XYXYXX (27)



 夏が来ると、あの夢を見る。
 十歳の帰り道。足元に弁当箱。
 白いナプキン。中央の結び目。
 わんわんと響く蝉の声。
 毎回、目が覚めるとともに、ほとんど忘れてしまうのだけれど、ぼんやりと歯を磨ている時ふと思った。
 今までずっと弁当箱だと思っていたけれど、開けたわけじゃないから、本当は分からないな。と。
 サイズからして勝手にそうだと思っていた。
 でも本当は何か、別のものだったのかもしれない。




 2009年の夏。劇団プールのメンバーでプールへ行った。
 本物のほうのプールだ。浪花の伊達荘が使えなくなったから、その代替である。
 東京には、公営であっても驚くほどの規模の施設がいくつかある。詳しいメンバーの手引きで、みんなで電車に乗ってその一つに遊びに行った。
 俺はなにしろレジャー偏差値が低いので、初めて利用して、その広さ、新しさ、利用しやすさにびっくりしてしまう。しかしヒノデやイズミなどはさすが地元の人間だからか、遊び方をよく承知していて、手際よく遊具などをレンタルするや、あっという間にメンバーたちと消えてしまった。
 普通の25mプールはもちろん、奥には流れるプールやらスライダーやら、色々あるらしい。
 荷物と一緒に残された俺、ナラサチ、照明チーフ、そして加納は、保護者の気分を味わいながら休憩所をセットし、それから、会議を始めた。
 来る前からこうなると分かっていた。水着は持参したものの、俺らは実質、話し合いのために来たようなものだ。
 議題はもちろん、シアターARC演劇賞のことだった。
 先日、半井氏の情報提供で、今年からインターネット経由での観客投票が行われることが分かっていた。2009年度の選考対象は2009年1月から2009年12月までに劇場で上演された芝居だから、観客投票の期間は2009年の12月末から1月中旬あたりではないかと予想される。
 このニュースを聞いて、特に加納とナラサチの目つきがはっきり変わった。
 彼女らは、今こそ戦略的に、能動的に賞を取りに行くべきだと俺に告げたのだ。
 これまで、俺は芝居の内容に干渉を受けたことはなかった。しかし今回は、ナラサチも加納も、必要とあらばそれを俺に要求する気だった。
 シアターARC演劇賞を獲る。
 今年、獲る。
 それを劇団の目標として明確に掲げ、劇団員全員に周知し、そのためにやれることはすべてやるべきだ。二人の主張はそういうことだった。
「すごいチャンスです。ARCはこれまでも結構果敢にルール変えてきましたけど、これまでは審査員と運営側にしかなかった審査基準が、観客にも解放されたんです。わたし達にはサポートを惜しまないファンがいっぱいいます。ファンにアピールをして、受賞を勝ち取りましょう」
「アピールってことはつまり、投票してくれって直接お願いするってこと?」
と、照明チーフ。ナラサチは頷く。
「そうだね。観客投票は公式サイトからできるらしくて、もちろんまだそのページはオープンしてないけど、オープン後に始めたんじゃ遅い。次の公演のプロモーションの時点で、はっきりとファンに呼びかけるべきだと思う。――私たちはそれが欲しい。URLはここだから、協力してくれって」
 俺はこの話を聞くのが二回目だったが、照明チーフは初めてだった。彼の戸惑いと懸念の表現は、数日前の自分を見るようだった。
「う、うーん。それって、結構、あからさまだね。好意的に受け取られるのかな。前、仕事に行った別の劇団で、そこの役者がえんぶチャートへの投票呼びかけしてた。でもうまく行ってなかったよ。当人たちがあまりガツガツすると『引く』ファンも出て、逆効果な場合もあるんじゃないの」
 俺も照明のその反応に合わせ、尋ねるような眼差しでナラサチ、加納の表情を窺う。
 ワンピース姿の加納が、教師みたいに落ち着いて答えた。
「それくらいしないと、わたしたちは永遠に受賞できませんよ。住友毅が審査員席に座っているんですから」
 偶然だろうが、ちょうどその時太陽に雲がかかってあたりがふわりと暗くなった。
 一拍遅れて、照明チーフのもらした唸り声が俺の耳にも届く。
「それは……たしかに」
「――コウも同じように考えてるんでしょ。そんなお願い、みっともないんじゃないかって」
 呼ばれて俺は、ナラサチの顔を見た。
「ウグイス嬢じゃあるまいし、そんなことは普通しないものだもんね。――自然とそうなるように、運ぶものだものね。芝居屋は、芝居をやってればいい。謙虚に、無欲に、いい芝居を作っていさえすれば、あとは自然に人気が出て、批評家も褒めてくれて、それからいつか賞をもらって。雑誌に出て、新聞に出て、テレビに出て。そして何かの審査員になったりしてね。そういうストーリーがみんなの頭にあるじゃん? それこそ住友氏なんか、典型的なエリートコースだけど。
 でもさ、私達は初めからそこにいないんだよ。ゲテモノとして、外野にいて、会場にさえ入れてもらってないんだよ」
 俺は彼女と、その横に座る加納の銀縁メガネを見ながら、いつか住友が実際に言った台詞を思い出していた。図書館で。
