XYXYXX (19)



 後になって加納が、この頃『プールオタク』の界隈で何が起きていたのか、『解説』してくれたことがある。
 とにかく『経糸/緯糸』の演技とルックスの破壊力が凄まじかったので、伊積陽生の女性ファンが急に増えた。これまで小島望や林日出についていたようなファン達で、つまりヘテロの女性達だ。
 同時に男性同士の恋愛をテーマに二次創作をするタイプのファンも倍増し、それが時折インターネット上でぶつかって喧嘩になったりしたらしい。
 『経糸/緯糸』は自分にしては珍しく恋愛が中央にある作品で、異性愛しか出てこない。じゃ、どうして『やおい』好きの女性が勢いづいてしまったかというと――だから、俺が原因である。
 あの日の俺はどうかしていたなとやっぱり思うのだが、池袋で、人の多い時刻に寄り添って歩いてたら誰かに見つかるに決まっている。深夜のコンビニでだって目撃されるのだから。前半はまだしも、後半はすっかり頭が緩んで距離感を見失っていたし。
 誰かがネットで俺たちが一緒にいたと報告を上げたらしい。そしたら自分も見たという別の人間も現れて、うち一人が、画像を上げた。粗いものではあったが。
 そこから、妄想好きの人たちの間でにわかに『乾ハル』が盛り上がり、『コジヒノ』『ヒノコジ』、あるいは『ヒノハル』を猛追するという図式になったという(これらの単語を聞いた時に俺がどれくらいめまいを覚えたかは想像してもらいたい)。
 だからもともとそういう、フィクションでなく、実在の人間をネタにしたカップリング妄想――しかも同性愛の、はあったわけだ。ただそれまではうまく住み別けていたのが、イズミの女性ファンが急に増えたためと、格好のエサが投下されて盛り上がったために、双方がネット上でご対面する機会が一時的に増えてしまった。
 ヘテロの女性達――特に今回初めてプールを見てイズミに恋をしてしまった人間や、異性は異性のために存在するという多数の前提を疑ったことがない人たちの一部は、一枚の写真を基に妄想を走らせてあらわなマンガや小説まで書いてしまう人たちに対して、怒った。
 『非常識だ』『ありもしないことを言うな』『イズミ君を侮辱するな』『乾主宰に対しても失礼だ』『役者を性的妄想のおもちゃにするな』
 双方とも決して冷静ではないので、『腐った』方の人たちも『だって証拠写真がありますし』『あんたらの妄想は性的じゃないの?』『プールは前からこういうの折り込み済み』などと応じ、深刻な諍いになってしまった場合もあったらしい。
 そういう騒動が、満員の続く公演と並行して行われていたそうで、しまいには『劇団に迷惑だからやめろ』と互いのサイドから制止の声が上がるような状況になった。
 そんな騒ぎの末、芝居は成功裡に千秋楽を迎えたが、その後とある古参の、本当に古参で、俺も顔を知っているある女性ファンがブログで『最近見られたファン同士のインターネット上での不和について』という長文を公開した。
 『プールオタク』なら大抵知ってるという有名なブログで、読者も多いという。彼女はこれまでの経緯を冷静にまとめた上で、ファンたちに劇団の規模が大きくなっていくことを理解して良識的な態度をとるように呼びかけた。
 彼女の意見では、この騒動の原因は、『プール』がコアなファンに支えられた境界上のマイナー劇団から本多劇場を埋めるような規模の劇団にあまりに早く成長してしまったことも大きいという。旧来のファンも新参のファンも、互いにカラーの違う集団に対する準備ができていなかった
 『プール』は、美形役者やパッケージデザインの良さ、ライトノベル的な物語など、一見分かりやすい大衆性と、小劇場らしい独自性とマイナー感という、相反する二つの顔を持った劇団であり、どちらが欠けても『プール』ではなくなる。


