XYXYXX (23)



 第八回公演「蝶のつばさ」(改題した)の台本を初めて渡した翌日、ナラサチがとことこと寄ってきて俺に尋ねた。
「あのさ、違ったら申し訳ないけど、ここに出てくるこどもいるじゃん。ご飯を食べていない子。――あれって、あんた?」
 答えを聞いた彼女は二度ほど事前に確認した後、両腕を回して俺を抱きしめてくれた。


 ともかく、第八回公演に向けて稽古はすでに始まっていたので、役者が二人抜けても、俺たちはなんとかしなければならなかった。
 事実を隠匿することは全く愚策に思われたので、全体ミーティングを開いて何が起きたか全員に報告し、管理をきちんとして仕事に集中できる環境を整えることを約束した。
 さすがに穏やかな空気ではなかった。あまり気にしていない人間もいるにはいたが、本多以来の大きな仕事に意気込んでいた矢先のこのくだらない事件に、本当に気分を害している人間も見受けられた。特に希望を抱いて入団したばかりの新人たちの失望を目にするのは本当につらかった。
 彼女ら彼らはとても公平なので、ヒノデに対してだけではなく、彼の問題行動を放置するままにして、こんな事態を未然に防げなかった他の古参メンバーたちに対しても当然の幻滅を抱いていた。
 なんだ、いいのは体裁ばかりで実態はこんなものか――。
 ヒノデがほんの少しでも、俺やナラサチの感じるこの罪悪感を分かち合ってくれたら、と俺は恨んだものだ。
 ――ともかく、前に進まねばならなかった。抜けた二人の女優は知り合いの劇団からの客演で補い、稽古を再開した。
 以後、この公演の間、ヒノデは完全監視の下におかれた。俺か伊積かナラサチか場合によっては小島か。とにかく絶対に彼を一人でふらふらさせておかなかった。稽古後の私生活もそうだった。彼は稽古が終われば伊積のアパートに帰り、またそこから出勤してきた。
 無論、この体制ではイズミの負担が過大なので、俺も手伝った。
 実際に手伝いになったかどうかは定かではない。
 例えば彼らと一緒に俺もイズミの部屋に泊まることがあったが、イズミにしてみたら手のかかる人間が倍に増えただけだったかもしれない。
 それでも俺は泊まった。ひとつには主宰としての責任があって、これまでヒノデの問題性に向き合うことなく逃げてきたという負い目があったためだし、もうひとつには――嫉妬があった。
 誰だって。
 いや、そういう物言いはよそう。
 誰が何と言おうが、俺は、伊積と日出が仲が良すぎることが不安だったし、自分の恋人の家にほかの男が寝泊まりしていることは心配だった。しかもそれが、スキンシップ過剰で倫理感覚が薄い、妙齢の美青年と来るのだから夜も寝られない。
 イズミははっきり呆れた顔をしたことがあった。それはそれで恥ずかしいが、だが、それでも不安と嫉妬は去らない。
 そもそも、なんでイズミみたいな美形がぶさいくな俺のことを恋人にしてくれたのかもよく分からない。反対にヒノデには愛される理由がいくつもある。初めから俺よりも付き合いが長いのだし。
 そういうわけで、仕事のためだか私情のためだか、ヒノデの日常の管理には俺もかなり関与した。それこそ蝶のように迷わないよう目を配り、なるべくともにご飯を食べ、寝起きを共にして。
 疲れた。
 そもそも俺自身が規則正しい生活を送っていたとは言えないので、むしろ彼を管理する生活に付き合うことで俺まで管理されてしまった。寧ろ、三度三度ちゃんとご飯を食べて、入浴して睡眠して掃除して洗濯して、イズミはこんなにきちんとした生活をしていたのかと感嘆したくらいだ。
 だから初めはそれに慣れるだけで大変だった。だが、じきに余裕が出てくると、俺はヒノデがどれほどケアを必要としている人間なのかを理解するようになった。
 ヒノデには、低学年の小学生のように世話が必要だった。イズミは彼にご飯を用意し、歯磨きをさせ、服を用意し、もちものを整えた。ヒノデは言うことを聞くか。聞かない。色んな事を面倒くさがって、特に皿洗いとか掃除とかの家事労働を平気でサボる。機嫌が悪くなればイズミに憎まれ口を叩く。ひどい時には拗ねてふて寝する。まったく言うことをきかない小学生男児そのものだ。
 俺はめまいがした。
 なんだこいつは。
 イズミが自分に対して払っている犠牲に対してなんの感覚もないのか。
 ただ、俺にも分かったのは、それは悪意ではなくて、欠落だということだ。悪気はないのだ。恐ろしいことに。ただ本当に分からないのだ――人のことが。
 ヒノデに善意がないかと言えば、親切心とかそういうものもあった。実際彼は、優しいところもある。ただそれは彼の中からだけ発する気まぐれなもので、基本的に他人に合わせて湧きおこるものではないように見えた。
 不思議な人間だった。他人のことを計算しないから、奇妙な清潔さもあった。ただ、自分の欲望には素直だから――というよりそれだけだから――しつこさとかずるさとか賢さも抜け目なく装備されている。
 かわいそうな奴と言うことも出来ず、さりとて、嫌な奴と言うことも出来なかった。ああ、これが林日出という人間なんだなと、二年越してようやく俺は理解の入り口に立っていた。
 演出と役者として付き合っているだけでは分からなかった。
「よくやってきたな」
 俺はイズミにそう言った。嫌味とかではなくて、本心だった。微笑んだ彼の答えはこうだった。
「弟だと思えばかわいいものだよ」
 そうか?
 兄弟だったら、今も当番の風呂掃除をさぼってベッドで「銀魂」を読みくさっている野郎に対するむかつきが消えるか? まあ俺には同胞はいないけれども。
 それは単純にイズミが寛大なだけだ。
 俺みたいなのと、彼みたいなのと同時に部屋にいて怒らずにいられるのは、彼が人間として優れているからだ。
「なに?」
 あまり見すぎたためか、彼が照れて、顔にしわが寄った。本気の照れ笑いをする時、彼は少しブサイクになる。
 俺はそれが好きだった。
「もーほんと。そこの人邪魔」
 何を感知したのか、寝転がったままヒノデがぼやいた。
「帰ればいいのに。なんでいつもいるの」