「私たちはおとなしく待ってたらダメ。いつか認められることがあったとしても、――その頃には絶対可能性が狭まる年齢になってる。特に役者にとっては」
 ナラサチの勢いは止まらなかった。
 彼女はニュースを聞いて以来ずっとこうだ。
 なんとか俺たちのためらいを溶かし、突き動かそうとしていた。
 彼女が本気なのは伝わってきた。それもただ自分たちの過去現在のために言っていることではなかった。未来のために言っていた。
「若いころ、どれくらい有名になれるかで役者は人生が変わっちゃう。例えばコウみたいに演出ができて、ものが書ける人間は、いつか別の仕事にありつけるかもしれない。でも役者は基本役者を続けていくことになる。要所要所で勲章的なものを獲得することは、私らみたいなゲテモノにはとても大事なことだよ。
 そもそも私たちは別に、ゲテモノになりたくてなったわけじゃない。普通の人達じゃん。みんなを見てたら分かるけど。仕事続けて、家庭も築いて、幸せになりたい普通の人たちだよ。私達は、無理にでも居場所を作り上げなくちゃいけないんだよ。――私達、すごく目立って、成功しないといけないんだよ。コウ。ただ、良心的に芝居を作り続けていくだけじゃ足りないんだよ。チケットを奪い取って、無理やりにでも会場に入らないと」
「そういう共同幻想みたいなの、ありますよね。みんなで低予算で、貧乏で、ただ正直な演劇人として、東京の演劇界で生きている。というの。売名とか、虚栄とか、そういうものは知らない。『えっ、そんなこと考えるの? 必死だね』みたいなの。
 ――でもわたしは、自分たちはもっと評価されていいと思っています。全然、足りてません。わたしは、もっと多くの人間に自分たちの芝居の価値を分からせて、もうちょっとくらいは畏敬の念を払わせたいですよ」
 ナラサチもうなずく。
「そうだよ! 私たちの芝居、ぜんぜん悪くないよ!」
「最高ですよ」
「シアターARC演劇賞くらいは、もらって当然だよ!」
 俺が小さな目を開いて見守る前で、ナラサチの顔がどんどん赤くなって行った。
 彼女がこんな物言いをしたことがこれまであるか。
 こんな大言を吐くような人間か。
 そうじゃない。彼女は、俺を励ますために勢い余ったのだ。だから顔が赤くなる。彼女は役者ではないから。
 二人の言いたいことはよく分かった。彼女らが根拠もなく強硬になるわけがないのは初めから分かっていた。
 未来のことを考えても、劇団プールには、名誉ある賞が必要だということだ。そして今、千載一遇のチャンスが到来していると言いたいのだ。
 自分たちにはファンがいる。ファンの力で、トロフィーを獲得しよう。
 ――だが、俺に、できるだろうか。
 俺はかつて人の期待に応えようと天球社の芝居を書き、つぶれた。それによって出来上がったものが最低最悪の失敗作だったことを覚えている。
 自分にファンがいることは知っている。彼女ら彼らが俺をちゃんと文学的にも評価してくれていることを知っている。他方で、どうしても感心できないファンがいることも事実だ。その二つの間で引き裂かれたり混乱させられたり、元気をもらったりがっかりさせられたりしてきた。
 俺は影響されてしまう。
 だから、創作の時はファンのことは極力考えないようにしていた。ただ自分の世界に浸り、出せるものだけを出してきた。
 プールは狙っている。あざといと言われるが、俺はそんなに器用ではない。競走馬のように目隠しをして、毎回どうにかこうにか形にしているだけなのだ。
 それが、次回は賞レースへの影響やファンの反応と、真正面から向き合って一本作り上げねばならない。
 想像するだけで呼吸が重くなった。
 挑戦は、敗北の恐怖との闘いでもある。挑戦しなければ失敗もない。しかし、ひとたび挑戦するなら、失敗――恥の危険もやってくる。
 関係者はなんと言うだろうか。ファンはなんと言うだろうか。『こんなものでARC演劇賞をよこせと言ってるのか』と言われたらどうする?
 自分が心理的に一番不得手とする類の恐怖と葛藤だ。
 その心の動揺に、自分は耐えられるだろうか。
「無駄にプレッシャーを掛けたいわけじゃないよ」
 ナラサチの声に加納もうなずく。
「でも、すべての力を集中させないと、実現しないと思います。何かをごまかしたままでは、うまく行きません。それはもちろんシアターARC演劇賞ですから。まぐれとか偶然じゃ獲得できないです」
「はっきり言うけど、今年こそがチャンスだと思う。来年同じことが望めるか? 分からないよ。色んな事が起こるから。少なくともわたしは、後悔したくない。今年これをつかむために、全能力を賭けたい」
 熱のこもった間があった。
 多分、ナラサチは、俺の人生において、もっとも長く、至近距離で顔を眺める異性だろう。おそらくすでに、母親よりも長く。
「――わかった」
 俺は言った。
 まだ、怯えながらも。
 ここで退くことはできなかった。
 彼女の献身と情熱を失ったら、俺はもはや乾巧ではないし、劇団プールもプールである意味を失うだろう。
 彼女らは前に進みたがっている。
 俺も、彼女らによって守られていた居心地の良い場所から、出なければならない。
 状況が変わったのだ。



