそも、あの夕刻、洞のような講堂で先生に出会わなかったら、俺は、生きるということの自由も意味も喜びも知りはしなかった。
 アナウンスで、高校が次だと知る。ボタンを押して下車を知らせた。
 真昼間だから、付近には誰もいなかった。授業中のはずだ。俺は学校には入らず、とある方角に、歩き出した。
 高校三年の春だった。急に先生が来なくなり、三月末で退職したと告げられた。何も事情の分かっていない非常勤講師が現れた。驚いてどういうことかと思っていたら、徐々に噂が流れてきた。
 二月ごろに、学校に奇妙な密告があったのだという。教諭〇〇から、勉強会や委員会の会合で会うたびに言い寄られて迷惑をしているという――。また、時に彼は学校の男子生徒らに対し、ただならぬ執着も見せていた。気を付けたほうがいいですよ。という。
 春休みの間に校長と当人との話し合いがあり、結果、退職に決まったのだという。
 噂は生徒の間で、面白半分にどんどん広がっていった。世の中には触れてはならない題材とおもちゃにしてよい題材があるが、これは後者だった。ただでさえ教師の醜聞は生徒たちの楽しみなのに、まして同性愛とセクハラだ。
 ただ、どうしてみんな、そんなことができたのか分からない。
 先生は親切だったじゃないか? 身ぎれいで、公平で、穏やかな人だったじゃないか? 忘れてしまったのか?
 そういや、俺、肩組まれたことあるわ。やべー。
 ほかの学校の教師に色目つかってたってことだよね? わー。
 後から事情を聞いたので、俺は知っている。学校に親切ぶった投書をしたのは、他の市立高校の教師で、先生の五年来の恋人だった。
 彼は校長の娘だかと結婚することになったのだが、足を引っ張る者がいたらしい。あの学校の○○と変な噂がありますよと。それで『身の潔白』を証明する必要が出たとのことだった。
 あれは、ちがうんです。向こうが一方的に、にじり寄ってきて。迷惑してたんです。そう、ホモなんですよ。ていうか、あいつはね、教え子のことも、そういう目で見ていてね。前々から、危ないなと思ってたんですよ。


 当時は携帯もPHSもなかったので、俺は先生と連絡を取る術がなかった。
 ただどうしても退職のわけが知りたくて、先生の住所を教員室の住所録で勝手に探し出し、そこを尋ねた。
 学校から車で七分ほどの独居者用アパートに、彼は住んでいた。
 今、俺は二十分かけて歩いて、そこにたどり着く。
 道順を忘れているかと思ったけれど、なんとかなった。通ったのも一度や二度ではないから。
 相変わらず何もないところに、二×六のブロックのようなアパートが所在なげに立っている。幾つかの窓には洗濯物が。脇には駐車場があって、安い車が三、四台停まっている。
 そのうちの二階の角の部屋が、先生の部屋だった。
 幾度訪ねたか。七回くらいは来ただろうか。名札は間違いなかったけれど、呼び鈴を鳴らしても応答はなかった。手紙を差し入れたけれど返事がなかった。ある夜には電気がついていた。それでもノックやチャイムに応答はなかった。
 高校生の俺はやっぱり甘かったと思う。お涙頂戴の一発逆転を狙っていた。
 会って励ませば何とかなると? ――『新歓公演があるから先生こっそり一緒に見に行きませんか。みんなも喜ぶと思います』 それで先生が元気になると?
 違う。ただ必死だったのだ。それでも、恥をかかされ面目を失い社会的地位を失うということが人間にとってどれほどの苦痛か、まだどれも持っていなかった子どもの俺は分かっていなかった。
 その日、アパートに着いた頃にはもう夜になっていた。明かりは消えていた。軽い失望に慣れ始めていた俺は、では手紙だけでも差し入れようと、部屋のポストを人差し指で押し開けた。
 その時だ。指一本分開いた隙間から、うめき声が聞こえた。
 あー……あー……という。
 瞬間、俺の体の中で何かが死滅し何かが爆発した。本当に全身が凍り付くと同時に脳漿が沸騰した。
 これは命にかかわる事態だと、同様に死の一歩前までいったためか俺には分かった。
 扉をガンガン叩いて大声で叫んでめちゃくちゃに暴れた。アパートの隣人が残らず玄関から顔を出すまで。
 110番。119番。
 大家が鍵を持ってきてもドアチェーンがかかっていたから、見たこともないようなでっかい鉄のはさみでそれを断ち切ってようやく中に入った。
 彼は薬だの酒だのを過剰摂取して人形のようにぶっ倒れていた。
 赤いライトの回る救急車で大急ぎで運ばれていった。
 体の震えが止まらなかった。
 確か警察から連絡が行って親戚が迎えに来たけれど、部屋についても俺は錯乱していて、ベッドの布団を殴ったり叫んだりした。
 ありえない。
 こんなのはありえない。
 こんなこと、あの先生に起きていいことじゃない!!