 ぜんぶお前のせいだろうが。


 ヒノデの言い草はいつも苛立ちのナイフでザクザク刺してくる感じだ。本当に遠慮がないし、躊躇もない。劇団の主宰として、イズミの恋人として、俺がどれだけ不利益を被っているか、配慮した様子もない。
「弟、弟」
 ぽん、と俺の肩を叩いて、イズミが言う。
 俺は急いで深呼吸して怒りを逃すが、道のりは長そうだった。


 ヒノデには時間感覚の薄さや、整頓下手、あと妙なこだわりもあった。また靴や靴下が苦手で、帰宅するとすぐに脱ぎ散らかしてしまった。何時間でもそのまま置いてある。イズミと知り合う前にはいったいどんな生活をしていたのか? 自宅にはお手伝いさんがいるというから、なんとかしてもらっていたのだろうか。
 次第に、俺は彼の育ちとか家庭とかについて詳しく聞いてみたいと思うようになったが、実際にはできなかった。
 同じ質問を俺がされたとして、答えられるだろうかと思った。
 できないだろう。
 彼にそんな屈託はないかもしれない。これだけ付き合っても親の話が全く出ないということにも、大した意味はないのかもしれない。
 でも、俺の好奇心はそこで足を止めて、ついに今に至るまで彼に家族のことを聞いたことはない。
 ちょうどその頃「母の日」の時期で、あちこちにカーネションが売られていた。商店街のコンビニに昼飯を買いに出た俺は、傍にいたヒノデに尋ねた。
「イズミ、花買ったら怒るかな」
「怒るよ。前に誰かに言われて買おうかなーってしたら、『俺はママじゃない!』って」
 ああ、やっぱり試みたことはあるんだな。
 誰がどう見ても親子鳥だものなあ。と、俺は思った。
 同時に去年のことを思い出していた。ずっと引っかかっていた疑問と共に。
「でも去年、あいつ買ってたな」
「買ってたね。家に飾ってたよ」
 もやっとしつつ彼を見るが、いつもの通りで、彼には別に俺を苦しめてやろうというつもりはない。ただ俺が気にするかもしれないという発想がないだけだ。
 彼は言った。
「あの人変人だから、毎年自分で自分に買うんだよ」
「え?」
「自分で自分を育ててるから、自分が自分のお母さんなんだって」
 その年、俺は俺のために赤いカーネーションを一束買った。