 ちょうどその時だ。
 だれかが、背後で「せーのっ」と言った。
 びっくりして身を捩じると、まったく気が付かないうちに、役者たちが周りに戻ってきていて、間髪入れずに合唱が始まった。

 Happy Birthday To You
 Happy Birthday To You

 見事な男女の混声四部合唱だった。役者たちだから、声がいい。周りのレジャー客も何事かと足を止めてこちらを見た。

 Happy Birthday Dear コウさーん♪

 飛び出してきた和田がにこにこしながら、作り物のフラワーレイを三つ、真っ赤になった俺の首にかけた。俺はこんな顔だった。
(>_<)

 Happy Birthday To You〜!!


 俺は何も知らなかった。俺の背後にゾウ型のジョウロを持ったヒノデがいて、歌が終わり拍手が沸き起こると同時に俺の脳天から水をジャーっとかけた。笑い声と同時に椅子がガタガタ動く音がした。加納やナラサチが巻き添えを食わないように逃げたんだと思う。
 不意を突かれて目をつぶっているうちに四方八方から肩やら背中やらをばしばし殴られた。
 拍手の音がえらく遠くにも聞こえた。関係のない通りすがりの人まで手を叩いているんじゃないだろうか。
 なんという。
 恥ずかしい。
 死ぬ。
「おめでとー! おめでとー!」
「キャー! コーさーん!!」
「おめでとーございまーす!」
 やっとバスタオルが降ってきて、びしょぬれになった前髪を拭き、視界を取り戻すことができた。
 顔を上げるとしてやったりと満足げなメンバーらに取り囲まれていた。写真も撮られた。
 みんな俺が底抜けに戸惑い、赤面していることでハッピーらしい。
 こんなひどいサプライズは初めてだ。
 救いを求めて思わずイズミの姿を探すと、当の彼が「あ! いけない、忘れてた!」と身をひるがえすところだった。
「ケーキ! ケーキ!」
「え? そんなものあった?」
「隠してたんだよ!」
「イズミさんの手作りですよー」
 誰かが言うと同時に、水着とTシャツ姿のイズミが俺の前にやってきた。手にはナプキンに包まれた何かを持っている。
 それをテーブルに起き、急いでほどく。
 タッパーウェアに入った、ケーキが現れた。スポンジの卵色、クリームの白、イチゴの赤。
 確かに誰かが言ったように、手作りに見えた。
 イズミは一緒に包んであったプラスチックのフォークを取り出すと、手際よくケーキをひとかたまり切り取り、空いたほうの手を添え、なんと俺の顔の前にもってきた。
 め、めまいがした。
「はい。あーん」
 ファーストバイトじゃん?
 ナラサチの声だと思うがはっきりしない。加納がものも言わずに携帯を構えていたのは覚えている。
 どうしようもなく、逃げ場もないまま、それを口で受けた時、また拍手が沸き起こった。デジカメのフラッシュやら、写メの電子音も続いた。
 耳が鳴るほど恥ずかしかった。
 飲みこむのも一苦労だったが、それは甘いお菓子だった。
 後から見たので知っている。
 イズミはそれがばれないように、白いナプキンで包んで、バックに隠していたのだ。暑さでダメにならないよう保冷剤と一緒に。
「おいしいですか?」
 真ん前で彼が笑顔で尋ねる。
 申し訳ないけれど言葉が出なかった。
「おいしいですか?」
