XYXYXX (20) 俺の悪い癖のひとつにミーハーなものを頭ごなしに軽視するということがある。 俺はこれを生きる過程のどこかで学んでいて、いくつかの決定的瞬間も思い出せる気がする。いつかの先輩の態度、TV番組での取り上げられ方、あとは、その当事者たち自身の自虐的な謙譲の姿勢。そういうものから、俺はその対象について詳しく知る前からそれを「くだらないもの」「バカにしていいもの」と見なすことがしばしばある。 こと俺のその境界線はいやらしい。 知的か知的でないかで分ける傾向がある。 だから今や経済を覆う「かわいい」文化への反射的な抵抗があるわけだし、アニメ・オタク文化的なもの――アキハバラ的なものの食う前からの忌避がある。 それでいながら劇団プールは、「アニメのような髪色」の役者をつかい、「ライトノベルそのまま」の物語で客を呼び、「かわいい」グッズや写真を売って稼いできた。 キラキラした役者たちの後ろで俺はいつも黒っぽい服で薄暗い顔をして、ヒノデや小島、そして和田やイズミにきゃあきゃあ騒ぐファンたちを時によっては冷めた目で見ている。 前にも書いた。これは第二回公演以来の矛盾だった。 俺のやりたいことをすべてやって大失敗した第一回公演への恨みも実は消えていないのかもしれない。 同じ人間が同じように作っているのに、外装を変え、デザインを変え、パッケージを変えるだけでこんなにたやすく寄ってくる観客たちを、俺は複雑な思いで眺め続けてきた。 しかしそれはつまり、俺が何も分かっていなかったということだ。 外装や、デザインや、パッケージは、とても大切なのだ。 それが人間にどれほど強い影響を与えるか。 受け手だけのことではないのだ。 作り手の側にもまた、いかなる変化をもたらすか。 俺の「知」のなんと狭量で未熟なことか。 とにかく家に帰って鏡を見て改めてこう思ったことを覚えている。 ああもうだめだこりゃ。 俺はもう二度とまともな人間にはなれないや。 そこにはモンスターが映っていた。普通の人間の髪色ではない。いつかイズミがまんがみたいなワカメ頭にしていたことがあるが、今の俺はあの数倍人に胡散臭い印象を与えるだろう。 ああもうだめだこりゃ。 背中で扉がバタンと閉まってしかもノブが壁に融けて消えた気がした。 同時に背骨に泡が立つような低い快感が這っていたことも忘れられない。 俺はもう、完璧におかしなものになった。――変態した。 田舎の高校生よさらば。 まじめな演劇青年よさらば。 誰が俺の言葉を信じるものか。 どれだけ謙譲してももう無駄だ。せいぜいが「見た目のわりにまとも」な人間になれるだけだ。 ――俺はもう 鏡を見つめながら頬を触った。銀色の前髪が額に落ちた。 異物だ。 この世界の。 へんな存在なんだ。 なるほど髪はいつか元通りの黒になる。 しかし一度でも髪を銀髪にしたことがある人間としたことのない人間の間には、はっきり違いがあると思わないか。 もうまともなふりなんか、しても、仕方がない。 理論的に言えば俺は絶望すべきだったかもしれない。後戻りできなくなったのだから。でも、本当は震えていた。 それは解放の手ごたえだった。 多分、生まれて初めて感じたものだ。 俺自身は昨日と今日で一ミリも動いていない。 変わったのは髪の色と形だけだ。 こんなに長い時間鏡を見ていたことがあるだろうか。 イズミからメールが来た。 彼は、今日は一日俺のそばにくっついていて、最後はヒノデに引きはがされるようにして連れていかれた。知人の舞台の鑑賞に行っていたはずだ。終わったのだろうか。 『目の前にコウさんの姿がちらちらして、芝居どころじゃなかった。 すごいかっこいいよ。自信持って』 驚いていたらまたメールが来た。 『でもモテたらパンチ (`・ω・´)=〇.』 その後も俺は一晩中、くたびれ果てるまで鏡を見ていた。買って以来ろくに使わず押し入れに入っていた卓上のミラーまで持ち出して、消灯した後のベッドでも自分を見ていた。 午前一時を過ぎたころに気付いたのだが、生まれて初めて、俺は自分が満足できる外見になっていたのだ。 美形だなどという気はない。 前歯のカリエス痕だって前のままだ。 だが、俺は今、俺自身も気付いていなかった理想の姿に間違いなくなっていた。 すごい。 俺はメイクの先生の技能に改めて驚愕した。彼女が、この社会の中で、いったいなにをやって生計を立てている人物なのか真の意味で理解した。 そして俺は自分が今感じているものが幸福なのだということも認め始めた。 人間は「くだらないこと」で幸福になるのだ。お前は間違っていた。