XYXYXX (24) 何が問題だったのか、最初は自分でも分からなかった。 傍からは俺がヒノデを「ついに手なずけた」ように映った。俺自身もそう思った。 年下の人間からの好意を獲得することは人を思っていたよりずっと誇らしい気持ちにさせる。 俺は美形の弟に圧倒されながらもやはり喜んで、これからは意思の疎通もよくなり、仕事もやりやすくなるに違いないと考えたくらいだ。 実際その手ごたえを感じたこともあった。ヒノデはこれまでより稽古にも積極的になったように見え、それは反省の態度に似ていたので現場の雰囲気も和らいだ。 この頃の安堵の気持ちを覚えている。よかった、なんとかなりそうだと。 ところがそうではなかった。ヒノデはそこから容易に動かなかった。「改善」に向けて階段の初段に足を掛けた状態で止まってしまった。そしてそこで、これまでのように、ぐだぐだ、だらだらし、人に甘えた。 これまで、その甘えの対象はイズミだった。今ではそれが俺にも拡大した。 俺は驚いた。彼の甘えっぷりに驚いた。彼は俺を兄と認識したが、それは「完全な味方」という意味だったのだ。 彼は俺になにものも隠さなくなった。子どもが親にぐずるように頭の中に去来したすべての気まぐれを俺に編集なく話した。それを聞くと、彼が浅はかで、怠け者で、不遜で、少しばかりの才能に胡坐をかいた、不真面目な人間だとばれてしまうような本音をだ。 例えば誰かの悪口。例えば誰かの外見上の特徴への揶揄。例えば疲れただのしんどいだのだるいだのめんどいだの。例えば俺に対して「もっと優しくしろ」だの「食い物をおごれ」だの。 俺は――、驚愕した。 誇張ではない。 なんでそんなに油断ができるんだろうと思った。なんでそんなに簡単にガードを解いてしまえるんだろうと思った。 なぜ自分の悪いところを隠さずに人前に出られるのか。 ヒノデは身体的にもそういう振舞いをすることがあった。風呂場から裸のまま出て部屋を歩き回るのだ。 イズミに怒られても笑ってゲームを始める。 一度や二度ではない。 俺にはとても。そんなことはできない。 恋人であるイズミに対してもできない。悪くとられたり幻滅されたりするかもしれないことは言えない。嫌われたくない。 俺はむしろショックを受けた。 そしてそのあと、俺の胃の、出口につながる暗い洞の中から、怒りが生まれ始めたのだ。 それは、一度始まってしまうと、自分でも驚くくらい、切れ目なく、潤沢に湧いて出た。 手を変え品を変えやってきた。ある一瞬にはもう仕方のないことだから考えるのはやめようと収めても、次の瞬間には知らずに呼び出されていて意識がそれでいっぱいになっていた。 俺は彼に厳しくなっていった。稽古場で演出として叱責する機会も多くなった。 ヒノデの振舞いはたいてい叱責に値するものであったから、俺はむしろメンバーからは支持された。 俺もこう思った。こうするのがヒノデのためだと。 だって、こんな人間でどうする? 今は劇団だからいいとしても、この先どうする? 役者として本気でやっていくなら、礼儀も必要だし、自分に対するコントロールやルールの順守はもっと必要だ。 俺は責任のある立場として、彼を成長させるために指導をしなくてはならない。 不満顔のヒノデを見やりながら、そう確信に満ちている瞬間もあった。 ただ、俺は、その一方で自身の怒りのあまりの際限のなさを感じ、困惑しないわけにもいかなかった。 俺は時折、ヒノデを叱ることで快感を得さえした。それは正しくない気がした。ヒノデの悪い行いを指導することは正しいことでも、指導それ自体を楽しむのは正しくないのではないかという予感があった。 しかし、ひとたびヒノデを目の前にすると、その美しい恵まれた顔に、彼の悪徳の証――怠け者であったり、放埓で、ものを知らず、ナルシストである、といった証拠を、もはや自動的に探してしまう。 またヒノデは迂闊だから、あちこちに手掛かりを残していて、簡単に現場を押さえられる。 俺に怒られぶすっとする。 俺はそれを見て、不安と罪悪感を覚える。ところがまた十分も経つと同じ循環につかまって、それに夢中になっている。 恐ろしいことだ。誰も俺を責めなかった。 演出として、主宰として、先輩として「正しい」態度だから。 イズミもそうだった。ただ評価もしなかったが。彼は、ただこれまで通り、ヒノデの「兄さん」として、寛大な態度をとり続けていた。 俺が、自分でもおかしいな、と思い始めたのは、そのイズミの寛大さにさえ、我慢がならなくなってきたときだった。 俺は思った。何故イズミはそんなにヒノデに甘いのかと。 なんでもかんでも許してしまうのかと。 そんな恵まれた異常な人間関係は、この先の社会にはない。 ヒノデのためにならない。 やめるべきだ。 彼を、孤独にすべきだ。 ファミレスで、イズミが席を立っている間、俺がヒノデの行儀の悪さを叱ったことがあった。 とっくに飲み終わった後のグラスの底にたまった氷と水を彼がストローでぶくぶく吹いて遊んでいたのだ。 確かに、褒められた姿ではないが、――同じことを他の人間がしていたら、俺は叱っただろうか。しかも、そんなに当たり前のように。 ヒノデは止めた。まんがのように頬をぷくっとさせてそっぽを向いた。 それを眺めながら、一抹の恐怖と罪悪感が今回も心をかすめた。 不思議なことだ。俺はこんな状態でも、やっぱりヒノデにさえ、嫌われることを恐れていたのだから。 白けた空気がテーブルに流れた。イズミは外で電話をしている。まだ戻ってきそうにない。 ヒノデはつまらなそうだった。俺は当然だと思った。こんなうるさい人間と、同じテーブルにいるんじゃな、と。 