XYXYXX (29) 劇団プール第十回公演『CROWN』のポスターは、看板役者たちがそれぞれ王冠をかぶっているものだった。主宰である自分が言うのは何だが、今が盛りの美男美女たちのクロースアップ写真はどれも美しく、カラーコントロールも印刷もよい出来で、それがずらりと並んでいるのは気分が良かった。 俺も面の皮が厚くなったもので、耽美系美術にすっかり慣れてしまったのだ。というより、そもそも俺の芝居と耽美系の相性がいいということは、俺にも少なからずその趣味があるということだ。 前は、演劇仲間が見たらどう思うだろう、世間の人からどう思われるだろう、という心配の方が先に立ってなかなか安心できなかった。今は平気だ。現金なことだ。 実際、ロビーにいる客層も相当多様になった。前のように、オタクっぽい若い女性客だけでなく30代、40代くらいの客も男女ともに相当増えたし、制服姿の高校生、中学生などを見かけることもあった。それがファン向けグッズと耽美系ポスターに囲まれて何の問題もなく普通に過ごしている。 俺は思った。 心配することは何もなかったのだ。 千秋楽まで、ありがたいことに満席が続いた。招待席も連日埋まって、堰を切ったようにあっちこっちの劇団やメディアの人間が俺に挨拶に来てくれた。 俺は心ひそかにこう思っていた。こんなに違うものか。自らキャンペーンをかけて、アピールに励むと。 正直、『CROWN』がそれまでの公演に比べて特別異なっていたわけではない。もちろん最進化形ではあるが、だからと言って九回公演と比べてけた外れに傑作だとかそういうことはないと思う。 だが、おそらく、役者たちの猛烈なアピールが、投票効果とは別に、こういうイメージをもたらしたのだと思う。劇団プールは明るくて、絡んでいっても歓迎されそうだと。 一気に華やかな雰囲気になってきたプールに、むしろ古参のスタッフや知り合いたちの方が驚いていた。 ある古馴染が聞いてきたことがある。 「急にうまく行き出すと、なんだか怖くない?」 俺にはその人物の言っていることがよく分かる。 そしてもちろん、俺にも怖いものはまだ残っていた。 千秋楽の日、よりにもよって最終公演の最中に、『天球社』の主宰・住友毅は挨拶にやってきた。 公演自体は別の日に観に来ていたらしいが、その日は都合が悪かったので、改めて今日挨拶に来たということだった。 だから俺はモニタで上映中の芝居を観るのを止めて、彼と会った。 思えば、こいつとの付き合いも長い。 笑っちゃうような瞬間もあったな。図書館の椅子の背に、俺と小島と隠れて。 逃げられない相手だ。道が重なりすぎている。俺の行く手には必ずこいつがいて、避けて通れない。だからこそ余計怖い。 今日もまた彼はジャケット姿だった。なんだか痩せたように見えるけれど気のせいだろうか。そして初めて気が付いたが、どうしてこいつはいつも一人で来るのだろう。 ナラサチが「楽屋使ったら」と言ってくれたので、男子用の楽屋へ入った。そこにいたスタッフは気を利かせて出てくれた。 それぞれ椅子に座って、レベルの低い世間話を交わした後、致し方なく俺は芝居の感想を尋ねた。 その答えは意外なものだった。 「大変水準の高い芝居でした。好き嫌いは別にして、今年注目すべき芝居の一本であることは間違いないと思います」 評論家めいた大仰な言い方と誉め方に俺は目を丸くした。 ――しかしもちろん、それだけで済むはずがない。 住友だもの。 「しかし舞台そのものとは別の点で、プールには不満もありますね」 本当に嫌だなと思うのは、俺はこいつに叩かれすぎて、自動的に一撃を待ち構えてしまうことだ。 ただその分だけ、防御の余地があるわけだが。 俺はそら来た――と思った。そして苦笑いさえしながら、続きを待つ。 「というと?」 「分かってるでしょう。行き過ぎたキャンペーンのことですよ。審査員として申し上げたい。こんなやり方で票を集めて、恥ずかしくないんですか」 ――やはりそこか。 「いや、まだ投票も始まってないのに」 「投票活動をこんなに大規模に呼びかけてる劇団は他にない。それにここのファンはこれまでの演劇ファンとは違った振舞いをします。――芝居の出来とは別に、ある種の応援のためにファンを過剰に煽って投票させることは、我々が考えていた観客投票のあるべき姿じゃない」 「あるべき姿ってどういうのだよ?」 