 さらに目線を合わせるようにして尋ねてくるもので、三度四度と肯いて勘弁してもらった。
 ようやく満足したらしいメンバーたちの間で、残りのケーキが分けられた。一口食べた和田が「超おいしー!」と地団駄を踏んでいた。
 タオルをかぶってHPの回復に専念する俺の目は、しばらくの間、テーブルの上に残されたナプキンにとどまっていた。



 空の色が薄くなり始めた頃、俺はさらにまぬけな写真を撮るからプールに入れと小島から言われた。
 確かに、今日の遠足には劇団ブログやパンフレット用の写真を撮るという目的もあった。まさかこんな恥ずかしい写真ばかりを撮られるとは予想していなかったが。
「コンセプトは『去年は海で溺れた主宰ですが、今年はプールで無事に遊びました』です」
 ひょっとして小島は根に持っているのだろうか。
 ところで当事者の俺はまだ水が怖いのだが。
「浮き輪を用意しましたから、流れるプールを一周してください」
 それでもまだたじろいでいると、優しいイズミが「じゃ、一緒に行きましょう!」と先に入ってくれた。まだ足の着く場所で流れに逆らいつつ、俺に手を伸べる。
 彼を見る。それから小島を見る。足元にたぷたぷと寄せる水を見る。
「……」
 分かっている。人間はもともと浮くようにできている。
 そもそも人体の半分は水分だ。
 生まれる前には完全に羊水に。
 後ろにいたヒノデに思い切り腰を蹴られた。俺は流れるプールに落ちた。
「飛び込みやめてくださーい」
 と、監視員からトラメガで叱られたがそういう問題じゃない。
 冷静でいれば足も立つような深度で取り乱しながら、続いて放り入れられた浮き輪に必死でとりついた。イズミも笑いながら手を貸してくれて、俺をドーナツの中に入れてくれる。
 それからいよいよ本流へ二人して加わり、他の大勢の客と一緒に、海の漂流物みたいになって、不格好に流れて行った。
 小島たちが地上を早足で動き、先回りした地点から何度か俺らにデジカメを向けた。
 そのたびイズミは俺に顔を寄せてピースサインを出したり、おどけたポーズをとったりする。俺の方はにこりともできなかったと思うが。
 十分に撮れたのか、小島は俺らにサムズアップした後、もう追ってこなくなった。
「撮れたのかな」
 と浮き輪にはまったままイズミに尋ねると、彼は少しこちらに身を寄せて、微笑んだ。
「多分ね。このまんま一周しよう。元の場所に戻るから」
「――つらくない? 浮き輪譲ろうか?」
 俺もよく言ったものだ。もちろん、イズミは「大丈夫大丈夫」と首を振った。
「このまま一緒に、ゆっくり、のんびり、リラックスしよう」
 彼の手が俺の頭を撫ぜた。
 たらいに載ったバッドばつ丸くんくらいに見えたのかもしれない。
 浮き輪のおかげでバタバタしないでよいので、俺はようやく落ち着いて、輪の中で体勢も変えることができた。
「偉大なる発明品だね」
 思わず言ったらイズミはきゃらきゃらと笑った。
 一周は長かった。それでいて、沖へ流される心配はないから平和だった。俺たちは一緒に流れに身を任せて漂った。周りには子どもや、おじさんや、女の子や、おばあちゃんなんかもいた。
 日没が近づき、空が真っ白だった。外気はすこし涼しくなっていたが、代わりに水が温かった。彼の手がいつの間にか外縁に置かれた俺の左手に重なっている。
 このまま眠れてしまいそうなほど、すごくいい気分だった。