お前をこんなに幸福にしてくれるものが、「くだらない」「バカにしていい」もののはずがない。 女の子たちがかわいいものを追及することにも理由があるのだ。 お前はこれを捨てて自責と自傷と絶望に戻りたいか? そのほうが高等だから? そんなことはないだろう? いつか押しつぶされて自殺したほうがいいか? そのほうが真正の文学だから? (先生) いいや。――そんなことはない。 闇の中で、俺は自分の両目が痛み、奥の方が熱くなるのを感じていた。 幸福なほうがいい。 誰かと手をつないで癒されるなら人はそうすべきだ。 髪の毛を銀髪にして心が救われるなら、人はそうすべきだ。 その結果が異常とか化け物と言われても、この深く幸福な夜に勝てるものか。 イズミからメールが来た。 『眠れない』 俺は返事をした。 『うちに来る?』 何を言ってるんだろう。送信した後どれくらい俺が羞恥に悶えたか。 ばつ丸君の首を絞めて七転八倒した。 返事が来た。 『うん。』 もう電車も止まってる時間だった。冗談のつもりだった。 それなのに彼は本当にうちに来た。 その場では『なんでこんなことが起きる?』と思っていても、後からゆっくり考えると腑に落ちることがある。 そんな出来事がこの頃あった。 俺は改めて小島と接触を図ろうとしていた。もちろん退団如何、また次の公演に参加するかどうかを話し合うためだ。 ところが、なかなかうまくいかなかった。例の事件のために俺が振り回されたりと手際が悪かったということももちろんあるが、ナラサチによれば、小島のほうにもためらいが見られ、日程調整がつかなかった。 「なんでも知り合いのツテでワークショップの講師を引き受けたんでバタバタしてるんだって。茨城っつったかな。メールの返事も遅いし」 と、耳の上を掻きつつナラサチ。引っ越した先の事務所で中古の椅子をしならせる。 最近知ったのだが俺はちょっとしたことに傷つきやすい。小島に関しては特にそうだ。 「避ケラレテイルノデショウカ」 「何そのC-3PO声。――まあきまりが悪いのもあるんだよ、多分。ああいう人だから、自分の理由でプールの芝居に出なかったことも悪いと思ってるだろうし、そのうえあんたにつらいことまで起きちゃって。全然彼のせいじゃないけど会いづらいんだと思う」 「でも、このままってわけにはいかないだろ」 「いかないし、接触しとかないとさらにまずいと思う。自然消滅ってことにもなり兼ねないから。ひょっとしたら彼自身そうなるのを心のどこかで待ってるのかもしれないけど。もう波風立てずに、このままきれいに離れて住みましょう的な――」 ナラサチは言いにくいことも大胆に言った。 それには状況の変化が関係していた。 「向こうの公演も大成功だったんだってな」 「そーらしいね。動員・収入の記録更新とか? うちもそうだったわけだけど」 つまり、彼がいなくても、彼のほうは劇団がなくても、やっていけないわけではないと証明されてしまった格好なのだ。 「――えっと、この際だからはっきりさせよう。今度うちもオーディションやって人を増やす。事務所もこうして引っ越した。相当変わっていくよ。これまでのカラーとか、やり方とかを相当変えないといけない。だから、逆に言えば、『これまで通り』にこだわる必要もない伏目だとも思う。――お答えください、主宰。プールに、小島君は、必要ですか?」 俺は口に出した後になってはっとした。 「いる」 「……」 「……」 「あっそ」 ナラサチは心底呆れた笑顔で、しかし楽しそうに、今更口を押える俺を見た。 「そしたら本当になんとかしないといけないじゃん」 とはいえその後も小島からの反応は芳しくなく、俺が困っているとすっと寄ってきたのが加納だった。彼女は言った。 「小島君と接触したいなら、多分できますよ。メールが来ますから」 俺は思わず聞いた。 「えっ、なんで?」 銀縁の眼鏡をかけた静かな彼女の答えはこうだった。 「なんででしょうね」 数日後俺たちは大学の図書館にいた。加納が小島とそこで会う段取りをつけてくれたのだ。もっとも、彼は俺がいることは知らない。要は奇襲だ。 「そのほうがいいと思いますよ。彼も意味不明なくらい臆病なところがあるんで」 そう加納が言うのである。 小島の心理状態をよく知っている口ぶりなので、俺はひそかに驚いていた。これまで、あまり付き合いがないように思っていたのだが。 尋ねてみると、退団云々のことも相談を受けたことがあるそうだ。 「まああれが相談というならですけど」 俺はまた尋ねてしまう。 「なんで?」 彼女の答えはいつも同じだ。