 私はこの劇団の旗揚げ公演も観ている。作・演出の乾さんが役者として板の上に立つ姿を見たことがある人間はそういないと思う。
 芝居自体は申し訳ないけど素人くさい、レベルの高いとはいえないものだったけれど、そこには忘れがたいひずみがあった。
 本多劇場に比べればまさに『小屋』であった小さく狭い舞台に立つ彼は、見ていられないほど疎外され、自己不信で、孤独であり、それがもろに出てしまっていて胸が痛んだ。
 その日私は客席に帽子を忘れて帰り、そして彼のファンになった。今もまだ『どうしてあなたはそんなに苦しそうなのか』という答えを探しながら彼の芝居を見ている。
 私は彼の作品の底を流れる孤独を愛しているし、葛藤を、詩情を愛しているが、同時に、痛ましく思い、大衆的な意味でバカみたいに幸せになって欲しいとも思っている。
 その二重性の同時並行が『プール』であり、私はこれからも『プール』を応援し続けたい。
 本多劇場での大成功、おめでとうございます。





 この文章の影響も大きかったという。また公演が終わったこともあって、騒ぎは徐々に収束していった。
 但し、この時に誕生した『乾ハル』はその後も生き永らえ、じき定番として定着した。
 俺にとって予想外に困ったことが起きた。イズミがとても喜んでしまったのだ。彼はネットで『乾ハルかわいい』だの『夫婦かよ』だのといったコメントをされているのを見て、自分たちが応援されていると感じた。そして前にも増してかなり素直に態度に出すようになった。
 ちょうどヒノデの世話を焼いていたように、彼は俺の世話も焼き始めた。俺が落ち込んでいるのを見ると、どうにかして笑わせようとしてふざけた。俺に食わせようとした。俺に栄養をつけさせてより快適に生きさせようとした。
 俺はその時、落ち込んでいた。
 先生の死について考え続けている最中だった。
 どこにも出かけず、何時間もぐるぐると思考の循環に陥っていることもあった。食事のスキップもした。睡眠もガタガタになった。
 こういう時、ナラサチは俺を放っておいた。危険な領域に近づくことがなければ口を出さず、俺の戻るのを待っていた。他にどうしようもなかったとも言える。
 しかし、イズミは、もっと献身的だった。
 彼はしばしば俺のアパートにやってきて、俺の食欲如何に関わらず食事を用意した。洗濯をした。俺にまったくどうでもいい話をして、鬱から引き揚げようとした。
 彼は上手だった。
 初めからそうだった。
 彼には場をめちゃくちゃにする才能がある。正直つられて笑ってしまったことも一度や二度ではない。
 深刻な空気を不思議な形で骨抜きにし、争点をぼかし、どっちらけにしてしまう。それを情熱をこめて、愛情をもってやる。
 ある先輩の子供は、姉が叱られていると飛び出してきて奇怪な踊りを踊り、全員を笑わせ台無しにしてしまうそうだが、その逸話を思い出す感じだ。
 けれども、俺は、集中したかったのだ。
 先生の死について、何かをつかまずには終われなかった。それは、ごまかすこととは違うのだ。どれほど辛くても、太陽と一室に閉じこもること。目が潰れ身が焼け喉が渇いても、それに肉薄し、正体を見据えること。そして部屋で死ぬか、部屋を出ること。
 俺はそれをしたかった。
 彼はそれを邪魔した。
 彼なりに俺のことを考えて。
 俺は苛立たせられた。それでも、我慢しようとした。
 気遣いと親切のゆえだからだと。悪気はないんだと。
 時には彼が正しいのかもしれないとも思った。自分は悪癖に耽っていて彼の奉仕に屈するべきなのかもしれないと。
 けれど、正しさがどこにあろうが、魂がどうしてもやりたがっていることを邪魔されれば、次第に不満が募っていくのはどうしようもないことだった。
 彼の『なんとかしてあげたい』『ほら、こうしたら気分がいいでしょう?』という態度も不快だった。
 まるで部屋に入ってくる母親だ。ただ、愛情があるというだけで、他人を管理できると思っている。自分にはその能力があるとも思っている――何が分かる? 所詮、他人なのに。
 俺は彼にひどいことをしたくなかった。
 彼を傷つけたくなかった。もうさんざんしたから。
 だから我慢しようとした。
 彼の攻撃からなんとか身を守ろうとした。
 するとますます彼は俺を心配して距離を詰めてきた。
 僕たちはもうファンも認めたカップルだ。僕にあなたを救わせてください――。