「それは観客が発見するようなものでなければならない。我々がまだ知らないでいた新興の芝居の魅力を、一般の観客がむしろ示唆してくれるような。我々が想定していたのはそういうものです」 『一般』と『我々』。その二つの言葉が気になった。 いつか加納が言っていた。 彼は自分が『選ばれた人間のつもりなん』だと。 俺も余裕ができたものだ。彼と真正面から対峙しながら、思ったよりもずっと委縮しなかった。肩を怒らす彼の、動揺をむしろ感じ取った。 彼は『一般』の客が自分を助けてくれるのはいい。だが、自分の領域を荒らされるのは我慢がならないのだ。 いや、恐れているのだ。 「そんなにうちのファンを過大評価しなくていいよ。ここに来ている観客の全員が投票するわけじゃない。分かってるだろ? いくら熱心でも、絶対数はそんなに多くないんだから」 「ならば少数者らしく振舞うべきです」 雑然とした楽屋に満ちた、沈黙の中で、俺と住友は見合った。 互いに不思議な間抜け面を浮かべていた。 俺は、あ、こいつ言っちゃったな。と思っていた。これまで、緊張を含みながら長い期間付き合ってきたが、これまで露骨にすることのなかった俺に対する本音が、今日遂に出たなと思った。 少数者らしく振舞え。劇団のファンに向けて言われた言葉でもあり、そして俺に対して言われた言葉でもあった。 同時に住友本人も『言ってしまった』というような表情を浮かべていた。あるいは、自分の言葉が二重三重の意味を含むことに、発言後に気づいてしまった。そういう顔だった。 突然、俺の中に、彼に対して年長者である自分が蘇ってきた。 実際二年ほどしか変わらないが、俺は一時彼の先輩だった。長い間布団にもぐっていたその意識が、いきなり目を覚まして俺の声に被さった。 「――お前そういうのさあ」 俺は言った。ふざけた、アニメみたいな銀色の前髪の間から、彼を見据えながら。 「やめたほうがいいよ」 ジャケットを着た彼を見て、老けたな、と思った。すっかり若々しさを失って。これならうちの役者たちの方が年上だけど若く見える。 どうしたんだよ、住友。 あんなに楽しそうな一年生だったのに、今じゃそんなくたびれ切った会社の経営者みたいなツラして。 「他の世界の人から見たらさ、俺らなんてみんな似たり寄ったりなんだから。俺らが立ったあとの同じ劇場の板に、別の日は大学の混声合唱部の人らが乗るし、地域のギター愛好会の人だって乗るんだ。文字で並べてしまえば同じだよ。あんまり自分たちだけが選ばれた一群だなんて思わないほうがいい。 舞台は誰も拒まない。お前もそういう寛容なところを持たないと、いつか、舞台の方から排除されるよ」 二度目の沈黙が俺らの間に満ちた。 一度目とは違っていた。 俺は内心『うわあああああ! 言っちゃった!』と思って冷や汗をかいていた。一生懸命出さないようにしたが、出たと思う。住友から殴り返されるのが本当に怖かった。 しかし沈黙は続いた。住友は何も言わなかった。ただ俺をじっと見ていた。その持続する沈黙の中で何かが動いているような気がした。 気のせいかもしれない。 彼の傲慢な性格は急に変わったりしないだろう。その矜持と信念ゆえに彼は『天球社』を背負って立つことができたのだし(俺にはできなかった)。 時間切れだった。 舞台監督が呼びに来た。 芝居が終わり、千秋楽のカーテンコールが始まるのだ。 主宰である俺は挨拶に行かなければならない。 俺は住友に「じゃあな」と言って楽屋を出た。彼からの返事はなかった。 その頃になって俺は怖くなってきた。ひょっとしたら俺は彼にひどい恨みを買ったかも。それでまたARC演劇賞から排除されるかもしれない。 ごめんなさい。 でも、いいや。いい気分だ。 やっと言いたいことが言えたから。 住友ったらいつもこんなに言いたいことを言ってきたのかしら。 いいなあ、畜生。 それに、俺にも選民思想はあったし、ある。俺自身に対しても、俺は言ってきかせなければならなかったのだ。 舞台という洞窟はお前を受け容れ、守った。そこでお前が新しい別の不幸を生んで何になる。演劇は復讐の対象ではない。 舞台袖に近づくと満場の拍手が聞こえた。スタッフや役者たちが俺を出迎える。そこに汗だくの伊積陽生がいて、俺に向かって手を差し出した。 俺が最初にいじめて矯正しようとした人間だ。 