 誰かに言いたい。
 先生は、本当に美しい人だったんだと。
 舞台の上で、『化け物』を演じる彼が、どれほど光る眼差しをしていたか。なんといううっとりするような声だったか。見事な演出の手腕で、片田舎の高校生たちを、どれだけ感化し、啓蒙し、楽しませていたか。
 下着姿で部屋を暴かれ吐瀉物まみれで搬送されていったり、ましてや、――ましてや、顔を見てお別れの挨拶もできないような、そんな葬式で送られるような、そんなストーリーにふさわしいひとではなかった。
 硬い地面が、彼の最後の到達点だなんて。
 あの植物のように瀟洒な体が、血まみれで人目にさらされたなんて。
 再び神経に障る赤いランプに囲まれて田舎町で人々の噂になり、今、葬儀場に横たわっているなんて。
 俺はアパートの前で息を吸いこんだ。
 認めたくない。
 認めたくない。
 どう考えても、彼はもっとまともな扱いを受けるべき人だった。
 葬式に行かなかったのは、加担したくなかったからだ。俺はこの演目には異議がある。だから、客席には、いたくない。



 再び駅に戻ったころには夕方になっていた。先輩からのメールがたまっていた。最後の一つには形見分けの話があったけれど、俺は、死んだ先生からなにかもらうことなど考えられなかった。
 先生の思い出に?
 思い出して泣けってか?
 いやだね。
 乗車チケットを買って、東京へ向かった。電車はガラガラだった。喪服を着た自分が車窓に映っていた。

――乾君。

 声は思い出したが、顔は思い出せない。真っ黒に塗りつぶされている感じがする。

――君は幸せになってくれ。

 泣きたくない。
 奥歯を噛んで俺は思った。
 泣いたらかわいそうな物語が完成してしまう。
 俺の先生はかわいそうな人なんかではなかったんだ。
 やさしい、賢い、誇り高い、美しい人だったんだ。

 本当なら、そんなことは言わないで、
 本当に俺に幸せになって欲しいなら、
 まずあなたがそうなればよかったんだ。
 あなたは先生なんだから。
 あなたを見て俺は学んだろう。

 それでもこぼれてくる頑是ない涙を鼻筋に指で押しつぶす。
 先に一人で諦めてしまった先生。
 でも俺は覚えているんだ。彼が本当は有るべきだった姿を覚えているんだ。
 俺はこれを一生忘れないで、創生の神話のように抱いて行くんだ。




 長い時間をかけて、夜を渡り、家に帰ってきた。
 玄関のドアの前にイズミが座っていた。
 メールも何もなかったはずだが。
 彼は俺を見ると立って、無言で駆け寄ってきて、飛びつくように俺を抱きしめた。
 その時俺はまだ知らなかった。二日前のデートが、ファンに目撃されていて、少しずつネットで噂になり始めていたことを。




(了)





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