「しばらく来ないで欲しい」
 ついにある夜、俺は彼にそう言った。
 彼は台所で振り向いた。何か甘いものでも作ろうとしていたところだった。
 その横顔を見るだけで彼が傷ついたのが分かって、俺は頭を垂れた。
 聞こえてきたイズミの声はまだ明るかったけれど芯は凍っていた。
「えー。だめですよ。だって僕が来なかったらろくにまた食べないじゃないですか」
「…………」
 食べたくない時には、食べたくない。
 本当に勝手なことだが。
 人には餓死の権利もある、などと考えるのは不遜なことだろうか?
「疲れたので、少し休みたい」
「疲れた?」
 ついに、イズミの声に心外と抗議の気持ちが表れた。
 それはそうだろう。彼がどれだけ俺に時間を割いてくれたか。どれだけ俺に気も金も使ってきたか。それを『疲れた』などと。
ひどい言い草だ。
 沈黙が続いた。
 床に何か落ちる音がして、初め何か分からなかった。涙の落ちる音だと気が付いて顔を上げると、イズミはもう顔を真っ赤にしていて、両方の頬に涙の流れた跡があった。
 背に刺された鉛筆を思い切り横に引かれたような心地がした。
 分かっていた。彼は、100%親切で、100%の善意でここに来てくれている。それでもなぜ俺はこれを言わなければならないのだろう。
 どうしてこの善良な人間を拒み泣かせないといけないのだろう。
「――……コ、コウさん。僕は、あなたが好きなんですよ」
 見ている前で大粒の涙がまた両方の目から流れた。彼は手を上げ、顔の下半分を覆った。
 声が潰れた。
「どうしてわかってくれないんですか」



 彼が帰って、望んだとおりの独りになった。
 そばに小さな子供が立っていてそのはだしが目に見えるような気がした。
 めまいがした。
 ――彼なんかに、何が分かるの。
 あれくらいのことで、ピーピー泣いてさ。
 ぼくなんかもっとひどいめにあ
「うるさい黙れ……!」
 顔をつかんで非難した。
 俺には彼の愛の資格がないと思った。幸運が舞い込んでも、それを受け容れる器がないと思った。天から降ってきた弁当を、結局食べられなかったあの日のように。
 でも、こうやって自分を貶めるのももう止めたかった。
 イズミの海のような愛情を、台無しにもしたくなかった。
 そうであってほしくないのに反する現実が多すぎる。
 俺は無能だ。





 ナラサチから連絡があって、例のメイクの先生が無料で髪の毛を切ってくれるから行けとのことだった。ほかのメンバーも切ってもらったからと。
 こもりがちでそういえば散髪にも行っていなかった。
 代々木の自宅兼スタジオに行って、鏡の前に座ったら、我ながら、ひどいツラだった。
 黒いTシャツに黒いダメージジーンズにシルバーのアクセサリーといういでたちで、メイクの先生は横に立ち、一緒に鏡をのぞいた。
「どういう髪にしたい?」
「おまかせします」
「本当に? 後悔しないでよ?」
 先生は笑って俺をシャンプー台に移し、髪を洗った。
 再び鏡の前で二人、同じ光景を見る。
 俺の目はやっぱり死んでいて、顔からは肉が落ち、自分でも記憶がないくらい顎が尖っていた。
 醜いと思って俺は目を閉じた。
「息苦しそうね、監督さん」
 彼女は相変わらず俺を監督さんと呼ぶ。彼女の指が両側から俺の頬を押さえた。
「美しい顔をしてるのに」
「――美しい?」
 賞賛の言葉が油のようにささくれをカバーするのは何故だろう。ただの言葉なのに。
 そういえばこの人は前も同じようなことを言って俺を褒めてくれた気がする。
「ロンドンじゃ絶対もてるよ、あなたみたいな文学青年」
 話に乗ったのが自分でも意外だった。
「――でも、文学青年は、面倒くさいものでしょう」
 ふふふ。と先生が笑う。
「まあね。自意識が過剰でね」
「初めは良くても、じきにどうせ、手に負えなくなる」
 間があった。俺が自分の口にしたことに気が付くまでの間。
 櫛で前髪をすくい上げ、位置を測りながら先生が言った。
「監督さん。自分を自意識過剰だと思ってる?」
 なんだ? これは施療か?
「自意識過剰というか……」
 鏡に映った自分の目を見ながら俺は言った。
「どうしてこの世に生まれてきたのか分かりません」


