XYXYXX (21)



 後から劇団史を振り返ると、やはり本多劇場の公演を一つの区切りにすることができる。
 これ以前はプールはやはり学生劇団だった。俺やナラサチを始めほとんど全員が学籍を保持していたし。
 だがこの後、我々は共同事務所から個人事務所へと引っ越し、さらに登記を行って『プール』を合同会社化した。最後にオーディションを行って役者を含めた人員を倍ほどに増やした。
 これらをだいたい第七回公演終了の後、二か月のうちに一気に行ったので、俺もナラサチも一時はバイトはおろか、寝る暇がないほど忙しくなった。もちろん例の世事に長けた先輩、伊達さんを始め頼れるところにはすべて頼った。だがそもそも、次回公演までにすべてけりをつけようと組んだスケジュール自体に無理があったのだと思う。
 そんなめちゃくちゃな日々の末に、なんとか次回作の企画をし、公演日程も決まった頃、俺達二人はそろって退学届けを出し、はれて社会の「何をやってるか分からない怪しい一群」に仲間入りした。
「こうなったらもういよいよ、普通に就職して正社員の人生は難しいよね」
 ナラサチが居酒屋で笑ったのを覚えている。まだどこかで止めて、引き返して、新卒採用などで普通の会社で会社員をやるような人生のことも考えていたということだろう。
「人事の人たちもバカじゃない。仕事に本気で興味がないような人間のことは、採用しないだろうな」
 俺が言ったら、ナラサチは歯を剥いてニッと小学生みたいに笑った。
 末はコンビニ店員かチラシ配りか。仮にも会社なんて作ってしまって、いったいいつまで続くことやら。
 ともかく体制は整えた。これで資金や機材をプールしやすくなるし、運営が整理される分、規模の大きな公演にも対応できるようになるはずである。実際、本多劇場での公演の際の裏方の負担は大変なものだったのだ。
 混乱が少しずつ収まると同時に、次回公演の内実が固まってきた。
 第八回公演『プリズム』。
 実はこれは、過去『天球社』で作っていた芝居に手法的に最も近い作品だった。
 シーンやせりふのつなぎがバラバラなため初めは脈略が分からず、いったい何の話をしているのか客は混乱する。しかし中盤を過ぎると、徐々にエピソードが連結していき、これが誰の話なのか分かってくる。病院の屋上の桟から飛んだ男が、死ぬまでに見た過去の走馬灯なのだと。
 そう。『先生』の話だ。
 親切でストレートな、「ラノベのように」わかりやすいストーリーテリングとは違う。さらにその奥から現れてくるものが暗く、重く、孤独で、終演後に抱くであろう感情が明るくないという点でも、異色の作品だった。
 普通に考えて、集団を大きくした時点でこの演目を持ってくるのは経営判断がどうかしている。
 だが、俺はもう吐き出さなければどうしようもないところまで来ていた。
 先生の話をみんなに聴かせたかった。
 彼は、本当はあんな死に方をすべき人間ではなかったと。好奇の首をもたげて集う人たちに主張したかった。
 ナラサチは何も言わなかった。彼女の決意は、退学届けを出した晩に俺とビールのグラスをかち合わせたあの時、目に現れていた。
 俺は思った。
 いつか二人ともがコンビニ店員になっても、こいつとは友達だろう。
 しかし、第八回公演はそうでなくても多難な公演になった。稽古が始まった頃、にわかに劇団内で「ヒノデ問題」ともいえる現象が顕在化してきたからだ。



