XYXYXX (22)



 伊積陽生について、彼らしいと思ったエピソードをひとつ。
 これは確か第八回公演のずっと後で、2010年頃のことだったと思うのだが、演劇サイトの取材で彼と小島のコンビがインタビューを受けたことがあった。
 趣味の話になって小島が音楽の話をした。彼はHIPHOP好きで、好きなアーティストを聞かれてライムスター、ECD、KREVAなどを挙げた。特にライムスターの活動再開を喜び新曲は最高なので聴いてほしいと語った。
 次に「じゃ、イズミさんはどんな音楽が好きですか?」とライターに聞かれたイズミは真顔で「やっぱりライムスターですね」と答え、スタッフを含めた現場を笑いの海に沈めたそうだ。
「ライムスターは最高です」
「やめてよ、もう」
 当の小島が笑いながら彼をどつく真似をすると、彼はサムズアップまでしたらしい。

小島 正直に言って。本当は何が好きなの?
伊積 いやいや、ライムスター。
小島 そんなわけないでしょ(笑) 普段カラオケで歌ったりしてる曲からしても、そんなはずはないよ。
伊積 いや、ほんとうにライムスターだよ。ライムスター最高。ライムスターしかない。
一同 (爆笑)

 俺も、普段の彼の趣味を考えると一番好きなアーティストがライムスターというのは考えにくいと思う(嫌いではないだろうが)
 でも嘘でもないだろう。

小島 こういう人なんですよ。
伊積 変かなあ? 今の気持ちは本当にそうなんだけど。


 君といるこの瞬間、僕の一番好きな音楽は君の一番好きな音楽だ。
 伊積陽生はそういう人間だ。
 俺とはとても違っている。
 彼はとてもダイナミックでエロティックだ。蔓科の植物のように、周囲の人間とたやすく絡み合う。てらいなく、こだわりなく、どこへでも流れていって交わりを謳歌する。
 そういう人間だ。
 もちろんそれは彼の弱点でもあって、時にはそのために人間関係にはまり込み、周囲からはスタックしているように見えるといったことも起きるわけなのだが。






 始まりは、新人の女優二人がほぼ同時に劇団を辞めると言い出したことだった。
 せっかくオーディションをして、金も時も消費し、吟味に吟味を重ねて選んだ役者たちだ。第八回公演に向けて、立ち稽古に入った直後でもあった。
 俺もナラサチも驚き狼狽した。自分たちの運営の何かがまずかったのかと心配になった。ところが本人らを含めたメンバー達から情報を収集してみると、まったく違う理由での脱退だと分かった。
 彼女らは、どちらもヒノデと関係があった。同時にあった。
 先に気付いたほうがヒノデに詰め寄った結果、『遊ばれていたと分かった』。傷ついて劇団を辞めることを決めた。残った一方が(多分)喜んでヒノデに寄ると、やっぱり『遊ばれていただけだった』と気づかされた。それで彼女も『つらくていられない』と退団を決意した。
 事情が分かってきたところで俺の頭からは怒りマークが取れなくなった。
 言葉が出なくなってナラサチに絵文字だけをメールした。
(# ゚_゚)



 人間関係はもちろんある。恋愛のもつれで劇団を辞めたり、追放される人間も大勢いる。頭では分かっている。
 だが、自分の劇団でリアルタイムで実際にやられるのは予想以上に鮮烈な怒りだった。激怒と言ってもいい。ただでさえ、彼は真面目さに欠ける役者だった。それが一気に役者を二人も去らせることで、劇団にも次の演目にも大打撃を与えたのだ。しかも真剣な事情があったならともかく――ただただ何も考えない浮薄な軽率さによって。
 ふざけるな! と思った。
 誰かが去るなら、それはヒノデであるべき事態だった。
 ヒノデが次回公演でこれまで通り大きな役を割り振られていても、それは問題ではないと思った。
 彼は芝居を尊重しなかった。劇団を尊重しなかった。考えもしなかった。ほんのちょっとの注意で避けられたはずの事態を予防しなかった。それが許せなかった。
 劇団として、彼の行動を非難すべきだし、もし何が悪いのか分からないというのなら、彼は、この集団にいるべきではない。
 劇団はみなの仕事場であり、生計と運命のかかっている場所だ。その価値を理解せず、破壊するような行動をとる人間は、たとえ看板役者であっても、許容されえない。
 もしこの件について生ぬるく不適切な処置を行えば、俺は劇団員からの信頼を失い、いずれにせよ集団は瓦解するだろう。
 俺は自分史上でも記憶がないほど確実に怒っていた。
 誰の意見も必要のないくらいに。ナラサチも口を挟めないくらいに。
 俺たちは夜中の事務所にヒノデを呼び出した。タクシーを使ってでも今すぐ来いと。
 彼は現れた。
 俺はいつかどこかの映画館で避難経路の案内板に頭をぶつけた時のような気分を味わった。
 傍にぴったりとイズミも同行していたからだ。