 夜。俺らは同じ駅で降りて、俺のアパートへ続く道を一緒に歩いていた。
 とっくに深夜で気温は下がっていたし、風が吹いて、七月にしては過ごしやすい夜だった。住宅街だけれど、わずかに虫の声がした。
 なんだか癖がついてしまって、俺らは帰りの電車からずっと手をつないでいた。人の目が気にならないでもなかったけれど、離したら不自然な気がして、離さなければ自然な感じがするのだから仕方がない。
 今も、遠足がえりの小学生のように、一緒に手を振りながら、歩いていた。
 彼の着ているプレインな白い綿のTシャツが、夏の夜に似合って美しかった。
「あ。お誕生日おめでとう」
 急に、彼が時計を見て、改めて言った。
「たった今、正式に当日になりましたー」
 俺は苦笑する。本当の俺の誕生日は今日だったのだ。プールの日に合わせて、メンバーらが前乗りでイベントをしたわけだ。
「みんな知ってたの? ナラサチとかも?」
「バレないように苦労したよー。あと、コウさんはあまり誕生日に思い入れない方だから、大袈裟になりすぎないようにセーブもしたんだよ」
「……」
 俺の顔を斜め下からのぞき込むようにしながら、丸い目でイズミが聞いた。
「楽しかった?」
 返事はキスの合間にした。楽しかったよと。言い終わった後も止まらなかった。もう少しで家なのに。


 その晩、あの日の俺が、天から降ってきた包みを手に取る夢を見た。
 初めて見た。
 それを抱えて立つ十歳の俺の周囲に満ちる蝉の声は、満場の拍手のようにも、潮騒のようにも聞こえた。
 俺も拍手した。
 瞼をひらくと傍にイズミの顔があった。





 第十回公演『CROWN』の稽古が始まったころ、妙な噂が耳に入った。
 天球社でスタッフが男女一人ずつ辞めたというのだ。
「なんでもさあ」
 と、楽しくもなさそうに、友達の多い和田が言う。
「役者のホニャララが、後輩の、制作スタッフの女の子にずっとセクハラしてたんだって。たまりかねて訴えたら住友が『お前が彼に誤解をさせるような行動をとったのが悪い』的なことを言ったんだって。で、その子とその彼氏のスタッフが即日退団して、いきさつをブログで全暴露。今は消したけど、セクハラ役者の名前も最初は実名で出てた。よっぽど腹が立ったんじゃん?」
 俺とナラサチは顔を見合わせる。和田は役者の名前も教えてくれた。あまり親しくはないが、まあ――知ってはいる奴だ。
「うちもスキャンダルはあるっちゃあるけど」
 ナラサチは不快気にため息を吐いたが、ヒノデは別にハラスメントをしたわけではない。
「……どう思う? コウ。これであいつとか、住友とかの地位になんか影響が出ると思う?」
 影響は出なかった。
 その役者は天球社にも舞台にも居続けたし、住友もシアターARC演劇賞の審査員から外れたりはしなかった。
 胸にわだかまるもやもやのベクトルを、俺らは次のキャンペーンにふり向けることにした。
 それはまさに軍事作戦(キャンペーン)だった。劇団プールは2009年度シアターARC演劇賞というCROWNを獲得するため、劇団をあげて総攻撃を開始した。






(了)





<<表紙 28 >>







inserted by FC2 system