 冷静に思い返してみればヒノデ問題――林日出にまつわる諸問題は初めからあったのだ。
 彼は決して真面目ではない。遅刻も多く、場をわきまえない言動も多かった。
 例えば挨拶がいい加減だったり抜けたりすることもある。それが機嫌と連動していて、俺やナラサチが挨拶しても唸り声しか返らないときがある。
 服装がだらしなかったり、忘れ物が多かったり、掃除や運搬などの雑用を嫌ったり、台詞を覚えなかったり――。まあ、小劇場界はそもそもそんなにちゃんとした人間ばかりが生息しているところではないけれど、それでも、だいたい問題児ではあった。誰もが知っていた。
 誰もが知りながら、なんとなく許してきた。ヒノデはもうしょうがない。ああいう人間だから。またヒノデだよ。困ったもんだ。と。
 奴のだらしないところは、イズミや、小島や、ほかの連中がカバーしてきた。
 俺だとて、ヒノデが魅力のない人間だとは思わない。奴は強烈にわがままな分、素直でもある。嬉しい時には満面の笑みになる。自分の好きな人間にはべたべたと甘えて愛情を隠さない。機嫌がいい時にはばかげて親切になって人の毒気を抜いてしまう。
 また何しろ、あの美貌だ。
 且つ舞台上での存在感だ。
 誠実さがないだの、コピーマシンだの、さんざん文句を言ってきたが、それでも彼がひとたび舞台に立てばその場を支配する魅力はやはり尋常でなく、それは事実、学生劇団『プール』の人気を支え続けてきた。
 ――弱いものをいじめたり、金をごまかしたり、デマを流して人間関係をゆがめたりというような、そういう最悪の邪さまではない人間だ。
 それで、俺を含めた全員が、彼のそういう困った部分に結果的に目をつぶってきた。
 だからそれは初めからあったのだ。
 問題は劇団の規模が大きくなったことだった。
 二十人の同朋会であれば許されることが、四十人の営利法人となれば許されないこともある。
 自分たちの未来を賭けてやってきてくれたまじめな新人たちの手前、これまで通り放置しっぱなしというわけにはいかなかった。
 憎まれ役を買って出たナラサチとイズミが彼に諭したことがあったらしい――何しろ彼は本当に人を睨んだりするので指導役になるのには勇気がいる――彼は『分かりました』『分かりましたけど』『分かったって』と答えたらしい。しかしやっぱり分かっておらず、その後も遅刻やわがまま、だらだらした非協力的な態度などの問題行動はなくならなかった。
 俺たちが前に比べてしつこく注意をするので奴はだんだん腐ってきた。人前で不貞腐れたり、俺を睨んでみたり、イズミに反抗したり言いがかりをつけてからんだり色々していた。
 そんな態度がいったい新人たちの目にどう映るか。
 稽古が続く間、俺たちはずっと肝を冷やし続けた。
「パンフレット用に新人ちゃんたちに質問アンケート採ったんだよね」
 ある晩、俺とナラサチと加納と照明とで事務所で飲んでいた時、そういう話になった。
「『入る前と入った後でいちばんイメージが変わった人は?』」
 缶ビールで赤くなった頬で、ナラサチは苦笑する。
「――七人中、五人がヒノデ」
「そりゃあ、あんな幼稚園に行きたくない幼稚園児みたいな姿を見せられたらなあ」
 と俺。
「あとね、『オンとオフのギャップがいちばん激しい人は?』って質問も五人がヒノデ。特に女の子たちはびっくりしたみたい。舞台上のイメージがイメージだからね」
「ヒノデ君のイズミ君に対する甘えっぷり、最近前よりもすごくなってますよね」
 加納が例によって緑茶の前で口を開く。
「あーそーだね」
 ナラサチも気づいていた口調だ。何のことかと思っていたら、全員の目が同時に俺の顔を見る。照明のチーフまで。
「……な、なに?」
「イズミ『兄さん』が最近かまってくれないから」
「ねー、彼氏ができちゃってねー」
 俺が赤面したのは間違いない。頭に血が来すぎて一瞬視界が暗くなったからだ。
「でも、なんかヒノデ君は憎めないところがあるんですよね」
 こいつら鬼か。
 仮にも主宰を赤いモアイ像みたいにしておいて平然と会話を続けやがって。
「そーだね。なんかこう、卑しいところはないんだよね。ねじ曲がってるわけでもない。ただストレートにウルトラ幼稚だっていうか。躾がされていないっていうか」
「別にコウさんのことでも、恋愛それ自体を攻撃したりはしないですしね」
「めっちゃ甘えるけどね。べったべただけどね。こないだおぶさってたもんなあ。寧ろそのまま運んで行ったイズミの筋力にびっくりしたわ」
「……俺には相変わらず愛想ないぞ」
「それは前からでしょ。あんたらがどうこうなったから変わったわけじゃないでしょ」
 俺はまた石像化して黙り込む。
「いったいどういうおうちなのかね? あんまりこういうこと言うのは良くないんだろうけど。でも明らか、おうちに問題ありそうだよね」
「お屋敷でプールがあって、お手伝いさんがいるんだって話は聞いたことありますね」
「うわ、マジ? そんな家が日本にあるの?」
 照明がびっくりして口をはさむ。たしか彼は下町の出だ。
「どこだっけ? 田園調布?」
「確かそうだったと思いますよ」
「ひーー」
「それが何で演劇なんかやってるんだ」
 ――つまりそう。
 他愛のない業務後の与太話、仕事の愚痴ではあったけれど、核心を突いていないことはなかった。
 林日出の謎はそこに尽きる。なんでそんな人間が小劇場演劇なんかやっているのか。しかも動機も情熱もさほどないのに。
 同じ疑問を俺はイズミにも抱いていたことがあった。その答えは彼に教えてもらった。彼はしまい持っていたのだ。信頼できる者以外は見ないように。
 同じような隠された理由や情熱がヒノデにあるのだろうか? どうも想像しづらかった。
 寧ろ、彼は自分でも分かっていないように見える。
 何故自分はこんなところにいるのか?
 それがますます幼稚園児らしい雰囲気を加味するのかもしれない。
 園児は幼稚園に行けば遊ぶだろう。けれど、なぜ自分がここに来るのか、理解はしていないはずだ。拗ねたり泣いたり反抗したとしても、完全に明確な意図があるわけではないのだ。
 だからなのだろうか? 俺すら、彼のことを嫌い切れないのは。さんざん睨まれたり憎まれ口をたたかれたりしても、何故か、どこかで、面倒を見てやらないといけないという思いがするのは。
 これは、俺や劇団が彼の才能の世話になってきた事実とは全く別の次元の話だ。そもそもヒノデ自身にそういう発想がない。劇団がこんなになったのも俺のおかげじゃん、と彼は言ったこともないし考えてもいない。見ていれば分かる。
 不思議な男だ。
 彼は自分が何者かさえ分かっていないように思える。何が自分にとって有利なことで、何が不利なことか、そういう計算自体をする習慣がないように見える。
 体面を保ったり、集団の中で自分の地位を確保することに汲々とする人間が多い(特に男は)中で、彼はあまりにも無防備だ。
 頭が悪いわけではなくて、どちらかと言えば直観は鋭いように思う。俺の演出意図を誤って解釈することもほとんどなく、説明すればよく理解するし。
「……」
 このように、ヒノデのことを考え始めると謎の螺旋のなかで思考が立ち往生してしまう。それで結局、その場その場で彼の機嫌に応じて対応するのが一番いいということになって解決が持ち越されてしまうのだが。