 引っ越したばかりでまだきれいな事務所の中、イズミはまるで、補導された中学生の親みたいに、彼の横で目を伏せて座っていた。
 時刻は0時過ぎ。彼のマンションと、ヒノデの自宅は離れている。おそらくどちらかに一緒にいたに違いない。
 疲労も重なってめまいがしそうだった。
 軟弱な、と自分を責めても、動揺し怒りの矛先が鈍ったことは否定できない。
 伊積はそれも分かっているに違いない。
 別種の怒りが注ぎ込まれて血の中で混ぜ合わされる。
 彼はいつもこれをやる。
 ただそこにいるだけで、極端なものをうやむやにし、あらゆる角を丸くしてしまう。
 流されてなるものか。
 俺は必死で抗いながら、とにかく、この事態の根源であるヒノデと対峙しようとした。
 彼に、二人の新人が辞めたことについて、彼の関与があったことは知っていると言った。何か言いたいことはあるか。こちらが把握していない事実はあるかと尋ねた。
 ヒノデは、俺の顔を見ただけだった。
 少女まんがのように整った大きな目で、俺を見た。
 俺は胸に刃物を入れられたような気がした。半ば恐怖さえ覚えながら、尋ねる。
「お前、自分が何をやったか分かってるのか?」
 林日出の答えはこうだった。
「また二人、どっかから探して来ればいいじゃん」


 気が付いたら体が動いていた。
 ヒノデの服をつかむ俺の両手を、左からナラサチの手が、右から伊積の手がさらにつかんで膠着した。
 俺はヒノデの顔を、破壊してやりたいくらいの目で見た。
 こいつは。
 血の気が引いた。
 ――こいつは、自分が何をしたかも分かっていない!!
「劇団が大事だってことが分からないのか?」
 金があるからか?
 家があるからか?
「仲間が大事だってことが分からないのか?」
 どうせ、人は寄ってくるからか?
 花に群がる虫みたいにか?
「公演がどうなってもどうでもいいのか?」
 いつも真剣ではなかった。
 演劇という芸術にこだわりがあるようにも見えなかった。
 もとからただの暇つぶしでどうでもいいのか?!
 ぎゅっ、と俺の手のひらの肉をイズミの手が握った。爪の跡がつくくらい。
 見れば、彼の瞳の下には涙がたまり、カーブにあわせて盛り上がっている。
 言葉とも、呻りともつかない呪いの叫びを漏らして、俺は身を引き、離れた。
 あてもないまま机に戻り、椅子に腰を下ろした。かすかに痛む手で顔を押さえた。
 遠くでナラサチの声がする。
「――あのさ。コウがあんなになってる理由も、分かるよね? 分かるでしょ?」
 返事はなかった。
 沈黙だけが流れたが、イズミは頷いたんじゃないかと思う。
「これを、簡単に済ませるわけにはいかないよ。私たちだって、機械じゃないんだから。何がいけなかったのかちゃんと理解したり、反省して二度とやらないと約束できないなら、私たちは、ヒノデを劇団に置いておくことはできないよ」
 イズミが答えたのは、三十秒は経った頃だった。
「分かります」
 さすがにナラサチの声も容易にトーンダウンはしない。
「……どうしてイズミが答えるの? そもそも、どうして一緒に来たの? 私らはヒノデと話してるんだけど?」
「僕が来たのは」
 何かが引っかかって声がかすれたので彼は咳払いした。
「――僕が来たのは、もしヒノデが劇団を辞めるなら、僕も一緒に辞めることになるからです」
 日本語を理解するよりも先に、俺の頭は机の上に落ちた。鈍い音がした。
 閉じた暗い視界でついに世界が回り始めた。
「どうして?」
 俺の代わりにナラサチが聞いてくれた。
 俺ほどの含意はなかったかもしれないけれど。
 ヒノデの小さな低い声。
「兄さぁん」
 服の擦れる音がした。多分ヒノデが、伊積に寄り添ったのだと思う。
「……僕の弟だからです」