閉じた夏の窓のような伏せ目で、 「なんででしょうね」 もうその点は尋ねないことにした。 ほどなく、本当に小島がやってきた。俺はびっくりした。加納の言い分を信じていなかったわけではないが、本当になってもまだ『なんで?』と思っていた。 「――コウさん? ……こ、コウさんですか?」 小島は小島でびっくりしていた。俺がいることにも驚いていたし、何より俺の髪色にだ。そうだ。彼はまだ知らなかったのだ。 「遠くから見て、まさか違うだろう、誰だ? と思ったら。――お久しぶりです。すいません、何度もコンタクトいただいていたのにお会いできずに。どうも時間がとれなくて」 彼は相変わらず爽やかだった。会うまで心配だったけれど会ってみたらこれまで通りの礼儀正しく社交性のある彼で、ほっとする。 とはいえ、お互いにまごついたようなよそよそしさは隠しようもなかったが。 彼は会話の途中で加納をちらっと見た。社交の笑みの奥にやはり「やられた」という四字の走るのを俺は見た。 加納の助けを無駄にはできない。俺は彼から、しばらく場にとどまる約束を取り付けるために口を開いた。 「――小島、ちょっと話がしたいんだ。そんなに長くするつもりはないんだが、いいかな。なんなら場所を変えても構わない」 「……ああ。ええ。はい。いえ、ここで大丈夫ですよ」 観念でもするかのように彼は頷いた。だが、首肯するのに段階を置くのも珍しい。やはり、わだかまりはあるのだ。 「ここでいい?」 「窓のところ行きましょう。椅子があるから」 「じゃ、私は用事をしているので」 加納はすっと離れていった。 俺たちは窓際の読書スペースへ移動して、設えられたソファにやや間を空けて並んで腰かけた。うちの大学は学生数がバカみたいに多いが、その分こういう設備が充実しているのはいい。 「随分思い切った髪色にしましたね」 「例の先生にやられた。気に入ったけど」 「似合ってます。多分眼鏡かけるとさらに映えると思います。あの人本当にうまいですよね。――客演した劇団でもみんな言ってました。プールにいたら、あのメイクしてもらえるのがすごいうらやましいって」 「……」 俺は小島を見た。 「客演、どうだった。楽しかったか?」 「楽しかったですよ。一旦劇団から離れて、外からプールのことを見ることができたのも良かったです。没入しっぱなしだったので」 「『経糸/緯糸』はどうだった?」 「……」 これは本来もっと前に話しているはずのことだった。が、飲み会が流れてしまったのでそのままになっていた。 小島の声には力が入っていた。 「素晴らしかったです」 そこにあるのは社交辞令だけではなかった。怒り、怨み、それを抑えつけようとする震えもあった。 その感じは分かる。俺もあまりにいい舞台を見ると、その現場に関わりたかったという無念で歯噛みすることがある。チャンスがあった場合はなおさらだ。『経糸/緯糸』は少なくともそれくらいのインパクトを彼に与えたのだ。 俺も小島の出た舞台は観た。面白かった。そのことはもうメールで伝えてあった。 さて、ここからだ。 「それで、小島。どうする。次は――」 その時だった。なんだか聞き覚えのある声がした。 俺も小島も知っている声だ。二人で同時に気付き、顔を突き合わせた状態で冗談のように停止した。 まさか。 肩越しに恐る恐る振り向いて、俺はすぐにきゃっと首を前に戻した。本当になんで反射的に怖がってしまうのか。なんとかしたい。 小島も小島で何故か身を縮めて隠れようとする。 会話を交わしながら、迷惑にならないようにと足早に俺たちのいる読書スペースへやってきたのは、加納と、――住友だった。 彼女ら二人は二つ離れた角の席にこちらに背を向けて座った。 俺はイズミの高音で思っていた。 ――えーーーー。ナニコレーーー。 「……なんで住友さんがいるんでしょうね」 ひそひそと小島。 「……出くわしたんだろ。俺も前、遭遇したことある」 俺は用心しながら彼らの様子伺う。 「なんかあったら助けないと……」 近場に来たってことは加納としても助けがいるということだろう。多分。 「コウさんはよほどのことがない限りバレないですよ。まさかそんな髪になっているとか思いませんから」 「じゃもうちょっと大胆に見る……。住友の奴、まだ加納にしつこくしてんのか……」 「……」 復帰の話はどこへやら。俺たちは身を縮めながら全力で聴き耳を立てるというバカげた傍聴フェーズに突入した。 図書館は静かなので、集中するうち、彼女らの会話がところどころ耳に届くようになる。 予想された内容だということもあった。 