「自分をモンスターだと思ってるのね」


「恩師に『いつか刺されると思ってた』って言われたことがあるんですよ」
「この腕で?」
 彼女は冗談めかして俺の二の腕を触った。
「わたしの方が筋力あると思うわ。――ねえ、監督さん。前からあなたに試してみたい髪色があったんだよね。さっきおまかせって言ったよね? あれ本当ね?」
 この期に及んでちょっと不安になって彼女の顔を見上げた。
「染めるんですか?」
「三時間くらいかかるよ。時間大丈夫?」
 大丈夫だと答えざるを得ないで口ごもる俺に、先生は言った。
「それから、モンスターになる準備はできてる?」
「えっ?」



 三時間後、俺がどうなったというと、まっ白髪にされた。
 違うな、銀髪か。
 髪はあまりカットしてもらえなかった。特に前髪は目元が隠れるくらいまで残された。
 立ち上がると、俺はすっかりゲテモノだった。それこそブサイクなくせになにか勘違いしたホストか、音楽オタクくずれみたいに見えた。先生と同様、腕にタトゥーでも入っていそうだった。自分で、ピアスを空けなければふさわしくないと思ったくらいだ。
 ――思わず、手で顎を覆った。そうでなければ多分悲鳴が漏れた。
 自信がないから、せめて常識的な社会人くらいには見えるように気を使ってきたのに。いつかやった試験官のバイトとかもう絶対無理だ。こんなのがスーツを着ててももっと怪しげに見えるだけだ。
 ていうか、職質に遭うんじゃないか? 地元のスーパーに、知り合いのいっぱいいる大学に入れるだろうか?!
 たいへん狼狽したけれど、無料の上、おまかせと言ってしまったのだからもうどうしようもない。まさかここまでされると思わなかったなどと泣いても今更だ。
「じゃあねモンスター。また髪の毛伸びたら染め直すから」
「え、え……」
 無情に路上に放り出された俺は、どうしようもなく人からの視線を浴びつつ街を歩き、電車に乗って、劇団の事務所へ最後はほとんど逃げ込んだ。
 しかしそこでも、
「うわーー!!?!」
引っ越し作業中だったメンバーたちの歓声・悲鳴・バカ笑いに身が竦んだ。いつかの役者たちが味わったであろう同じ思いを今更味わった。
「ギンコじゃね?! これギンコじゃね?!」
 マンガのキャラだと言われる始末。
 無礼な連中が写真を撮ろうと携帯を差し出してくるので、下がろうとしたら、誰かの体に当たってよろけそうになった。
 イズミだった。
 目だけが合ったが、会話も成立しないうちに写真を撮られる。
 逃げて、自分の分の片づけをするために棚に移動したら、ぴったりとそのままイズミが着いてきた。
 服の裾を持って、無言のまま、ドラクエの隊列みたいに着いてくる。
「……な、なに?」
 俺の顔もたいがい赤かったと思うが、俺を見上げる彼の頬も耳も真っ赤で、目は星の映った水面みたいになめらかでキラキラしていた。





(了)





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