ふと疑問に思った。どうして彼は店を飛び出さないんだろうと。稽古場でも、彼は叱られどおしでむくれはしても、いなくはならない。 それどころか最近は、俺がイズミの部屋に一緒にいても、家に帰れとも言わない。 (だから、空気がさらに荒むのだが。) (三人のうち、だれもその場から出ていけないから。) ほんの些細なことにもぐちぐちと文句を言うヒノデが、どうして俺との同居には耐えているのだろう? ――そのほうが楽だからだよ。どうしたってイズミのような都合のいい寄生先は存在しないからだよ。彼はイズミに病的に依存しているから、ずっと彼にまとわりつくつもりなんだよ。なんとかして健全な関係性に戻さないと―― 暗闇が囁く声を聞きながら、俺は今度はストローで氷をぐるぐる回し始めたヒノデ(彼もたいがいだ)を見ていた。 『兄さん』と俺を呼んだ時の笑顔を思い出していた。 あの七つや八つの子どものような、疑いのない、無防備な好意。 「どうして言い返してこないんだ?」 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。 あるいは分かっていたからかもしれない。 最近の自分は明らかに、やりすぎていると。 「ずっと我慢してるよな」 我慢させている張本人がよくもぬけぬけと聞いたものだ。 大きな目がきょろっと俺の方を見た。それから彼は、ついにドリンクバーのグラスを脇にこん、と置いて、肘をつき、視線を外へやって大人びた横顔を見せた。 「兄さんは俺のためを思って言ってくれてるんだろ」 チャイム音が響いてまた一組、家族連れが入り口から入ってくる。 「だったら仕方がないじゃん」 「社会は厳しいんだぞ」 ほとんど自動的に俺は言った。また快感を感じていた。酔っ払った自分を意識もしていた。 「なめた態度をとっていたら、生きていけない」 「だから分かってるって」 大きな目が俺を再び見て、それから言った。 「感謝してるよ」 もともとその日は、俺は自分のアパートに帰る予定だった。 ファミレスで別れて、電車に乗って、地元駅からの慣れた道を歩きながら、俺はいつか、自分が途方に暮れていることに気が付いていた。 体温が下がり、額に冷たい汗を感じた。 お前はいったい、何をしてるんだ。 ついに奴をtameして、俺に感謝させた。 あの生意気なヒノデに、感謝させた! やっぱり俺は正しかったんだ。これでいいんだ。 とは、思えなかった。 どうして無抵抗の人間を殴り続けたのか。 自分で自分に、困惑していた。 暴力的な人間じゃないと思っていた。振るわれるほうで振るう方ではないと。 嘘だ。 もう気づいていた。俺は前にも、自分で制御できない怒りを演出の権力で偽装して他人にぶつけたことがあった。イズミだ。 彼の、目にも明らかな、男らしくない――彼らしい仕草が許せなくて、矯正してやると思った。そんな偽装もできないことでどうするんだと。 油断してる。甘い。 そんな甘さで生きていけると思っているのか。 殺されるぞ。 気が付いたら俺は道の途中で立ち止まっていた。 空から弁当が降ってきたあの日のように。 俺の話を聞け。 俺には誰も味方がなかった。 だからお前に味方がいるのは、許せない。 俺は隠さねばならなかった。 だからお前が隠さずに済むのは、許せない。 お前が理解と愛に囲まれているのは、何かの間違いだ。 家に帰ったら、先月買ったカーネーションが花瓶代わりのコップの中でかさかさに干からびていた。 いつの間にか水が完全になくなっている。 俺はもう遅いと知りながら水を満たした。 たった一人で座り込み、茶色くなった花を眺めた。 イズミからメールが来ている。 乾巧の乾は、乾燥の乾だ。 ぼーっとしていたら、劇場のロビーで、住友と会った。 というか肩を叩かれるまで気づかなかった。 びっくりして顔を上げると、向こうは少し気を悪くしていた。 「あいさつしたのに行っちゃうから。無視されたのかと思いましたよ」 「いや、ごめん。――ボケてた」 「劇団設立おめでとうございます。次の公演のチケットを事務所へ送りましたから、よかったら来てください。これだけお伝えしたくて」 「あ。――あ、本当。ありがとう。ここのところ寝不足で」 見え透いた言い訳をしたが、住友からは意外にも同情的で優しい反応があった。 「そうですか。俺にもそんな時期ありましたよ」 「え?」 「責任ある立場は大変ですよ、やっぱり。どいつもこいつもわがままばかりだしね」 俺は彼の、もはやすっかり業界人らしくなった顔をぽかんと見ていた。 ちょうどロビーは陽光に溢れていて、夢のような白さの中で彼は言った。 「誰にも分からないんですよね。トップの孤独と重圧は」 初めから載せてる頭脳の性能が違うんだと思う。 住友と話すと、いつも何時間も後になって、何が起きていたのかの理解が追いついてくる。 とりあえず二時間後、稽古場に戻った俺は、びっくりするほど、白けていた。 俺はずっと、住友が怖かった。 俺より有能で、厳密で、高等な人間に思えて、情け容赦なく扱われるのもなんだか無理のないことのような気がして。 が、その日の俺はその恐怖を忘れていた。 心の底から思ったのだ。 ダサい、と。 俺はどれほど「成長」しても、彼のような発言をする人間にはなりたくない。 今でも俺は感謝している。 俺がこの時暗い声に呑み込まれずに済んだのは、ヒノデと住友のおかげだ。 そのどちらもが俺にとって、受け入れがたいところのある、複雑な思いを抱いてきた人間たちだった。 (了)
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