住友は彼女を口説いていた。劇団を移ってこちらへこないかと誘っていた。 無論100%純粋に彼女の技術を買っているのかもしれない。ただどうにも下心があるように聞こえてしまうのは、これまでのめぐりあわせが悪過ぎるためだろうか。 加納は終始冷静に応対していた。 「私はプールの芝居が好きですから」 「――君はいつもそう言うけどさ、それって本気で言ってるの?」 面白いもので、住友の口調は俺に対する口調とかなり違った。まあ俺は彼にとって先輩格なので、当然と言えば当然だが。 俺は、加納にこんな感じでは話せない(怖くて)。 「どういう意味でしょうか?」 「分かるでしょ。こうで……、こうで……、こう……」 住友の手がまず自分の頭の少し上の空を撫ぜるように動き、それから顔の前で、最後に胴体の前で同じことをした。 髪の毛の色がアレで、化粧がアレで、衣装がアレ。 そういうことだ。 なるほど。 「知ってる? 多分俺はね、来年度からシアターARC演劇プロジェクト実行委員の一人になるよ」 ――マジか。 って、ええ?! すごいな。その年で、大抜擢じゃないか。 「『天球社』の年内の公演、2本ともBSで録画放映が決まってるし、俺の戯曲は大学の講義でも取り上げられるし、団員達も映画出演やドラマ出演が決まって……」 加納の声は変わらず静かだった。 「だから?」 「だからさ、俺たちのほうが文化的に高等な集団だってこと。分かるでしょ。人気が出たところで、『プール』なんてサブカルだ。もともと俺が追い出した二軍の作った劇団なんだし」 相変わらず住友の言葉は破壊力がある。聞いた瞬間には毒の強さが分からない。しかし後からじわじわ効いて、最後に心臓にどんと来る。 ――なんという言いざまだ。 そりゃあ確かにそうかもしれないけど。 汗顔の至りだな。 思わず鼻の柱を親指で掻く。隣で小島が真っ赤な顔をしていた。 彼の赤面は珍しい。しかも俺の視線を避けるように瞼を閉じた。 彼の方を向いたままの俺の耳に、加納の声が届く。 「――どうしてある種の男性たちが、まるで決まったルールに従うみたいに、私にそういうことを言いたがるのか、まったく分かりませんが」 視線を転じると彼女の黒くつややかな長い髪が見えた。古風にも思えるリボン型のバレッタが見えた。 「面白くもなんともないです」 せめてそれが分かってもらえたらいいのに。 付け加えて彼女が立ち上がったのと、あらかじめ瞼を閉じていた小島の目元にぎゅうっと力が入ったのはほぼ同時だったと思う。 俺も慌てて顔を伏せた。背中を丸くした俺たちのソファの後ろを、加納がスタスタと、さらに住友が大股で通り抜けて行った。 この上、まだまとわりつくのか。すごいな。 奴は聴覚は健常なはずだし、俺らよりも至近で聞いたはずなのに、それでも今の言葉が届かなかったのだろうか。 俺は二人の姿がなくなった後もなかなか立ち直れず唖然としていた。 小島がいわば境界線上の仲間だということも忘れて、互いに慰め合うように黙り込んでいた。 「なんでかっていうと……」 小島が話し始めてから数瞬後にそれに気づいて注意を向けた。 彼は粘土でもこねるみたいに、悔しげに、手のひらを前の生え際に当ててねじりながら話した。 聞いたことのないような弱く小さな声だった。 「なんでかっていうと、すごく優秀だから……。ストイックに結果を出すのに控えめで淑やかでまるで上流のお嬢さんみたいだから。だから、てっきりこう思う。この有能な女性も有能な俺と同じように考えるに違いないって」 言い終えると彼は真っ赤になった。 それが自分で許せないように両のこぶしで自分の目元を覆った。 俺は言葉の上では何が起きてるかほぼ着いていけてなかった。 それでもなんだか、加納と小島の間で起きたのであろう過去のやりとりやそのシーンが、脳裏でかってに上映されていたのだが。 加納は小島から退団についても相談を受けていたと言った。 〇〇〇より、俺の方が役者として価値が高い。 違いますか? ねえ、加納さんだってそう思うでしょう? どうしてなのだろう。 いつどこでそれを学ぶのだろう。 それをやらないことは至難の業だ。俺もしていた。俺もしている。だから、今、小島が何を羞じているのか分かる。 どれくらいの間、苦しんでいただろうか。 やがて彼は顔を上げ、赤みのまだらに残る額を見せながら俺にはっきり言ったのだ。 「――劇団『プール』に戻ります。コウさん。また一からよろしくお願いします」 (了)
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