「同じようなことを、ヒノデはこれまでもあちこちで繰り返してます。もちろん完全に同じことを、という意味じゃないですけど。彼は誰とでもすぐ仲良くなって、べたべたして、甘えて、でも簡単にあらゆる裏切り行為をして、同じくらいすぐ人間関係を失ってしまう」
 目を閉じた俺の脳裏に、やたら小島とからんでいた一時期のヒノデ、そして時に俺にさえ不思議と優しかったヒノデの姿が浮かぶ。
 ナラサチの思考は少し先を行っていた。
「そういや友達らしい友達いないよね。イズミを除いて」
「天球社に入る少し前に会ったんです。サークルの飲み会で。はじめは単純に人懐こいかわいい子だと思って、それからすぐ何か変だなって思うようになりました。言葉が妙に乱暴だったり、今言っちゃだめだってところで大声で言ったりして人に恥をかかせたりもします。行動もブレーキが効かないです。講義中でも食事中でもお構いなしに、興味のある人の体を触ったりちょっかいを出したり。それでよく女の子と深い関係を持つんですが、まったく継続しなくて、今回みたいに人の気持ちが分からないひどい行動をとることもしばしばで。じきに悪い評判も聞くようになって。でも会っている間は、天使みたいにいい子なんですけど。
 最初はただ、わがままだったり、親がちゃんと躾をしなかったりしたのかなって思いました。お金持ちらしいって偏見もありましたし。でもそうじゃなくて――多分、本当は彼は、ちゃんとした訓練とかケアの必要な子だったんだと思います。もっとずっと昔から。
 他にも忘れ物が多かったり、やたら遅刻したり、偏食がひどかったり、方向音痴とかもあるんです。人の助けがないと普通の生活を送るのもかなり大変です。多分みなさんも、薄々気づいていたんじゃないかと思いますが。
 ただ、ぱっと見は普通――というか派手だし、なにより自覚もないから、当時はとにかくあちこちでトラブルを起こしまくっていたんです。気が付いたら、学内でもぽつんと孤立してて、しかもそれを自分でも分かっていない状態だったんです。
 僕、思うんですが、自分が孤独だと知らないということより不幸なことってありますかね。
 飲みに誘ったら、彼、そこで泣いたんです。何だか分からないけど悲しいって。家族ともうまく行かない。何故か知らないけどいつも叱られて放っておかれると。多分この先もずっとこうだろうと。子どもみたいに泣くんです。だから俺は――僕は、彼の兄になるから泣くなって言いました」
「――」
 実際には見なかったが、俺には分かった。ナラサチが痛ましげではありつつも、『なんて不用心な』という顔をしたのが。
 そしてイズミは、ヒノデとは違う。
 君といるこの瞬間、僕の一番好きな音楽は君の一番好きな音楽だ。そう言った後、ちゃんと覚えていて、責任のことも分かっている人間だ。
 それで彼は『兄さん』になったのだ。
 傍にいてずっと彼をトラブルから守ってきたのだ。持ち物を管理したり、時間を管理したり、人間関係を監督したりして。
 それが少しおろそかになったのだ。多分『兄』が――じわりと額に汗がにじんだ――自分の用事で忙しくなったから。
「これからもずっと兄弟でいるつもりなの」
「ヒノデがもういいと言うまでは。そう約束しましたから」
「――」
 ナラサチが腕を組むのが分かった。
 ため息をつきたい時の、彼女の癖だ。
 ヒノデは今、隣の部屋にいて、俺たちは三人で話している。俺は最後に見たヒノデの横顔に漂っていた、かすかな憂鬱の闇のことを思い出していた。


 なんか俺、また何か、したみたい。
 それが何だかよく分からないけど。
 ……終わり、なのかな。


「イズミさあ、あなたはお医者さんじゃないんだから、彼のことを救うことはできないよ」
「医者になりたいわけじゃありません」
 奇妙に断固とイズミは否定した。
 その声が俯いている俺の頭骨に響いた。
「一緒に生きたいだけなんです。手助けがないという理由で、俺の人生からいなくなってほしくないだけなんです」
 今度ははっきり『俺』と言った。
 俺の恋人は。
 時に凛々しい。
 それで俺は苦しい。
 彼が立ち上がってこちらに近づいてくる気配がした。
 俺はぎょっとして顔を上げ、慌てて椅子を後ろに退く。
 ほぼ視界いっぱいにイズミ。端にナラサチが見えた。
「コウさん」
 噛みしめるように、彼は俺の名前を呼んだ。
「プールには、いろんな人が入ってます。ナラサチさんも、加納さんも、かおちゃんも、小島さんも――僕も、あなたもいます」
 俺はただ彼を見上げるだけだった。
 線の細い。
 これまで、ただ一度だって、こんなふうに逆光を背負って他人の前に立ちはだかったことなどない彼を。
「ヒノデを含むこともまた、できないでしょうか」



 あなたの作ったプールに、僕の弟は入れないのでしょうか。




 ヒノデとともにイズミが去ったら、劇団が存続しないことは明らかだ。
 だから、初めから、彼の行動は無茶苦茶だ。
 でもそれがなかったとしても、俺はもう、そう言われてしまえば勝てなかった。
 俺は生まれた家に居続けることができなかった。今度は追い出す方に回るのかと。言われてしまえば勝てなかった。


 俺はイズミの目を見ていた。
 弟を守ろうとする必死の目を。
 こいつは俺の命を握ってると思った。
 憎いのと愛しているのと同時だった。
 言えるわけがない。
 お前の弟は要らないから出ていけ。夏の道を歩け。
 飢えにさらされながら、場合によっては一人で死ねと。
 だって俺たちはこれから一人で死んだ人間の芝居を作ろうとしてるんだ。


 それにしたってその後の日々は、俺ら双方にとってなかなかにタフだった。




(了)





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