 彼が、率直は率直だが、自分にとって有利だか不利だか考えもしないで行動するあまりになんだかおかしなことになってしまうという実例がその後もあった。
 その日、練習が終わって、彼はイズミを自分の家へ招きたがった。機嫌がそう悪くない日で、一日中、後輩たちの前で思う存分べたべたした挙句での発言だった。
「一緒にマリオカートやろーよ」
 イズミは断った。
「今日はダメだよ。用事あるから」
「何時まで? 終わるまで待ってる」
「きょ、今日は用事終わらないから」
 離れたところに立ってた俺にさえ、彼の耳朶が赤く染まっているのが見えた。彼は今日、俺のアパートに泊まりに来ることになっていた。目ざとい人間は、今日彼の荷物が多いことに気付いたかもしれない。
 ヒノデもそこで何かを察知したらしく、むっと表情を険しくして唇を尖らせた。彼のおかげで知ったのだが派手な美形というのは不穏な表現もすごく派手で怖くなる。
「もう、本当にムカつく、兄さん!」
 まだ一人も出て行っていない稽古場で、大きな声で、彼はついさっきまでバックハグしていたイズミをなじった。
「全然俺のことに構ってくれないんだから! ――なんでそんなにあいつがいいの?! 俺のことは考えもしないの?!」
 誰もが予想を超える事態に口を開いてその場に固まった。小島や和田さえ目を丸くして彼らを見ていた。
 まさにショッピングモールで癇癪を起す幼児を見守っているかのよう。
「俺、黙ってついて来たじゃん! 兄さんがあいつの芝居観て、ヘッタクソだったのに『かっこいいかっこいい』ってキャーキャー言ってさ。そんで劇団まで移るとか言い出して――そん時も俺、黙ってついて来たじゃん! なのにさ! 俺のそういうことなんか全部忘れてるんでしょ! もう、兄さんなんか知らないから!! 好きにしたら!!」


「えっ、ちょっと待ってください」
 加納が斜め後ろの方で言った。
 見なくても分かる。銀縁メガネがキンと光っているはずだ。
「……じゃ、あの旗揚げ公演で? その時から、イズミさんは?」



 それで、俺とイズミはその日、手をつないでアパートまで帰ったけれども。
 ただこの後、ヒノデ問題は、こんな他愛のない話では済まないことになってしまった。




(了)





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