これまでも舞台袖で俺らが手をつなぐことはあった。幼稚園児みたいなものだ。でも、そのまま舞台挨拶へ出ることはなかった。 マイクを受け取って、俺らがそのまま出たら、観客席からはっきりリアクションがあった。どおん、と、メガサイズの太鼓でも打ったみたいに空気が震動した。 俺の頭は空っぽだった。 ただ目の前の光景だけで脳内がいっぱいだった。 俺は俺じゃなくて、誰かが勝手に行動してるみたい。でも100%俺であるというような、そういう感覚だった。 さすがに挨拶の前にイズミの手を外し、半歩前に出た。マイクのスイッチを確認し、口を近づける。 「本日は、劇団プール 第十回公演『CROWN』にお運びを頂き、ありがとうございます」 頭を下げる。役者たちもそれぞれ下げる。 「皆様のおかげで、当劇団もなんと10回目の公演を無事に終了することができました。もちろん自分たちも、それぞれの公演について知恵を絞り、一生懸命取り組んで来ましたが、それを受け入れ応援して下さった皆様の存在があってこそです。心より御礼申し上げます」 一礼に対して起きた拍手が収まるのを待って、俺は続けた。 「少し、昔話をします。私が演劇を始めたのは高校時代でした。演劇部の顧問に恋をしまして――」 また客席がどよどよっとした。そしてなんだかイズミから横目で睨まれている気がする。知ってるのに。 「ところが『彼』は、その後学校をクビになり、最後は寂しく亡くなりました。私はそういう不幸な師をもって演劇を始めたのに、今、こういう芝居を作ってるわけです」 自分の言葉で静まり返った場をなんとか救おうと、俺はぎこちなく微笑んだ。 「しまいには、自分自身もこういうふうに髪の毛の色を変えたりして、ふざけたものですよね、本当に。 ――でも、もう悲しい物語は、私には飽和状態なんです。もうこれ以上、生産したくないんです。楽しい物語だけを生産したい。苦難が人を育てると誰かが言います。本当ですか? 悲惨が芸術を創造すると誰かが言います。私は今そうは言いません。私は幸福が人を育てると言います。幸福な物語が幸福を再生産する。幸福が文化を創造する。幸福は水であると。水なしに咲く花がありますか? ところで私自身は水が苦手で、前にも一度海で溺れたことがあるんですけど」 観客席のファンだけでなく、板の上の役者たちが一斉に笑い崩れた。小島など、肩を震わせていつまでもくつくつ笑っている。 「水が怖い私が、泳ぐのが苦手な私が、プールという名前の劇団を作って、バシャバシャもがいてみました。色んな事があり、色んな事を言われましたが、それを皆様の拍手が支えてくださいました。本当にありがたいことだと思っています。 最後に、ダメ押しで宣伝いたします。ご存知の通り、今期よりシアターARC演劇賞に観客投票制度が導入されます。実際の投票フォームがインターネットで公開されるのは12月の予定ですが、その際には是非ウチに一票お願い致します。 劇団プールは恥知らずの集まりなので、無垢な顔とかしません。『お姉ちゃんが勝手に写真を送っちゃって』とか嘘言いません。ガツガツです。これからも、自分たちの手で自分たちの地位を向上させ、幸せにするために、なんでもやっていこうと思っています。 そして私たちはみな欠点もクセも弱いところもある人間達ではありますが、私たちを見つけ、選び、支えてくださる皆様に、『いい選択をした』『投票は間違ってなかった』と思っていただける演劇人であり続けるよう努力いたします。 長くなりました。本日は、ほんとうにありがとうございました」 いつもそうだが、手が手を探り、舞台の上の人間がつながる。和田と小島の手を、ヒノデがぶんぶんと振り回している。俺のマイクを取りに来て、そのまま引っ込もうとしたナラサチを呼び止め、返事を待たず手を握った。 マイクは結局舞台床に。赤面しつつ破顔するナラサチと左手を、イズミと右手をつないで、舞台上で長い長いお辞儀をした。 千秋楽ならではの拍手と歓声は、関東の夏の夕方によくある、激しい夕立のようだった。見上げると世界は明るく、大きくて、俺はやっと、あの日を後ろに置いて前に進めるとそう思った。 俺は生まれたところとは別の、新しい土地で生きていくんだ。 (了)
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