 こうしてなんだかんだ言いながらも、俺はだんだんヒノデに慣れてきた。イズミと一緒に、その弟と付き合うことに慣れてきたと言ってもいい。最初はイズミがいなければとても間がもたなかったが、じきに俺とヒノデだけで過ごせるようになった。
 同じように、ヒノデのほうでも俺に慣れてきていた。彼はある日、飲み屋で俺の顔を真正面から見て、卒然と言ったのだ。
「さいきん、なんだかよく一緒にいるよね?」
 和田とナラサチがそれぞれ小皿の上に伏せたけど誰に責められようか。
 いまさら?!
 もう管理生活が始まって一か月は過ぎていた。
 俺も大したもので、もうこのとんちんかんさにも慣れていた。OK。今、急に実感が彼を襲ったんだなと了解して、はいはいと頷いた。
「そうだな、監視してるからな」
「え? 監視してるの?」
「監視してるよ!!」
 我慢できずにナラサチが突っ込んだ。その向こうで小島が手の甲を口元に宛がい、音もなく爆笑している。
「え? なんで監――」
 あまりと言えばあまりなことを聞きかけるヒノデの首をナラサチが絞めた。それでやっとヒノデも前後のことを思い出す気になったらしい。
「あ。そうか。俺がまたやったから監視してるんだっけ」
 と、首元をさすりながら。
「そうだな。またやらないようにな」
 俺はビールを飲む。ヒノデの大きな目がきょとんと俺に注がれているのを感じながら。
 まあなんだ。
 どうにもこいつは、美青年ではある。
「兄さんみたいに?」
 イズミはバイトでその場にいなかった。だから今日は自分が連れて帰らなければならない。
 ひょっとしたら、そのことをヒノデが急に不思議に思ったのかもしれない。
 そういや、どうしてこいつが? と。
「今日はイズミがいないしな。誰かがお前の面倒みないといけないだろ」
 彼のほうを見たらまん丸い目で俺を見ていた。
 あまりサイズが大きいので、黒目に俺が写っているのが本当に見えた。
 この状態で、こいつの普段のぐうたらぶりや散らかしぶりを思い出すのはなかなか難しいことだ。
「あんたも俺の兄さんなの?」
 この問いに、ヒノデ以外のみんなの意識もふいに集中してきたのが分かった。
 いつか小島に言われたことがある。
『子供さんのいるシングルマザーとおつきあいするのと似てる感じですかね』
 正直自分でもそれは思っていた。
 芝居をやろうがやるまいが、イズミが彼を見捨てないなら、それは家族と同義だ。
 俺が彼を諦めない限り、ヒノデは必ずついてくる。
 イズミは俺に聞かなかったけれど、いつかどこかで宣言せねばならないことではあった。
 酒の力も借りて、俺は言った。全員に聞かれていることを知っていた。
「そう思えばいいよ」
 みんなから囃し立てられることは予想していた。
 和田とかナラサチが「いよっ!」「言った!」と声をあげて拍手した。物を言わなくても小島も加納も拍手した。俺は恥ずかしくて顔が赤くなった。
 ただ、ヒノデの反応は予想外だった。
 急にがばりと抱き着かれて、俺はビールをこぼしてしまった。
「?!」
 顎のすぐ下に彼の髪の毛があった。俺の胸に顔を埋めているのだ。さらに決して細くない二本の腕で力の限り締められる。驚いて目がちかちかした。
 え?! ――は?!


『は? なに言ってんの? 勝手に決めないでよ。気持ち悪い』
 くらいは言われると思っていた。
 まさか、――歓迎? されるとは。
 え? これ歓迎だよな? 違う?


「ちょっとちょっと、ビールが危ない」
 ジョッキをようやく置いた後も、ヒノデは容易に離れなかった。膨らんでいく人同士の温かみが、これまで彼と接触してきた幾つかの記憶(ろくなものじゃないが)を呼び覚ます。
 そういえば、こいつは俺を海で救ってくれたんだった。
 ヒノデは運動神経が抜群で、泳ぐのもうまいのだった。
 しばらくしてようやく彼は腕の力を緩めたが、まだ体は至近距離のまま、戸惑う俺の顔をみて、はっきり「えへっ!」と笑った。
 それを全く間近で見てしまったその時、俺はイズミがスタックした雪の白さと深さに肉薄した気がした。
 小学生の子供のような笑顔だった。
 本当はこれが彼の顔なんだなという笑顔だった。
 日々、彼がどれほど困惑しているか、実は本人も自覚しないままどれほど緊張しているか、分かるような顔だった。
 彼は自分の逸脱が分からないとイズミに言った。
 何だか分からないけど、トラブルになると。
 そんな人間が自由気ままに生きられるわけがない。外からはどう見えようが、彼は彼なりに悩み抑圧されながら、なんとか社会に適応しているのだ。
 擬態することで。


「兄さーん」
 それ以前と、それ以後で、全く異なる世界が始まった。
 いくら慣れてきていたとはいえ、こんなことは全く予想していなかった。
 ヒノデはこれまでの確執がまるでなかったかのように俺にべったりと甘えてきた。頭を俺の肩につけて腕をとってすり寄り、しまいにうっとりと目を閉じた。追加の飲み物を運んできた居酒屋の店員がぎょっとしたくらいだ。
 ていうか俺だってぎょっとしていた。
 な、ななな、なんだこれ。
 うそだろ?!
 周りの人間も笑うのを忘れてむしろ凍り付いていた。あまりにも変身が急すぎる。普通に受け容れられるレベルを逸脱している。しかもふざけているのではなく、今までになくリラックスしていて、正直で、彼自身なのだ。
 俺だけではなく、ほかのみんなにも「ああ、まさにこれが林日出であり、その問題なんだ」と分かるような瞬間だった。


 本当の問題はその後だった。
 ヒノデは元には戻らなかった。
 俺はもう一人の「兄さん」となり、これまでイズミにしていたような甘えと寄りかかりの対象になった。
 それは凄まじい試練だった。
 少なくとも俺にとってはそうだった。



(了)





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